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楽園の海

 目が覚めると、布団を抱き枕のようにして眠っていることに気づく。


 朝の光で目を開けるのが辛くて、手に柔らかい感触があったからとりあえず三回揉む。いい匂いがすれば、嗅いでみる。美味しそうならば、舐めてみる。だから柔らかそうならば、揉んでみるのも人間の本能なのかもしれない、と思いながらさらに五回揉むうちに、寝起きで朦朧としていた脳が徐々に働きだして、布団の中に存在するこの柔らかいものはなんぞ? 前代未聞だぞ? と疑問を突きつけるから、まず形状を確かめるためさらに入念に、丹念に撫で回すうち、そもそもこの手と足で挟み込んだ抱き枕代わりの布団がやけに柔らかい気がして、やけに暖かい気がして、やけにいい匂いな気がして、ぎゅうぎゅう抱き締めながら手を滑らせると、

「んんっ」

 と、吐息が漏れたから、俺は慌てて目を開ける。


後頭部があって、肩があって、それを背後から羽交い締めにする自分がいる。


 人だ。


 半裸だ。


 ――どうしよう。


 朝イチなのに処理すべき情報は多い。


 ――なぜ深月がここに?


 昨晩のナーバスになっていた深月を思い出すけれど、かといってそこから半裸でベッドに潜入する積極性を導くのは無理がある。世間にはそういう女性もあるのかもしれない。けれど深月はそういう女性ではありえない。深月は軽くハグしただけで「ぎゃー」とひっぱたく子だ。ハグした代償がビンタだとしたら、羽交い締めにしたうえ存分に撫で回した代償はなんだろうか。


 その半裸から、手と足をそっと離す。


「……すみませんでした」


 思い返せば、知らぬこととはいえ大変な無礼を働いた気がする。

 でも本来謝るべきは俺なのだろうか。

「まんざらでもなかった」と後頭部は言った。

 額を冷たい汗が伝った。


 ――誰?


 声が違う。

 狼狽していて気づかなかったが、よく見れば声以外も違う。

 深月の躰はこんなに小さくない。

 一方で、深月の躰の一部はもっと平たい。

 跳ね起きて、距離をとる。

 知らない子がベッドに横たわっている。


「たくさんもてあそばれた……」


 と、こっちに向けた顔は知らない顔じゃなかった。

「お前昨日の……」

 牛乳配達の子だ。

 状況を整理するため、パンツ一枚の少女をシーツでくるんだうえで、床に正座させる。

「お前な、こういうのは犯罪なんだぞ」

「その点はご安心。あちしは二二歳だから。あちしは赤砂タナ(22)。どうぞよろしく」


(22)ならよかった。

 いや、違う。


「どっから突っ込むべきなのか……」

 いつの間にかこっちが容疑者にされていたことか。

 明らかに二二には見えない外見のことか。

 それとも二二でもおかしくないその――。

「あちしはちょっと子どもっぽく見えるだけなのだから」

 呆れが度を過ぎて、質問を変える。

「どっから入ったんだ?」

 湯田の一件もあって戸締まりは十分確認したはずだった。

「隙間から入った」

「どこの」

「心の」

 そうか……俺に心の隙があったせいで。

「お前な……」 

「まあ、あちしが許したのだから気にしなくていい」

 これはご両親とお話をした方がいいのかもな、と考えてここが神隠しの街だったことを思い出す。この子が見た目どおりの年齢だとしたら、それは結構辛いことだ。

「おま……タナは誰と暮らしてるんだ?」

「ひとり」

「ひとりで大丈夫なのか?」

 タナがうつむく。両手で顔を覆った。

「寂しくないのか?」

 無言。すん、と鼻をすする。

「そっか……」

 無粋なことを訊いてしまった。

「養いたくなった?」

 顔を覆った指の隙間から、目が覗いていた。

「なんなら養われるよ?」

 こいつ。

「寂しいから一緒に暮らしたいです。って素直に言いなさい」

「じゃ、この格好で外に出て『あの家のお兄ちゃんに……』ってぶつぶつ呟きながら昏い目で歩き回るよ」

 こいつ……。


「――そんなわけで、タナをここに置いてやってもいいかな」

 遅れて起きてきた深月に事情を話す。

 邂逅部分は「朝起きたら家の軒下で寂しそうに膝を抱えるタナがいた」という同情を誘うエピソードにすり替えた。その辺の口裏合わせは、タナと利害が一致した。

「よろしくね、タナちゃん」と深月は快く受け入れる。当然だ。この年ごろの子どもを一人にしてはいけないことを、俺たちはよく知っている。


 野菜炒めと果物で適当に朝食を済ませ、俺たちは『西の海』に出かけることにした。

晴天の海は、深月の気分転換にいいかもしれない。

「海こっちだよー」と、タナが先輩顔で駆けていく。

 西に続く道は、林の中の遊歩道のようになっていて、がざがざ風にさざめいていた。この先が海だとしたら、これは防風林なのかもしれない。

 林を抜けると視界が開けて、一気に海の景色が広がる。


「すげー」


 見渡す限りの海。

 道沿いには釣り竿を垂らす人。右手の離れた砂浜には泳ぎを楽しむ人。左手は坂が伸びていて、岬の先には景色を楽しむ人がいる。

「上行ってみようか」と岬を指す。

 泳ぎたくもあるけど、水着を持ってきていない。それに今は、浜辺を闊歩する水着の女性よりも見ておきたいものがある。

「水平線しかないな……」

 それはこの世界の果て。

 海の向こうには島影すらない。船影もない。何も見えない。

「ここって島なのかな」深月が言う。

「でも東はずっと森だったし、北は山なんだろ。地続きの海岸って考える方が自然じゃないか」

 アフリカや南アメリカの広大な自然を想像する。人類未開の海岸。あの辺りならそんな場所があっても不思議じゃない、と考えるのは今の時代さすがに失礼だろうか。もしくはオセアニアとか。中央アジアも考えるけれど、海がなさそうだった。


「もう施設に帰れないのかな……」

 深月の呟きに、答えることができない。

 深月は視線を遠くする。何かを海の向こうに探していた。

「ねえ、釣りしよー、釣り」

 空気を読むにはまだ人生経験が足りないタナが、シャツの裾を引っ張る。

「あっちで竿借りれるよ」

「わたし、もうちょっと海見てるね」という深月を残して岬を下りる。


 道に釣り竿を並べる男性がいた。

 自作の竿をタダで貸してくれるボランティアらしい。

「餌はどうしたらいいですかね」訊くと「疑似餌だけで十分だよ」と釣り針を見せてくれる。疑似餌の小海老はゴムでできていて、プロの仕事というか、そういう工場で作ったみたいだった。

「すごく上手くできてますね」

 へへ、と男性は相好を崩した。

 日焼け顔の短髪は二〇代後半くらいだろうか。

「俺の能力は釣り具を上手く作る能力なんだ」

「なんですかそれ」と突っ込むけれど、真面目な話らしかった。

 歌が上手くなっただけの能力があるらしいから、釣り具を上手く作る能力もあるんだろう。

「俺は漁師をしてたんだよ」

 だからか、と思う。

「ガキのころから釣りが好きで漁師になったんだけど、船の上じゃトロいトロいって怒られてばっかりでさ。昔みたいにのんびり釣りができたらなぁ、なんてため息ついたらこんなことになっちまった」

 漁師さんは豪快に笑った。

「じゃあ、ここはいいですね」

「最高だな」


 竿とバケツを貸してくれたお礼を言って、坂に近い草むらに陣取る。

 深月が下りてきたとき気づきやすい場所を選んだ。

 海際にタナと並んで腰かけて、三メートルほど下の海面に針を落とす。

 足が四本、釣り糸が二本、水面に向かって伸びた。

 タナと一緒に足をぶらぶらさせる。

「そーやくんの糸動いてない?」

「気のせいだろ」

 と、竿を持ち上げると手応えがあった。浮きがないので、魚がかかっているのか、波で揺られているだけなのかがわかりづらい。リールがないので糸を腕に絡めながら巻き上げる。ぐるぐる回していると、十センチほどの魚が姿を現した。途端、浮力の助けを失った魚が重くなる。糸が腕を締めつけるが、我慢できない痛みじゃない。


「なんだろこの魚」


 典型的な魚って感じのフォルムで、強いて言えばフナっぽい。

 でもフナが海にいるわけがない。

「あちし魚詳しくない。なんだろねー」

「いかにも魚って感じだな」

「じゃあイカニモサカナだよ」

 タナの命名に二人で笑う。

 まあ食えそうだからいいか。


 三〇分ほどでイカニモサカナが三匹と、何を間違ったのかイカが一匹揚がった。いかにもイカだったから、恐れていたとおりイカニモイカになった。由々しき事態だった。


「そういえばタナ、今日は牛乳配達しなくていいのか?」

 配達、と言うなら背後には牛に餌をやったり、搾乳したり、瓶詰めしたりする人がいるのだろう。歯車が欠ければみんなが困る。

「いいの」と、タナの足のぶらぶらが忙しなくなる。

「あちしはいてもかわんないって、よく言われるから」

「そか」

 頭を撫でた。

「じゃあ、これからは俺と一緒に魚釣ろうか」

 魚にとってここは楽園じゃないらしく、三〇分でこれだけ釣れるなら釣り師も悪くないと思い始めていた。魚を釣って真菜さんのところに卸したり、欲しい人に配ったりするのだ。

「うん!」

 タナは隣の隙間をぴたっと詰めて、喜びを伝えてくる。


 タナが家に忍び込んだ理由を考えて、やっぱり寂しかったんだろうな、と慮る。

 何が気に入ったのかはわからないが、俺たちを選んでタナはやってきた。

 かといって家に侵入したり、あまつさえベッドに侵入したりするのはやりすぎだけど、穿ってしまえばそれくらい寂しかったとか、人肌恋しかったとか、父親的な抱擁を求めていたとか、そういうことなのかもしれない。なんにせよ、よほど強く俺たちと一緒に暮らしたいと思わなければ、あんな強硬手段には及ばないはずだ。小さな子どものその思いは、応えられなければならないし、決してないがしろにされてはならない。


「街一番の魚釣りになる!」

という意気込みも虚しく、タナはその年ごろにありがちな飽きを約一〇分で見せ始める。

「ちょっと、みづきちゃんのようすを見てくる」

 どこかに遊びに行きたい口実に違いなかった。

「うん、一緒に魚釣ろうって言ってきて」

 そういえば深月の戻りが遅い。

 今の深月をあまり一人にしてはいけない気がする。

「りょうかいー」と、とてとて坂を上がっていき、とてとて下りてくる間に魚は釣れない。

「早いな。深月、いなかった?」

「いた。でもなんか黒い人と話してて話せなかった」


 ――黒い人?


「もう一回、深月のとこ行こうか」

「うん」

 駆け出したい気持ちを抑えながら、タナの手をとり、タナの歩調に合わせて坂を上がる。


 岬にはもう深月の姿しかなかった。

「湯田にまたなんか言われたのか?」

「うん。でも大丈夫だよ。少しお話しただけ。意外と紳士かも」

「そか。あっちで釣りしないか? すごく釣れる」

「うん……。でもわたし少し疲れちゃったかも。先に帰ってもいいかな」

「大丈夫か?」

「うん。そーちゃんはタナちゃんと遊んであげて」

 深月が心配ながらも、一緒に切り上げるのも深月の本望じゃないだろうしで、深月の要望に応えることにする。「気をつけてな」「うん」深月の後ろ姿を見送る。


 その後「ちょっと飽きた」と竿をぶんぶん振りだしたタナと砂浜の方に行ってみたり、「おなかすいた」というタナに露天で焼いていたホタテを貰ってきて一緒に食べたりしているうちに、時間は午後三時。「もう帰ろうか」とタナに呼びかけたのは、釣果がバケツに入りきらなくなったからだった。

 漁師さんに竿を返して、魚の入ったバケツだけは後で返しに来ると伝える。「そんなのいつでもいいよ」と言ってくれて、やはりいい人だと思う。「それ全部食うつもり?」「いえ、真菜さんのところに持っていこうと思って」「そうだな。それがいい」

 魚は自分たちで食べる分だけ取り置いて、残りは真菜さんの食堂に持って行くことにした。この時間ならディナーの食材に間に合うかもしれない。でもこういうのっていきなり持ってこられたら困るんだろうか。


「あのー、これ良かったら使ってもらえませんか?」

 帰り際に寄った真菜さんの食堂で、恐る恐るバケツいっぱいの魚を差し出す。

「あらー、こんなに助かるわー」

 この時間帯は真菜さんも手が空いているらしく、直々にお礼を言いに来てくれた。

「急に持ってこられたら迷惑かな、とも思ったんですけど」

「迷惑なんてとんでもない!」

 食材はいくらあっても足りないらしかった。

「そんなにたくさん料理を作るなんて大変ですね」

「ぜんぜんっ。あたしねー、あっちでもお店開いてたんだけど、全然流行らなくて潰しちゃったのね。だから夢だわよ、こんな光景。お店の席が全部埋まって、みんなおいしいおいしい言ってくれて、こんなんだったらいくらでも頑張れるわね」


 こういうのを生き甲斐ってのかしらね、と真菜さんは力こぶを作る。

 あっちでも、というのは神隠しに遭う前の話なんだろう。

 漁師さんにしても真菜さんにしてもいろんな過去がある、と思う。


 でも。


「こんなに美味しいのに流行らなかったなんて、なんか不思議です」

「ああ、あたしのこれ、たぶん料理の能力なんだわ。こっちに来てから妙に料理がうまくなった気がする」

 真菜さんは、バケツの魚をクーラーボックスに移し替えながら笑う。

 せっかくだから食べていきなさいよ、という真菜さんのお誘いを丁重にお断りして帰路についた。「同居人が病気なもので」と深月を病の人にしてしまい罪悪感。でも深月が心配だから帰るわけで、根本的な理由は間違っていない。


「お帰りー」と迎えてくれた深月の顔には、吹っ切れたような微笑みがあって、心配が杞憂に変わった。心配して損した、とは思わない。深月が元気であるなら、損なんかいくらしても構わない。


 夕食はイカニモサカナを焼いた。

「なんの魚だろね」と箸を進める深月も食欲が戻っている。

 いかにも焼魚な味がする。知ってる味の気がするけど、何の魚かは思い出せない。イカニモイカは刺身になった。


 食べ終えた食器を洗いながら、次は風呂だなと考えたら、さらに先の問題にたどり着いた。

「そういや、タナの寝床どうしような?」

「そーやくんとねるー」

「女の子だから、深月と一緒の方が良いんじゃないか?」

 その提案にタナは、お口ぷくーで不満顔をする。

「一緒に寝てあげたらいいのに」と深月までもが非難する。「小さい女の子はお父さんと寝たがるものだし」とやけにタナを押しつけてくる。

「じゃあ一緒に寝るか」とタナの頭を撫でる。

「ちゃんとパジャマは着なさい」

 風呂上がり、相変わらずパンツいっちょで布団に潜り込もうとするタナをたしなめる。

「えー、裸の方がきもちーよ」

「だめ、レディはちゃんと服を着て寝るの」

「そーやくんはレディが好みか」

「そうだな」

「では着る」


眠りに落ちたタナを胸に抱いて、こいつは意識的にしがみついてくるのではなく、むしろ意識が無いからしがみついてくるのだと知る。ぷにゃぷにゃとしがみつき、二本の脚はカニばさみも辞さない構え。暑苦しい。ぐいーと引きはがそうとすると「そーやくんとずっといっしょー」とむにゃむにゃ言うので、純粋な父性からつい抱き締めてしまう。


 ――明日は深月と寝かせた方がいいな。


 そう思いながら、過剰な柔らかさのなか眠りにつくものの、翌朝の家に深月を見つけることはできない。


『わたしは上に行ってみます。ごめんなさい。 深月』


 手紙ってやつは本当に嫌いだ。

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