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序章 地下76階情景描写神視点 ~  1章 失楽園(パラダイスロスト)

 序章


 フランス凱旋門の縮小模倣じみた門扉を開くと、街の景色が広がっている。

 まっすぐに伸びる石畳の通りは、両側を煉瓦造りの家屋に固められ、街の規模を考えると人通りは少ない。中央の広場には、何の象徴なのか石柱のモニュメントがそびえ立ち、背後の巨大な教会とともに、晴天の空に照らされていた。

 ぱっと見は欧州の街並みだけれど、欧州を真似して作った風の嘘くささがある。

 街ゆく人は、日本人が多いが、外国人もいないわけじゃなかった。


 大聖堂じみた教会はロマネスク調の平天井でありながら、イスラムモスクの幾何学模様が描かれ、並び立つ絵画彫刻はバロック調、ステンドグラスはゴシック調、いいとこ取りの壮観さはあるものの、でたらめなファンタジーを思わせた。

 ステンドグラスの青に照らされた祭壇には、巨大な十字架があり、聖書由来の聖人を描いた絵画に囲まれている。装飾された彫刻は壮大だが派手さはなく、あくまで厳粛を保っていた。


 その静謐の下に、膝を折る神がいる。

 纏う豪奢な法衣のせいだろうか、少女にはそこはかとない神性が漂っている。


「ごきげんよう。今日は晴れましたね」


 向ける声と表情は、どちらも清廉であどけない。

 外は確かに晴れている。


 ――なぜ晴れるのだろうか。


 なぜ雨が降るのか、でもいい。

 その疑問は変に哲学的な響きを帯びてしまうけど、構造上の素朴な疑問だ。


 ここは神中心に回る、地下76階の楽園。


 なぜか晴れるし、雨も降る。

 どこにあるのか、誰もわからない。



     一章 失楽園パラダイスロスト


「五カ月になります。ミルクは五時間に一度。そろそろ離乳食にしてください。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、よろしくお願いします」


 その手紙と、使いかけの粉ミルクと、封が切られて残り二三個になった元々は九〇個入りだったらしい安紙おむつと一緒に、俺は施設の前に置いてあったらしかった。

 ある日俺はひょんなことから、その手紙と書類を盗み見た。

 俺、睦上創哉(むつかみそうや)発見時の書類だ。


 俺たちには、夜中職員室に忍び込む遊びがあった。当直の職員に見つからないように忍び込んで、宝探しをする。探すだけで盗んだりはしない。見つけたものを部屋に帰って報告して、笑い合うだけだ。若い女性職員の机でコンドームを見つけた奴は英雄になった。園長の机で高級育毛剤を見つけた話はみんなを悲しくさせた。おおよそ効果が見られなかったからだ。

 だから職員が大事なものを隠している場所なんて、俺たちにはお見通しだった。ありとあらゆる鍵の在処もだ。施設の子どもならみんな知っている。そのことを知らないのは大人たちだけだった。


 俺がその俺宛ての手紙に期待したのは、「ごめんね」とか、「許してね」とかいった俺に向けた愛の言葉だった。「元気でね」とかでもいい。そんな言葉が一つでもあれば俺だって、母さんに愛されてなかったわけじゃないという、わずかな希望に縋って生きていくこともできたのかもしれなかった。なのに残されていたのは「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが」という職員へのねぎらいの言葉だけだった。


 これじゃただの引継ぎ文書じゃないか。

 こんな手紙ならなくてよかった。

 黙ってろよって感じだった。


 文章ってのは言葉一つ足りないだけで、人生をこんなにも憂鬱にしてしまう。

 俺はすっかり言葉が嫌いになってしまった。


 で、世の中には、言葉が嫌いな子どもがいれば、計算が嫌いな子どもがいる。

 計算嫌いの水無月深月みなづきみづきには妹の浅月さつきがいて、二人はとても仲が良かった。 

 水無月姉妹が施設にやってきたのは、離婚した母の養育困難が原因だった。

 ある日、事態が好転したらしく、母親から引き取りの話があったのは、深月が小六、浅月が小一になった春だった。

 深月が施設を去る日は、約三か月後の七月二二日に決まった。

 深月はその日を心待ちにした。

 当時、むしろ算数が大好きだった深月は、たまらずに計算を始めた。

 七月二二日まで、残りあと一〇三日。週に換算すれば残りあと一四.七週。年換算であと〇.二八二年。残りあと二四七二時間。残りあと一四八三二〇分。残りあと八八九九二〇〇秒。

「あと一〇〇日って考えると長いけど、あと一四週だと、すぐな感じがするよね」

 深月はノートに書きつけた計算結果に満足して言った。

 ノートの数字は日々順調に減っていった。その数字を減らす作業は、深月にとって喜びだった。残り五四日、七.七週、一二九六時間etcetc...

「わたし、お母さんにこのノート見せるんだ。頑張ってゼロにしたんだよって」


 そしてついに、全ての数字がゼロになる。


 施設のみんなにお別れの挨拶を済ませた二人は、玄関で手を繋ぎながらその瞬間を心待ちにした。

 けれど母親はいつまで経っても姿を現さなかった。母親の電話はつながらなかったし、次の日も、その次の日も、連絡がくることはなかった。母親とはもう二度と連絡が取れなかった。

 あの日、黄昏の中にぽつんと佇む二人の背中を見ながら俺が考えたのは、この二人はこれ以上可哀想な目に遭ってはいけないな、ということだった。浅月はぐすぐす泣いていて、深月の右手にはゼロだらけのノートがあった。深月はゼロに裏切られて、計算が嫌いになってしまった。


 俺が一七歳になった夜、深月は星を見上げて「わたしは就職するんだ」と言った。

 高二の夏は、俺たちに人生の選択を迫る。施設の大抵の子どもは高校卒業と同時に、施設を出ていくことになる。その後はどうするのか、訊くと深月はそう答えた。

「アパートを借りて、浅月と一緒に暮らすの。二人暮らし、夢だったから」

 即答できる深月は強い。

 施設育ちの高卒に就職事情が優しい、とは思えない。

 就職、進学、俺は悩む。

 進学は金銭的に厳しい。頭の悪い俺に国は奨学金をくれるだろうか。バイトで生活費や家賃を稼ぎながら大学生活を維持できるだろうか。そもそも大学に受かるだろうか。俺が受かるような頭の悪い大学に、そんな苦労をしてまで卒業する価値はあるのだろうか。

 じゃあ就職だ。

 施設育ちが高卒で就職?

 それは俺の耳に、あまり明るく響かない。

 明るくない未来に暗い過去、なかなかの人生じゃないか。


「そーちゃんはどうするの?」


 即答できない俺は弱いんだ。

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