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泥棒猫 ~隅の浪人生シリーズ~

作者: うみふゆ

 1

 太宰だざい町三丁目に位置する大型デパート『とよまる』。三つの学校と住宅街に囲まれたこのデパートは、夕飯の買い物に勤しむ主婦や、歓声を上げながら走り回る子どもたちでごった返していた。

  「うわ、本当にいた……」

  地下一階にエレベーターで降りた西田浩平にしだこうへいは、学ランの第二ボタンを留めながらつぶやいた。

  『とよまる』の地下一階は、その面積の半分をフードコートが占めている。ラーメン屋やクレープ屋など、六軒の飲食店が左右の壁際に分かれて軒を連ねており、その間には貧相な光沢を放つテーブルと椅子が並んでいた。

  談笑に花を咲かせる女子高校生たち。頭を突き出して、携帯ゲーム機に目を突き刺す二人組の小学生。笑顔でソフトクリームをほおばる老夫婦。エトセトラエトセトラ。フードコートの込み具合は三割ほど。平日の夕方にしては上々といったところか。

  浩平はテーブルの間を縫って進んだ。彼の目当ての人物は、諸星流星もろぼしりゅうせいが説明した通り、フードコートの最奥にある隅のテーブルに構えていた。

  壁面のソファーに座るその男は、浩平と同じ大宰高校の紺色の学ランを着ていた。しかし浩平は知っていた。彼は太宰高校の生徒ではない。少なくとも、今は。

  男はテーブルいっぱいにノートや参考書を開き、ぶつぶつと呪詛のような言葉を繰り返していた。不気味だ。そんな彼を避けるかのように、周囲の席は空いていた。

  「あの、大津田おおつださんですか」

  浩平の声に男は首を上げた。上げると同時に『ゴキリ』と首が不快な音を奏でた。

  「うげぅ。な、なんだよ」

  猫背の男は挑むように浩平を睨んだ。神経質そうなその声に浩平は落胆を覚えた。本当にこの男で大丈夫なのか。

  「西田といいます。諸星先生から、その、教えられて、あなたのことを」

  「あぁ。話は聞いているよ。いや、そこまで詳しくは聞いてないけど。概要だけ。うん。困ったな。見ての通りぼくは受験勉強で忙しいんだ。君のような暇人を相手している時間なんて……まぁいい。諸星センセの頼みだ。断るわけにもいかないね」

  横柄な物言いに浩平は辟易した。ファーストインプレッションは最悪だ。

  とはいえ仕方がない。今のところ頼りになるのはこの男だけだ。

  「それじゃあさ、ほらこれ」

  大津田は空のプラスチックカップを振ってみせた。

  「なんですか」

  「ったく。気が利かない後輩だな。メロンソーダだよ。メロンソーダ。相談料としてメロンソーダをごちそうしてもらおうか。ほら。そこのたこ焼き屋、学生なら八〇円だからさ、買ってきてよ」

  「えぇ。後輩にたかるつもりですか」

  「相談料だって言ってるだろ。八〇円も払えないの。だったら帰って。勉強の邪魔だよ」

  浩平は渋面を浮かべながらたこ焼き屋のカウンターに向かい、星条旗柄のバンダナを頭に巻いたひげ面の店員からメロンソーダを受け取った。

 大津田の前にメロンソーダを叩きつけるように置く。それとは別に、自分が飲む分として、紙コップに入った無料の水を持ってきた。嫌味のつもりでのどを鳴らして口にしたが、大津田は特に気にもせずメロンソーダをごくごくと飲み始めた。

  「学割を利かせるために制服を着ているんですか」

  学ランの胸ポケットをさすりながら浩平は尋ねた。

  「もちろん」

  「それって詐欺じゃないですか」

  「詐欺だって」

 きのこのように盛り上がった黒髪を指先でいじくりながら、大津田はため息をついた。

「きみ、ソフトドリンクの原価がいくらか知ってる。一杯なんてたかだか一〇円もしないんだ。それを一五〇円で売ろうなんて暴利がすぎる。八〇円払っているだけでも感謝してもらいたいもんだね」

  ジュースの原価はそんなにも安いのか。ちょっとした豆知識に驚いた浩平ではあったが、コンマ五秒の時間を経て大津田の言葉が詭弁にすぎないと気づいた。

  「とにかく、詳しい話を聞こうか」

  「はい。あの……」

  「きみの家の猫がとんでもないことをしでかしたらしいね」

  『話せ』と言っておきながら自分から話を切り出す。大津田とかいうこの男は人をいらだたせる天才らしい。浩平のほほは自然と痙攣を繰り返した。

  「そうです。ぼくの家の猫、ポムっていうんですけれど」

  「フフ」

  「何ですか。母が勝手に付けたんですよ」

  「ポムねぇ。ふん。それで?」

  「はい。そのポムが一週間前から……」

  「どこかから宝石を持って帰ってくる。そうだろう」

  大津田の細い目が模倣宝石イミテーションのような鈍い光を放った。


 2

 時をさかのぼること一時間前。

  太宰高等学校2ーAの教室で、西田浩平は担任教師の諸星流星を待っていた。

  放課後の教室には浩平以外には誰もいなかった。梅雨入り前の五月晴れ。徐々に伸び始めた夕陽が教室を橙色に染め上げていた。

  「やーすまんすまん。待たせたなぁ」

  紫色のジャージに身を包んだ諸星が教室の扉を乱暴に開けた。築四十年のこの校舎はここ数年で老朽化が急速に進んでいる。諸星の恵体と一丁三所なその性格が老朽化に拍車をかけていると学内で評されていた。

  「部活前のミーティングが思ったより長引いてしまった。それで相談ってのはなんだ。ま、まさかいじめか! いじめ問題か!? 大丈夫だ。おれに任せろ。いやいい。ほかの先生には何も言うな。背徳没倫なあいつらに何ができる。教育委員会とグルになって事態のもみ消しを計るに違いない。そんなことはこのおれ諸星流星が許さん。世のため人のため具体的には生徒のため……」

  「違います。そんなたいそうな話じゃありません。教育委員会とか、かんべんしてください」

 本当にいじめについて相談するなら諸星ほど不適格な教師はいないだろう。この教師は火を消すために爆風を起こすタイプの男だ。たしかに火は消えるかもしれないが、爆発による被害は尋常ではない。

  「ほう。それじゃなんだ。わかった。遅刻のことだな。いやいや、気にしなくていい。先生も学生時代は遅刻魔でな。お前の気持ちはよくわかる。学校の隣に住んでたのに起きれないんだよ。始業のベルが目覚まし時計。家から学校までが近ければ近いほど、登校の時間を見誤るってのはあるあるだ。とはいえお前はここ数日で急に遅刻が増えたな。何かあったのか」

  「あ、いえ。遅刻のことでもなくてですね」

  とはいえ、あながち遅刻とは無関係とも言えず、浩平の胸中に無彩色のもやがかかった。

  「ほう。それじゃなんだ」

  諸星は筋骨隆々の身体を椅子の上に降ろした。椅子は『キュウ』ときしみ声をあげたが、諸星がそれに気づく様子はない。

  「うちで飼っている猫、ポムっていう黒猫なんですけれど、こいつが外の散歩に出ると、宝石を持って帰ってくるんです」

  「宝石?」

  諸星は腕を組み、首を九〇度横に傾けた。

  「どういうことだ。おれにもわかるように説明してみろ」

  「初めは先週の月曜日のことです。ぼくが学校から帰って、家でゲームをしていると、ポムが散歩から帰ってきました。するとどこからかコツコツと硬いものが触れるような音がします。何の音だろうと疑問に思っていると、その音はポムの動きと連動して聞こえることに気が付きました。ポムの首輪にはうちの住所が書かれたカードが入った巾着袋がついているのですが、その中に赤い宝石が五つ入っていたんです」

  浩平はスマートフォンで撮った宝石の画像を諸星に見せた。一枚のティッシュの上に丸みを帯びた宝石が五つ置かれていた。

  「これは……ルビーか。そんなまさか。こんな高級品をお前の猫が盗んできたっていうのか。ど、泥棒猫!」

  「それ絶対に言われると思いました。いやそれより、うちのポムが自分で盗んできたはずがないでしょう。巾着袋に入っていたんです。猫が自分で袋を開けて入れられますか。つまり、だれか人間が巾着袋に宝石を入れたんですよ」

  「なるほど。ん? そういえばおまえ『初めは……』って言ったな。ということは」

  「そうなんです」

  浩平は重たい息を吐いた。

  「それから毎日なんです。ポムは必ず宝石をお土産に持って帰ってくるんです。裸石ルースだけじゃありません。ネックレス、指輪、ブローチにイヤリング。どれにも高そうな宝石がついてるんです」

  「ふーん。いったいだれが何の目的でそんなことをするんだろうな」

  諸星は椅子から立ち上がると、腕を組みながらうろうろと歩き回り始めた。

  「だめだ、わからん。おれにはわからん。というかなんでおれに相談するんだ。とっとと警察に行けばいいじゃないか」

  「け、警察だなんて。馬鹿なこと言わないでください。ぼくが盗んできたと疑われたらどうするんですか。現役男子高校生が高級ジュエリーの窃盗罪で逮捕。そんなことになったら担任である先生だって、監督不行き届きで懲戒処分の目にあいますよ」

  「懲戒処分! 恐ろしいことを言う。つまりなんだ、お前はおれにどうしてほしいっていうんだ」

  「だからですね、このジュエリーの持ち主を探し出して、返してきてほしいんですよ」

  「おれがぁ!?」

  諸星はその大きな顔いっぱいに拒絶の意志をみせた。

  「むりむり。むりだよぉ。どうすればいいのかさっぱり見当がつかん。それにおれは教師の仕事で手一杯だ。今日もこれからサッカー部の練習を見にゃならんし。なぁ、ほかの先生に頼んだらどうだ。おれよりも精励恪勤な先生なんていくらでもいるだろう」

 背徳没倫から精励恪勤に評価が一転した。諸星がお年頃の生徒たちから好かれているのは溌剌はつらつとした性格をしていながら、時折りこうした人間臭い一面を見せるところにあるのかもしれない。

  「ほかの先生なんて、まともに取り合ってくれるはずがありませんよ。警察に正直に話せとか、黙ってネコババしろとかそんな事を言うだけですよ」

「上手いことを言う」

「上手くありません。ねぇ、お願いします。先生しか頼れるひとはいないんですよぉ」

 実際、浩平には諸星に頼る以外に手立てはなかった。どこかの山奥に捨て去るという手段も考えたが、宝石の量は日に日に増えていく。ポムがいつまでこの宝石配達を続けるのかはわかったもんじゃない。それを毎日続けろと言うのか。さらには、処分した宝石が誰かの手によって見つかり、彼は窃盗犯として告発されるかもしれない。そんな不安を抱えながら高校生活を送れるほど、この少年は大きな器量を持ち合わせてはいなかった。

  「あ、そうだ。あいつがいた」

  パンと積乱雲を裂くように両手を叩いて、諸星は浩平に笑顔を向けた。

  「おまえ『とよまる』の場所はわかるよな。学校のすぐ近くにあるデパートだ。あそこのフードコートに行け。そこに太宰高の卒業生がいる。この手の事件を解決するのにぴったりなやつだ」

  「フードコート。どういうことですか。卒業生ということは『とよまる』で働いてるんですか」

  「いや。働いていない。大学生でもない。大学受験の浪人生だ。名前は大津田鴨春おおつだかもはる。なかなかおもしろいやつだぞ。連絡しといてやるから、あとは大津田に任せておけ。大津田の特徴か? 細い眼をした黒髪の陰気臭い小太りのやつだよ。卒業した今でも、毎日太宰高の学ランを着ている。フードコートの隅の席がそいつの専用席だ。おっと、もうこんな時間か。サッカー部に戻らにゃ。それじゃ、大津田によろしくな!」

  一方的にそう言い放つと、諸星は入ってきた時と同じように、教室のドアを乱暴に開けて出て行った。


 3

「ネコババしちゃえばいいじゃないか」

  ストローを指揮者のようにふりまわしながら、さも当然といったていで大津田は言った。ストローの先から飛んだ水滴が浩平の右手にあたり、浩平はキッと目の前の無礼な男をにらみつけた。

  「なんだい。そんな風にいい子ちゃんぶるんじゃないよ。まったく」

  浩平は既に頭の中で別の試算を始めていた。すなわち、この男に頼る以外の方法についての。

  そもそも、諸星はどうして大津田に頼るように提案したのだろうか。『この手の事件を解決するのにぴったり』と諸星は言ったが、はたしてどのような人間としての性質を持ちあわせていれば、このような評価を受けるに値するのか。いまのところ、浩平が大津田に認める性質は『醜悪』の一言に尽きるものだった。

  「諸星先生は大津田さんならこの謎を解けるとおっしゃっていましたが」

  「あのセンセの言いそうなことだ」

  「大津田さんは猫と会話できるんですか」

  「ばか。できるわけないでしょ」

  「じゃあどうして……」

  「センセの思惑をどうしてぼくが知ってなくちゃならんのさ。もうちょっと頭を使って考えなよ」

  大津田はストローからメロンソーダを勢いよく吸い上げた。透明なストローの中を人工的な緑色の液体が駆け上っていく。

  「ゲフ。結局はこうだな。きみの猫がどこから宝石を持って帰ってきているのか、誰から宝石を受け取っているのか。それらがわかればいいわけだね」

  「まぁ、そういうことになりますけれど」

  浩平は『フン』と鼻を鳴らした。

  「大津田さんにできますか? 無理なことに手間を取らせても申し訳な……」

  「だいじょうぶ。もうだいたいは分かっているから」

  「……はい?」

  天井の照明が音を立てて明滅した。それを気にもせず、大津田は一度大きくノビをした。

  「二日後、金曜日の夕方にまたここに来てよ。それだけの時間があれば、まぁ何とかなるでしょ。あ、そうそう。この席に来るときには必ずメロンソーダを買ってくること。忘れないでよ」

  浩平はぽかんと口を開けたまま、大津田の顔を見つめていた。

  「ふ、二日後。今日を含めて三日間で、すべてがわかるっていうんですか」

  「たぶんね。あぁそうだ。そのきみの猫、なんていったかな。プゥだっけ」

  「ポムです」

  「ぐふ。やっぱり変な名前だ。あ、あ、そんなおっかない顔をしちゃだめ。そのポムちゃんね、写真はないかな。ふん。なるほど。ずいぶんと毛の長い黒猫だ。飼い主に似て可愛げのない目をしているね。はは、冗談だよ。ほら、もうとっとと行きな」

  浩平は胸ポケットを抑えながら立ち上がり、そそくさとその場を去った。上りのエレベーターに乗る直前に振り返ると、大津田は隅の席で参考書をぱらぱらとめくり、いちど大きくあくびをしていた。

 何なんだよあいつ。

 浩平は心の中で毒づいた。

  浩平の家は、太宰高等学校を間に挟んで『とよまる』とは反対の方角にあった。自宅とは別方向に寄り道をしたことになり、帰宅時間はいつもより遅くなる。

  浩平の両親は共働きで、帰宅する時間はいつも夜の七時を過ぎる。宝石について両親は何も知らない。ポムが散歩から帰宅するのは遅くとも午後六時ごろだ。浩平はいつも両親が帰宅する前に宝石を巾着袋から取り出していた。両親が家にいた土曜と日曜は、庭でポムを待ち構えていた。土曜日はラズベリー色の宝石がついたブレスレット。日曜日は濃い緑色の裸石だった。厳格な性格の両親にバレたら大事になる。浩平は必死だった。

  太宰高校の校門前を通過してしばらく道なりに歩くと、太宰町が誇る高級住宅地が右手に見える。浩平はその住宅地に見向きもせず、国道沿いを歩き続けた。

  浩平の心中で針のようなストレスが散らばっていた。そのストレスは、諸星に直接事態の解決を依頼できなかったことと、『阿漕あこぎ』を体現したような醜い先輩と言葉を交わしたことを起因としていた。

  誰も理解してくれない。誰も同情してくれない。誰も優しくしてくれない。

  心臓の鼓動が体内の細胞を介してやかましく響く。じぶんは恐れている。ポムが持ち帰る宝石の秘密。それが露見することを恐れている。

 神経が過敏になっているのか、周囲から視線を感じて仕方がない。誰もがじぶんを見つめているような、非難しているような、そんな鋭い感覚が首筋にずきずきと突き刺さる。

  馬鹿な。ありえない。冷静になれ。

  理性がそう説得を試みる。しかし、絶え間なく油が注がれるほむらのような心臓と思考は、彼の身体を『速く歩け速く歩け』と急かした。

  一刻も早くポムの首輪から宝石を取らなければならない。もし両親がいつもより早く帰宅していたら。猫好きなご近所さんが『あらこれは何かしら?』とポムの首輪の巾着袋に手を伸ばしたら。

  この国道は信号付きの横断歩道が連なっている。国道と並行して伸びる高級住宅地は信号が少なく車の交通量が多い。そのため、そちらから国道へと出てくる車の量が多くなり、短い横断歩道でもそれらすべてに信号が設置されているのだ。

  いくつもの赤信号に足を止められ、浩平のフラストレーションは沸々(ふつふつ)と募っていった。チクリチクリと感じる視線。考えすぎだとわかっているのだが――

  一戸建ての自宅にたどり着くと、芝生が生い茂った緑の庭にもそもそと動く黒い毛玉が見えた。

  ポムだ。赤い首輪をつけた愛猫は浩平の存在に気付くと、ゆっくりと彼のほうに近づいてきた。

  浩平は膝をついてポムの身体を抱きかかえた。

  巾着袋の中に指輪が一つ入っていた。正方形にカットされた赤い宝石が夕陽を反射してギラギラと輝いている。その指輪を浩平は美しく思い、美しく思うからこそ、この指輪を隠さざるを得ない自分に嫌気がさした。

  『二日後、金曜日の夕方にまたここに来てくれ』

  大津田の言葉が浩平の耳の中で反響した。

  本当だろうか。

  本当に、あの男を信頼していいのだろうか。

  薄い目でメロンソーダをずるずると飲み込む、うだつの上がらない浪人生。

  彼のようにならないためにも、しっかりと勉強をしよう。そう思って机についたが、浩平はぽつねんと肘をついたまま壁を見つめ続け、やがて室内は夜の帳と共に光を失っていった。


 4

 「端的に言うとね、謎はすべて解けたよ」

  大津田はテーブルに開いていた世界史B用語集に視線を落としながら言った。

  「ほ、本当にわかったんですか?」

  「もちろんだ。きみのあの……ぶさいくな黒猫、ボブだっけ」

  「ポムです」

  「まぁ名前なんてどうでもいいんだけど」

  大津田の乾いた態度を前に、浩平の右足が貧乏ゆすりを始めた。謎が解けたのならば結構。この男と言葉を交わすのも今日が最後だと思うと、自然と貧乏ゆすりはおさまった。

  大津田は今日も今日とてメロンソーダを愛飲していた。浩平は二日前に言われた通り、メロンソーダをもってフードコートの隅の席を訪れた。浩平がテーブルにメロンソーダを置くと、大津田はそれを、まるでその所有権はこの世界の原初の時点から定められていたかの如く自然に手にとった。

  「まず一つ目の謎だ。顔面偏差値十三のぶさいく猫のポムは、いったいだれの宝石を自宅まで持ち帰っていたのか。持ち主を探し出すのはそれほど難しい話じゃなかったよ。手掛かりは十分残されていたからね」

  「手掛かりですか?」

 浩平の言葉を無視して大津田は続けた。

  「ジュエリーの所有者は宇賀神うがじんいすず。太宰町五丁目に住む老婦人だ」

  浩平の疑問符を無視して大津田が言った。

  「きみの猫は悪意をもってこの老婦人からジュエリーを強奪したわけではない。かといって言葉巧みに老婦人を騙して怪しげな投資信託に誘い出したわけでもない」

  「おもしろくない冗談はやめてください」

  浩平の苦言に大津田はぷくりと口をふくらました。

  「きみの猫は今回の事件の片棒を担がされただけだ。ある意味じゃ被害者だね。宇賀神いすずは息子夫婦と一軒家で暮らしており、足の悪いこの老婦人は、日がな窓辺の座椅子に座ってぼんやりとテレビを見ている」

  大津田の視線は世界史B用語集に向けられたままだ。対して浩平は、身を乗り出して大津田の言葉に耳を傾けていた。

  「先週の月曜日。週初めなんて関係なく、宇賀神老婦人はいつも通り座椅子にすわり、午後のワイドショーを観ていた。すると、窓の外でのそのそと黒い塊が動くのが見えた。何かわかるね。そう。きみの猫だ。きみの猫は他人様の庭をのしのしとわが物顔で闊歩していたんだ」

  浩平にとってそれは驚くに値しないことだった。

  「ポムはそういう猫なんです。警戒心がなくて……その家は日当たりがいいんじゃないですか。ポムはひなたぼっこが好きですから」

  「その通り。ポムは人見知りをしない猫だった。動物が好きな宇賀神老婦人は窓からポムを呼んだ。おいでおいで。猫ちゃんおいで。ポムは窓辺に近づき、宇賀神老婦人はポムの黒い身体を撫で始めた」

  「それで、そのおばあさんがポムに宝石を持たせたっていうんですか」

  「その通りだ」

  断定口調で大津田は言った。

  「宇賀神老婦人はこの盗難事件の被害者にして共犯者だった。彼女は、じぶんの宝石を家の外へ運び出すために、きみの猫に持たせたんだ」

  「だけどそのおばあさんはどうして……動機はなんです。どうしてあんな高級品を家の外に運び出したりするんですか」

  「遺産相続トラブルだ」

  「遺産相続……」

  「宇賀神老婦人は五年前に資産家の旦那を亡くした。故宇賀神氏の遺産は、故人の遺言によりそのほとんどを婦人が相続した。聞くところによると宇賀神氏は、長年にわたりある大企業の幹部を勤めていたらしい。きみも知っているだろう。よくCMで名前を聞くあの食品会社だよ」

  大津田はガマガエルのいびきのような声で三連符のCMソングを歌った。その会社の名前は浩平も毎日のように耳にしていた。

  「では、愛する旦那から受け継いだ遺産を、宇賀神老婦人が亡くなったら誰が相続するのか。そんな問いがとある兄妹の間に浮上した。宇賀神夫婦のご子息、宇賀神勝也(かつや)と宇賀神勝美(まさみ)兄妹だ。この二人は、母親が亡くなる前から遺産を巡って骨肉の争いを始めた。休日にもなると、県外に住んでいる勝美が実家へ帰ってきて母親のご機嫌をうかがう。そんな妹を見て勝手なことをするなと兄は激怒する。必然的に、週末の宇賀神家は罵詈雑言の暴風雨に襲われる。かつては仲のよかった家族の変貌した姿を見せられて宇賀神老婦人は嘆き悲しんだ。まったく。人間ってやつは金が絡むと途端に醜い姿を見せてくれる。そうは思わないか。後輩君」

  大津田は満面の笑みを浮かべながら尋ねた。浩平は言葉を返さず、水滴で汚れたテーブルに視線を落とした。

  「愛する家族が憎み合う姿を見せられ、宇賀神老婦人は心を痛めた。どうしてこんな苦しい思いをしなければならないのか。遺産だ。旦那の遺産がすべてを狂わせたのだ。宇賀神老婦人は遺産を憎んだ。だから、それを手放したいと願ったんだ。とはいえ、銀行の貯金を散財するとか、不動産を格安で売り払うなんてことは、この足腰の弱った老婦人一人ではできない。そんな彼女に唯一できることが、私室にある宝石を紛失することだった。老婦人は首輪に巾着袋を付けたどこかの飼い猫に宝石を持たせた。その飼い主が宝石を失敬してくれる悪人であることを願ってね」

  少しの時間、場を沈黙が支配した。

  そして、その沈黙を突き破るように浩平は深い息を吐き出した。

  「ははは。そうでしたか。それが真実ですか。なるほどなるほど。お金持ちのおばあさんがね。ということは、そのおばあさんの目論見は外れたことになりますね。猫の飼い主であるぼくは悪人ではなく善人で、宝石をネコババするような真似はしなかった、そのおばあさんの計画には不確定な要素が含まれていたわけだ」

  肩の荷が下りたのか、浩平の舌は流暢に滑りだした。彼は紙コップを手に取り、無料の水をグイと飲みほした。

  「すごい。本当にすごいですね、大津田さん。諸星先生があなたに信頼を寄せる理由がわかりましたよ。こんな短い時間で真実にたどりつくなんて、さながら名探偵ですね」

  「いや、ちがうよ」

  大津田が言った。

  「ぼくは名探偵じゃない」

  大津田はメロンソーダを飲みながら、反抗するような鋭い目線を浩平に送った。その視線に浩平はぞくりと背中を震わせた。

  「いまの話が真実だって? まさか。ぼくの話の一部が偽りに彩られていることは、ほかでもない、西田浩平くん、きみが一番よくわかっているだろう」

  テーブルに置いた浩平の右手がカタカタと震え始めた。

  「な、なにを言っているんですか。ぼくは何も――」

  「宇賀神老婦人の目論見は当たっていた。彼女は黒猫の飼い主が、宝石をネコババする悪人であると願っていた。そして、その飼い主は、()()()()()()()()()()()()()()

  槍のような大津田の視線が浩平の瞳を貫いた。浩平は椅子を引いて立ち上がろうとしたが、それより速く、大津田の太く短い五本の指が浩平の手首をつかんだ。

  「ぼくにはすべてわかっているんだ。黒猫のポムに宝石を持たせる計画は、宇賀神老婦人の発案ではなかった。なぁ、すべてわかっているんだ。老婦人に入れ知恵をしたのはきみだ。西田浩平くん。きみは老婦人の宝石を盗み出そうとした悪人なんだ」


 5

「どうした。汗がしたたり落ちているよ。そこのたい焼き屋はアイスクリームも売っている。涼んだほうがいいんじゃないか」

  大津田はけらけらと笑うと、浩平の手を放した。浩平の瞳は鈍色に染まっていた。歯をカタカタと鳴らす高校二年生の少年は、目の前の小太りな男に視線を合わせたり逸らしたりを繰り返していた。

  「ふふふ。それじゃあぼくがこの三日間に調べ上げた、本当の調査結果を教えてあげよう。そしてそれは、西田浩平くん。きみの罪をありありと告発しているわけだ。それじゃあ、心して聞きたまえ」

  「ぼくは……」

  「まず初めに」

  大津田はぐっと身を乗り出して浩平の言葉を遮った。

  「真実のおおまかな流れは、先ほどの話と大して変わらない。宇賀神老婦人というお金持ちの老婆は実在するし、きみの猫に宝石を持たせたのもこの老婆だ。だが先の話が著しく事実と異なるのは、西田浩平という一人の少年が、もっと話の前半部分に出てくるということだ。前半部分とはどこか。すなわち、きみは先週の月曜日の夕方に宇賀神老婦人のもとを訪れていた。そうだろう」

  浩平のまぶたが不自然に高速なまばたきを始めた。

  「どんな経緯できみと老婦人が言葉を交わすことになったのかは知らない。だが、事実としてきみはあの日、宇賀神邸の庭に入り、老婦人と言葉を交わした。日がなテレビを見ることしかしない老婦人は、おしゃべりができる相手がいることに喜び、自身の不満や愚痴をこぼした。もちろん、二人の子どもが、遺産相続をめぐって骨肉の争いを繰り広げていることもね」

  「知りませんよ、ぼくは。そんなおばあさんのことだなんて」

  「ちょっと、弁解はあとにしてよ。もっとも、ぼくの話を聞いてなお弁解ができるというならね。とにかく、きみは老婦人が遺産を捨てたがっていること、そして老婦人が大量に宝石を所有していることを知った。『わたしが死んだらこの宝石は邪心に染まった子どもたちの手に渡ることになる』。そんな話を聞いている時、きみにとっては幸か不幸か、今回の盗難事件の無垢なる協力者が現れた。黒猫だ。きみの黒猫が散歩の途中に宇賀神邸を訪れたんだ。人なつっこい猫が現れ、飼い主である君のなかに邪悪な想いが生まれた。きみはその黒猫をじぶんのペットだとは言わなかった。無関係を装い、『かわいらしい猫ですねぇ』なんて言って抱き上げたんだろう。そして、老婦人に提案した。この猫に宝石を運ばせてはどうかと。老婦人は快諾し、黒猫の飼い主が悪人であることを願って、巾着袋の中にいれた。巾着袋の中の住所カードはその時に君が取り出したんだろう。宝石を運んでいる最中に誰かに見られたらまずいからね」

  浩平はのどをごくりと鳴らして紙コップを手にとった。中は空だった。

  「こうしてポムは宝石を自宅に運び、きみはそれを取りだし、翌日の火曜日にポムはまた宇賀神邸を訪れた。おそらくポムの散歩ルートに宇賀神邸が入っており、前々からポムは宇賀神邸を訪れていたのだろう。いや、たまたまポムが宇賀神邸を訪れたとしても問題はない。ポムは人懐っこい猫だときみは言ったね。宇賀神老婦人がポムに宝石を初めて持たせたその日、餌付けをして『ここに来ればおいしいものが食べられる』とポムに習慣づけをさせたのかもしれない。それならばポムが毎日宇賀神邸を訪れて、宝石を持ちかえったことを説明できる」

  「いや、おかしいですよ。矛盾しています」

  浩平は反論を試みた。

  「ぼくがそんな提案をするはずがありません。だってぼくは宝石を黙ってネコババせず、諸星先生に相談したんですよ。計画通りことが進んでいるのなら、黙っていればいいじゃないですか。つまり、諸星先生に相談したという事実そのものが、ぼくが無実であることを証明しているんですよ」

  「はは。脆い論理だ。根拠薄弱にして論拠不十分。いいか。諸星先生に相談したことと、きみが悪事を働いたことは矛盾しない。いや、むしろ逆だ。きみは悪事を働いたからこそ、諸星先生に相談した。きみただの悪人じゃない。小悪人だ。目先の利益に釣られて悪事を働いたはいいが、一日、二日、三日とたち、何十万とする高級ジュエリーが次々と集まるにつれ、小悪人のきみは逆に焦りを覚えた。コンビニの万引きとは額が違う。ことが露見したらきみは老婦人をだました極悪人として告発されるだろう。法的にはどうかはしらないよ。宇賀神老婦人だって自ら望んで宝石を手放したわけだ。しかし世間一般の印象はどうだろう。老人を騙して高級ジュエリーを手にした少年に対し、世間はどんな冷たい視線を注ぐだろう。友達は? 家族は? きみのまわりのすべての人が、極濁悪の蔑視をきみに送るんだ」

  「だ、だとしたら、それこそ諸星先生に言わず黙っていた方がいいじゃないですか。あなたも諸星先生のことを知っているでしょう。あの人は他人のことを信じて疑わない、性善説の善人馬鹿だ。諸星先生はぼくから宝石を預かって、警察か持ち主に届ける。そうしたら……」

  「そうだ。それこそがきみの目的だった」

  大津田はメロンソーダのカップのプラスチック蓋を開け、中のクラッシュアイスをざらざらと口に流し込み始めた。

  「きみはこの日本国に生きるただの社会人じゃない。きみは子どもだ。子どもというヴェール、制服(学ラン)という繭に包まれた軟弱な子どもだ。そしてその繭は治外法権という糸を編んで作られている。きみは諸星先生に宝石を預ける。諸星先生は警察か持ち主に届ける。諸星先生は尋ねられる。『これはどこで拾ったのですか』。諸星先生は答える。『生徒が拾いました』。先生はまた尋ねられる。『それは誰ですか。生徒の名前は?』。しかし先生は首を横に振るだろう。『まさかあなたはわたしの生徒を疑っているのか』。相手が警察ならこう付け加えるだろうね。『生徒に根掘り葉掘り事実を聞きだそうというのか。これほどの高級品、紛失したひとがいれば大きな騒ぎになっているはずであり、すぐに持ち主は見つかるでしょう。国家権力が学校の敷地内に踏み込むというのならば、それ相応の覚悟があってのことでしょうな』。ははは。あの先生ならもっと強気に攻めるかもしれないね。いち交番の巡査程度じゃ、そこで引き下がるだろう。仮に警察が事件性を認めて調査に乗り出すにしても、諸星先生の周辺を洗うていどのことしかできない。しかし、諸星先生は生徒から宝石を預かっただけだ。いくら調べても盗難事件のにおいはしない。そして事実としてこの宝石の持ち主は、自ら望んで手放したのだから、警察に紛失届をだすこともない。つまり、それらのジュエリーは警察署の保管庫で永遠に眠りにつくことになる。結果、小心者のきみが働いた悪事も闇の中に葬られることになるわけだ。どうだい、きみはそんな展開を予想して、諸星先生に声をかけたんだ。違うかな?」

  「そ、そんなの。ぜんぶあんたの推測に過ぎない!」

  浩平はテーブルの天板を両手でつかんだ。

  「えらそうに言いますけどね、証拠があるんですか? ぼくがそんな悪事を働いたっていう証拠です。いいですか。ポムが宝石を持って帰ってきた。ぼくが認めるのはそれまでです。ぼくは宇賀神さんなんてひとは知らないし、そのおばあさんにポムに宝石を持たせるよう言ったこともありません。それじゃあそのおばあさんに会ってみろなんて言われても断ります。ぼくにそんなことを強いる権利はあなたにはありません」

  「ポムが宝石を持ってきた。それは事実として認めるんだね」

  「認めます」

  「それじゃあ。もう一つ、事実かどうか認めてほしいことがあるんだ」

  大津田は赤く短い舌をチロリとのぞかせた。

  「きみはここ最近遅刻を繰り返しているそうだね」


 6

「……はい?」

  大津田の意外な言葉に、浩平は乾いた返事をした。

「諸星センセに確認済みだ。いけないね。こんな近所に住んでいながら遅刻だなんて」

  「なにを、え。遅刻って……」

  遅刻。その言葉を口にして、浩平の顔はさっと青くなった。

  「一昨日、きみと初めて会ったあの日の時点でぼくはきみのことを疑っていた。諸星先生からメールで事件の概略を教えてもらい、それから少しの時間を経て、既にきみが真犯人であると疑っていた。というのも、きみがここに来るまでにとんでもなく大きなミスをおかしたからなんだよ」

  「ぼくがミスを?」

  「そうだ。そのミスについては後で話そう。きみのことを疑ったぼくは、きみがフードコートを発つと、すぐに荷物を抱えてきみを尾行した」

  浩平の目が大きく開かれた。

  あの日の帰路において、浩平は幾度も視線を感じたことを思い出した。それは神経質な精神がみせる幻覚のようなものに過ぎないと自分に言い聞かせていたが、とんでもない、あの日、大津田鴨春というこの男は浩平の姿を遠くから見つめていたのだ。

  「『とよまる』を出て、学校の前を通り、きみは国道沿いの歩道を歩いていた。あの歩道は歩行者用の信号が多い。きみは何度も赤信号に引っかかって足を止めたね」

  顔から噴き出した汗が浩平の手のひらにポトリと落ちた。

  「なぁ、どうして国道と並行して走る高級住宅地の道を歩かなかったんだ。そちらの道を行けば信号になんて引っかからず快適に直進できる。それなのにきみは国道沿いを歩き続けた。ポムが今日もジュエリーをもって帰ってくるのか、そんなことを気にしているなら一刻も早く家に帰りたいと思うのが普通だ。おかしいじゃないか。そして、この事実を『普通』にする解釈が存在する。つまり、きみは、何があろうとあの高級住宅地を通りたくなかったんだ」

  大津田の口調が熱を帯び始めた。歯をみせて笑い、五本の指が鍵盤を鳴らすようにテーブルを叩き始めた。

  「遅刻の原因は通学路を変えたからだ。これまで高級住宅地を通って通学していたきみは、何らかの事情で歩行者信号だらけの国道沿いを通学路に変えた。なぜだ? なぜだ? なぜだ? なぜだ?」

  「なぜって、それは……」

  「宇賀神邸がそこにあるからだろう」

  大津田の言葉が浩平の脳髄に突き刺さった。

  「きみの本来の通学路は、高級住宅地の道路だった。先週の月曜日、きみはそこで宇賀神老婦人に出会い、言葉を交わし、そして例の『入れ知恵』を老婦人に施した。昨日の夕方、太宰高校から君の家まであの高級住宅地を通って歩いてみたよ。お金持ちってのは心だけでなく、敷地の境界にも壁をつくることを望むみたいだね。どの家も高い外壁に囲まれていて、だからこそその家を見つけるのは簡単だった。きみとジュエリーの持ち主は先週の月曜日に偶然出会ったに違いない。ぼくは、道路から家の敷地内がよく見える家を数件ピックアップして、それからしばらくそれらの家を周回した。なんのため。猫だよ。黒い剛毛の猫が来るのを待っていたんだ。しばらくしてある一軒の家の庭をのぞくと、さてさて、きみから聞いたのと寸分違わない黒猫が、ひとさまの家の庭を闊歩しているじゃないか。ぼくは確信を抱き、その猫の動きを見ていた。すると、誰かがぼくのことを呼んでいることに気が付いた。それは猫がいる庭の家の中から聞こえていた」

  「あぁ……あぁ……」

  浩平は親指の爪を噛み砕き始めた。

  「一階の窓辺にねまき姿の老婦人がいた。ぼくのことを呼んでいるのは彼女だった。ひとさまの家をジロジロと眺めていたから怒ったというわけでもなさそうだ。にこにこと笑いながら老婦人はぼくを手招きした。ぼくは柵を超えて窓辺に近づいた。黒猫はぼくを気にすることなく、窓辺にひょいと上り、老婦人はその黒猫をしわくちゃな手で撫で始めた。老婦人は話し相手が欲しかった。その相手は誰でもよかったんだ。きみが訪れたときもそうだったんだろう。既知の間柄でなくとも、暇をつぶせるならそれでよかった。そこでぼくはカマをかけた。『ぼくは先週ここを訪れた西田くんの友達です。彼から話は聞いています。その後、調子はどうですか』とね」

  浩平の全身から力が抜けた。彼は口を半開きにして、ぼろぼろのぬいぐるみのように崩れ落ちた。

「ポムが……あの家の門の前でフンをしていたんです」

  ぼそぼそと浩平が語り始めた。

  「それで、ポムはわが物顔でその家の中に入って、まずいな、怖いひとだったらどうしよう、うちの猫だってバレたら……そんなことを考えながら敷地内をのぞいていたら声をかけられたんです。制服を着ていたから、逃げたら学校に苦情がいくかなって、仕方なく庭の中に入って……」

  「そこで雑談を交わしていくうちに、宇賀神家の相続問題を知ったわけだ」

  浩平はうなずいた。

  「西田浩平くん。きみは宇賀神老婦人を口車に乗せて、彼女の高級ジュエリーを盗もうと試みた。そうだね」

  「はい。ぼくがやりました」

  罪を認め、うなだれる後輩をそのままに大津田は立ち上がると、しばらくして二つのメロンソーダLサイズを手にして戻ってきた。

  「おごりだ。飲みな」

  そう言われても浩平はストローにくちをつけようとはしなかった。彼は両手でカップを包みながら全身を震わしていた。

  「警察に言うんですか」

  「きみの発言は逐一つまらない。このぼくが国家権力に与するわけがないだろ」

  大津田は浩平の学ランの胸ポケットを指さした。

  「宝石、そこに入っているんだろう」

  浩平は一度大きくのけぞると、涙と鼻水で顔をぐしゅぐしゅに崩した。

  「ど、ど、どうしてわかったんですか」

  浩平は胸ポケットから小さな袋を取り出した。大津田はその中に手をつっこみニヤリと悪趣味な笑顔を見せた。

「君は不自然なタイミングで何度も胸ポケットに手を当てていた。何か大事なものがそこにあるんだろう。大事なもの? もちろん宝石だ。犯罪の証拠品を家に置いておくことを恐れ、肌身離さず持ち歩いていたわけだ。うん、きちんと宝石毎に個包装しているみたいだね。宝石はすり合わせると傷がついちゃうからね。えらいぞ」

 大津田は指輪を一つ取り出して、天井の電灯にかざした。

  「あぁ、やっぱりな」

  ほら、と言って、大津田は浩平に向かって指輪をぽいと投げつけた。

  「わぁ! な、なにをするんですか!」

  「それ、イミテーションだよ」

  「……はい?」

  大津田は巾着袋の中から個包装された他のジュエリーを取り出して並べ始めた。

  「ふんふんなるほど。これも、これも、やっぱりそうだ。昨日ネットで宝石の見分け方を調べてきたんだ。素人判断だけど、ここにあるものは全部イミテーションだ。質屋に持っていったら、そうだな。数千円くらいにはなるんじゃないかな」

  「そ、そ、そんな馬鹿な!」

  浩平は大声を張り上げた。

  「そんな、そんな、どうしてですか。どうしてあのおばあさんは偽物なんて、どういうことですか。だってぼくは本物だって聞いたんですよ。チクショウ!」

  「さぁて。話はクライマックスに差しかかってきたようだね」

  大津田はカップからストローを取り出すと、(それは彼のくせなのか)指揮者のように宙で振り回した。

  「本物だと思われていたジュエリーはすべて偽物だった。この錯誤はどこから生じたのだろうか。金持ちの宇賀神老婦人は、騙されてイミテーションを購入したのか。それとも、イミテーションと分かっていながら、きみには本物であると嘘をついたのか。この謎を解くカギは、宇賀神家が抱える問題の中にある」

  「宇賀神家の問題?」

  「決まっているだろう。遺産相続問題だ。しかし、ここで一つ質問だ」

  大津田はストローの先を浩平の顔に突き立てた。

  「遺産相続問題なんてものは、本当に起きているのか?」

  「は、はぁ? 何を言っているんですか。あのおばあさんがうそをついたというんですか」

  「うそね。ある意味じゃうそだし、ある意味じゃ真実だ。すくなくとも、宇賀神老婦人は本当に兄妹ケンカに心を痛めている。しかしそれは杞憂なんだ。なぜなら、そのケンカはすでに終焉を迎えており、何より、それを終わらせたのは宇賀神老婦人に他ならないのだから」

 浩平の頭を疑問符が埋め尽くした。

  「あなたはじぶんで何を言っているのかわかっているのですか。そんな支離滅裂な……」

  「きみは直感的に生きすぎてるね。いいかい。賢く生きるために必要なのはその言葉の論理を読み取り、背後にどんな意図が隠されているのかを見抜くことだ。二次元のデータに騙されるな。目の前の様相を疑え。三次元のデータを集め、脳内で四次元の真実に昇華させる。そう。きみは宇賀神老婦人ともっと言葉を交わすべきだった。高級ジュエリーなんぞに気をとられる前に、もっとしっかりと老婦人の声に耳を傾けるべきだった。そして老婦人が、重度の認知症にかかっていることに気付くべきだった」

  「……はい?」

  浩平の言葉が翼を失ってテーブルの上にぽとりと落ちた。

  「あのおばあさんが、認知症?」

  「そうだ。ぼくは宇賀神老婦人と長いこと窓際でお茶を飲みかわした。あのひとは、口調や態度こそは凛としているけれど、おなじ会話を繰り返したり、ぼくを時折り、じぶんの息子や友人、親しい保険屋なんかと勘違いしたりした。認知症の症状はいろいろある。論理的にものごとを考えられなくなる判断力障害。新しい事柄を覚えられなくなる記憶障害。そして、時間や場所やひとの区別がつかなくなる見当識障害。宇賀神老婦人の症状は見当識障害が顕著にあらわれていた。老婦人は、過去にすでにけりがついた遺産相続問題が、今も起きていると思い込んでいるんだ」

  「遺産相続問題が終わった? いったいどういうことですか。意味が……」

  「まぁ落ち着いて話を聞いてよ。そんな風にカッカされちゃ埒があかない。ぼくは礼儀正しく宇賀神老婦人のもとを去ると、家の前で老婦人の子息の帰りを待ち、事情を尋ねた。そしてことの事実をすべて知り得たというわけだ」

  すなわち――

  「遺産相続問題はたしかに起きた。しかしそれは五年前のことであり、それは故宇賀神氏の遺産をめぐってのことだった。『恥ずかしいことだが』と前置きをしながらご子息は語ってくれたよ。故宇賀神氏が亡くなるひと月前のことだ。回復の見込みがないと医師が判断するやいなや、兄妹は互いに罵詈雑言を浴びせ、父親にこびを売り、莫大な遺産を少しでも多く手にせんと争った。わが子らの醜態に心痛と怒りを覚えた老婦人は、病床でチューブにつながれた宇賀神氏にこんな提案をした。つまり、どんな非科学的な手段だろうとかまわない。氏の症状の治癒をうたい得る、ありとあらゆる手段に金を落とそうと」

  「ありとあらゆる?」

  「次の日から、氏の病床に来訪者が次々と現れるようになった。黒々としたあごひげをたくわえた新興宗教の教祖。西洋医療を徹底的にこき下ろした自然療法家ナチュラリスト。宇宙の始まりからミレニアム懸賞問題まで、それらすべては超音波によって解明されると語るフェイクシンクタンク。宇賀神夫妻は莫大な資産を切り崩し、彼らに献金をはじめた。もちろん兄妹は両親を止めようとしたが、宇賀神氏は非難の目を彼らに向け、老婦人は『お父さんに早く死んでほしいのか』とウソ泣きを始める始末だ。これはいかんと兄妹が和解にいたるころには、総資産の七〇パーセントが反社会的勢力の口座に振り込まれていた。宇賀神夫婦は様々な資産が売りに出した。有価証券や不動産だけじゃない、宇賀神老婦人のジュエリーコレクションさえ。その全てが質屋の手に渡ったんだ」

  「ジュエリーコレクション……」

  「宇賀神兄妹は後悔した。じぶんたちの醜い争いのために、父が若いころから心血を注いで貯めてきた資産のほとんどを失わせてしまった。夫に献身的に寄り添ってきた母親の唯一の趣味は、高級なジュエリーを集めることだった。かれら子どもたちはその母親の趣味さえも奪い取ってしまった。兄妹は和解した。両親に謝罪し、そして宇賀神氏は満面の笑みとともにこの世を去った。それから五年の月日が流れた。愛する夫を亡くし、人生に張り合いをなくした宇賀神老婦人は、やがて認知症を発症させた。そして彼女の時間間隔は狂い始めた。さっきも言った見当識障害ってやつだ。彼女の脳内で、遺産相続問題の記憶がよみがえった。今度はそれをじぶんの遺産を焦点に生じていると考え、そして今度もまた、老婦人は資産を手放そうと模索していた。しかしこの五年で足腰を悪くした老婦人は、五年前のように自由に動き回ることはできない。そんな時に一人の猫と少年が現れた。そして、その少年は『資産』を手放す方法を提案したというわけだ」

  「でも偽物だ! このジュエリーは偽物なんでしょう。こんな価値のないものを、あのおばあさんはどうして持っているんですか」

  「価値がないだって? とんでもない。そのイミテーションには大きな価値が込められている。二人の子どもからの贖罪の意志だ」

  大津田の瞳が浩平のそれをのぞきこんだ。

  「二人の子どもは、自分たちの争いのせいで長年のコレクションを手放すことになった母親に何らかの形で慰謝の意志を示したかった。もっとも簡単なことは、それらコレクションを買い戻すことだ。しかし年若い二人にコレクションを買い戻すほどの資産はない。そこで彼らはイミテーションを母親に買い与えた。いつか出世してもっとお金を稼げるようになったら、その時こそ本物のジュエリーをプレゼントする。そう誓って、彼らは母親にイミテーションを贈ったんだ。それが二年前のことで、そのころから認知症を発症し始めていた宇賀神老婦人にはイミテーションと本物の区別などつかず、それをかつてじぶんが宝物として大切にしていたコレクションだと思い込むようになった。ご子息はきみを警察に突き出すつもりも、学校に苦情をいれるつもりもない。謝罪に訪れる必要もないとのことだ。ただ母親への想いが込められた宝石を、ぼくを介して返してくれればそれでかまわないと言ってくれた」

  「返します。返しますよ。返せばいいんでしょう。こんなもの、にせものだって最初からわかっていたら、あぁくそ!」

  大津田はストローをくわえながら、悪態をつく後輩を上目遣いでにらみつけた。

  「とりあえず君はポムの首輪にかかった巾着袋を外しなさい。宝石を入れる場所がなければ老婦人も諦めるだろう。君の家の住所なんて、首輪にタグを付ければいいじゃないか。あぁよかった。これですべての謎が解決したね。おっと忘れていた。もう一つ君に説明しなきゃいけないことがあったね」

  怒りの表情を浮かべる浩平に大津田は言った。

  「きみはこのフードコートに現れる前に、一つの大きなミスをした。そんな下らないミスをなしたせいで、きみはぼくに疑われることになったんだ。あんなくだらないミスをしなければ、ぼくは宇賀神老婦人のもとまでたどり着くこともできなかっただろうね」

  「ぼくはミスなんてしていない!」

  椅子から立ち上がり、カバンを肩にかけた浩平は爆ぜるように言った。

  「ぼくは先生にあなたのことを教えてもらってから、特別なことなど何もしていない。ミスってなんですか。ぼくがいったい、いったい何をしたっていうんですか」

  「太宰高校からここ『とよまる』までの距離はおよそ十分。それなのに、諸星センセのメールが届いてから、きみがこのフードコートに現れるまで、一時間が経っていた。さてこの五〇分の差は何を意味するのだろう。答えは簡単だ。きみは諸星センセが称賛した『ぼく』という存在を不審に思い、ぼろが出ないよう、話す内容を頭の中で整理していたんだ。そんなことをしていたから、学校からすぐ近くの『とよまる』にたどり着くまで六〇分もの時間を擁し、そしてぼくに疑いの眼を向けられることになったわけだ。ははは。くだらない男だね。小心者ゆえにしっぽを掴まれたわけだ」

「あんたは……あんたは……」

 浩平はテーブルの上に拳を叩きつけた。その衝撃で宝石たちが数ミリだけ飛び跳ねた。

「あんたは、最低だ」

「不思議だね。諸星センセから紹介されたひとたちは、必ずぼくにその罵声を浴びせてくれる。依頼されて謎を解いてやったのに、その言い草はないんじゃないかな。真実ってのはいつだって不快なもんなんだよ」



 7

 怒髪天を衝く勢いの西田浩平がフードコートを去ったあと、大津田鴨春はテーブルの上に散らばった高級ジュエリーを、心臓手術に挑む天才外科医のような手つきで拾い集めた。

「ぼくが卒業してから太宰校の偏差値は下がる一方だと聞いていたけど、まったく、あんなんで世間の荒波を乗り越えていけるのかね」

 カバンから取り出した白い手袋を装着すると、大津田は小さなビニールに個包装された宝石を取り出した。

 一つ、また一つとルーペにかざし、そのたびにこの浪人生は感慨深いため息を吐き出した。

 鑑定を終えてその全てをカバンにしまうと、大津田は立ち上がりたこ焼き屋で『デラックスたこ焼きセット(税込み七八〇円)』を注文した。自腹ではいつもメロンソーダしか買わない常連客の買い物に、星条旗バンダナの店員は目を丸くした。

「臨時収入でもあったのかい」

 店員の問いかけに大津田はニヤリと猫のような不気味な笑みを見せた。


お読みいただきありがとうございました。


ほんの一言でも構いませんので、感想などいただけると幸いです。


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[一言] …黒いヒーロー… 納得(ΦωΦ)フフフ… 面白かったです(〃∇〃)!
[良い点] 最後のオチが良かったです。 [気になる点] オチに至るまでの整合性にちょっと欠けるかなぁ、と思いました。 [一言] 楽しく読ませていただきました。 「結局、最後にダマされたのは…」的なオチ…
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