ピーター・パン 下
「美味しいでしょ、うちのメンバーから控えの子まで通って食べる人気の店なの」
「あぁ、美味いな……このピスタチオは意外だわ、おっさんの酒のつまみのアレを想像したけど、ここまで濃厚な味とは」
「ふぅん?あなた……味にうるさい人だったりする?」
もしも、誰かが今の光景を見たら驚愕物だろう。数日後に闘うチームの大将同士が、ジェラートを同じ席で対面して食べている。しかも同じ味を、余計に様々な妄想を掻き立てる絵面になっている事を神山は気にもしなければ、理解すらしていない様子で、朝倉おすすめのヴァルキュリア・クラン行きつけジェラート屋の、ピスタチオ、サワーチェリー、ジャンドゥーヤのジェラート3種盛りを味わった。
酒のつまみのイメージからかけ離れた濃厚なピスタチオ、鮮烈な酸味と甘さのサワーチェリー、そしてナッツペーストにチョコレートを混ぜたイタリア菓子のジャンドゥーヤと、この世界の甘露はそれこそフルーツでしか摂取していなかった神山にとっては、どれもこれもが美味であった。
その現在料、どこから引っ張って来た?などとはもう言わない、魔法だ加護だ異能だので大概は解決する世界だ、現世でも中々珍しい味を堪能しようと神山が、ピスタチオの盛られた部分を食べ終えてふと思い立つ。
「あぁ、そう言えば悪かったな、会見の時はうちの中井が……改めて謝らせてもらうよ」
中井の起こした会見の騒動に、改めてチームの大将として謝る神山に、朝倉はくすりと笑いながら言った。
「そう、ありがたく受け取っておくわ、私も不完全燃焼だったもの」
「いや申し訳な……不完全燃焼?」
返答が何やらおかしかった、場を乱した事よりも自分が喋る事ができなかった事が嫌だったと、そんな口ぶりに神山は言葉の意味を尋ねる。
「あの子、中井真也だっけ?天性か養殖かは別としてヒールよね?見事に場の空気を持って行ったじゃない?しかも町田はうちの薬師寺と因縁持ち、もうそうなったら私の出番が無くなったのが空気でわかったもの」
「お、おう……何というか、何だ?そんなに喋りたかったのか?」
「大将はつまり、メインイベンターじゃないの、目立って輝いてなんぼだと思わない?」
「それを言われたら……興行的にはそうだね、うん」
朝倉は残念そうに頭を大袈裟に振りながら、あの時の空気は自分を彼方へ追いやってしまって残念でならなかったと溢した。更には自分という大将と、神山の対決は興行ならばメインイベント、そのカードが観客からもう消え去っているのが残念でならず、それだから不完全燃焼なのだと説明した。
これには神山も理解できた、何しろアマチュアとは言え、プロの前座に戦った事もあるし、プロ格闘技団体のメインの重要さや興行に関してもそれなりに知っていたので、頷かざるを得なかった。
それにしてもと、神山は朝倉が意気消沈気味にジェラートを舐める様を見つめながら、数日後に闘う相手であるが為に、その肉体を分析した。
この世界の雑誌でも描かれていたが、実物は成る程美人であった。ぱっちりした目元と輪郭は日本人のそれでは無いと神山は分かった、恐らく彼女もまたハーフなりクォーターと思われた。そしてラフな姿で今まさに見て気付いた健康的な肢体、腕も足も鍛えられて中々に健康的だった。
彼女は『飛翔淑女』と呼ばれ、マスクまで被って展覧試合に出ている事から、神山は彼女がいかなる『格闘技』を体得しているか特定するなど簡単だった。
「ちょっと……なぁにもう、じろじろ見てぇ……視線熱いわよ?」
「あぁごめん、見事に鍛えてるとね……ルチャ・ドーラに憧れてるの?朝倉さんは?」
「憧れなんてものじゃないわ、私は未来のスペル・エストレージャよ」
彼女がメキシコ式プロレス『ルチャ・リブレ』をバックボーンとした闘士であると、余程の格闘技に無知な一般人でなければ分かる事であった。
その顔をマスクで隠して彩り、人間離れした空中回転と自殺行為呼ばれるド派手な高所からのダイブで観客を沸かす。
ルチャ・リブレはメキシコのプロレスだ。今でこそ、様々なプロレス団体に探せばこのスタイルを得意とする者が居るが、日本での始まりは『千の顔を持つ男』ミル・マスカラスに始まり、総合格闘技『修斗』を設立した佐山聡こと、初代タイガーマスクが有名だろう。
そんなガチとは程遠いエンターテイメント要素重視のスタイルで、この美女はチームのトップに立っているとなると、その実力はどうなのだろうかと疑いは神山の中にはあったが、それを顔には出さなかった。
「私の母はメキシコ人のルチャドーラだったわ、アメリカに渡って大団体のトップで活躍してたの、父は日本人の外資系ビジネスマンだったかしら、パーティで出会って私が生まれたわけ」
河上のような、いいところの生まれ。しかも、母親がスターならばそれはもう、二世タレントを約束された生まれであった。
「メキシコでは女子のルチャは前座でしかできないから、母はアメリカに渡って頑張ったの……私もそんな母に憧れて、ルチャを教えて貰った」
受け継がれていく力、継承。なんとも神々しいなと神山はいつの間にか彼女と二人で内地を歩きながら話を聞いていた。並んで歩いて驚かされたのは、彼女は神山とほぼ同じ身長出会った事で、歩き始めた時に神山は驚いた。彼女は、鹿目瞬やそれこそ高原泰二、先程絡んで来た召喚者の様な陰気さは感じられなかった、今までの闘士と明らかに雰囲気が違った。
「私も母のようなスーパースター、ルチャで言うスペル・エストレージャになるって」
なれるだろうさ。神山はこの陽気な美少女なら、その夢が叶うと思わされた。それだけの明るさと気力が漲っているのが言葉からもわかった。
だから、神山は彼女も自分と同じ『現世に帰る』という目的を持った人間なのだろうと、錯覚してしまったのである。母と同じスターとなる為に、その為に戦っているのだろうと。
「じゃあ、あんたも現世に帰る為闘士に?」
だから聞いた、先程絡んで来た闘士が『聞くな』と言った事を。それを聞いた瞬間、驚いたようにこちらを見て……朝倉海莉はしまったと顔を歪めた。
「あ、あーーごめんなさい、そんなふうに思うわよね、母と同じスターにって言葉……うん、でも違うのよね」
勘違いさせてしまったと、河川を渡す石橋に差し掛かったところで少し早歩きになって朝倉は神山の前に立ち振り向いた。
「私さ、一度は腐って諦めた人間なの……右膝の前十字靭帯と半月板をやっちゃって……」
「え!?」
朝倉の事実に神山は度肝を抜かれた。
膝前十字靭帯……それは、スポーツ然り格闘家然り、身体を動かす競技を行う者にとって、重要な部位。膝の上下の骨を安定させ、膝を捻る動作をコントロールする靱帯である。
この部位を損傷、断裂する事は、選手生命の危機を意味する。あらゆるスポーツのトッププロ達も、この怪我に泣かされ引退した者も少なくない。再生手術を施そうと、断裂時のトラウマや恐怖から同じ動きが不可能となり、実力を落とす選手は多い。
「母は慰めてくれたし、父も心配するなと言ってくれた、再生手術は失敗して私は……現世で死んだように生きてたの……そしてこの地に召喚されて、加護と異能を与えられた私の膝は、怪我などしていなかったとばかりに完治したわ」
そんな選手生命を、この世界の加護と異能が再び甦らせてくれたのだと、右の膝小僧を指差しながら彼女は笑った。
「私はこれを、神様が与えてくれたチャンスと思う事にした、現世で諦めた夢を叶える為のね?私はこの世界でルチャを広めて、スーパースターとして君臨する、その為の足がかり、私にとって展覧試合に参加する理由はそれよ」
朝倉にとってこの世界は、神が与えた好機であると宣った。靭帯断裂による挫折、死んだような人生を生きていた彼女は、この馬鹿げた世界の馬鹿げた魔法の力で再び飛翔の羽を取り戻す事ができた。故に、この世界で旗を上げるのが自分の夢であり、筋であると神山に言ったのだ。
「神山真奈都、知ってるかしら?この世界で優性召喚者として力をもらえた子は、みんなみんな……現世で挫折や失敗をして涙を流した子ばかりなのよ」
「ふうん……」
橋の欄干に腕を乗せて体を預け、川の流れを眺めて相槌を打つ神山。成る程合点がいくなと神山は納得した、鹿目の言ってた主役だなんだの話、そして高原の苛立ち……現世で満たされた人間が唾棄されているのは、当て馬とする為なのかと。
「だから……お願い神山くん、私達から奪わないで、やり直すチャンス、ハッピーエンドを取り上げないで?」
「俺に……負けろと?」
「そうしてくれたら私……この世界で貴方の人生を保証してあげるわ?どう?」
ただでさえ肉感的で、グラマラスな朝倉が、赤くなった顔で神山に向けて前屈しながらシャツの胸元をずらして谷間を見せつける。誘惑による八百長の提案に神山は目を細め、笑みを向けて言った。
「嘘つけ、八百長無しでもお前に勝てるって顔に書いてあるぞ朝倉さん?」
「あらばれた?でも乗ってくれたらいい思いさせてあげたのは事実よ、貴方いいルチャドールになれそうだもの」
八百長無しでも勝てる気で居るだろうがと、神山はそんな事で乗るかよと呆れ笑いで真意を見抜くと、朝倉は笑顔のままで残念と溜息を吐いた。この人、本当に面白いなと神山は、恐らく人生において初めて女性への興味を持った。それはそれとして、八百長と色仕掛けには相応で返してやると、靄は熱に変わったのだった。
神山は、右手人差し指を立てて、それを朝倉に見せつけた。
「あら?1分で倒すって宣言?」
「惜しい、一撃だ……展覧試合でお前は一撃で倒してやる、痛みも感じぬ間に、あんたは闘技場に倒れるんだ」
神山は宣言した、此度の試合でお前は一撃で倒してやると。それ以上、もはや敵同士だと言葉は交わさないと神山は、朝倉に背を向けて外壁への出入り口へと向かった。
その背を見つめ続けた朝倉は、まるで限界まで押し込んだバネのように膝を曲げて、石橋を蹴り飛翔した。無機質な街頭よりも高く、建物よりも高く、無重力下のように月面宙返りを決めた朝倉は着地すると、酷く恐ろしい笑顔で小さくなった神山の背に呟いた。
「ブラーヴォ、すっごい熱い事言うわね神山真奈都……私が勝ったその時は……本当に首輪でもつけて私の物にしたいわね」
そうして彼女もまた背を向けて、自らの居場所に変える事にした。朝倉が立っていた石橋に、くっきりと彼女の足跡の凹みとひびが出来上がっていた。