帰るために……
腹を殴られる。
その痛みを知る者は世界中に居るだろう、人生の中で理不尽な暴力に晒されて、その痛みと呼吸が止まる感覚を体験する者の方が大半だ。
ボディブローとは、それだけ恐ろしいのだ。頭を殴られ意識を失うのと、腹を殴られて呻くのは訳が違う。跡を引く痛みと呼吸の停止の息苦しさ、更には吐き気というのは精神面でも受けた者を責め立てる。
格闘技の試合でも、ボディブローからダウンを喫して立つも、すぐさま追撃されて倒れ審判が止める事もある。いかに戦う意志を持っても、身体が立ち上がる事を決して許さない……それがボディブローの恐ろしさ。
ボディブローは『心を破壊する攻撃』なのだ。
「あが……がぁあは!うぐぅ……」
「マナト!?嘘……!?」
遠巻きに見る事しかできなかったマリスは戦慄した、神山真奈都が、自身のチームの総大将が両膝をついて屈している!こんな姿は初めてで、驚くしかなかった。
「迂闊だったな神山、昔の俺ならともかく、今の俺の一撃は姫より賜った加護と祝福に強化されている……ヘビー級ハードパンチャーですら今の俺の一撃には及ばない……肋骨は折れて内臓に刺さり……呼吸は出来なくなる」
「あっ……あうっ!……」
構えを解いた高原の前で懺悔するかの如く埋めき膝を屈した神山に、TEAM PRIDEの面々も驚かざるを得なかった。大将の屈する様を見せられた全員、思わず動きが止まりかける。
しかしーー。
「引け神山、お前の力では所詮展覧試合ーー」
その瞬間、高原の顎が跳ね上がった。立ち上がった神山の左アッパーが、高原の顎を跳ね上げたのだ。そして、まるでダメージなどないとばかりに神山が構えてステップを刻み出し。
「ば、馬鹿な!?」
「しいっ!!」
そのまま距離を詰め、神山の追撃が始まった。響き渡る鈍い打撃音が、高原の顔面を、腹を、太ももを拳が、蹴りが、肘が襲いかかる。血が飛び散り床を濡らし、やがて左の叩きつける様なフックが、高原を床に叩き伏せた。
「おお……ああ……」
「ちょ、ちょっとちょっと……それは無いよね?」
町田を止めていた魔将、篠原もそう呟いてに止まった。というより、全員が戦う事をやめて神山と高原の戦いに目を釘付けにされたというべきか。
「な、めるなぁ!!」
叩き伏せらた高原がバネの様に立ち上がり、神山の顔面に拳を叩き込む。後退してタタラを踏む神山の鼻から紅い線が宙を彩る。しかしーー。
「あ あ ああ ぁぁあ!!」
「いい加減にしろ神山ぁ!!」
神山は倒れない、呻きのような叫びをあげて、返す刃と左のミドルを叩き込み、高原も左のオーバーフックで迎え撃つ。脛が脇腹、拳がこめかみにめり込み、それでも二人は止まらず、足を止めての撃ち合いが始まった。
骨が、肉が潰れ砕ける音が響く、紅い絨毯を余計に赤く染めて床石に血溜まりが出来上がるほどの殴り合い。それは、現世でもこの世界でも、殺しに手を染めたTEAM PRIDEのメンバー達すらも、酷いと思わせる死闘であった。
「い、いかん!止めろ!!おい、力を貸せ!!」
「承知した」
これ以上はダメだと、剣聖御剣がはっと呆けから戻って来て、河上に頼んだ。河上も言われてこれは流石にと愛刀を納め、未だに殴り合う二人に走った。
『神山くん、おい、神山くん!!』
『はっ!?』
気が付けば、目の前の景色に神山は左右を向いた。見知った空間、パイプ椅子に、乱雑に置かれたバッグ、救急セットにミット……両の手には青のボクシンググローブがはめられていた。
『余程緊張してるんか、話も聞いてなかったみたいだね』
『高吉さん……えっと……』
神山は声をかけて来た大人を知っていた、高吉さんは自分の通うジムの会長だ、そして今自分は……試合直前である事を理解する。響き渡る声援、スタッフの慌ただしさがなんとも懐かしい。
『まぁ気負うわな、三度目どころか四度目の正直……これで勝てなかったら、もう神童に勝てるやつは日本に居らんで』
神童、それを聞いて神山は自覚した。
これは夢だ、マッチメイクなんてされてない願望の映像だと。しかし……。
『そうっすね……じゃあ、勝ってきますよ、俺……』
『おう、お前が土つけたれや、お前しかやれんど神山くん!!』
願いを受けて立ち上がる、嗚呼視界が白く染まる、夢が終わる、せめてリングまでは歩かせてくれ、もう少しだけ……。しかし夢は覚めるわけで、神山の視界は白に染まった。
神山が目を開ければ、見知った天井がそこにはあった。マリス邸宅の自室で、ブランケットを掛けられていた。
そのまま上体を起こして、神山は思い出す。そして明らかに折れただろう肋骨やら、顔面にある筈の痛みが無い事に、余計理解を苦しませた。
神山が起きたのを察したかのように自室の扉が開き、現れたのはマリスだった。マリスは神山が起きたと見て理解して、早足に近づいて膝を折り、有無を言わさず抱きしめた。
「よかった、傷は治ったけど起きないから……心配したのよマナト」
神山は、抱きしめられてもその腕を彼女に回して決して抱き寄せはしなかった。抱き寄せてしまえば、この馬鹿げた世界にしがみつきそうで、だから決して抱き返しはしなかった。
そんな心情を何となく察したのか、マリスはゆっくり離れて哀しげな顔を見せるも、すぐに表情を切り替えて話を続けた。
「……今回の件、不問になったわ……あちらは実行委員会の暴走と相殺する形を取るって」
「そうっすか……すんません、あいつの姿見たら……色々もう吹き出ちゃって」
自分の暴走の果て、此度の実行委員会による襲撃はお互いに話をしないという事になったらしい。あの時、自分を抑えていれば、河上あたりが詰めに詰めてこちらの有益な方向に持っていけたかもしれないのに、神山はそれを悉くひっくり返したのだ。
自分でももう、いつの間にか一杯一杯だったのかもしれない。馬鹿げた世界に引き摺り込まれ、戦う日々に。いくら自分が格闘家の端くれであろうとも、この世界には自分の居場所も欲しい物も、決して無いと最初から理解している神山は、その元凶の姿を見ていよいよ爆発したのだ。
神山は、高原と戦った時に出来たはずの顔やら腹、肉体の傷を探そうとしたがそれは見つからなかった。そんなものは魔法薬や治癒魔法で簡単に治せてしまうのだ、つまりは……闘いの証全てが無くなっているのと同じだ。
傷も、痛みも、熱も……神山にとっては全てが思い出だ。久々に現世で知った相手との戦いも、真白に染められて消えたようで、神山は握り拳に力が入る。
「マリスさん……確か、展覧試合の優勝したら、願いを叶えるって言われてましたよね」
神山は確認する、展覧試合優勝の姫から賜る褒美、それは願いを叶える事であると。それを聞いたマリスは、言葉に少し詰まりつつも改めての説明を話した。
「えぇ、ただ……叶えれる願いになるわ、富や名声、領地……新たな加護や祝福に武器と……けど、今の今まで元の世界へ帰りたいと願った人は居ないの……」
神山はそれを聞いて、成る程と鼻で笑った。恐らく……帰る術は無いと、願ったら言われるのが目に見えた。何しろこの馬鹿げた世界はとても都合が良くて、都合が悪い。
全てが優性召喚者の為に作られて、劣性召喚者を踏み躙るシステムができあがり、あるべき根本が秘匿されたつぎはぎの世界だ。
「マリスさん……ちょっと話があるんすけど、聞いてくれますか?」
マリスにそう言った神山の双眸に火は宿る。熱を帯びた瞳を前にマリスは、恐れと同じく火に入る虫の如く惹かれて、話を聞くしかなかったのだった。
シダト・キャッスル……。
此度の姫襲撃を経て、四聖達は集まっていた。
「いやーー……ここまで強いとは思わなかったなぁ、魔導器も魔法薬も無しに魔法をかき消すなんてあるぅ?いくら初級魔法でも、熟練度マックスなんだけど」
開口一番、魔性篠宮倉人は両手を後頭部に回して椅子を揺らしバランスを取りながらそう言った。ショックはあるが、まるで玩具を与えられたかの様に声色は明るい、それに対して巨躯の男は表情を作らず真顔で呟く。
「そう吐かすが貴様は勝てるだろうよ、しかしまぁ……あんな矮躯が最悪の闘士扱いとは……俺が居た業界ではまず門前払いだな、相手にもならん」
「あはっ、キミの行くはずだった場所はそれこそ才能の塊だらけなんでしょ盾王、明石雷電くん?何だっけ……大学横綱なんだろ?キミはさ?」
「昔の話だ、御剣はどうだ?切り結んだ感想は」
盾王、そして魔将の話が剣聖、御剣玉鋼に振られた。御剣は腕を組み首を横に振る。
「勝てない、僕も剣の道に居た人間だ、河上静太郎という名前が絶望であり剣術界に轟く名前なのか知っている……加護や祝福があろうと剣で河上に勝つ事は……不可能だ」
剣聖から本気の敗北宣言に、二人は驚いた、リップサービスなどでは無い、本当にそうだと声色で分かってしまった。それ程なのか、河上静太郎はと二人して真顔になる中……。
「剣でなければ勝てるのだろう、御剣?」
「まぁ……な」
拳神、高原泰二はそう尋ねれば、認めたくないがと苦しげに頷いた。
「なーんだ、じゃあ次来ても心配ないじゃん、魔法ばんばか使って近寄らせなければ勝てるなんて楽だねー……高原は随分やられたみたいだけど」
心配して損したと笑う篠宮は、高原のやられっぷりを思い出して更にニマニマ笑う。これに高原はため息を吐いて語り出した。
「甘く見ていたよ、そして忘れていた……神山真奈都は、現世でも狂人と呼ばれるくらいに強く……完膚なきまで俺や他に名のあったアマチュアの奴らを叩きのめした実力者だったんだ……」
高原は、右の頬、顎関節部分を右手で労わる様に摩りながらそう呟く。もう怪我は魔法薬なり治癒魔法で治したはずが、まだ痛いのかと不思議に思いながら、篠原は更に尋ねる。
「ふーん、そんなに強いんだ……そのあたり僕知らないんだよね、何しろ現世じゃただの学生だったし……テレビに出てたの?」
それ程有名なのかと部外者で全く知らぬと篠宮の問いかけに答えたのは、高原でなく明石であった。
「知らんのか、BOFユースの戦国時代、神童に狙撃手、黒船、剛腕……そして狂人なんてテレビで取材や特番組まれたくらいには有名だぞ?」
「うっわーー……僕の一番嫌いなやつで、チヤホヤされてた未来ある格闘家の卵でしょ?」
「そのうちの剛腕は高原なんだぞ?」
「うん、だから嫌い……生まれ持った才能があって、人生楽勝組……はっきり言えばキミも御剣も嫌いだよ?」
篠宮のその笑みから、やがては闇が漏れ出す様に三人は呆れた。それでも高原は続けた、物悲しそうな諦観がこもった声で。
「才能があっても……やがては更なる才能を前に潰されるのがオチだ……俺からすればそんな物無ければ良かったと……思ってるよ」
「持つ者の悩みかぁ……ふふ、余計にイラっと来たよ、けどその顔最高、劣勢落ちした現世でイキってた輩見てるみたいでさ」
悦の蜜に浸るように篠宮は酷い笑みを見せて言った。それに対し高原は、既に治った顔面の、口元を親指でなぞり顔を顰めた。そして一瞬、自らの顎が砕けた様や、頭蓋骨のレントゲンがフラッシュバックし、ズキリと確かな疼きを感じたのだった。
「勝ち抜こうが途中で負けようが……借りは返さないといかんみたいだな、神山……」