第2話 その1
夏、プール、海、とくれば、靖成の脳裏に浮かぶことは1つしかない。
「やっぱり、水着だよねえ…」
週刊紙のグラビアを見ながら、Tシャツにトランクス姿で古びた畳に仰向けになる、篠目靖成35歳独身。職業・兼業陰陽師。都内の昭和なアパートに独り暮らしだ。不動産会社との賃貸契約書には「配偶者無し」「同居人無し」と記載している。一応。
だって「式神◯名」という欄は、無いからだ。
「靖成…なんかその、さ。中途半端に開放的な格好するならいっそ脱げ。全裸になれ」
式神のユキは、靖成に背を向けて、正座をして洗濯物を畳んでいるが、靖成のくたっとした姿と、くたっとしたトランクスを一瞥し、溜め息をついた。15、6才の見た目と反して、所帯染みた哀愁が背中から漂っている式神もレアだろう。
浅葱鼠地に雪と梅柄の着物、同柄の羽織。額から伸びる2本の角と、黒く腰まである長髪。それを除けば、ぱっちりとした猫目と愛嬌のあるあひる口は、若手アイドルにもひけをとらないイケメンだ。まあテレビに映らないし、普通の人にも見えないんだけど。
「ユキちゃんはさあ、暑くないの?」
靖成が、よっこらせと横向きになり、右手で頭を支え、左手でグラビアをぺらぺらめくりながら言う。前の住人が置いていった銀色多めのレトロな扇風機は、かろうじてふよふよと温風循環機として機能している。
「そういう感覚は無いんだってば。何年言えばわかるんだ?」
ユキが扇風機の向きを変えた。わあー、と靖成が悲しそうな声を出したが、それでも起き上がろうとはしない。
「まったくさあ。せっかく梅雨が明けた週末だっていうのに、ゴロゴロしやがって勿体ねえ…」
ぶつぶつとユキが畳み終わった洗濯物を手に立ち上がると、靖成が一点を見据えて硬直している。
「靖成?どうした?なんかいたか」
靖成はそれほど色々見えるわけではない。靖成に見えるならユキにも見えるはずだが、変な気配は感じられない。
首を傾げたユキに向かって、靖成が静かに問いかける。
「ユキちゃん…今日第何土曜日?」
「ん?第3だな」
ユキがどこかの社名が入ったカレンダーを見るのと、靖成が起き上がるのはほぼ同時だった。
「…やべっ!京都…!!」
うわっ、とユキも叫ぶ。
「京都での定例会…今日か?!」
「そうそうそう。ユキちゃん、どうしよ?」
時計は11時半を指している。いつも通りなら、12時から開始のはずだ。靖成はトランクス姿で何故か正座した。畳に、冷や汗なのか中年の汗なのかわからないものが滴り落ちる。
「…とりあえず着替えろ!!」
ユキはそう叫ぶと、流麗な手つきで袂から巻物状の和紙を取り出し、両手で一気に左右に広げて、すらすらと指先で巻物一杯に道を描いた。靖成が汗臭いシャツを着替えGパンを履いたところで、ユキが和紙を両手でぱちんと挟む。
「行くぞ!」
一呼吸おいたときには、二人は400キロ以上離れた京都の神社の境内にいた。滞りなく定例会での報告業務をこなし帰路についたが、行きはよいよい帰りは怖い、である。
「ユキちゃん…道間違えてるよ…」
「うるせえ!!」
巻物の「折り方」が悪かったのか、夜の富士樹海で一時下車してしまい、ユキの深い溜め息とともに靖成がアパートに帰宅したのは、真夜中の2時であった。
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梅雨の湿気と夏の熱気はOLの敵だ。
橋口賀奈枝は、通勤電車で乱れたゆるゆるな巻き髪と崩れた化粧を直すため、少し早めに出勤するようにしている。夏物のブラウスとグレーのタイトスカートは見た目は涼しげだが、この暑さなら何でも同じだ。
化粧を直して、ちらほらと出勤してきた社員に挨拶しながら席につくと、斜め上から紙袋を出された。
「はい、お土産です」
靖成だ。髪はかろうじて整っているが、よれた上着を腕にかけている姿はいつもと変わらない。初対面なら、糸目なのか眠いのかも判別不可能だろう。
賀奈枝は、姉から靖成のどこがいいのかと聞かれ、もさっとヨレッとしてると言ったのは正しい表現だったなと思ったが、恋愛対象としての是否には目を瞑ることにした。
靖成に渡された袋を見ると、京都のお菓子が1箱入っている。本来なら「こんなもん自分で配りなさいよ」と言いたいところだが、朝礼が終わるとすぐ外出してしまうことが多い靖成の場合は仕方ないし、前任者からお菓子配りも引き継ぎされたので、頼む方は今更拒否されても困るだろう。そして話す機会が増えたことに、ちょっとうきうきしている賀奈枝である。
「毎月、京都に行ってるんですか?」
賀奈枝はざっと個数を確認しながら、外出準備をしている靖成に話しかけた。さりげなさを装っているが、ちょっとピンクのオーラが濃くなり、靖成は1歩離れた。
「帰省ですか?」
「まあそんなもんです」
ユキちゃんの、と心の中で靖成は付け足し、あえて賀奈枝の方は見ない。パフェを一緒に食べてからも付かず離れず同僚として接しているが、ちょっと目が合ったときにぶわっと賀奈枝のオーラが恋愛ドラマのエフェクトのようになった時があるので、靖成はなるべく下を向いて話すようにしている。営業マンとしてどうなのかと問われたら返答に困るが、そこはそれ、だ。
賀奈枝は、夏に負けないくらいに自然で爽やかな香りをさせている。不自然な自然さを身にまとってはいるが、本人は自然体なのだ。夏の七不思議を刊行する機会があれば列挙したい。
「夏休みも帰られるなら、忙しいですね」
「ああ、実家は近いんでわざわざ帰りません」
え?と、菓子の入っていた紙袋を畳む賀奈枝の手が止まった。
「…どうしました?」
靖成は賀奈枝の様子に思わず質問してしまった。じっ、と見上げる賀奈枝は困惑顔で、オーラがちょっと薄くなる。これは初めてのパターンだ。
「京都へは、帰省ですよね?実家は近い?」
「ああ…」
そこか、と靖成は悩んだ。確かに誤解を招く言い方であったが、そもそも何故、賀奈枝はそんなことに拘るのかが靖成にはわからなかった。
「京都は、えーと。家業のお使いで顔を出すことになってるんです。実家は都内です」
「えっ…」
「あ、神社じゃないですけど。会社帰りに寄れるほどには近いです。両親共にそこそこ忙しいんで、たまに一緒に飯食うくらいですかね…」
篠目家のお祓い記録をまとめて、月報として関東本部に提出するまでがセットであるが、そこは省略する。ちなみにユキはしょっちゅう帰って、靖成の母からレシピを教えてもらっているらしい。ゆうべはボルシチだった。
しかし、そんな当たり障りのない世間話を聞いた賀奈枝は絶句し、数秒ののちに、そうなんですね…と力無く声を発した。スープの冷めない距離?と、誰に問うでもなく何故か語尾上がりで呟いた賀奈枝のオーラは、力無く透過処理されている。
「橋口さんも、ボルシチ好きなんですか?」
靖成は思わず聞いてしまったが、賀奈枝は思いっきり眉間に皺を寄せ、はあ?とヤンキーばりなリアクションを返してきた。怖い。
やっぱり女性は、夏の七不思議の1つである。