第1話 その3
終業時間。賀奈枝はどうやら、気づかぬままに退社していった。鞄の中にこっそり靖成がしのばせた、お祓いの札に。
「というわけで、助けてください、ユキ様」
昭和のアパートの1室で、狩衣姿の靖成が、式神のユキに頭を下げている。シュールだ。
「自分でやれば?」
ユキの一瞥に、ええー、と靖成が半泣きの顔になり、烏帽子がずれたのでユキはそっと直してやる。
「いや…絶対橋口さん、ユキちゃんのこと誤解したから…嫉妬にブーストかかったらユキちゃんもヤバいでしょ?」
別に、とユキはそっけない。
「それより、さっさと行くぞ、仕事」
「待って…!」
靖成が慌ててユキの羽織を掴む。一瞬あとには、夜の高層ビルの屋上だ。今日は夕方まで降っていたが、夜になり止んだところで、屋上はまだ濡れている。
「ベタだなあ…」
「ユキちゃん、それを言っちゃいけないよー」
誰もいない屋上を見渡すと、いままさに柵を乗り越えようとしているスーツ姿の男性の姿がある。
「…ますますベタだな」
「作為的なことは、ベタであるほどに成功率が上がるんだよ」
「そういうところだけサラリーマンぽいな、靖成」
「俺だって、ユキちゃんの力だけで会社に入ったわけじゃあないよ」
さて、と、靖成は狩衣の裾を翻し、柵に飛び乗った。欄干に足をかけるイメージである。勿論、ユキが支えているが、ユキは普通の人には見えないので、男性はとにかく驚いた。驚いて本当に落ちそうになった。
あぶなー!と、靖成は男性の腕をつかむ。と、また覚えのあるオーラを感じた。
「橋口さん?」
「え?なんで妻の旧姓を?」
違った。いや、違っていないけどちょっとまずかった。しかしこれで男性の身元がわかる。木内雅史は賀奈枝の姉のだんならしい。靖成はなんとなく誤魔化し、本題に入る。
「えー。木内?さん?」
はい、と雅史が返事をした。靖成になんとなく上司感があるのだろうか、初対面のコスプレ男性相手に素直な返事である。
「営業成績があがらず…とか、営業先でトラブル続きで、上司に責められ、とか、とにかくちょっと嫌になった感じですよね」
はい、と雅史が懺悔をしにきた憐れな羊のようにうなだれている。
「僕…結婚したばかりで、新婚だしもっと早く帰ってイチャイチャしたいのに、成績上がらないから空気読むとそんなこと無理だし、営業だから取引先が帰っちゃうとやることないし」
「そりゃそうだ」
うん、と靖成は頷く。
「なんか辛くなっちゃって…」
「うん…わかるよ…」
人生相談になっている。やきもきしたユキが叫んだ。
「靖成!それよりさっさと祓えよ!」
「えー、待ってよユキちゃん…」
靖成は困って斜め上に顔を向けたが、ユキの姿はやっぱり雅史には見えない。しかし靖成には、黒い影が雅史を先ほどから突き落としたくてうずうずしてるのが見えている。
「ユキちゃん?」
「あ、いやこちらの話で…」
そういうと、靖成はやっと懐から紙を取り出した。人型の、紙。それをふわりと空に放ち、呪文を唱えて印を結ぶ。人型から何やら光がするっと出るやいなや、それは異形のものに姿を変えた。白鳥より少し大きい、鳥のようだ。
「お願いします…」
ユキが静かに声をかけると、鳥は羽ばたき黒い影を包むように襲う。しばしの攻防ははっきりは見えないが、局地的に風が渦巻く夜空に、たまに鳥の形や静電気のようなものが走る。雅史は子供みたいなわくわくした顔をしていた。思ったより元気らしい。
「映画みたい…陰陽師が出てくるやつ。最近ネット配信で見た」
「ネットは便利でいいですねえ…若い世代にも説明いらずで楽です」
意外と早くかたがつき、影は霧散する。雅史は当然のことながら靖成に詳細を聞くべく詰め寄った。
「えーと…今日のこれは、本部の知り合いの知り合いからです。パワハラで自殺騒ぎになったらヤバいから、どうにかしてくれ、と。まあ仕事の形態をまず見直そうと思わないあたりが、どうなんだと思わないでもないですが…。そして怨念には細かいニュアンスは伝わらない。自殺防止より、問題の根本的抹消…つまりあなたの自殺遂行を後押ししようとしてた訳です、多分」
本部とは、靖成が所属する陰陽師の元締めである。
「…じゃあ、誰か社内のやつが、仕事を妨害していたと?」
「いや~、違うな。あなたは単に営業職に向いてないと思うんですよねえ…」
え?と、ユキが振り向くと、そこに見えたのは、靖成の悲しそうな顔だ。
「奥さんですよ」
「…麻理恵?」
こくりと靖成が頷く。しかし、麻理恵が雅史を殺そうとしたわけではない、と言う。
「奥さんは、あなたが辛そうにしてるのを見て、楽になって欲しかったんです。楽に、というのは勿論、転職して、という意味だけど、そこに社内の悪い空気とあなたの罪悪感がマッチしてしまった」
雅史は、その場に座り込んで静かに聞いている。靖成も、しゃがんで雅史と目線を同じくした。
「楽になって、いいんですよ。家族と社会に責任を持つのは大人として大事なことだ。でも、義務感だけで生きる必要はない」
雅史が、躊躇いながらゆっくり頷くと、靖成は笑った。
「余計なことに惑わされず、自分と、大事な人の声をきちんと聞いてあげてくださいね」
それは、陰陽師というよりは、人の良い上司の表情だった。