第5話 その4
ちらっと、賀奈枝が靖成を見上げる。
靖成は知らないふりをして目を逸らしたが、そこで視界に入るのは、巨大な水槽と薄暗い館内でいちゃつく方々。
友達以上なんとか未満なら、そこそこな距離を取り初々しい雰囲気を醸し出す二人でも微笑ましい。しかし今日はカップルデーだ。水族館デートで距離を縮めなくても既に皆べたっとくっついている。うん、皆近いよ。
これは、どうしたものか。
「えーと」
さて、と立ち止まったところで、手になにか触れた。柔らかい、細い。
おお…。靖成が硬直していると、手指を勝手に動かされた。ユキである。されるがままに賀奈枝の手を取り、最後は自分で握った。
なんか、恥ずかしい。あれだよアレ。幼稚園とか小学校で「はい隣の子と手を繋いでー」と言われて自分だけドキドキしちゃう過去がフラッシュバックする靖成である。
「ごゆっくりー」
ユキが明るく言って姿を消し、靖成も歩きだす。
これは本当に、どうしたものか。
「……橋口さん」
「名前で」
「はい?」
「名前で、呼んでほしいです」
なまえ…
そう。ユキも、父も母も、風悟すら賀奈枝のことを名前で呼んでいる。賀奈枝ちゃん、とか、賀奈枝さん、とか。
「私も、やっくんて呼びますから」
「それは嫌です」
靖成はぴしゃりという。
「えーと…」
付き合い始めの距離感というのは、悩む。迷う。どうしよう、と悩んで、はたと気付いた。
きちんと、好きって言われたんだっけ。
「えーと?」
和装好きとは言われたが違うな。靖成が悩んでいるのを違う意味でとらえた賀奈枝が、明るく言う。
「賀奈枝、で良いので」
「いや、それはちょっと」
反射的に靖成は拒否してしまい(慣れてないから)、んん?と賀奈枝の目付きがちょっと鋭くなる。怖い。
そのまま一歩離れようとしたが、がっちりと手を握られており逃れられない。そう、これはカップル繋ぎではなく、駄々をこねる幼児を保護者が威嚇しながらホールドする感じに似ている。
「じゃあ、賀奈枝、さん。で」
諦めた靖成がぼそっと言うのを聞き、賀奈枝が笑顔になった。
「じゃあ私も、やっくん、で」
先ほど靖成が拒否した話はどこへいったのだろうか(賀奈枝は天然である)。
何はともあれ、カップル+水族館=デート。
あまり魚に興味がない靖成だが、賀奈枝に興味はある。そういえば、元カレと遊園地に行ったとかいってたな、と、変なことを思い出している。
「やっくん」
早速呼ばれた。しかし振り向けない。こう考えると、35歳で母や身内が「君づけ」で呼ぶ声に咄嗟に反応してしまう刷り込みの深さは恐ろしい。
「やっくん」
賀奈枝の語気が強くなる。ああ、なんかやばいかも。
「篠目さん」
「はい」
こちらはすぐ返事がでた。条件反射のすごさを体感した靖成である。
振り向いたら、賀奈枝の顔が青白いのが見えた。水槽の色が反射しているのであるが、怖い。
そして、久しぶりに見たどす黒いオーラ。
「お、おう…」
なんということでしょう。
先ほどまで爽やかな清流の世界に包まれていた館内が、深海のようにダークではありませんか。
ん?
「篠目さん、やっぱり私と付き合うのが嫌なら、はっきり言って下さい」
「いや、えと」
嫌じゃない。そこは否定したい。だが不穏な空気が気になりすぎる。
「いやというか、そんな怖がるみたいな」
はい。怖いです。
そう、館内全体が。
「橋口さん、あのですね。いまちょっと館内に何か不穏な感じがありましてあのその」
靖成が早口になるくらい慌てたところで、離れた場所から悲鳴があがった。
「あ、やべっ…」
駆け出そうとした靖成だが、視線を感じ立ち止まる。悪い空気に影響うけて…というよりも不機嫌な賀奈枝を置いていくわけにはいかない。
「…付いてきて下さい」
手を握り直した。うわ、指ほっそ。いやちがう。靖成も男子ではあるので、あまり力をいれすぎないよう賀奈枝と手を繋ぎ、悲鳴がしたほうにむかう。
小走りだが、賀奈枝も一生懸命付いてきており、体を動かしたはずみでちょっと毒気が抜けたようである。
「篠目さん、なにかあったんでしょうか」
おお、戻った。というか、黒いオーラが消えた。
「そうですねえ、愛憎うずまくサスペンスが起こりそう…という感じですかね」
「火曜日とか土曜日にやっていた、あんなのですか。湯けむりなんとか」
なぜそこ限定なんだ。
「父がよく見ていました」
どこの親父も同じである。いや、まあ当時子供だった自分もしっかり見ましたけど。
「ここは水族館なので湯けむりはありませんが、カップルの中には上手くいってない方々もいらっしゃるようで、しかもわりとたくさん」
「はあ」
「仕事じゃないですが、ちょっと放置すると影響がまわりにも出るので…」
はあ、と賀奈枝はのんびり言う。いつもの調子に戻っている、良かった。
「とにかく退治しにいくということですね!」
しかもなんかワクワクしだしたよ。いや可愛いんだけどさ。
水槽に沿うようカーブした通路を抜けると、イルカショーをするホールに着いた。他の人には見えないだろうが、イルカが泳ぐプールのまわりだけ空気がぴりっとしている。水浸しの客席には、誰もいない。
「おー、靖成!なんだよゆっくりしていて良かったのに」
快活に言うのは、ユキである。
ふよふよ浮かびながら結界をはっているのだ。結界の中にいるのはおじさん、もとい、父・圭介。
「あー、そう言えばお父さん、いたんだっけ」
「もう終わるよ。全く圭介も難儀だよな。デートしてもほとんど何か起きるからなー」
「うーん。そう言えばそうだった。で、お母さんは?」
あそこ、とユキが指さすのは、プールを横から見られる中2階通路。そこにいる母聡子は楽しそうだ。
「『楽しいはずの水族館カップルデーで起きた悲劇』とか言ってた」
「ああもう…お母さんのタイトルの付け方がちょっと古いんだよなあ…」
ためいきをつく靖成だが、手を引っ張られて振り向く。おお、そう言えば賀奈枝がいたんだった。簡単に状況を説明する。
「えーと、じゃあうまくいってないカップルがお相手に何か殺意を抱いたところ、思ったよりうまくいってないカップルたちが他にもいて」
「増幅した黒いオーラが敏感な魚…イルカたちやプールの水に干渉して、客席に降りかかったあたりで父が気づいて止めたらしいです」
水に溶けた負のオーラを、父がなだめ終わったところらしい。
「父は腕もいいから、イレギュラー案件も嬉々として片付けるんですよね。で、母がそれをドラマのように楽しみながら実況検分をして、あとから祈祷代を請求する感じです」
靖成の説明に、はあ、と賀奈枝は間抜けな反応だ。
「…これが陰陽師夫婦なんですか」
「いや違います。多分両親だけです」
いえいえ、と賀奈枝は笑顔になった。参考になりました、と聞こえたのは気のせいだろうか?
すでに負のオーラは消え失せて、館内には幸せな空気が漂っていた。
まだ続きます。




