第4話 その2
鼠は増える。それこそ、鼠算式に。
寝起きの悪い靖成は、言い方を変えると寝てしまえばなかなか起きないということなので、実のところそれほど天井裏にいる鼠の足音には悩んでいない。
しかしユキは、気になって仕方ないのだ。
(寝不足という概念は式神にはないんだけれども)
「だからさあ、いい加減に結婚しろって。で、佐々木さんところのファミリー用マンション借りて嫁さんと仲良く住んで早く子供作れ。な?」
あからさまに誘導しようとするユキに対し、靖成は冷静だ。
「ユキちゃん、論旨はずらしちゃいけないよねえ」
ちっ、とユキは舌打ちをしながら、靖成に朝食のコーヒーを出す。コーヒーだけ。
「なにこれ」
「コーヒーだよ」
「パンは?」
「ねえよ」
え?と眉間に皺を寄せ、ユキとは違って悪人面を作る靖成に、ユキは無表情で返事をする。
「食べたから。鼠が」
おおお…、とさすがに靖成も項垂れた。彼らは人がいない時を見計らい天井裏から降りてきて、そしらぬふりして食べ物を持っていくのだ。
「な?だから嫁もらえよ。賀奈枝ちゃん、すっかりさっちゃんと仲良くなったみたいじゃねえか」
さっちゃんとは、靖成の母聡子のことである。
「だからそれは、俺の母親だからって理由じゃないわけなんだよねえ」
「ならさっさとコクればいいじゃん」
平安生まれなわりには随分いまどきなことを言うな、と思いつつも靖成は口には出さない。
「大人の駆け引きがわかってないねえ、ユキちゃんは」
「俺はお前より何百年か長く存在してるぞ」
会話の矛盾はさておき。ごちそうさま、と、立ち上がって食器を下げる靖成の背中をユキは見る。
「て、いうかさ」
なに?と、振り向いた靖成に、ユキはワイシャツを渡してやった。うーん、やっぱりユキちゃんは可愛いな、などと靖成が考えながら着替えをしていると、そのユキが更に可愛く笑った。
「靖成、マジで惚れたな。賀奈枝ちゃんに」
靖成は硬直した。
手からなめらかにワイシャツが落ちる。
Tシャツ、トランクス(ヨレてる)姿のひょろい中年独身男子が、棒立ちである。
「ほーらな!当たり!」
イエーイ!とはしゃぐユキを横目に、靖成はうだうだと着替えを再開する。
いやさ…でもさ…とごにょごにょ言う靖成だが、動揺具合がわかりやすい。ズボンがうまく履けない。ベルトはうまく通らない。
「大丈夫だって!結局は結婚したら身内になるんだからさあ。靖成だって賀奈枝ちゃんにはもう気を許してんじゃん」
「ん?なんのこと?」
「話すとき、俺、って言うだろ、賀奈枝ちゃんの前では。普段会社じゃあ自分呼びで他人と一線引いてるくせに」
「…あ?」
だから悪人顔はやめろ、とユキは靖成の両頬をぐにーっと伸ばす。
「なんだよ、気づいてねえのか?靖成はさっちゃんとか佐々木さんたちの前でだけ俺って言うけどさ、賀奈枝ちゃん相手にも最近ずっと身内口調だろ」
「あ。あー?ああー…」
うずくまる靖成。そういえばそうかも、と35年生きてきてまた新たな発見である。しかし天然な賀奈枝は気づいてないだろう。
「でもさあ。そういうの、バレたらちょっと恥ずかしいよねー…それに俺は」
靖成は言葉を切る。
「やっぱり結婚は、考えてない」
はっきり、きっぱりと言った。神妙な表情でうつむく靖成からは、それが真面目に本心から出た言葉だとわかる。しかし。
「…とりあえず、ズボン履け。遅刻すっぞ」
ユキに言われ、靖成は、あーうー、と慌ててズボンを履く。途中コントのように転びそうになる靖成は、なんともしまらない。
ばたばたと出勤したその後ろ姿を見ながら、ユキは呆れる。
「なんでかな。そんなに嫌なのか?結婚。さっちゃんたちだって幸せそうだし、こいつらだって」
ユキは天井に視線を向ける。かさこそささささー、と、複数の小さな、忙しない足音。
「鼠だって、所帯もって暮らしてるのになあ?」
そこで天井と壁の隙間からささっと降りてきた鼠を見つけ、ユキはお玉片手に追いかけるはめになった。
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満員電車の地下鉄は、靖成が苦手なものの1つだ。
憂鬱な顔で、ひょろっとした、やや猫背のスーツ姿でホームに佇む中年サラリーマンが、実は陰陽師でしたなんて誰も思うまい。いや、知ったところで何もないんだけど。
「…うおっ」
轟音とともに、反対車線に車両が入線してきた。不意をつかれて靖成は間抜けに呟く。小声のはずだが、午前中の半端な時間で人がまばらなホームでは、思った以上に響いたらしい。隣のドア列に並んでいた男性が、ちらっと靖成を見た。
あ、やべ。靖成は気まずいながらも、知らぬふりをする。しかし、男性は靖成に近づいてきた。
「篠目じゃん」
快活な、いかにも爽やか運動部にいました的な笑みを浮かべて近づいてきたのは、短髪がよく似合うサラリーマン。身長は靖成より5センチほど低いものの、筋肉質で姿勢もよく、飾らない笑顔がよく似合う大型犬のような印象を与える。
「須坂」
そう、野球部の須坂くんであった。靖成は学生時代もずっと都内で過ごしているため、知り合いに会うのは珍しくない。
しかし、小学校からの同級生で、いまだに話す相手は稀だ。須坂は見た目通りの人懐こいやつで、人とあまり関わりたくない靖成を、いい迷惑…いや、お節介にも休み時間のドッヂボールに連れだしたりしてくれた。実家も近く、職場も都内なので、たまたま会う確率は高いし、靖成も会えば思った以上に話をする。地元の知り合いとはそういうものだろう。
「なんだよ。仕事か?そういえば転職したんだっけ」
「…もう5年以上前だぞ。須坂はずっと同じところか」
彼は銀行員だ。
「ああ。場所だけよく変わるけどな」
配属の店舗が、という意味か。大きな口を開けて笑う須坂は、靖成とは違い、人好きのするタイプだ。きっと仕事も順調なんだろうなーと考え、ふと、その左手薬指に目がいった。
「あ」
気の抜けた声が出た。そうだ。須坂は既婚者である。結婚式には靖成も呼ばれている。奥さん元気?とか軽く言えないのが靖成であり、それに対して、照れた笑顔を見せる元野球少年。笑顔がまぶしい。
「子供も、5歳になったよ。やんちゃでさ、有美はもう大変そうで。すっかりお母さんだよ」
「あ、あ。浅井さん」
相づちか、質問か、名字を言おうとしたのかわからないくらいぎこちない返事をしている靖成、独身。
浅井、というのは須坂の奥さんの旧姓である。小学5年で須坂と彼女と、同じクラスになったのだ。こういうとき、頼んでないのに写メを見せられるのは普段の靖成は苦手なのだが、夫婦とも知り合いのため、珍しく自分から画面を覗きこむ。
おお、思ったより…順調に年を重ねていらっしゃる。口には出さない靖成の思いがなんか伝わったらしい須坂は、笑った。
「篠目、有美のこと好きだったよな?」
きたきた。なんでー。そういうこと言うかなあー。しかし元々爽やかで裏表のない須坂が言うと、他意はなく爽やかな思い出話にしか聞こえないのがずるい、と靖成は思う。
「いや、それは…昔の話で」
そしてこの手に慣れない靖成は、素直に認めてしまった。須坂はまた笑う。
「冗談だよ。たまには遊びにこいよ、家わかるだろ?篠目に会えたら有美も喜ぶし」
どこまでも爽やかなやつだが、靖成も悪い気はしない。
電車が入ってきた。ドアが開き靖成は乗り込んだが、須坂はそのままホームに立っている。
「乗らないのか」
靖成の問いに、須坂は先ほどまでの笑顔と違い、少し困ったような表情をつくる。
「客先との打ち合わせ時間まで少しあるから、時間潰してるんだ」
そうか、と靖成は手を上げ、車内とホームでそのまま別れた。
昼でも暗い地下鉄のトンネル。
車内で顔をあげると、窓には乗客の顔が映る。ゆらゆらと、時折残像のように陰をつくるそれらは、同じ表情、姿勢で動かない。
靖成は、先ほど会ったばかりの須坂を思い出した。
快活な彼も、人混みに埋もれる日々を送っているのだろう。世俗にあまり関心がない靖成だが、彼の笑顔は疎ましくもあり、また羨ましくもあった。
それが曇るのは、寂しいな、と靖成は珍しく感傷に浸っていた。




