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合言葉は甲子園優勝

作者: 永岡萌

 俺の名前は中原直樹。二十七歳。エリート刑事だ。渋めの顔つき、落ち着いた雰囲気、あふれる知性で世の女性をきゃーきゃー言わせている。俳優になれば人気が出るのではとたまに後悔することもあるほどだ。ただ、正義の味方を志した俺は簡単に女になびくわけにはいかない。今日も今日とて悪を成敗するために、日々活躍をするのだ。



 と、いうようなことをいつかは言えたらいいなと思いつつ、世の中そううまくはいかない。場所はバスケットコートや木目の床でおなじみの体育館。目の前を見ると真剣な目をした小学生たちが俺を見ていた。隣では俺の上司がニコニコしながら講演をしていた。

「と、いうわけでインターネットというのは大変危険です。ばれないと思って変なことを書いても、簡単に見つかってしまいます。くれぐれも爆破予告なんてしないようにお願いします」

「はーい」

 と、元気な声で返事した。マジで頼むよ。そんなことされたら俺らの仕事が増えるからな。

「ちなみに。いたずらでやってみたら。心から後悔することになるからね」

 シラーっとした空気が一気に流れた。小学生ビビらしてどうするんですか。

「それじゃ、何か質問ある人いらっしゃいますか?」

 気を取り直して相方が声をかけると、何人からか手が上がった。上司はそのうちの一人にマイクを渡した。

「そこのお兄さん。彼女いますか?」

 わははと周りのガキ共大爆笑。出たよ。小学校あるあるネタ。いるといってもいじられるし、いないといってもいじられる。最悪だ。

「うーん。ごめんなさい。今日はインターネットの説明の日だから、それに関することでお願いします」

 おお、上司ナイス。さすが慣れている。ありがとうございますです。

「ちなみに中原君は彼女いません」

 わははと再び周りのガキ共大爆笑。だよねー。あの人ナルシストっぽいもんねー。もてなそうだよねー。

 次から次へと俺への嘲笑が聞こえる。このクソ上司。覚えてやがれ。



「どうもすみませんでした」

 散会後の控室で妙齢美女の担任が誤ってきた。

「いえいえ。自分もあの頃そんな冗談ばかり言っていましたし」

 営業スマイル営業スマイル。この美女に免じて許してやろう。美人教師はにっこりと笑って、

「そういっていただけると幸いです」

 おお、きれいな笑顔。男社会にいるとありつけない表情だ。目の保養。目の保養。さらに教師は続けて、

「それにしてもインターネットは便利になった分、子どもたちに使い方を教えるのは大変です。結構怖いものでもありますし。正直、私たちの子どもの頃は身近なものですから」

「多くの先生がそのようにおっしゃっています」

 そう。インターネットは難しい。誰も彼もと簡単につながれるようになったことは、麻薬・売春・詐欺などの犯罪にもつながりやすくなったことだ。使い方は大人でも判断を誤ることがあるほどだ。いわんや思考・知識が未成熟な子どもは注意しないとあっけなく犯罪に巻き込まれるだろう。だから俺は、

「私個人的にはインターネットを甘く見るな。恐ろしいものだ。そして簡単にやったことなどばれてしまう。子どもたちにそう何度も言い聞かせることが大切であると考えております」

 先生にそう伝えた。後は、

「両親の皆さまにぜひお伝えください。被害に巻き込まれたお子様の九五%以上がフィルタリングの設定されていなかったと」

 教育方針によりけりだが、子どもを危険なところに連れて行かないことも立派な手段だと。

「ぜひ何か相談事がありましたら、先ほどお渡した名刺の電話番号におかけください」

「はい。どうもありがとうございます」

「あと、ぜひお食事にお誘いしたいので電話番号を」

「おーい。中原君。そろそろお暇するよ」

 ちっ。絶妙なタイミングで声をかけやがって。このクソ上司(芦澤大輔・三七歳・妻子持ち)め。少しは独身のことを気にしやがれ。



 ドラマでよく見る警視庁内にて。課のスペースで係長とおしゃべり中。

「中原君。さっき学校にて先生を誘惑しようとしていたね?」

「はて。何のことでしょう」

 ばっちり気づかれていた。

「うーん。正直恋愛は個人の自由なのだけれどね。ほら。最近は警察官の不祥事とか多いでしょ」

「まあ。それは」

 否定できない。

「本当は細かく言いたくはないけれど。一応、僕は監督責任があるからね」

 と、心底申し訳なさそうな顔で口にしていた。おお、芦澤さんいい上司オーラがするよ。

「中原君って彼女なかなかできなさそうだから多めにみたいんだよね」

 うるせーハゲ。

「でも、君の説明わかりやすかったよ。きっちりポイントをつかめていたし」

「そうですか。自分でも意識しておりませんでしたが」

「そんな謙遜を。フィルタリングのこともきっちり説明してくれて嬉しいよ。中々言いづらいことだからね」

 それは幸いだ。仕事はできるに越したことはない。けれども、

「けれども本当は刑事になりたいのにな、って顔をしているね」

 芦澤さんはニヤニヤしながら続けだ。げっ、ばれているよ。やばいやばい。

「いじわるだったね。別に気にしないでいいよ。多くの警察官が憧れることだし」

 心臓に悪いな。もう。

 しかし、実際に刑事の倍率はかなり高いと聞く。なれるのは本当にごく一部だ。

「だからこそ、ここで実績を上げるのは悪くないよ。IT知識は捜査でも役立ってくるし」

 高度情報化社会になって、昔とは異なるスタイルの犯罪が増えている。メールにコミュニティサイト、クラウドと使われるツールも多彩の上、個人情報漏洩といったことも世間の目は厳しくなっている。好むと好まざるにかかわらずITなしではやってはいけない。それは刑事にしたところで同じだろう。そういう意味ではいい踏台にはなるだろう。

「とはいっても、焦る気持ちはありますね。同期の中でも刑事課に配属された人がいると聞きますし」

 贅沢な悩みだと周囲は思うだろう。

「しかし、そんなに急いで刑事を目指さなくてもいいと思うけれどね」

「いやあ、刑事と言えばわかりやすい正義の味方じゃないですか。そんなのになったら合コンにモテモテじゃないですか‼」

「随分軽いね。一応言っとくけれど、あまり身分は明かさない方が無難だよ」

 ジト目で俺を見てきた。あははー、ですよねー。と笑いつつ、頭の中に黒い靄がかすむような感覚が出てきた。耳からは雨の降る音が聞こえてきた。

「すみません。少しニコチンの補給をしに行ってきます」

「喫煙者は大変だね」

 芦澤係長は苦笑いしつつ答えた。



 煙が充満した休憩室に入り一服。苦い煙が体中に回っている感覚がする。周りは仕事について話す人、スマホをいじくっている人、ぼんやりとしている人など様々だ。俺は頭を弛緩しつつ、タバコを吸い続けていた。

 大学入学した時から吸っていたから、もう十二年選手か。肺の中は汚れ切っているだろうな。自分で自分を嘲笑しつつ、さっき抱いていた嫌な気持ちが消えていくのを感じた。当分長い付き合いになるだろうな。腕時計を見ると十分くらい過ぎていた。これ以上休憩すると肩身が狭くなるから足早に俺はフロアに戻った。



******************



 サイバー犯罪対策課はコンピュータ関連の犯罪抑止を目的とするだけあって、扱う内容も幅広い。昨日は小学生たちにITリテラシーを教えたと思ったら、今日は今はやりのランサムウェアの対策を講じている。他組織と協力して最近の手口の話を聞きつつ、対一般企業向けに対策方法を考えている。当然理解するにはIT関連の知識が必要なのだが、これが頭痛の種だ。

 ぶっちゃけ何言っているかわかんねえよ。

 ランサムウェア? 要は身代金分捕りますウィルスだろ。日本語で言えよ日本語で。クソが。内心毒づいていると係長が近寄ってきて、

「中原君、調子はどう?」

 と聞いてきた。さっさと逃げたい気持ちでいっぱいだが、そんなことは露ほども見せず、

「はーい。順調です。もう楽しくて楽しくて仕方がないくらいです」

 と笑顔で返した。

「それは良かった。さっきまで君、眉間にすごいしわを寄せていたから逃げたい気持ちでいっぱいだと思っていたよ」

 わかってんじゃねえかよ。じゃあ、聞くなよ。再び渋い顔をしていたのか、係長は笑いながら、

「ごめんごめん。とりあえず、それ今日の十六時までにお願いね」

 おい。そういうのは先に言えよ。かなりカツカツじゃねかよ。半ばやけになってグーグル先生をいじり倒し始めた。こうなったら一気に片づけてやる。俺は仕事に向けて気合を入れ始めた。


――トルルートルルー


 と、水を差すような電話の音が耳に入った。ちっ。せっかくやる気に満ちあふれているというのに。さっと受話器をとって、

「はい。こちら警視庁サイバー犯罪対策課になります」

 と、営業用の丁寧ボイスで出てやった。と、相手の言った内容で一気に頭が冷えた。

「はい。お電話いただきありがとうございます。確認させていただきたいのですが」

 相手の言葉に注意深く耳を傾け、俺は目の前のパソコンにも同時に意識を向けた。



 先ほどの通報から四時間後。俺らはテレビのニュースを見ていた。番組では○○県庁の方々の避難風景を報道していた。時刻は十四時五十九分を示していた。チームでは緊迫した空気が流れていた。十五時まで五・四・三・二・一。テレビの画面では変わった様子はなかった。それでも変わらず緊張感は保たれていた。


――トルルートルルー


 電話が鳴った。良い知らせか悪い知らせか。とにかく俺はまずは電話に出た。

「はい。こちら警視庁サイバー犯罪対策課になります」

 と、電話の相手が名を名乗った。目当ての人物が来た。一語一句聞き洩らすまいと、耳をそばたてた。

 相手の話が一通り終わり受話器を置いたら、俺はフロアに向かって、

「犯人が逮捕されました。爆弾は仕掛けられていないとのことです」

 と報告した。フロアにやっと弛緩した空気が流れた。



 ネット掲示板に犯行予告が書かれている。十一時頃に市民の方から通報があった。

 確認してみると次の二点が載っていた。


――○○県庁に爆弾を仕掛けた

――タイマーは十五時にセットしてある


 イタズラか本当か判別つかなかったので、まずは直ちに○○県庁に電話して来庁者・職員の方々の安全を確保してもらうようお願いした。

 同時並行で捜査係の方が投稿者のIPアドレスの特定およびIPアドレス保持者の特定を行っていた。すぐに投稿者の住所が判明して、刑事が被疑者宅に向かった。被疑者は自宅から離れずにいて、刑事が話を聞いたところ容疑を認めた。それが十五時のことだ。これにて一件落着。クソッ。余計な仕事を増やしやがって。



 某チェーン居酒屋の個室にて。

「はい。とりあえず無事に事件が解決したことを祝って、カンパーイ」

「カンパーイ」

 カチャンカチャンとグラスのぶつかる音が響き渡る。俺は泡立った黄金色の液体を一気に飲み干した。

「くー」

 これだよこれだよ。仕事後の一番の楽しみだよ。体中にアルコールが染み渡る感覚だよ。「最高」の一言に尽きるよ。

「中原君、いい飲みっぷりだね。おつぎいたしますよ」

「ははあ。かたじけのうござる」

 芦澤さんにトクトクトクとビールを注いでもらった。いい具合に先方のグラスも空になったので、俺は注ぎ返した。これぞ社会人のマナー。うんうん。俺は出来る大人だな。捜査担当の人たち含め、サイバー犯罪対策課の人たちは和気藹々と話し始めた。

「いやあ、それにしてもあっさり逮捕できてよかったねえ」

 係長はにこやかに話をしていた。

「本当ですね。逮捕されたのは確か中学生でしたっけ?」

「そうそう。悪目立ちをしたくてイタズラ心でやったんだって」

「迷惑な話ですよね」

 仕事上仕方がないが、今まで身勝手な奴らをたくさん見てきた。そのたびに俺は気が滅入っている。てめえらの軽い考えで、どれだけの人間を振り回しているのか。少しは考えてほしいもんだね。

「まあまあ。とにかく今回の事件は被疑者の知識が浅くて助かったよ」

「ええ。何の細工もなく掲示板を使っていましたからね」

 先日の講義を聞いてたら、そいつもアホな真似はしなかったかもな。

「最近はほら。厄介な技術が流行ってきているからねえ」

「ああ。ダークウェブですよね」

 そう。通常のインターネットとは違う闇のネットワーク。そこではコンピュータの身元が念入りに隠されていて、捜査するのが難しい。偽装パスポートや個人情報売買といった犯罪の温床になっている。俺もたまに遭遇することがあるが、しっぽをつかめず苦労している。一緒に飲んでいる捜査担当の人も同感らしく、

「早く解析方法を見つけたいですよね。ダークウェブがメインになってしまうと、私たちの仕事が非常にやりにくくなりますし」

 芦澤さんは苦々しい顔をしつつ、

「まあ。ねえ。技術自体は悪いものじゃないんだけれどねえ。それに最近あいつらがダークウェブを使ってまた活発し始めたらしいからねえ」

「あいつら? どういう方々でしょうか?」

「麻薬の密売組織だよ。昔からいるたちの悪い奴らだよ。君も警察官になってから聞いたことがない? DGP。ドラッグパーティーと呼ばれている組織を」

 DGP。その言葉を聞いた瞬間、一気に肌の温度が下がった。周りの喧騒も遠い世界の用な感覚を覚えた。脳裏には灰色にまみれた街並みが浮かび上がった。心臓がの鼓動が早くなる感覚を抱いた。俺は平静を装いつつ、

「ええ。話だけは。だいぶ昔から存在する麻薬組織ですよね」

「そうだね。僕が若手の頃から大きかったね。警察が力を入れて奴らの手口を洗い出し、一時期はしっぽをつかむところまで行ったんだ。ただ、結局追い詰める前に奴らは活動を自粛。ここ最近まで目立った動きはなかったんだ。とにかく、酒が不味くなるからこの話はおしまい。そういえば、最近交通部の理子ちゃんがね」

 と、一ゴシップめいた話題に移り変わった。俺は適当に相槌を打って、ぼんやりと聞き流していた。酒のうまみは一気に感じなくなった。DGP。ドラッグパーティー。今さっき聞いた名前を俺は何度も何度も何度も頭の中で反駁していた。



******************



 週明けの業務の合間時間。俺はダークウェブにアクセスした。おどろおどろしい名前だが、拍子抜けするほど簡単にアクセスできる。そして拍子抜けするほど一見普通の検索サイトだった。試しに「麻薬」と検索してみても、先頭に出てくるのはウィキペディアのサイトだった(もちろん内容に差はなかった)。ダークウェブ自体は良いも悪いもないというのも何となくわかる。

「あれ? 中原君は今ダークウェブのお勉強中?」

 と、後ろから芦澤係長が声をかけてきた。

「ええ。今後かかわる気がすごいしますし。今のうちに触っておくのも悪くないかなと」

「うんうん。いいねえ。そういうの大事だよ。触ってみると変な偏見も出なくなるし、どうすれば犯罪防止になるかイメージもつくしね」

 しきりに係長はうなずいていた。

「別に。仕事ですし。これぐらいは当然ですよ」

 つっけんどんに答えてしまった。そして俺は胸ポケットからセブンスターをとり、

「これから僕は不良になります。十五分間くらい席を離れます」

 相変わらずの苦笑いで、

「タバコもほどほどにね」

 と、返してきた。



 苦々しい煙が肺の中に充満している。同時に頭にくらっとした感覚がよぎる。生きているって気がするぜ。ダークウェブについても今は忘れることにした。これ以上考えていると仕事に差しさわりが出てくる。

 周りを見渡すといつも通り警察特有のやさぐれた雰囲気が漂っていた。やくざかと見まがうような男、定年をそろそろ迎えそうなご老体、キャメル色のコートにパリっとしたスーツを着こなしている女性。って女?

 なんと。この男だらけの警視庁で珍しい。良く整えられたショートカットをしている。さしずめ美人なのだろうが、さすがの俺も見知らぬ人の顔をじろじろ見るようなことはしない。でもせっかくだからチラっと見ようかしら。そのように逡巡していると隣から、

「すみません。ライターをお借りしてもいいでしょうか?」

 と、警察官の方から声をかけられた。喫煙所あるあるだ。その人にライターを貸して、つけ終わるのを待った。ライターを返してもらった後、女がいた方向を見たらそこには誰もいなかった。ちっ。



 デスクに戻ると芦澤係長が難しい顔でPCをにらんでいた。

「どうかされましたか?」

 せっかくなので聞いてみた。

「ああ。中原君。朝話していた件だよ」

「ダークウェブがらみですか?」

「そう。DGPの奴らの取引画面を見つけたんだよ」

「本当ですか」

 声が震えないように、動揺を知られないように意識した。

「ああ。こんな感じなんだ」

 見てみると普通のオンラインショッピングのようなページが表示されていた。内容はいかれているが。


――覚せい剤 一グラム四万円

――コカイン 一グラム五万円

――乾燥大麻 一グラム四千円


「よくもまあ。堂々と名前出せますよね」

「こっちは経路を追えないからね。ちなみに支払いはビットコインみたい」

 なるほど。クレジットカードとかで足が出ないように、ってか。きっちり考えられているねえ。

「予防しかできないのってやきもきしますよね」

「まあまあ。起こらないようにするのも大事なことだよ」

 俺の肩をポンポン叩きながら言った。

「と、余計なことに時間をかけすぎちゃったね。そろそろ小学生たちが見学に来るから応対するよ」

「了解です」

 なごり惜しくもあるが、俺は本業の方に戻っていった。



 十七時十五分のチャイムが鳴った。カバンを手に取って俺は帰宅し始めた。フロアには定時で仕事が終わるイカツイ顔つきの人たちであふれていた。ぼんやりと歩いていると、

「ねえ」

 という女性の声が聞こえた。凛としたきれいな音だった。たぶん恋人にでも声をかけているのだろう。羨ましいご身分だね。

「ねえ」

 その相手は気づいていないようだ。全く。そういえばこの声どっかで聞いたことあるような気がする。

「あなたよ」

 ドンドンと肩をたたかれた。って、俺か。いったい誰だ。振り返ってみると、俺は血が凍るような気分を味わった。

 キャメル色のコートにパリっとしたスーツ。良く整えられたショートカット。そしてしっかりとした勝気な瞳。さっき喫煙所で見かけた女だ。何でコイツがこんなところにいるんだ。

「はじめまして。あなた中原直樹さんよね?」

「ええ。そうですが。あなたは?」

「私は岡田藍。新聞記者よ。よろしくね」

 左手に東都新聞と書かれた腕章をつけていた。

「ええと。どのようなご用件でしょうか? あいにく私はひとり身なので不倫とかには無関係なのですが」

「ああ。そういうネタがあったらぜひ教えて欲しいんだけれど、今日は別件だから安心して」

 何を安心すればいいのだろうか。こちらが身を固くして構えると、

「ただ単に普段の仕事を教えてくれればいいのよ。あくまでコネづくりのつもりだから」

 それでも釈然としないままでいると、

「何よ。こんな美人とデートできると思えば安いもんでしょ。あんたにはもったいないくらいよ」

 すごい自信家だねえ、この人。というか初対面で何でここまで言われなきゃいけないの。

「はあ。暇なので良いですけれど。それではあちらのフリースペースで」

 岡田さんを話ができるところに案内した。彼女はそれでいいのよとヒマワリのような笑みを浮かべながら、ついてきた。



 彼女が聞いてきたことは当たり障りないことばかりだった。普段どんなことをしているのか。やりがいはなにか。今後何に力を入れていきたいか。俺は特に出しても問題ないことを淡々と答えていた。

「はい。今日はおしまい。どうもありがとう」

 三十分くらい話した後、彼女は俺に告げた。すぐにノートやICをしまっていった。

「こんなのでよかったのでしょうか。特に目新しいことは伝えられなかったと思いますが」

「いいのいいの。さっきも言ったように顔を売りたかっただけだから」

 一応筋は通ってもないわけではないが。

「だとしても私はまだ下っ端ですし。正直に申し上げてそんなに活躍しているわけではありませんよ」

「細かいことはいいのよ。聞屋が来ているから、何かあると思ってきなさい。それに」

 一呼吸置いた後、

「ちょっとタイプだし」

 といった後、いたずらっぽくベロを出した。

「じゃあ。またね」

 嵐のように彼女は去っていた。フロアには帰宅する人たちであふれていた。



 外はもう宵闇に包まれていた。町はひっそりとした空気が流れていた。たまに聞こえるのは車の排気音や猫の鳴き声ぐらい。

 俺はウィスキーをロックにして一人飲んでいた。体中にアルコールがまわっているのを感じていた。酔いにまかして今日会ったあの子の瞳を思い出していた。

 まっすぐ前を向いているまなざしを頭に浮かべるだけで、胸の鼓動が早まっていた。

『ちょっとタイプだし』

 少し体がくらくらしてきた。気を紛らわすために琥珀色の液体を注いだ。ざまあねえな。頭に自嘲気味の声が響いていた。少しずつ瞼が落ちてきた。今日はもうこれまでだな。遠く向こうに髪の短い少女が見えた気がした。



******************



 季節は十月。夏の暑さが遠のき冬の寒さが近づいている頃。相も変わらず仕事に追われていた。DGPの被害は日に日に増えてきて、俺たちは何とか手を打とうと必死だった。それをあざ笑うかのように、取引の声は画面上で踊っていた。

 この鬱屈とした雰囲気を振り払うように係長や先輩たちは雑談で盛り上がっていた。

「いやあ。昨日の林のスリーランホームランすごかったねえ。よくきめたよねえ」

「本当ですよね。こちとら抑えの切り札を出したというのに」

 野球か。

「これで今年もうちの優勝かな」

「まだまだ分かりませんよ。話題の新人着実に伸びていますし」

 手に汗がにじんでいるのを感じる。胸にタバコはあると。さっさとこのフロアから逃げ出さねば。

「あ、中原君。君って野球見る?」

 来たよ。

「いやあ。自分はあまり」

 ここでミスっては行けない。冷静にならねば。

「意外。何となく好きそうに見えたけれど」

 気にしない気にしない。適当に言っているだけだ。

「ねえ。肩幅も広いしホームランを量産しそう」

「あんなの現代の剣闘士ですよ」

 おいおい俺よ。何言っているんだ。流せよ。頭ではそう思っても、もう止まらなかった。

「常に身体を痛めつけ、常にクビになるリスクを抱えている。一般の人たちとは比べ物にならないくらいの年収があるから、金銭感覚がマヒする。そもそもそういう人たちはずっと勉強をおざなりにしてきたから、プロになれなかったら何者にもなれない。クソなゲームですよ」

 フロアの温度がマイナス十五度くらいになったようだ。係長や先輩はぽかんとした顔でこっちを見た。俺はタバコを手にもって逃げるように席を外した。



 行きつけのバーにて。俺はカウンター越しのマスターに伝えた。

「いつものをください」

 フォールン・エンジェルが出された。きりっとしたジンにレモンの酸味が効いたカクテルだ。疲れた頭に心地よくしみる。天使が堕ちる程のうまさとはよく言ったものだ。最初の一杯はやっぱりこれだろ。一気にあおって悪酔い車線を走りまくっていた。

「すみません。アードベックのストレートをお願いします」

 炭のにおいがするウイスキーが出された。苦味を味わうように舌で転がした後、いつもより多めに流し込むように飲んだ。

「次は」

「あんたよく飲むわね」

 澄んだ声があきれた色を混ぜて響いていた。隣を見ると先日の新聞記者が座っていた。その瞳にはいたずらっぽい光をにじませていた。

「えっと。岡田さんだっけ。何でここにいるの」

「もう水くさいわね。藍でいいわよ」

 何だコイツ。ずいぶんイラっとさせるな。

「じゃ、じゃあ。藍」

「そんなあからさまに動揺しなくても」

 かわいそうな目で俺を見ながら口にした。

「とにかく、この店にあんたが入るのを見かけて。面白そうだから顔を出してみたのよ」

 といった後、マスターに、

「すみません。ホワイトレディーをください」

 と、注文した。

「あんた、よくここに来るの?」

「まあな。気を紛らわいたいときとかよく行くな」

「てことは、今日は気を紛らわしたい日なのね」

 聞こえなかったフリをしていると、

「とにかく乾杯」

 と、グラスをこっちに向けてきた。

「乾杯」

 つい俺もグラスを傾けてしまった。彼女はにっこりと笑うと味わうようにカクテルを飲んでいた。その顔に心を奪われないように、ぼんやりカウンターを眺めていた。

「おいしい」

 頬を緩ませながら彼女は口にした。微かに上気した白い肌は薄暗いカウンターに調和していた。

「あんたはどのお酒が好き?」

「アイラウイスキーかな。ピートの苦味を味わうのが好きなんだよ」

「結構強いのね。かっこいいわね」

「おだてても極秘情報は渡さねえぞ」

「ちぇ。ケチ」

 そういって大げさに顔を膨らませた。ちっ。こいつ自分の顔がかわいいってわかってやがる。

「野球だ」

「野球?」

 唐突に俺が口にした言葉に、彼女は続きを促すように返した。

「今日会社の話題で野球の話が出たんだよ。俺はどの球団が好きかって。どうも昔っから野球が苦手でね」

 そういって一気にスコッチをあおった。

「へえ」

 からかいの言葉がどうせ飛んでくるんだろうなと軽く身構えると、

「私も野球は好きじゃないな」

 と、つぶやいていた。

「なんでまた?」

 ウイスキーをぐっと飲みこんで聞いた。その際にマスターにストラスアイラのストレートを注文した。

 彼女も少し多めに酒を口に含んで、一呼吸間をおいた。

「私には姉がいてね。顔がきれいで、社交的で、頭がよくて。私の自慢だったな」

 懐かしむような調子で言葉を紡いでいた。

「高校生のときに野球部のマネージャーをしていてね。忙しそうで楽しそうだったなあ。『合言葉は甲子園優勝』っていつも言っててね」

 マスターがちらっと俺のグラスを見た。すでに空になっていたようだ。ペースが早いとは思いつつ、つい注文してしまった。

「お姉さんはいったい」

 と、口にしていたのがこの日の最後の記憶になった。



******************



 朝の日の光が目に入ってきた。眠気と頭痛を抱えながら俺は意識を浮かびあがらせていた。昨日はアホみたいに飲んだな。吐き気がすけえ。

 確か隣に新聞記者が座ってきて。あー思い出せねえ。いったいどうやって帰ってきたんだ。今まで何千万回と繰り返してきた二日酔いについて頭を巡らしていると、

「やっと起きた。スクランブルエッグとオムレツどっちがいい?」

 それじゃあオムレツかな。自分で作ろうとしないものだから欲しいなあ。誰かに朝食を作ってもらうのはいいもんだなあ。って、

「何でお前がいるんだ」

 何のひねりのないセリフをつい吐いてしまった。そこには台所に立っている岡田が見えた。ブラウスの袖をまくって、料理に入れる体制にばっちりとなっていた。

「あーその様子じゃ昨夜のことは覚えてないわね」

 オーバーに頭を抱えながら言っていた。コイツもそれなりに飲んでいたと思うが、全く影響がなかったみたいだ。羨ましい限りだ。

「あんた本当大変だったんだから。『なぜこの世の中はこの俺の才能を見いだせないのか』。『なぜ人間はこの世に生まれたのだろうか』ということを延々と言ってたのよ」

 うわあ。ひでえ。んなもん知らんがな。

「んで、最後はうつらうつらし始めてどうしようもない状態になったのよ。感謝しなさいよ。私があんたをここまで運んできてあげたんだから」

 それはそれは。大変ご迷惑をおかけいたしました。何やってんだろう、俺。

「あ、そうそう。もう終電なくなってたから一晩部屋を借りたわ。一応、そのお礼よ。これで貸し借りプラス一ね。それと記憶を飛ばすほど飲むのはこれっきりにしなさいよ。認知症になりやすい頭になるらしいから」

 いつの間にか朝食を作り終えており、彼女は皿に盛りつけていた。辺りには温かい卵のにおいが漂っていた。

「食器の場所よくわかったな」

「勘よ。勘」

 何とはなしに二人で席についた。

「それじゃ、いただきます」

「いただきます」

 楕円の形に整えられたオムレツにスプーンを伸ばした。割ってみると、半熟の卵がトロリとこぼれてきた。適度の固さに適度の柔らかさ。とても親しみを持てる味だった。

「お前って料理がうまいんだな」

「慣れよ。ずっと料理をし続けたら様になったのよ」

 なんでもなさそうに彼女は言うが、相当長く続けてきたのだろう。俺には決して真似できない質だった。誰かが作った料理を久しく食べていなかったため、ゆっくり味わって口にした。

「ふふ。おいしそうに食べてもらえると作った甲斐があったわね」

 ここで何か答えるのは気恥ずかしいので、聞こえなかった風を装っていた。その様子も見抜かれているのか、岡田は楽しそうな視線を向けていた。



 秋の日の空だけに、どこまでも透き通った青色だ。小鳥たちはさえずり周り、河原では何人かの方々が釣りをしていた。岡田と別れた後、たまの休日を享受するために散歩に出た。そよ風が頬にあたり、かすかな心地よさを感じていた。日々追われている気持ちを抱いているので、なんでもない一日が貴重な安らぎを与えてくれる。

 子どもたちが河川敷のグラウンドでサッカーをしている。周りではお母さん・お父さんが子どもの雄姿をカメラに収めている。子どもの頃も休日はスポーツをやっていたことを思い出していた。あの頃はガムシャラに球を追うのが楽しかった。いつもユニホームを泥だらけにして母親をあきれさせていたっけ。

 ふと気が向いてとある店に入った。中は速球が飛び交う音や、金属が衝突した音が響き渡っていた。俺は店主の方からヘルメットとバットを持って所定の位置に向かった。とりあえず一五〇キロのマシンを選んだ。

 バッターボックスに入ると血が沸き立つ感覚が出てくる。マウンドにピッチャーがいるかのように目の前のマシンをにらみつけた。

 高めにボールが来た。ホームラン狙いで思いっきり振ったが敢え無く空振り。二球目も空振り。クソ。十年前だったら難なく打てたのに。三球目でやっと当てたが、遅すぎてファールコースへ。

 結局、ワンゲームではいい当たりが全然でなかった。人があまりいないのを幸いに、コインを追加してもうワンゲーム始めた。集中しよう。ボールが出る角度、入るコース、あの頃の感覚を思い出すために神経を集中させた。投げ込まれたボールが真ん中に来たので、思いっきり振った。バットがボールをしっかりと捉えた感覚が伝わった。ボールを見るとライトスタンドに入るような放物線を描いていた。

 調子が出てきて二塁打、二塁打、ホームランとうまくボールを当てられた。ツーゲームも終わったが、さらにコインを入れていた。結局、手持ちの金がなくなるまでバカみたいに白球を打っていた。



******************

******************



 ここが働きどきと思ってか、太陽がカンカンと照っていた。体中の汗が噴き出て、のどがカラカラになった。グラウンドの土が風に舞い、けむけむしい光景が広がっていた。俺は目の前から次々と飛んでくるボールをさばいていた。

「中原! きびきび動け!」

「はい!」

 監督からのヤジを受け流しつつ、俺はノックの嵐を耐えていた。激しく動くため身体が燃えるような熱さになっていた。それをどこか心地よくも感じていた。

「おらあ、しゃきっとしろ! 中原!」

「はい!」



 練習の休憩中、グラウンドの隅に座り込んでいた。少し風が吹いてきて、体中をいやしてくれる気がした。急に頬に冷たいものがあたり、

「ひゃっ⁉」

 と、思わず大きな声を出してしまった。黒髪にポニーテール、しっかりとした勝気な瞳と、いかにも活発な雰囲気をした女がニヤニヤ笑っていた。

「おい、麻子。何しやがる」

 せっかく穏やかな気持ちにひたっていたのに。

「ごめんごめん。ちょっと驚かそうと思ってさ」

 悪びれずに言った後、俺に向かって空色の缶を俺に向かって投げた。受け取ってみると、ポカリスエットだった。

「この前、ジュースおごってくれたでしょ」

「こりゃまた律儀に」

 若干あきれた気分を持ちつつ、せっかくなのでもらったものを口にした。うん。うまい。

 麻子は俺の隣に座り込んで、周りの球児を眺めていた。

「直樹、レギュラーおめでとう」

 唐突に言われて面食らった。照れて声が裏返らないように気をつけながら、

「あんがと。侍の一人としてチームに貢献しないとな」

 と、返した。

「練習いつも頑張ってたもんね」

 今度は顔が赤くなるのを感じた。

「おいおい。マネージャーさん。あなたの立場でえこひいきはいかんぜよ」

 軽口をたたくことでごまかそうとした。

「ちぇ。かわいくないな。素直に喜んどきなさいよ」

「相変わらずお前らは仲がいいな」

 後ろから大柄な奴が話しかけてきた。

「ああ。神野か」

「おお。そういや、直樹。レギュラー獲得おめでとう」

「エースで四番様に言われると嫌味のように聞こえるけれどな」

 必要もないのについつい憎まれ口をたたいてしまい少し自己嫌悪を抱いた。

「こらこら。そういうこと言わないの。でもすごいよ、神野君。頼りにしているよ。頑張ってね!」

 俺と話すよりも一オクターブくらい高い声で言った。おいおい。マネージャーさん。えこひいきはいかんぜよ。二人に聞こえないように、けれども自分にだけは聞こえるようにつぶやいた。



******************

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 右肩をたたかれた感触があった。薄暗い風景をぼんやりと見回した。

「中原君。大丈夫?」

 横から芦澤係長の声が聞こえて一気に目が覚めた。どうやらうたたねしていたみたいだ。もうフロアにはほとんど人がいないようだ。

「あまり根詰めすぎるのも考え物だよ」

 俺のディスプレイに目を向けながら言った。画面にはDGPに関連する資料が開かれていた。昔の犯罪履歴も掲載されていた。

「こいつらって殺人事件にもかかわっているんですね」

「……。そうだね。昔、女子高生が一人なくなっているんだ」

 ワンテンポ遅かったのが気になったが、特に何も言わないようにした。

「気になるのかい?」

「ええ。今まで見てきたものと、どうも違う感じがして。今後かなり関わりそうだと思ってて見てたんですよ」

「勉強熱心だねえ。でも、もう遅いから帰ろうよ。体調管理は仕事の基本だよ」

「そうですね。では私もお暇します」

 下手に粘っても印象を悪くするだけなので、引き揚げよう。画面を落として、カバンを持って俺たちは外に出た。



 建物の外は街路樹の葉は黄色みが買っていた。冬の寒さは本格的になってきたようだ。吐く息の白さを眺めていると、

「中原君ってこの後ひま?」

 係長から声をかけられた。

「ええ。特に予定はないですが?」

「軽く飲みにいかない?」

「いいですけれど。体調管理は仕事の基本じゃないんですか?」

「気分転換をすることも仕事の一つだよ」

 その言い草に思わず笑ってしまった。

「いいですよ。お供いたします」

「いいねえ。それじゃあ行こうか」

 赤坂の飲み屋街に俺たちは足を向けた。



 そこそこ金が飛びそうな個人居酒屋にて。

「ねえねえ。中原君は結婚しないの?」

 でたよ。酒の席での定番質問。一時間くらい飲み始めてそれなりのアルコールが入ってきたころ。

「結婚というのは相手がいて初めて出来るものです。という答えで問題ないでしょうか」

 後は察してください、だ。

「ああ。うん。そうだね」

 おお。察してくれたよ。空気が大事な日本社会バンザイ。

「で。どうして相手いないの?」

 第二ラウンドスタート。さて。どうやって流そうかしら。

「最近、街コンとか流行っているみたいだけれど」

 どんどん展開されていくなあ。

「ぶっちゃけ言うと興味がないからだと思います。僕ってかなり雑な性格なので、誰かと一緒に生活するのが難しい気がするんです。共同生活に魅力を感じませんし。女は好きですが、結婚は好きじゃないんです」

 ふと気づくと芦澤さんが沈痛な面持ちで俺を見ていた。口を開きかけたがいったん閉じ、

「そっかー」

 と、一言だけ声にした。

「まあ。あれですよ。いい女と出会ったら心持変わるかもしれませんし」

 辛気臭い雰囲気を振り笑うように軽い口調で話した。係長も笑いながら、

「そっかー。結婚している身としてはそんなに悲観的にならなくてもと思ってたからねー」

 ふと真顔になって、

「中原君は刑事を目指しているんだっけ?」

 と言ってきた。唐突だとは思いつつ、

「ええ。探偵マンガに憧れていたので。それが何か?」

「いや。言うまでもないけれど刑事はつらいよ。人の嫌な部分を見続けなければいけないし。勤務時間は不規則になるし。時には殉職するかもしれないし」

「それは意識しているつもりですが」

「うん。中原君の性格上、そうだと思っているよ。時折心配になるんだよ」

 と、ハイボールを口にして、

「なんか。君はDGPにのめりこみそうな気がするんだよ」

 身体中にひんやりとした感触が出た。声が震えないように、

「そんな。考えすぎですよ」

 と、何とか伝えた。係長は信じていない目をしていた。



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 冬の月は白く輝いていた。酒で火照った身体を覚ますように、木枯らしに抱かれていた。頭がくらくらしていて、若干のだるさがあった。気分転換にラーメンを食おうと、行きつけの店に向かった。

 今日話したことを頭の中で反芻していた。係長に目をつけられるのは正直勘弁だ。理由を探られるのも喜ばしくないな。クソ。しくったな。

 自分に悪態をつきつつ道をぼんやりと歩いていたら、いつの間にかラーメン屋の提灯が目の前に来ていた。店内は七割くらい埋まっていて、適度の活気があった。

「すみません。これください」

 おっちゃんにチケットを渡して席に座った。年季が入った壁の色、シンプルなメニュー、深みのある味噌のにおい。いたるところにラーメンがうまいことを示していた。

「あら? 奇遇ね」

 横から声をかけられた。隣を見ると勝気な瞳とさっぱりとしたショートカットが魅力な新聞記者の女がいた。

「お前か。今日は何の用だ」

「自意識過剰じゃない? 官公庁取材の帰りよ」

 そういって荷物がたくさん入っていそうなカバンをおろした。

「おじさん。大盛で」

「ふとるぞ」

 バッチーンと思いっきり頭を叩かれた。結構痛い。

「あなたこそ健康に悪いわよ。お酒の後のラーメンなんて」

 ちっ。見破られてやがる。何か言い返そうとしたら、

「へい。お待ち」

 おっちゃんが熱々のラーメンを俺たちの前に置いた。赤みを帯びた汁に鮮やかな黄色の麺が映えていた。

「うまそうだな」

 思わずつぶやいた。

「そうね」

 彼女も口にした。俺は箸を二本取って、片方を藍に渡した。

「ありがとう」

 俺たちはそろって箸を割った。二人の前にはラーメンの湯気が漂っていた。

「それじゃ、いただきます」

「いただきます」

 声をそろえて食べ始めた。程よい濃さの味噌が麺に絡まっていた。一言でいえば旨かった。

「おいしいわね」

 あいつも同じ感想らしい。それ以降、俺たちは黙々と麺を口にしていた。太るとわかっていても思わずスープをすべて飲んでしまった。

「よく飲めるわねえ」

 あきれたような声であいつはつぶやいた。



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 酒のほてりが残る中、俺と藍は都会の寒空の下を歩いていた。特に親しくもないから、会話もなかった。俺は彼女のショートヘアを盗み見ていた。ピンと張った背筋と合わせって、どこまでも前に進んでいくような印象を抱いた。

「何?」

「いや。なんでもない」

 それでも俺は横目で気づかれないように見た。こいつといると夏の日の太陽を思い出す。もう少し歩いていたいと思っていた。手にはスマホを握っていた。連絡先を聞こうか逡巡していると、

「それじゃ、私はこっちだから」

 いつの間にか地下鉄の駅について、彼女は下っていた。

「それじゃ、またね」

 そういってあいつは去っていった。またね、か。俺は一人心地ながら雑踏の中に紛れようとした。

「あ、その前に。あんたLINEのフルフルを起動して」

 ドキッとしつつ起動すると、先方も開いて振っていた。

「ありがとう。それ私のアカウントだから登録していた」

 そういって彼女は改めて地下鉄の駅に潜っていた。喜んでいいのか、悲しんでいいのか、何ともいえない気持ちを持ちつつ、俺は彼女のアイコンを何度も何度も見返した。しっかしこの猫ブサイクだな。



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 球場には活気がある。客席ではビール売りの女の子たちがハキハキと動いていた。応援団のラッパや太鼓が響き渡っていた。懐かしい雰囲気を身体中で味わっていた。

「おめえは野球が嫌いだったんじゃないか?」

 隣にいる藍に声をかけた。こいつはしれっとした顔で、

「あまりね。あなたもよく来たわね」

「野球は嫌いだったんだけれどな」

 うそぶきつつグラウンドの方を見た。選手たちが練習をしており、白いボールが行きかっていた。少しでも近く見ようとしているのか、一番下の席には子どもたちが集まっていた。俺もやつらの頃は食い入るように見入ってたっけ。そういうのを思い起こすと自然と頬が緩んでいた。隣の女もほほえましそうに子どもたちを見ていた。ちょうどスター選手が来てサインをしているところだった。



 ゲームは淡々と進んでいった。それぞれのチームの投手がいい感じに抑えていた。白熱の投手戦と言える。ただ、若干暇にも感じる。周りを見渡してもトイレ休憩に行く人がちらほらいる。

「なかなか進まないわね」

「そうだな」

 弛緩した空気が流れている中、ホーム側の四番が高めに浮いた球をとらえた。バッターはダイヤモンドをゆっくり一周してホームベースを踏んだ。これで試合は動き始めた。

 続く打者も初級からくらいついてツーベースヒット。得点圏にランナーを進めた。連打連打連打でピッチャーをタコ殴りしていた。

 ゲームは九回の段階で十点差になっていた。ワンサイドゲームになったため、帰宅している人たちも出てきた。今日は見納めかなと思っていると監督が審判に行って声をかけた。そしてウグイス嬢のアナウンスが流れた。

「ピッチャー○○に代わりまして斎藤佑樹。背番号十八」

 あふれんばかりの歓声が上がった。マウンドにはかつての甲子園のヒーローが上がった。

 一球、一球丁寧に投げていた。かつての姿はなくても、今でも投げ続ける彼に多くの人があこがれるのだろう。白球を放つたびに大きな声が上がった。結果、打者三人をぎこちなくも抑えた。会場ではこの日一番の喝采で満ち溢れていた。



「なんだかんだ面白かったわね」

 帰り道、藍がつぶやいた。もう日は暮れていて、真っ白い月が昇っていた。俺も今日の試合の感慨に更けていた。

「それで? あなたってどこのポジションだったの?」

 さも当然のようにコイツは聞いてきた。そりゃ話せば分かるかと内心苦笑いしつつ、

「ファーストだよ。五番を打っていた」

 高校生の頃を思い出しつつ、答えた。



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 ボール。ボール。フォアボール。四番打者の神野がファーストに向かって歩き出した。どうやらはなっから勝負する気ゼロみたいだ。はん、俺なら簡単に抑えられるって。頭の血管が無事切れそうだった。

「五番。ファースト。中原君」

 わが校のブラスバンドでは青春の名曲『タッチ』を鳴らしてきた。よし。ここが勝負どころだぜ。

「直樹! コケにされてるぞ! 打て!」

 ベンチからきたねえ黄色い声が聞こえてきた。こりゃやるしかない。ピッチャーは俺に向かって投げた。内角低めに決まった。すんげえ早えな。神野と勝負しろよ。いったんホームベースをこんこんと叩いてピッチャーを見据えた。こちとら四番が敬遠されると燃えるタイプでな。

 二球目、真ん中の甘い球が来た。フルスイング!! としたいが。直前にストンと落ちてボールに。見え見えの奴に振るかバーカ。マウンドに向かってニンマリとした面をしてやった。一瞬相手はむっとした表情をした。おいおい。あまり顔に出るのはよろしくないぜよ。

 三球目。相手は思いっきり腕を振ってきた。外角高めに剛速球が迫った。今度は俺は思いっきり振ってやった。バットがうまくボールにかち合う感触がした。ボールの方向を見送るまでもない。俺はゆっくりと一塁に向かって走り出した。悪いな。俺は諦めが悪い男なんだよ。



「いやー。直樹よかったよ!」

 マネージャーから俺は肩をバンバン叩かれた。地味に痛い。

「へっ。あれくらい楽勝なもんよ」

 ちと図に乗る俺。

「本当に格好良かったよ!」

「中原って打つべき時に打つよね」

 神野も同じことを口にし始めた。正直照れくさい。

「ようし。このまま甲子園に一直線だね」

 気が早いとは思ったがこれでも高校球児。

「そうだな。一気に地方大会を勝ち抜くぞ」

「おう」

 神野も答えた。

「二人ともいいね。これからも頑張ろう。合言葉は『甲子園優勝』!」



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 昼休み。俺はぼんやりとコンピュータ系の雑誌を読んでいた。一応日進月歩の技術に追いつかなければならないということで、キャッチアップするよう意識はしている。こぼれ話っぽいページに目を通していると興味深いタイトルを見つけた。ナニナニ。スマホのロックを解除する方法? 曰く指紋認証で登録している人は簡単だ。寝ているときにスマホを指にくっつければいいのだから。

『いやあ。浮気しているかどうかの確認楽だから助かるわー』

 こええ世の中だな。おい。

「なかなか興味深い記事だね?」

 突然後ろから声をかけられてびっくりした。

「驚かさないでくださいよ」

「ごめんごめん。勉強熱心でいいね」

 ゴシップめいた記事を読んでいたから居心地が悪いんですけれど。

「みんな怖いこと考えるよねえ。おちおち眠れないよねえ」

「芦澤さんにもなんかやましいことあるんですか?」

 ニヤニヤしながら聞いてみると、

「さあ。どうだろうねえ」

 ナチュラルにはぐらかされた。

「そんなことより君は?」

 と口にした後にしまったと顔をして、

「ああ。そんなこと関係なかったね」

 サラッと言われた。コンノ。さっきの意趣返しかよ。このままいじられて終わるのもしゃくなので、

「そういえば芦澤さん」

「ん?」

「クリスマスイブとクリスマスは有給とりますね」

 驚愕の表情を浮かべているのをよそに俺はニコチン補給に向かった。



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 街はイルミネーションに彩られていた。コートを着ても多少の肌寒さがあったが、そんなことは気にならないぐらい活気があふれていた。ラッピングされた荷物を持つ男性、談笑する家族ずれ、手をつなぐ恋人たち。慌ただしく踊るクリスマスの雰囲気を誰もが楽しんでいた。

 新宿駅西口では多くの人が待ち合わせをしていた。腕時計をソワソワ見ている人、スマホをいじくっている人、空を眺めている人。小雨だった空がほのかに雪を降らしていた。そんなことを考えていると突然肩をどつかれた。

「何ぼーっとしてんのよ。いい女でもいた?」

 ショートヘアの新聞記者が軽口をたたいてきた。このまま言われるのもしゃくなので、

「ああ。目の前にな」

「うえ」

 ワタシドン引キシテイマスという表情をしていた。おい。

「冗談よ冗談。無駄口言ってないでさっさと行きましょ」

 さっさと奴は歩き始めた。ったく。情緒を解さないやつだな。

「ああ。そうそう」

 後ろを振り向いてさらっと口にした。

「メリークリスマス」

 ったく。

「メリークリスマス」

 わざとつっけんどんでいった。



 レストランでは照明を抑えめに、ロウソクの淡い光で満たされていた。周りにいる客も少し着飾った格好をして聖夜を楽しんでいた。目の前の料理もこの日のために考え抜かれたものが並んでいた。

「あんたよくこんな店取れたわね」

 やや呆れた顔をしつつ、けれどもどこか楽しんでいつつ言った。

「これでも俺は地方公務員でかつ独身貴族だぜ。なんだかんだ金はあるんだよ」

 前の女は顔を引きつらせていた。

「まあまあ。そんなことより飲もうぜ」

 空になっていたグラスに赤ワインを注ぎ込んだ。

「まったく」

 それでも彼女は笑いながら赤い液体を口にした。なんだかんだこの場を楽しんでいるみたいに。

「それでは。ここれでプレゼント交換の時間です」

 そうして俺は白いリボンに包まれたスカイブルーの箱を取り出した。

「あら。ティファニー?」

「感謝しろよ。結構吟味したんだからさ」

 憎まれ口をたたきつつも喜んでもらえるか気が気ではなかった。彼女の表情をどきどきして見ていた。

「ありがとう。大切にするわ」

 心からそう思っている。彼女の瞳がはっきりと語っていた。



 地上四十階の窓には夜の東京が広がっていた。個人的には百万ドルの夜景と言っても触りはないくらいだ。

「きれいな景色ね」

 淡々と言っている様に見えて楽しそうな様子がにじみ出ていた。俺は手じかに合った白秋をとって、

「せっかくだから一杯いただこうか」

と、声をかけた。彼女は特に軽口をたたかず、チェイサーに水を注いでいた。

「それじゃ、君の瞳にカンパ~イ」

「ば~か」

 俺の冷たいギャグに冷たい言葉で返した。うん。こうでなくちゃ。

「私ってさ」

 少し口を濁した。瞳には憂いの色をにじませていた。

「昔ホテルのロビーによく通ってたんだよね」

「何でまた?」

「一生縁がないと思ったからよ」

 はぐらかすように笑った。

「そっか。とりえず縁があってよかったな。俺に感謝しろよ」

 今度は呆れたように笑った。それを無視して二つのグラスにウイスキーを注いだ。そうして俺はグラスを手に取った。彼女もつられて持ち上げたので、静かに二人で乾杯した。



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 白い球が一塁手の頭を超えた。俺は二塁から三塁へ向かって走った。ランナーコーチが手を振り回していた。おっしゃ。ここが俺の輝くところだぜ。目の前に相手キャッチャーがミットを構えていた。俺は球よりも早く走るつもりで突っ込んだ。ミットの一瞬先に何かが吸い込まれた。動物的勘でジャンピング。相手の手が俺の肩に触れていた。っが、すでに俺の手はホームベースに触れていた。一点が追加された。九回裏の0対0の地方大会決勝の出来事だった。

 俺の周りにチームメイトが群がってきた。四方八方より手が伸びてきて俺の身体をもみくちゃにした。その中にマネージャーの顔も見えた。

「やったね。やったね。甲子園出場だよ」

 目に涙を浮かべながら叫んでいた。ばーか。何泣いているんだよ。『合言葉は甲子園優勝』だろ?



 夜の通学路は普段と違う匂いがする。疲れた身体には虫たちのぢりぢりとした音が心地よく響いた。

「まさか本当に勝てるとは思わなかったよ」

「おいおい。今さらそれ言うか」

「ごめんごめん。それはそうと今日の走りよかったよ」

「無我夢中だったからな」

「これからも頼むよ」

「おう」



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 バッターボックスに入る。軽くホームベースを叩いて投手の方を見る。相手は真剣なツラでボールの握りを見ていた。ストレートか。フォークか。ちらっとベンチの方を見た。チームメイトたちが叫びに近い声援を送ってくれている。だが。その中にあいつがいない。

「ストライーク!」

 クソッ。注意をそらしていたらワンカウントとられてしまった。気持ちを切り替えるためにホームベースをこんこんと叩いた。それでもいまいち気が乗らない。緩めの球と思って思いっきり振ったらツーストライク。やりづらいな。あいつの声援がないと。

 ピッチャーは思いっきり振りかぶって投げてきた。こっちは完全にタイミングが遅れた。三球三振でワンアウトとってしまった。


 結局試合は三対〇で俺らの負け。甲子園は一試合で終わってください。チームメイトは涙を浮かべつつ、ありがとうございましたと対戦チームに挨拶をした。俺はくやしさを募らせつつ、最後まで姿を見せなかったあいつについて気になっていた。合言葉は甲子園優勝じゃなかったのかよ。



 昼間の晴天が嘘のように夕方になって雨が降りしきっていた。まち全体が灰色の空気に包まれているようだ。いったん学校に戻ってグラウンドでダラダラ俺らはだべっていた。甲子園の思い出をみんな熱く語っていた。俺は一人白けた思いで過ごしていた。そんな中顧問の先生がやってきた。

「みんな。話がある」

 ざわつきつつも生徒たちは先生の方に目を向けた。俺はたぶん生涯この日のことを忘れないだろう。


「麻子が亡くなった」



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 麻子はどうやら麻薬売買の組織の娘だったらしい。定期的に一般人にヤクを渡す仕事をしていた。甲子園の日も彼女は仕事が重なり、売買の業務についていた。

 受け渡し自体は滞りなく行っていたが、一つミスがあった。警察官につけられていた。彼女が所属していた組織は悪名高く、マークされる存在だった。現行犯で逮捕されそうになったところ、組織の人間から射殺された。犯人は車ですぐに逃走し、足取りはつかめない状態になっていた。あいつが死んでからぽつりぽつりと入ってきた情報だ。

 そしてあいつが所属していた組織はDGPという名前だ。この名前は決して忘れないように心に刻んだ。



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 人は簡単に生きる意味というのをなくすのかもしれない。高校生の時の俺にとっては野球と麻子だった。あいつが死んでから張り合いをなくした。あんなに打ち込んだ野球にも手が付けられなくなった。

 高校三年の夏は抜け殻のように過ごしていた。寝る、食べる、寝る、食べる。ただただ生きることだけに生きていた。時間の感覚もなく、生命の力強さも何も感じなかった。

 とはいえ、ただただ何もしない日々は俺の性に合わなかったのかもしれない。何となく生きる目的を適当に見つけなきゃと思っていた。手短にあったのが麻子を殺した犯人を捕まえることだった。そのためだけに刑事になろうと思った。一年間浪人してそこそこの大学の法学部に入った。

 花のキャンパスライフを謳歌している学生たちを横目で見つつ、淡々と試験勉強を続いていた。刑事になるためには体力をつけなければいけないということで柔道部に入った。野球をやっていたから体力には自信があったうえ、どうやら武術の才能が俺にはあったようだ。自分でもびっくりするくらいに技を吸収し、覚えていった。勝利経験もどんどん増えていった。

 もともと俺は顔の作りが整っているのだろう。女から誘われることも増えてきた。遊んでいても惰性で接していることはすぐわかるようだ。すぐに離れていった。

 そんなこんなで四年間はあっという間に過ぎていた。大学入学してから警視庁に入ることばかり考えており、関係のないことに熱を入れることはなかった。問題には何の抵抗もなく溶けていったし、体力テストなども滞りなくこなした。

 数か月後に採用連絡をもらった時も何の感慨も湧かなかった。ただただ予定通りの作業をこなせたという気持ちしか残らなかった。淡々と仕事をこなしていたらサイバー犯罪対策課に配置されていた。



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 警視庁の中は騒然としていた。

「くそ。何でばれたんだ」

 ヤクの売買の予定が池袋の裏通りであった。そこに捜査員を張り込ませたところ誰も通らなかったという。これで三件目。ここのところ立て続けに奴らから逃げられていることが多い。

「うーん。これは困りましたね」

 芦澤課長も眉をひそめていた。じりじりとした空気が漂い始めた。ヤツラはどこで情報を仕入れているのか

「とにかく皆さん。情報が抜き取られている可能性があります。十分に注意いたしましょう」

 そうして散会した。俺は一人の女に連絡を取った。

『今日空いてるか?』

 数分もしないうちにスマホが震えた。画面には期待通りの答えが映し出されていた。



 重い木の扉を開けてなじみの店に入った。カウンターは三割くらい座っている状態だ。

「今日はお早いですね」

 マスターから挨拶をもらった。今日は気取って一番にギムレットを頼んだ。きりっとした甘味が身体に染み渡る。アルコールを取り入れることでブルーな気分を紛らわせていた。

「相変わらずよく飲むわね」

 お目当ての人物がどこからともなくやってきた。

「マスター。ホワイトレディーを一つ」

 そうして彼女は白く輝くカクテルを口につけた。

「あなたにしては良いセンスよね」

 いつもの憎まれ口を叩いた。

「いつになったらその口は面構え並みにきれいになるのかね」

 さも平常であるかのように俺も軽いののしり言葉を口にした。そうしないと鼓動を抑えきれない。昔捨てたはずの青春の頃の甘い気持ちを思い出してしまう。

「てめえが俺に会いたくなったと思って気を使ってやったんだよ」

「素直じゃないわね」



 こうして夜の後、俺は藍と肌を重ね合わせていた。互いに隠しあっている欠落感を紛らわせるかのように。自分たちは人間として生きていると実感するために。そして俺はケリをつける算段を頭の中に思い描いていた。



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 警視庁の会議室にて。中は重苦しい空気で包まれていた。各刑事がメモを取る音や机を小刻みにたたく音が響き渡っていた。

「いったいこれはどうなっているんだ」

 部長が苦虫を嚙み潰したような声でうなった。捜査員が接触しようとしたDGPのメンバー、アジトはことごとくもぬけの殻となっていた。まるでこちらの情報が相手に筒抜けになっているかのように。

「システムに穴があるか。もしくは内通者がいるか」

 誰もが頭の中で描いていたことをボスが口にした。

「とにかくこれは警察の名誉にかかわることだ。徹底的に洗い出せ」

 適当な刑事ドラマでも言わないようなことを口にして散会となった。んなもん当たり前だろうが。心の中で毒づきつつ俺はとあるルートを考えていた。



 深夜の部屋で一人バーボンのボトルを傾けていた。ウイスキーの酔いに身体を任せる一方、頭は冷静にした状態でコンピュータを叩いていた。内容は警察官の動線、DGPの情報、警視庁の今後の動きなどだ。そして明日の穴となる日、俺はデータをアップロードした。窓の外は赤銅色の月が光っていた。そして一通のメールを送った。



******************



 外はあいにくの雨模様だった。部屋の中には陰鬱な色に染まっていた。どことなくいつかの夏を思わせる薄暗さだった。

 俺は私服に着替えて、でもカバンの中には拳銃を入れた。鏡に映る自分はどことなく悲壮感が出ているように見えなくもない。俺には向いていないと苦笑しつつ、部屋のドアを開けた。


 レンタカーで借りたカローラにはもわっとした匂いが広がっていた。前のやつはタバコを吸っていたのか。俺もマイルドセブンを口にくわえて火をつけた。小雨の降る暗い道を通り、俺は港湾の方へと車を走らせた。



 コンテナが並ぶエリアでは波の音が響いていた。磯の香りと遠い異国の土のけぶった匂いがこもっていた。カモメの鳴き声を耳にした。彼らはどこから来てどこへ行くのやら。自分に似合わないことを考えているなと笑いつつ、俺は目的の倉庫を探していた。



 お目当ての倉庫はすぐに見つかった。港湾の奥まったところにあり、貨物にもホコリがつもりまくっている。二三歩ほど歩いてみたら靴の跡がくっきり見えた。クックックッ。コイツはおあつらえ向きだぜ。さてと。後は待ち人が来るだけだぜ。入り口から陰になるところにどっかり座った。帰ったらコートを洗濯せにゃならんな。



 だいぶ時間がたった。西日が倉庫を照らしていた。そろそろかと思っていたころ、コツコツという足音が聞こえてきた。俺はむくりと起き上がった。両手を広げて来訪者を迎え入れた。

「遅かったな。待ちくたびれたぜ」

 目の前にはショートカットで勝ち気の瞳の女がいた。麻子が大人になったらこんな感じだったのだろうか。

「あんた。何でここにいるの」

 無表情のまま口にした。

「いやあ。とある麻薬組織のメンバーを待っていたのだよ。ほら。俺って警察関係者だし」

 おどけたまま話しかけた。

「それはそれはお忙しそうで。目当ての人とは会えたの?」

 お互い三文芝居をしていると自覚しているようだが、俺は演じ続けていた。

「もちろんだよ。振られるんじゃないかとドキドキしていたが、いやあ願いが通じたみたいでよかったよかった」

「それはおめでとう。ちなみにその人って誰?」

 先方はそろろろ茶番を終わらせようとしてきた。望むところだ。こちらも役者が本業ではないので。

「もちろん君のことだよ。DGPの岡田藍さん」

 彼女の表情はぴくりとも動かなかった。

「いやあ。警察の情報が漏れていたことについてはびっくりしたよ。ハッキングとかかと思ったが、まさか俺のスマホからだったとはねえ」

「いつから気づいたの」

 おー。とぼけてもらわないのは助かる。コナンの推理パートは飛ばす派だからかったるくてしょうがない。

「最初っからだよ。君の顔を見てピーンと来たんだよ」

「へえ。そう」

 先方は特にしっかりとした答えを期待していなかったようだ。白けた目をしつつ、

「そう。じゃあ私の動きも読めているのよね」

 そういって彼女は拳銃を右手で持ち、俺の身体に照準を合わせていた。

「そりゃもちろん」

 そういって俺は両手を上の方にあげた。

「へえ潔いじゃない」

 顔の動きを一ミリも動かさずにつぶやいた。

「悪いわね。これが私の仕事なの。最後に言い残すことがあれば聞いてあげるわ」

 おー。寛大な措置ありがとう。そういって俺は言葉を口に出した。

「ごめん」

「は?」

 予想していなかったのだろう。俺はコイツに伝えるための素の言葉を。口にした。

「お姉さんとの約束を守れなくて」

 もう俺は藍の顔を見れていなかった。

「お姉さんが高校生だったころ、俺は同じ野球部だったんだ」

 真夏のくそ暑い中、俺らは練習に励んできた。

「いつも思っていたんだ。お姉さんが殺される前に俺にも何かできたんじゃないかって」

 一緒に帰る。事前に察知する。悪の組織と戦う。手段はなんでもよかった。あいつを助けられるのになんか手があったんじゃないか。

「合言葉は甲子園優勝。一緒に甲子園に行けなかった」

 そう。正直、俺はもう命は惜しくないと思っていた。あの時にもう生きる意味を失っていたから。このまま妹に殺されれば本望だという気がしていた。

「姉さんはよくあんたのこと話していたよ」

 見上げてみると藍は痛みをかみしめるような顔をしていた。

「バッティングセンスは普通だけれど勝負所にめちゃくちゃ強いって。かっこつけているけれどおっちょこちょいで。面白い人だって」

 それから一呼吸おいて、

「付き合ってみたいなあ、って一回だけボソッと言ってたなあ」

 その一言を聞いて、俺は膝ががくっとするような感覚を覚えたな。何だよ。遅すぎるだろ。ちゃんと俺に言えよ。そしたら俺もてめえに言えただろうに。俺と付き合えよってさあ。身体の震えが止まらなかった。

「今日は私と会ったことはなかったことにしてあげる。そこの出口に向かって」

 予想外の展開に戸惑った。

「別にあんたを殺したところで、そこまでメリットないんだよね。だったら見逃すわ」

 俺は藍の顔を凝視した。

「第一、姉さんの好きだった人だもの。そんなことしたら地獄で顔向けできないじゃない」

 そういってニッと笑った。

「じゃあ出てって」

 そういって話している後ろで、きらりと光るものが見えた。とっさに俺は藍にとびついて、床に倒れさせた。

――ダンッ。

 銃声と弾が頭上を通りすぎる感触がした。これがこの組織のやり方だよな。麻子のときもそうだったな。俺は右手に拳銃を握りしめた。実際に初めて使うから手に汗がにじみでいた。

「あんた。非番の日に持っているのは違法なんじゃないの」

 か細い声で無理やり冗談を言っているようだ。身体は小刻みに震えていた。

「ばーか。ヒーローは時に法律を破るものさ」

「ばーか。警察官のいうセリフじゃないわね」

 そういっている彼女を背中の後ろに回した。また発砲の音がした。ちっ。やっぱり先方の方が手馴れてやがる。

三発目の音。そして左肩に強烈な痛みが走った。

「グッ」

 あたりにむっとした赤い液体が垂れていた。後ろからきつく手を回されていた感触がした。あーあ。ヒーローっていうのは何度も演じるもんじゃねえな。

 俺は壁に向かって何発か発砲した。ガラスの割れる音、荷物の倒れる音が四方八方からした。同時に土煙が舞っていた。

「じっとしてろ」

 後ろの奴にそっと声をかけた。そして俺はダッシュで回り込んだ。パンパンという音が響きまわった。どうやら突然の動きに先方は戸惑ったようだ。こっちは伊達に体育会系やっているわけじゃねえ。野生の勘ってものを見せてやるよ。

 側面から回り込んで首根っこをつかんだ。相手は俺の顔に向かって銃口を向けた。んが、少し遅かったな。肩の痛みを華麗にスルーして思いっきり背負い込んだ。見せてやるよ、大学四年の柔道の力を。盛大に相手を叩きつけてやった。

「ぐぴっ」

 あー痛いだろうな。俺も痛かったからお相子様だ。そうして奴はピクリとも動かなくなった。ふう。これで一見落着と。

 あらかじめ持ってきた縄を使ってコイツを縛り付けた。逃げられると困るしな。そしてか細くしているお姫様のとこに向かった。

「よう。片付いたぜ」

 話しかけても無言のままだった。ま。そだよな。

「それと一応仕事何で悪いな」

 そうしてカバンから手錠を取り出して刑事ドラマっぽく言った。

「銃砲刀剣類所持等取締法違反で現行犯逮捕させてもらうわ。痛いかもしれないが我慢してくれ」

 カチャっという無機質な音が鳴った。何度やってもこの音は好きになれねえな。

「あの」

 ぼそっとつぶやいた。

「ん?」

 藍は何度か言葉を逡巡し、一回だけささやくように口にした。

「ありがとう」

 どう反応したらいいかわからず、

「どういたしまして」

 と月並みな答えを思わず口にしていた。



 顔前にニコニコ顔の芦澤係長がいた。あの。目が笑っていないのですが、目が。

「困るんだよねえ。中原君」

 あっ。やっぱりお説教モードだ。

「非番の日に拳銃持ってっちゃいけないの。分かります?」

 はい。分かります。

「あとひとり行動も。ダメ。ゼッタイ。警察学校で習わなかった?」

 はい。習いました。

「肩も随分けがしちゃって。自分の身体を大事にしなきゃダメでしょ」

 はい。ごめんなさい。

「でも。まあ」

 しょうがないなあ、という顔をした後、

「おつかれさま。今回は被害者を守れてよかったよ」

 あいつの方を見ながら係長は口にした。

「どうなりますか?」

「DGPはそれなりに悪いことしたからね。結構いろんな罪に問われると思うよ」

 だよな。鈍い感覚を噛みしめながら思っていると、

「でも。情状酌量はあると思うよ。それに」

 と、ワンテンポ置いた後、

「中原君が気にしている子だもの。ちゃんと償えるよ」

 根拠があるようなないようなことを口にした。

「さて。ナイトはこんなところでオジサンと話してちゃダメダメ。ちゃんとお姫様に優しい言葉をかけてあげなくちゃ」

 そういって俺の背中をドンと押した。少し肩が痛いのですが、先輩。と、照れは心の内に秘めて、お転婆プリンセスの方に足を進めた。

「体調はどうだい?」

 アイスブレイクもかねて軽口をたたいてみると、

「埃まみれの古倉庫に連れ出されて風邪気味ね」

 摂氏零℃の答えが返ってきた。相変わらずつれないね。

「上司と話してみると少しは情状酌量はあるっぽいぞ」

 続けてみるも、

「あら。そう」

 そっけない返事が戻ってきた。いやあ。コミュニケーションは難しいねえ。んじゃ、

「それと俺、草野球のチームに入ろうと思うんだ」

 初めてこっちの方を見た。

「またバリバリのバッティングをしてやるよ」

「あー。だいたいいつもなめられて前の打者を敬遠させらるという」

 麻子のやろう。下らねえことまで妹に吹き込みやがって。

「いいんじゃない。あんたらしくて」

 自分のこれからのことを思って寂し気に笑った。

「それでさ。出所したらさ、俺のチームのマネージャーになってくれよ」

 予想外のセリフで鳩が豆鉄砲を食らったような面構えをしていた。

「いやあ。俺って女が目の前にいると燃えるのよ。おめえが来たらホームラン量産しちまうぜ」

 はーという深いため息をついた後、

「あんたには女は出来そうにないわね」

 といった後、

「手伝ってやってもいいわよ」

 続けて大きな笑顔で、

「その代わり『合言葉は甲子園優勝』だからね。ビシバシしごくわよ」

「ああ。よろしく頼むよ」

 そして、今後彼女の支えになれるように、くさいセリフを口にした。



「ずっと待ってるからな」


[あとがき]


 勢いと楽しさだけでは小説は描けないと痛感したのが今作でした。毎日一行書くのが精一杯で、イメージしていたものとだいぶかけ離れていました。本サイトに投稿する前に改めて読んでみると、直樹くんが直樹くんらしく動いていてビックリしました。自分の小説を読み返すのも悪くないかもと思って一人ニヤニヤ笑っていました。

 本作は子どもの頃にすごくハマったゲーム『パワプロクンポケット シリーズ』の影響を強く受けています。こんな話を私も書いてみたいと思って作りました。私なりのファンレターです。

 最後にここまで読んでいただいきありがとうございました。あなた様に少しでも楽しい時間を過ごしていただければと作者として願っております。

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