キスから始まる都市伝説
最近、妙な視線を感じる。初めは気のせいかと思いましたが、それを感じ始めてもう一週間になる。
「……」
通学の最中、学校までの道のりは約二十分、その間ずっと感じる妙な視線。気にしないようにして学校へ急ぐ。
「あっ……」
「……」
十字路の横道から吐息を漏らしたような声が聞こえる。無視します。
「ささささっ……」
「……」
後ろをついてくる妙な視線の正体。無視します。
「そろりそろり……」
「……」
背後で右から左から私を覗き込もうとしてくる。無視します。
「ささささっ……」
「……」
私の行く道を先回りし、また横道へと身を潜める。無視します。
「あっ……」
「……」
また吐息を漏らしたような声。無視します。
「うぅ……」
「……」
今にも泣き出しそうな声。無視します。
「抜き足差し足……」
「……」
無視します。校門が見えた。妙な視線の主はそこを潜ればいなくなる。後少し、もう少し。
『……ヒヒヒッ』
「っ!」
校門まで後数メートル、そこで先程までとは明らかに違う声が耳に届いた。無視して校門を走り抜ける。
「あっ……今日も駄目だったぁ」
その瞬間、残念そうな声が聞こえた。無視、します。
教室に入り、自分の席に座って鞄を下ろす。背中には嫌な汗をかいていた。鞄から教科書を取り出し、机の中に仕舞っていく。
「おはよー」
「おはようございます」
その途中、私が来たことに気付いた隣の席のクラスメイトが挨拶して来る。手を止めて立ち上がり、お辞儀を返す。
「相変わらず固いなあ、響ちゃんは。もう5月だよ? たにんぎょーぎ? 過ぎるって」
「そんなことない……と思います」
あまり自信はないですけど。というかクラスメイトとは他人なのだから間違いではないと思います。
「ウサギさんは寂しいと死んじゃうんだから、もっと仲良くしようよー」
「……私はウサギさんじゃありません。苗字に入っているだけです」
私の生態はあなたたちと同じ人間です。
兎羽 響。それが私の名前。そうやってからかわれるのは慣れているけれど、あまりいい気分じゃありません。
「響ちゃんは素直じゃないなあ」
「どうしてそうなるんですか」
マイペースなクラスメイトに眩暈がする。彼女はいつもこうです。
「あっ、そういえば知ってる? また下級生が溺れたんだって」
「知りません」
「また同じ場所みたいだよ? これでもう新学期が始まって三回目だね」
「そうですね」
「……ひょっとして興味ない?」
「はい」
「またまた素直じゃなーい!」
「素直なつもりだったんですが」
彼女はつまらなさそうに両手を机の上に投げ出し、唇を尖らせる。
「だってさー、同じ場所で三回だよ三回っ、しかも一か月ちょっとで!」
「私たちも子供の時、似たような経験があるでしょう。珍しい事じゃないですよ」
「んー……そうかなあ? 確かに私もちっちゃい時に川で遊んで溺れかけた事はあるけどさあ」
「そうですよ」
「うーん……いや! やっぱり違うよ!」
納得してもらえるかと思いましたが、そうはいかなかったようです。
「だって私たちは『馬』なんて見なかったでしょ!」
「……『馬』?」
「そう! 溺れた子たちが皆言ってたんだって、お馬さんに乗ってたら溺れたって」
「ボートか何かの事を言ってるんですよ」
「それは白鳥じゃん! それにあの池にそんなボートなんてないし!」
「なら馬に似た流木とか、岩に乗って遊んでいたんでしょう」
そう言っても、まだ彼女は納得していない。……ホームルームまで後十分ほど、それまで話に付き合うしかなさそうです。
……そう諦めた時だった。
『ヒヒヒ、馬、馬、ヒヒーン、ヒヒヒ』
「っ!」
耳元で囁かれた声に、思わず立ち上がる。
「ど、どしたの?」
「……いえ。少しお手洗いに」
目を丸くして驚き、私を見上げるクラスメイトにそう伝え、私は逃げるように教室を出た。無駄だと分かっていても、あの場に留まり続けるよりはずっといい。
「……はぁ」
トイレに駆け込み、手洗い場で俯く。嫌な汗が背中を伝うのが分かる。顔を上げて鏡を見ると、顔色は最悪だった。
『ヒヒヒ、ヒヒヒ』
「……」
相変わらず耳元で囁かれる声。耳を塞いでも、何処に行ってもその声は消えない。
この声が聞こえるようになったのは、入学してから。二年ほど前の事だ。寝ても覚めても、ううん、眠る直前まで何の前触れもなくこの声が聞こえて来る。常に私を笑っていて、時々ああして笑い声以外を上げる。いつまで経っても慣れない。
……こういう事は昔からあった。多分、物心つく前から私はこういう声が聞こえていた。姿なき声、聞こえるはずのない声が。他の人に聞こえない、そう知ってからはずっと無視しようとしてきた。誰にも知られないように、でも突然聞こえるその声を無視し続ける事なんて出来なかった。そしてこんな風に不審な行動を取ってしまう。……影でおかしな子だと笑われているのは知ってる。その通りだと思う。私以外の誰にも聞こえないなら、おかしいのは私なんだ。
『ヒヒヒ』
「……うるさい」
聞こえ続ける声にそう言っても、声はやまない。耳元の笑い声も、嘲笑の声も。
「あ、おかえりー」
「……はい」
チャイムが鳴る一分ほど前に重い足取りで教室に戻ると、今朝と同じようにクラスメイトが私に手を上げた。
あんな不自然な真似を、もう何度も彼女の前でしている。なのに彼女は変わらず私に話しかけて来る。事故に遭って、一年ほど休学していた彼女だが、私と違ってクラスから浮いているわけじゃない。むしろ他の誰よりもクラスに溶け込んでいる。そんな彼女がどうして私に構い続けるのか、理由は分からない。クラスで孤立している私を憐れんでいるのなら、それは不快でしかない。……でも、それを伝える勇気も強さも私にはない。
「?」
そんな私の心など知らず、私を見上げて彼女はニコニコと笑う。
「それでねそれでね? そのお馬さんは白馬なんだって」
「はあ」
「すごいよね! 白馬だよ白馬!」
「白馬は凄いんですか?」
「だって白馬だよ! 物語の定番じゃん!」
彼女の言わんとしている事は理解できる。所謂白馬に乗った王子様、というやつだろう。
もっともその王子様候補は皆溺れているんですが。
「もうチャイムが鳴りますよ」
「はーい。真面目だなあ、響ちゃんは」
「別に。普通です」
私の言葉に素直に椅子に座り直し、彼女は前を向いた。
『ヒヒヒ』
相変わらず声は聞こえるけれど、無視します。
◇◆◇◆
終業を告げるチャイムが鳴り、私は校門を出る。声は聞こえ続けても、放課後の帰り道ではあの視線に晒される事はない。……今までは。
「……」
今日に限ってその視線は放課後にも向けられていた。
「……」
無視して帰り道を歩き続ける。無視してれば害は今までなかった。だから大丈夫のはずです。
「……あ、あの!」
「……」
「あっ!?」
なのに今日に限って……無視して私は走り出す。家にまで着いて来られるわけにはいかない。何処かで振り切らないと。
「ま、待ってよお!?」
走り出した私を視線の主は追いかけて来る。声を無視して走り抜ける。
「待ってってばあ!?」
『鬼ごっこ鬼ごっこ、ヒヒ』
耳元で囁く声も無視して、私はただ走り続けた。
どれだけ走り続けたのか、いつのまにか夕日が隠れ始めた。
「はぁっはぁっ……」
体力の限界に息を切らして思わず立ち止まる。視線は……感じない。
「何なんでしょう……まったく」
汗を拭って顔を上げて、ようやく気付く。此処は……。
「……此処、ですか」
樹に括り付けられた『事故多発中、近づくな!』という看板、その先に広がる水辺。今朝聞いた、例の池だった。
「……」
別に、だからどうという事はない。水の中に入らなければ溺れる心配もない。後少し息を整えたらすぐに帰ろう。
「……疲れました」
岩に腰掛け、息を吐いた、その時だった。
「――!?」
何が起こったのか、理解が出来なかった。岩に腰掛けたはずの私は、気付けば水の中に居た。
「げほっ、ごほっ!?」
水の中でもがきながら、どうにか顔を水から出して視線を彷徨わせる。私がさっきまで居たはずの陸が随分と遠くに見えた。一体何で……!?
息を吸えたのは一瞬、すぐにまた私は水中へと没した。服が水を吸っているから、だけじゃない。何かに引きずられるように池の中心、一番深い場所へと向かっている。もう一度必死に体を動かし、水面へと顔を覗かせる。
「げほっげほっ! た、助け――!」
助けを呼ぶ声は途中で途切れ、再び水底へと引きずり込まれる。声を上げたせいで息が続かない。
苦しい、苦しい、苦しい……! 暗く冷たい水の中、恐怖が私の心を支配していく。意識が遠退いていく。そして明確に感じる、死が近づいてくるのを。
……いや、だ……! 死にたくなんて、ない……。
水の中でがむしゃらに手足を動かす。けれどそのせいか、意識が朦朧としているからか、もうどっちが水面なのか、分からない。このまま、死ぬの……? 視界が狭まり、完全な暗闇に支配される直前、何かが私の手を掴んだ。
「……!」
誰かに抱き締められている。それが誰なのか確かめる前に、私の体は水面へと浮上した。
「こんっ、のおおおおおおおお!」
「ごほっごほっ! ……っは、げほっ!」
わけのわからないまま、けれど必死に空気を求めて私は嗚咽交じりに呼吸した。頭が、くらくらす、る……。
乱れた呼吸、水と涙に濡れた目で、私を抱き締める腕の主を見ようとして、それも叶わずに私は意識を手放した。
◇◆◇◆
「……!」
苦しい。息が出来ない。その苦しみから解放されたくて、私はまた必死に手足を動かした。
「きゃん!?」
水の中では何も掴むことの出来なかった私の手が、何かにぶつかる。それと同時に息苦しさから解放される。
「はぁっはぁっ、一体、何が……」
「良かったあ! 目が覚めた!」
私が必死にもがいていたのは水の中ではなく、地上だった。
「何がどうなって……」
何かに寄りかかっていた重く気怠い体を起こすと、私の手が握られる。
「大丈夫!?」
私を案じる声。聞き覚えるのある、声。
「あなたは……」
そこで初めて、私は声の主の顔をはっきりと見た。ここ一週間、毎日感じていた視線の正体の顔を。
「いや良かったよお……苦しそうだったけど、私の人工呼吸のおかげだね!」
「じんこ――!?」
思わず唇に手を当てる。顔が赤くなるのが分かる。恥ずかしさと、怒りからだ。
「息してるのに人工呼吸する意味がありますか!」
息苦しかったのはそのせいですか……! しかも苦しそうだったって、息してるって事じゃないですか……!
「え、そうなの?」
「そうなのって……!」
「あ、まだ立ち上がらない方が……」
その言葉の通り、怒りから立ち上がろうとした私は立ち上がる事が出来ずにまた座り込み、同じように背中を預けた。まだふらふらする……。
「だから言ったのに……大丈夫?」
「……気持ち悪いです」
「酷い!?」
あなたに言ったわけじゃ……ないわけじゃないですけど。頭痛のする頭を押さえ、改めて目の前の人物に視線を向ける。
心配そうに私を見つめる瞳、水に濡れた金髪と制服、近くの女子高の物だったはずだ。この人が私を追いかけていた視線の正体……そして多分、私を助けてくれた人。人工呼吸は間違いなく余計でしたが。
「あなたは……?」
「あ、ちょっと待ってね。えーとさっき見つけたこれを……」
私の問い掛けには答えず、女性が近くに落ちていた石で何かを叩くとボン! という音と共に起きた火が用意されていた枝木と草の束に燃える。
「いやぁポイ捨ては感心出来ないけど、今だけは大助かりだね?」
多分落ちていたライターか何かを叩いたんだろう、火を付ける部分が壊れていたのだろうけど、豪快な人。でも本当に人工呼吸が必要な状況だったならそれを用意する前にするべきですよね……。
燃え移った炎が私たちをオレンジ色に照らす。そこで気付く、既に日は落ちかけて、夜になろうとしていた。
「その子のおかげで寒くはないと思うけど、水に濡れたままじゃ風邪引いちゃうし、こっちに来なよ」
「あ、はい……その子?」
素直に頷こうとして、妙な単語に聞き返す。
「うん、枕にしてるその子。あ、私も後でやらせてね?」
「……」
そこでようやく、私は何に背を預けているのか、という疑問を抱いた。固い、まるでタイヤのようで、しかしそれでいて生物的な肉感と体毛のような柔らかな感触。恐る恐る、ゆっくりと振り返る。
「……」
『ブルルルルッ』
私が背を預けていたのは、白馬に似たナニカだった。
「ビックリしたんだよ? やっと見つけたと思ったら、その子に乗っていきなり池に飛び込むんだもん」
「私が、コレに……?」
「うん」
たき火で暖を取りながら、何てことないように女性は言うが、私にとっては全く身に覚えのない話だった。でも……。
「水辺の白馬……『ケルピー』……?」
半信半疑で口にしたその名前は、しかしその白馬の鬣と尾を見て確信へと変わる。
私が背を預けていた胴体と違い、未だに水で濡れた、藻で出来たたてがみと魚のように泳ぐ為の形をした尾、私の知っているものと同じだった。
「へえ、『ケルピー』って名前なんだ! それじゃあピーちゃんだね!」
明らかに普通の生き物とは違うケルピーを見ても女性はそんな反応を示すだけ。
「な、なんでそんな冷静でいられるんですか……!? だってコレは……!」
珍しい生き物、とか絶滅したはずの生物、とかそういう次元じゃない。『ケルピー』はお伽噺や都市伝説の中にしか存在しない、創作の存在なのに。
「てっきり『河童』さんかと思ったけど、違かったんだねー。あ、キュウリ食べるかな!?」
女性は傍らに置いていたバッグから一本のキュウリを取り出し、身を乗り出してそれをケルピーの口へと近づけた。
「だからどうしてそんな――」
『ブルルルッ』
ケルピーは首を動かし、近づけられたキュウリを私の目の前で一口で平らげた。キュウリを食べるなんて知らなかった……いや、そんな事はどうでもいいっ。どうしてこの人はこんなに冷静でいられるの……?
「……あれ?」
「え?」
もう一度問い掛けようとした時、女性の目が驚きで見開かれた。なんで今頃……?
「あ、あれ?」
目を瞬かせながら、キュウリが消えた手を伸ばしたままジッとケルピーを見つめる。
「今、この子……『鳴いた』よね……?」
『ブルルッ』
女性の言葉に反応したのか、もう一度短くケルピーが鳴く。馬と同じようで、けれど何処か神秘的な響きの音で。
「やっぱり鳴いた!」
「どうしてそこで驚くんですか……?」
他に驚くべき所があるはずなのに。
「だ、だって初めて! 初めて『聞こえた』……!」
「……? それはどういう……?」
女性の言葉の意味が理解できない。私とこの人、何かがズレている。それが何なのか、確かめないと話が進みそうにない。もう一度、改めて問い掛けようとした時だった。
『ヒヒヒッ、お馬さん、パカパカっ、ヒヒーン』
また、あの声が聞こえた。いつもと同じで突然に聞こえて来るその声だけど、今は明らかに違う。感じるんだ、その耳元の声と共に、確かな吐息と、肩に重みを。
「……『見える』……?」
視界の端に映る、透明な羽。
『目が合った、目が合った♪』
歌うように囁きながら、ソレは私の肩を降りてその羽を羽ばたかせる事無く宙に浮かび、私の眼前へと現れる。
『ハジメマシテ、ハジメマシテ♪』
小さな体から生えた羽、白い顔と大きな瞳、赤い髪と尖った耳。絵本の中に描かれるような妖精……。
「『ピクシー』……?」
『物知り、物知り♪』
笑いながらピクシーは私の周囲を飛び回る。今までずっと聞こえていた声で歌いながら。
「……すっごい! 『聞こえる』! 私にも『聞こえる』!」
「どうして……今まで『見え』なかったのに……何で『見える』の……?」
私は目に、女性は耳に手を当て、互いにそう呟いた。それは、もしかして……。
「あなたにはずっと『見え』ていたんですか……?」
「あなたにはずっと『聞こえ』てたんだねっ!」
互いに顔を見合わせる私たちの周囲を、楽しげにピクシーが舞っていた。
「私は織音、楠 織音! あなたのお名前は?」
「……響、です。兎羽 響……」
これが、私と彼女の、楠 織音の出会いだった。
◇◆◇◆
兎羽 響、目の前の黒髪の女の子はそう名乗った。礼儀正しそうに、しっかりと。
「……私の事を追いかけてたのはあなた、ですよね」
「うぐっ、その通りだけど人聞きが悪い感じが……」
いや確かにその通りなんだけど……う、うーん。
「そ、それより何で響ちゃんまで驚いてるの!? ピーちゃんの事もその妖精さんの事も知ってるんでしょっ?」
「……」
ピーちゃんと飛び回る妖精さんを指差しながら訪ねる。ご、強引だったかな……? つい話を逸らしちゃった。
「……私には声しか聞こえませんでした。このピクシーも、このケルピーも。見えていたなら、ケルピーに近づこうなんて思いません」
「ピクシー……それじゃあ……!」
俯きがちに語る響ちゃんの言葉に、私は気付く、気付いてしまう。ピクシー……それじゃあ。
「そっちもピーちゃん……!?」
「……あなたには最初から見えていたんですよね」
「あうっ、スルーしないで!?」
み、見た目通りクールだよこの子……!
「……」
無言で私を見る視線が質問に答えろと訴えている……! 思わず私も佇まいを正して答える。
「そ、そうだよ? でも見えるだけで、声を聞いたのは生まれて初めて」
「私も、姿を見たのは生まれて初めてです」
「ならどうしてそんなに詳しいの? 初めて見たのにすぐ名前まで分かっちゃうなんて」
馬の方のピーちゃん、ケルピーだっけ? の事も、妖精の方のピーちゃん、ピクシーの事も、響ちゃんは一目見ただけで名前を言い当ててた。ケルピーの方は正解か分からないけど、ピクシーの方は本人も認めてたし、間違いなく正解だろう。
「どうしてって……あなたは調べたりしなかったんですか。こんな……得体の知れないモノが見えているのに」
「え……うーん、ほとんどしたことないなあ……あ、でも河童については調べたよ! 水辺と言ったら河童だし!」
まあ全然違かったけど……。でも河童と同じくらい素敵だよね、ケルピーちゃん。
「私にとっては昔から見えるのが当たり前だったから、改めて調べたりはしてないなあ。いやほら、身近なものって案外知らない事が多かったりするでしょっ?」
月がどうして毎日見え方が変わるのとか、地球は丸いのにどうしてお空に落ちないのかとか……あ、それぐらいは知っとけって前友達に言われたから他の人にとっては常識かも?
『身近? 身近?』
「うん! でも妖精さんを見るのは初めてだなあ」
ピクシーちゃんが大きな瞳で私を覗き込む。すっごいまつ毛長い。
『恥ずかしがり屋、恥ずかしがり屋!』
「成程! でもあなたは平気なんだね?」
『慣れた、慣れた!』
おお……私、妖精さんとお話してるよ……! 見るだけでも初めてなのに、まさかこうしてお話出来るなんて……。
「……ならどうして今まで聞こえなかった声が聞こえるようになったのか、分かりますか?」
響ちゃんは飛び回るピクシーちゃんから目を逸らしながらそう言った。
「うーん……なんでだろ?」
「幻覚しか見えなかったあなたが幻聴を聞くようになり、幻聴しか聞こえなかった私が幻覚を見るようになった。それも多分同時に、何か原因があるはずです」
「いやいや幻覚って」
響ちゃんなりのジョーク? 中々ブラックだね……!
「幻覚です。ピクシーもケルピーも、作り話なんですから」
「う、うーん……? あ、今度は私からも聞いていい?」
「……はい。私ばかり聞くのは不公平ですから」
別にそういう意味で言ったんじゃないけど……聞いていいって言うなら聞いておこう。
「そのピクシーとケルピー、この子たちについて教えてっ?」
ピクシーちゃんはともかく、ケルピーちゃんはお話出来そうにないし。
「……ピクシーは海外にある民話……都市伝説のようなものです。今、私たちが見ている幻覚と似たような姿で、人間に悪戯……害を与える妖精です。人間を攫ったり、自分の赤ん坊を他人の赤ん坊と取り換えたりする、そんな悪霊です」
『悪霊? 悪霊!』
ピクシーちゃんが意味を理解しているのいないのか、また楽しげに周囲を飛び回る。
「えー、そんな風には見えないけどなあ……そのピクシーちゃんは中々ワルだったんだね!」
「……ケルピーも同じように外国の都市伝説です。藻のたてがみと魚の尾を持った、馬に似た怪物……。水辺の近くで人を待ち受けて、その背中に誘って人間が乗った途端に水に飛び込んで溺れさせる化け物です」
「泳ぐのが得意だからついやりすぎちゃったんだねえ。気をつけないと響ちゃんが溺れちゃうところだったんだよ?」
『ブルルルッ』
ケルピーちゃんの頭を撫でると、喜んで(るんだよね、多分!)鳴き声を上げた。かーわーいーいー!
「私の知っているピクシーとケルピーの話はそれぐらいです。でも今の話を鵜呑みにしないでください。これは幻覚と幻聴なんですから」
「うん、分かったー」
さっきはキュウリを食べてくれたけど、やっぱり馬に近いからニンジンの方が好きなのかな? それとも魚の尻尾が生えてるし、プランクトンとか食べるの?
「……もう一つ、私から質問です。最近、私を追いかけ回していたのは何故ですか」
「お、追いかけ回すだなんてそんな……」
や、やっぱりそれ聞くよね、普通。ううっ、改めて反省します。
「答えてください」
響ちゃんに真剣に見つめられると罪悪感が……。
「ごめんなさい! 悪気があったとかじゃなくて……その」
観念するしかないよね、ここまで来たら。少し恥ずかしいけど、正直に言おう。
「偶然その子と一緒に居る響ちゃんを見て、それで……」
「……その子……?」
いつの間にか響ちゃんの膝の上に座っていたピクシーちゃんを指差すと、響ちゃんは怪訝そうな顔でピクシーちゃんを見て、また私を見た。
「そう! すっごい楽しそうだったから……ね、ピクシーちゃん!」
……ピクシーちゃんを呼んでも何も言ってくれない。ど、どうして!? 仲良しさんなんじゃないの!? いっつも肩に乗って笑ってたじゃん!
「……また」
響ちゃんは急に背後のケルピーちゃんの方を振り向いて、零した。
「また、見えなくなった……?」
「え?」
見えなくって……そこに居るよ? ピクシーちゃんは膝の上で響ちゃんを見上げてて、ケルピーちゃんも後ろから響ちゃんを見守ってる。一歩も動いてなんかない。あ、なんかピクシーちゃんが口をパクパクさせてる、お腹が空いたのかな? うーん、でも他に食べる物は持ってないんだよね。
「声は聞こえる……あの」
「は、はい?」
真剣さを増した響ちゃんの目つきに恐縮してしまう。ち、違うんだよっ? 決してストーカーとかやましい気持ちがあったんじゃなくて、ただ私も二人と仲良くなりたかっただけで……はっ、これもやましさ!?
「あなたにはまだ、声が聞こえますか?」
「へ? わっ!」
響ちゃんがそう尋ねて来た途端、ピクシーちゃんが急に私の目の前に飛び上がった。び、びっくりした……これがさっき言ってた悪戯か!
「……元々私の幻聴なのに、あなたに聞こえますかと聞くのも変な話ですけど……その様子だとやっぱりもう聞こえないんですね」
「あ……あれ!? 本当だ!」
ピクシーちゃんは笑ってるけど、その綺麗な笑い声は聞こえない。ケ、ケルピーちゃんは!?
「ほーらほらほら! よしよしよーし!」
響ちゃんの横に回り込んで、その後ろのケルピーちゃんの首に腕を回して、体を撫で回す。でも今度は気持ちよさそうに鳴く事はなかった。な、なんで……!?
「……私が見えるようになったのはさっき目が覚めてからです。あなたは?」
「え、うーん……私も同じ、だと思う」
響ちゃんが気を失ってる間はピクシーちゃんは隠れてたけど、ケルピーちゃんとはずっと一緒だった。でも鳴き声一つ聞こえなかった。大人しい良い子だなーって思ったし……うん、私も響ちゃんと同じタイミングだった。
「幻聴だけだった私が幻覚を見るようになったのと、幻覚だけだったあなたに幻聴が聞こえるようになったのが同じタイミングなら、きっと何かあったはずです。私が気を失ってる間に何か変わった事はありませんでしたか?」
幻聴かどうかはともかく、変わった事……あ。
「何か思い当たるんですね?」
「……わ、私の初体験、とか?」
「……は?」
「やめて! そんな冷たい目で見ないで!」
すっごい冷たい! ゴミか何かを見る目だったよ!
「だ、だから私のファーストキスで奇跡が起きたのかも!」
「人工呼吸なのでノーカウントでしょう。不必要だったのは間違いありませんが」
クールすぎる……。でもそれぐらいしか思い当たらないんだけど……。
「た、試しにもう一回やってみる?」
「やりません」
響ちゃんはつんとそっぽを向いてしまう。それを見て、声は聞こえないけどピクシーちゃんが指を差して私を笑っていた。ううっ……。
「……もういいです。見えないはずのものなら、見えないままの方がいい」
「えー! なんで!? 私はもっとこの子たちの声を聞きたい! だって初めてお話出来たんだよ!?」
ずっと声が聞けたらいいってそう思ってて、それが突然だけど叶って、これきりで終わりだなんて嫌だ! 響ちゃんは違うのかな……?
「出来るなら、私の耳をあなたにあげたいくらいです。……もう帰ります。まだ湿ってますが、服も大分乾きました」
響ちゃんは悲しそうにそう言って、ふらつきながらも立ち上がった。
「助けてくださって、ありがとうございました」
「あ、待って!」
私も慌てて立ち上がる。ピクシーちゃんはいつもと同じように響ちゃんの肩に乗り、ケルピーちゃんも私たちと同じように四つの足で立ち上がる。
「もう暗いし、送ってくよ!」
「結構です。ストーカーさんと一緒に帰る方が危ないですから」
「スト!?」
すたすたと歩き始めた響ちゃんをバッグを持って慌てて追いかける。うっ、靴下がぐじゅぐじゅする……。
「ケルピーちゃん、また来るね!」
一度だけ振り返ってケルピーちゃんにそう伝えると、声は聞こえないけど頷くように首を振った。
「待ってよ!」
「……」
が、ガン無視……。
「こんな時間に濡れた格好で帰ったらお母さんが心配するでしょ!? 私からも説明してあげるから!」
そしてあわよくば家族ぐるみのお付き合いを!
「……しませんよ」
「え……?」
「……」
さっきよりも悲しそうな声色で言って、響ちゃんはそれ以上何も言わなかった。何かマズイ事言っちゃった……?
結局、私が響ちゃんの後をついて行っても何も言わず、家の前で一度だけ私を見て一礼して、響ちゃんとは別れた。き、嫌われちゃった……? い、いやめげないよ! 初めて妖精さんとも、響ちゃんともお話しできたんだもん! これをきっかけになんとしてでももう一回お話する!
「頑張るぞ、おー!」
深夜近くなった住宅街で、月明かりに照らされた私は腕を突き上げた。……まずはお風呂に入りたい。
◇◆◇◆
翌日、またあの人が私を待ち伏せている事を懸念して、いつもよりも早く家を出た。そのおかげなのか、それとも私が気にしすぎただけなのか、あの女性と出会う事はなかった。
随分と早く着いた教室には、まだ私以外誰も来ていない。自分の席に座り、改めて昨日の出来事を思い出してみる。昨日、帰った後は疲れからシャワーを浴びてすぐに眠ってしまったから。
そうして改めて思い出してみると、気になる点があった。そもそもどうして私が溺れたのか、という事。今まであのピクシーの声はずっと消えていたし、時折それ以外のもっと恐ろしいナニカの声も聞こえた事はあった。でも、それらが私に直接危害を及ぼす事はなかった。でも、昨日は違った。あの人の言葉を信じるなら、私はあのケルピーによって溺れた。あのケルピーに乗って、都市伝説の通りに。それはつまり、見えるようになる前に私はあのケルピーに触れていたという事。そんな事、今までにはなかった。
『ヒヒヒ、悩み事? 悩み事?』
「……」
耳元で聞こえた声に、私は手をかざした。けれど私の手は虚空を切るだけで、昨日触れたあの温もりを感じる事はない。……やっぱり、触れる事は出来ない。ならどうしてあの時……。
大きくなり始めた疑問を首を振る事で霧散させる。
「……幻聴で、幻覚なんだ。考えても意味がない、です」
自分に言い聞かせるように言葉に出して、それ以上考えるのを放棄した。
「あれ?」
それとほぼ同時、教室の扉が開いた。そこから不思議そうに教室の中を覗き込むのは隣の席のクラスメイトだった。
「どうしたの? 今日は随分早いんだね?」
「たまたまです。あなたこそ、いつもこんなに早いんですか?」
「ぶーっ」
私の質問には答えず、頬を膨らませながら彼女は教室へと入って来る。
「あなたじゃないでしょー? 私の名前はっ?」
「……愛さんは、いつもこんな時間に?」
名前を呼びなおして尋ねると、彼女は満足げに頷いた。
「うん、そうだよ。あーあ、また学校に来るようになってからはずっと一番だったのに」
「それは……すいません」
「って本気にしないでよっ。冗談だよ冗談」
「そうですか……すいません、そういうものに疎くて」
違う。疎いんじゃない、苦手なんだ、人と話すのが。また気味悪がられてしまいそうで、また一人ぼっちになってしまいそうで。
「日課なんだー、朝一番に来て、お花に水をあげるのが」
見ると、彼女の手にはジョウロが握られていた。花……そういえば以前、ベランダに皆で何の種か教えられないまま、種を植えた。今まで忘れていたけれど。
「みんなすっかり忘れてるけど、もうすぐ咲きそうなんだよ?」
ジョウロを持ったままベランダに出ると、彼女は私を手招きした。
「ほらっ」
誘われるがまま、ベランダに出ると並んだプランターにはもう蕾が出来ていた。彼女の言う通り、後数日もすれば咲きそうだ。
「何の花なんですか?」
「えへへっ、分かんない!」
水を撒きながら、楽しげに彼女は笑う。ピンクにオレンジ、赤に黄、白。様々な色の蕾が水に濡れて揺れる。見覚えがあるような気がするけれど、それがなんという名前なのかは私も彼女も分からない。
『ガーベラ、ガーベラ♪』
「ガーベラ……?」
耳元で囁かれた言葉を思わず口にしてしまう。しまった、と気付いた時には遅かった。
「分かるのっ!? すごーい、詳しいんだね、響ちゃん!」
「あ、いえ……合ってるかどうか分かりません」
『合ってる、合ってる♪』
今度はその言葉を無視して、俯く。こんな事をしてしまうから、私は駄目なんだ。
「へえ、でもすごいよ。私、花の名前なんて全然分からないや。お見舞いで花は一杯もらったんだけどね」
入院していた時の事を思い出しているのだろう、顔を上げると彼女は懐かしむように遠くを見ていた。半年近く入院していたと聞いていたけれど、その表情は辛いものを思い出しているのではなく、大切なものを思い返しているように見えた。それを尋ねる勇気は私にはなくて、ただそれを見ていた。
「よしっ、水やりお終い!」
ジョウロの水がなくなり、彼女の表情がまた変わる。ころころと変わる表情、それが彼女が好かれる理由の一つなのかもしれない。
「他のみんなが来るまでまだまだ時間はあるし、今日はいっぱいお話出来るね!」
「……宿題は終わっていますか?」
他の生徒たちが登校して来るまで彼女の話に付き合う自信がなく、そう苦し紛れに言うと彼女ははっとした。
「やってない!」
「……それが終わってからなら」
助かった、と思いながら私は教室へと戻る。後ろから慌てて追いかけて来る気配がする。顔は見えないけれど、きっと今度は泣きそうな表情をしているのだろう。
「す、すぐに終わらせるから! 待っててね!」
「慌てずにやった方がいいですよ」
無理矢理に霧散させた疑問は、いつの間にか気にならなくなっていた。この静かな朝の時間の間だけは、忘れてしまおう。どうせこれから一生、幻聴と付き合っていかなくてはならないんだから。
◇◆◇◆
放課後になり、校門を抜けようとして私は溜め息を吐いた。
「……どうしてまた」
校門の向こう側に昨日の女性が居たからだ。まだこちらには気付いていない。遠回りになるけれど反対側から帰ろう。そう決めて踵を返そうとした時、女性が私に気付き、ブンブンと手を振った。……無視します。
「響ちゃーん! おーい!」
「っ……」
大声で名前を呼ばれ、流石に無視できずに足早に校門を出て、女性へと近づく。
「大声を出さないでくださいっ」
同じように校門を抜けた他の生徒たちが何事かと目を向けていた。こんな所で注目されたくありません。
「こんにちはっ、響ちゃん!」
そんな私の気持ちなど知らず、周囲の視線も気にも留めず、女性は笑った。
「こんにちは、それでは」
挨拶を返し、頭を下げると女性の横を通り抜けて帰路へと着く。
「うん、またね! ……って待ってえ!」
案の定というか、やはり女性は私を追いかけて来た。
「響ちゃん、お願い! 力を貸して!」
「お断りします。昨日のお礼を言いますが、もう関わらないでください」
「そんな冷たい事を言わずに、お願いっ!」
私の前に回りこみ、パンと手を叩いて女性が頭を下げる。
「……」
「だから待ってよお!?」
それを無視して歩き続けるが、女性も諦めようとはしない。……でも、もう関わるのはごめんだ。
「実はね、この先で何だけど」
女性の言葉に耳を貸さず、女性を避けるように進む。また今日も遠回りになってしまう。
『今日は何処行くの? ヒヒヒ』
「あ、ピクシーちゃんもこんにちは! それでちっちゃい男の子がね」
『こんにちは、こんにちは!』
「ずっと泣いててね? それでね?」
『泣いてる? 悲しい?』
左右から絶えず聞こえる二つの声に頭が痛くなってくる。声も頭痛も無視する。
「響ちゃーん……」
『呼んでる、呼んでる!』
昨日のような幻覚をまた見るのはごめんだ。原因ははっきりとは分からないけれど、この女性が関わっているのは間違いない。そして女性が幻聴を聞いたのには私が……関わらない方がいいに決まってる。
だが、この女性は信じられない行動に出た。
「うぅ……響ちゃん、ごめん!」
躊躇うようにそう言って、しかしそこからの行動に一切の躊躇いはなかった。
「え……」
女性は私の正面に回り、両肩を掴むと私が何かを言うよりも早く、自分のもので私の唇を塞いだ。
「――!?!?」
人口呼吸にもなっていない、所謂……キスと呼ばれる行為。戸惑いや混乱や怒り、様々な感情がごちゃ混ぜになり、私は一瞬抵抗する事も忘れ、こうして客観めいた実況をしていた。
『大胆! 大胆!』
女性の顔で埋まった視界の端に昨日と同じあの羽が見え、ようやく私は行動した。
「おごふっ!」
両手で女性を押し退ける、身長差から私の両手は女性のお腹を的確に突いたのだろう、苦しげな呻き声をあげながら女性が離れた。
「や、やっぱり聞こえた……!」
私に『見えた』ように、女性にも『聞こえた』のだろう。お腹を押さえながら、周囲を飛び回るピクシーを見て、目を輝かせた。
「最低……っ!」
そんな女性に対して、私の目に宿るのは嫌悪の光。唇を袖で押さえながら、吐き捨て、走る。気持ち悪い、最悪、最低、信じられない……!
『かけっこ? かけっこ?』
当然のように私の横を飛ぶピクシーは相変わらず憎たらしく楽しげに笑う。視線を正し、ただ目的地だけを見る。
私の視線の先、私が目指したのは、古く、寂れた公園だった。
「っ……」
公園の入り口近くに設置された水道の蛇口を捻り、口を濯ぐ。生温いその水が、先程触れた女性のものを思い出させ、余計に気分が悪くなる。それでも執拗に、水が跳ねて服が濡れる事も気にせずに口を洗い続ける。
「良かった……! まだ居てくれた」
夢中でいたからか、いつの間にか公園の入り口に立っていた女性に気付くのが遅れた。水を止め、ゆっくりと近づいてくる女性を睨みつける。
『……もういいかい』
しかし、女性が見ていたのは私ではなかった。それに気付くと同時に、声が聞こえて来る。
『もういいかい』
背後の方、公園の隅に生えた一本の木、その幹に手と頭をつけ、何かを問いかけ続ける、少年……?
「そっか……泣いてたんじゃ、なかったんだね」
女性は私の横を通り過ぎ、その少年へと近づいて行く。彼女の口ぶり、それと少年の姿から僅かに感じる違和感。アレは……人間じゃない。
『もういいかい』
女性は少年のそばにまで近づくと、右手を顔を伏せ続ける少年の肩に置いた。
「もーいいよ」
静かに、少年は伏せていた顔を上げ、振り向いた。見えたその顔は、野山を駆け回ったかのように土に汚れていたが、その表情はあどけない、少年そのものだった。
女性を見て、少年は笑う。楽しげに、そして嬉しげに。待ち望んでいたかのように。
『み~つけた!』
「うん。見つかっちゃった」
視線の高さを少年に合わせて屈むと、女性は次に少年の頭に手を置き、優しく撫でる。
「今日の遊びはもうおしまい。続きはまた今度。今度はみんなと、ね?」
『……うんっ!』
少年の姿が薄らいでいく。綿毛が風に運ばれるかのように、少年の姿が光となって空へと昇って行く。
『ありがとう、お姉ちゃん!』
最期にそう言い残し、少年の姿は完全に消えた。
昨日のように、見えなくなったわけではない。現に今も、私の肩に止まるピクシーの姿ははっきりと見えている。
『バイバイ、バイバイ♪』
なら、今のは……。
「ごめんね、響ちゃん」
女性が私の方を振り返り、頭を下げた。
「私、あの子が泣いてるんだと思ってから……本当にごめん!」
それを早く止めてあげたくて、あんな強引な真似をしたのだろうか。……どんな理由があっても、私の彼女に対する印象は変わらないけれど。
「変態」
「はうっ! こ、今度ばかりは言い返せない……!」
……もういい。今はそれよりも、確かめなければならない事がある。
「今のは……何ですか」
時間切れなのだろう、今度は昨日と同じように、ピクシーの姿が薄らいで、やがて見えなくなっていく。それを無視し、私は女性へと問い掛ける。
「何って……男の子だよ? かくれんぼだったんだね」
「違います。私が聞きたいのはそういう事じゃなくて……!」
それは見たから分かっている。けど違う。そうじゃないんだ。私が知りたいのは……知りたくないのは……!
「あれは……どう見ても人間の男の子でした」
言いようのない焦燥感に襲われながら、それでも冷静に言葉を紡ぐ。信じていた世界が崩壊するような感覚に襲われ、手足が震えながら、それでも。
「でも、あなたには声が聞こえなかったんですよね」
「? うん。ピクシーちゃんたちと同じ。やっぱり私には声は聞こえないんだ」
そして多分、私にはその姿を見る事は出来なかった。それはつまり、ピクシーやケルピーと同じだという事。
「……前ね、この近くで事故があったんだって。夏の暑い日で、遊んでた男の子が熱中症で倒れちゃって、そのまま誰にも気づかれないで……死んじゃったって」
「……それが、今の男の子だと?」
手を握り締めながら、震えそうになる声を押さえ、言葉を続けた。
「うん。多分それからずっと此処で待ってたんだね。私、この町に来て半年ぐらい経つんだけど、全然気付いてあげられなかったよ」
女性は悲しげに笑う。でも私はそれ以上、女性の顔を直視する事は出来なかった。俯き、女性の言葉を聞く。
「でもこれできっと、あの子もまた遊べるようになるよ。お空の上でさ」
「……成仏したって事ですか」
「そうだと思ってる。今までもこういう事はあったから、きっとそうなんだって思いたい。皆、心残りがなくなったんだって」
「なら! なら……! 今のが幽霊だって、死んだ人間だって、そう言うんですか!」
女性の肯定に、私は耐え切れず言葉を荒げた。
「か、響ちゃん……?」
顔を上げ、女性をまた睨みつける。
「泣いてるの……?」
瞳から涙が溢れている事に気付く。それを乱暴に拭いながら、私は叫ぶ。
「認めません……! 今のは幻覚で、幻聴なんです! あなたが今まで見て来たものもっ、私が今まで聞いたものもっ、全部全部、幻だ!」
そうに決まってる。今の少年の笑顔も、感謝の言葉も、私たちが見た幻に過ぎない。現実では決してない。
「ピクシーやケルピーとは違う……! 人は死んだら、それで終わりなんです! 妖精は居るかもしれないっ、幻獣だって居るかもしれない……! でも幽霊だけは、絶対に居ない! 居るはずがない……!」
私の耳があるはずのないものを聞けるなら、幽霊の声も聞けるなら……!
「だって、それなら『お父さん』は、なんで……っ!」
どうして、何も言ってくれないの……!?
「お父さん……?」
「っ……」
そこまで言って、しまったと思った。口を滑らせた。こんな事、言うつもりはなかったのに。
これ以上この場に留まりたくなくて、私は彼女に背を向けた。
「待って!」
「放してっ!」
「放さないよ! こんな事言われて、涙まで見せられてっ、放っておけるわけないじゃん!」
走り去ろうとした私の腕は彼女に掴まれ、動けない。どうして……! 関係ないじゃないですか……私の事なんて、放っておいてくれればいいのに……!
『泣いてる? 泣いてる?』
「「え……?」」
ピクシーの『声』に、私を捕む手が緩む、だけど私もまた、ピクシーの『姿』に呆け、動くことが出来なかった。
「あ、あれ? なんでまた声が……?」
一度見えなくなったのにどうしてまた姿が……?
「……まさか」
考えられるのは今もまだ緩やかに私の腕を掴む、彼女の手。
「あ、あはは、まさかそんな単純な……」
乾いた笑みを浮かべながら、女性が手を放す。その瞬間、ピクシーの姿もまた、消えた。
「……見えません」
「…………聞こえません」
先程とは違う理由で感情が高ぶるのを感じる。今度は耐えようとは思わなかった。
「……あなた、昨日は声が聞こえるようになったのは私の目が覚めてからって言いましたよね……?」
「い、いや! 言ったけど! 確かに言ったけど! でもほら! 私も響ちゃんを助けるのに必死だったからさ!? まさかこんな簡単な事だなんて思わないじゃん!? ピクシーちゃんもケルピーちゃんも喋らなかったし!?」
「そのせいで私は二度も……!」
「お、落ち着こう響ちゃん? まずは冷静になって、原因が分かった事を喜ぼう! ね?」
「喜べると思いますか……?」
「じゃ、じゃあほら! 今度は響ちゃんからキスしていいから! ほら! んー!」
「やりません!」
唇を突き出し迫って来る女性の顔を押し返し、感情を隠そうともせずに叫ぶ。……はぁ。
「……何だか疲れました……」
走ったのと、怒ったのと、その他色々あったせいで。
「なら少し休んでいこう! 丁度いい場所を知ってるから!」
「……一体何処に連れ込むつもりですか……?」
「言い掛かりだよ!? 健全な場所だから! 本当!」
……いつもなら、こんな人の言う事なんて聞かない。でも何だか馬鹿らしくなって、もう少しだけ、後少しだけ、馬鹿になろうと思った。
◇◆◇◆
「戻りましたー!」
女性に連れて来られたのは、公園から歩いて十分程の所にあった。『心の在処』という喫茶店だった。
「ああ、お帰りなさい。織音ちゃん」
「はい、ただいまです。幸仁さん」
カランカランという何処か懐かしいドアベルの音を鳴らし、中に入るとカウンターに立っていた初老の男性が女性を出迎えた。
「そちらの女の子は?」
「お友達です! ね、響ちゃん?」
「……兎羽響、です」
肯定も否定もせず、本当は否定したかったですが……、私は頭を下げる。
「おお、そうですか。いらっしゃい」
店と同じ、落ち着いた雰囲気で幸仁さんと呼ばれた男性は笑う。
「奥の席、いいですか?」
「ええ。大丈夫ですよ。織音ちゃんはいつものでいいかな?」
「お願いしまーす」
「兎羽さんは何にします?」
そう尋ねられ、私は女性の袖を引っ張る。
「ん? どしたの?」
「あの……私お金は持ち合わせていないんですが」
「それなら気にしないで大丈夫! 遠慮しないで、ね?」
多分断っても押し問答になるのだろう、素直に厚意に甘える事にする。
「……じゃあ、彼女と同じものを」
こういうお店に入るのは初めてで、とりあえずそう伝える。
「分かりました。少し待っててね」
幸仁さんがグラスを取り出したのを見て、女性は私の手を引いて一番の奥の席へと向かった。当然のように、ピクシーの姿がまた見えるようになった。
「此処ならゆっくりできるでしょ?」
『ゆっくり! ゆっくり!』
「此処は……?」
彼女の行きつけの喫茶店、なら最初のやりとりは妙だ。アルバイト先か何かだろうか?
「んー? 私のお家だよ?」
「そうなんですか……」
ならあの幸仁さんという方は此処の従業員なのだろう。
「……あの、それはそうと手を放してもらえませんか」
テーブルを挟んで向かいあい、しかし手はテーブルの上で未だ繋がれていた。
「えー! だってそしたら声が聞こえなくなっちゃうじゃん!」
「いつまでも見えたままなのは落ち着きません」
「ぶー……はぁい」
不満げな表情で女性は手を離した。また急に捕まれないよう、テーブルの下、膝の上に手を置く。
此処まで来たんだ、もう知らない顔をしても仕方ない。
「とりあえず、条件はもう明白ですね」
「だねえ」
ピクシーたちの姿を見た時、初めの二回は唇同士が触れた時だった、でも多分、部位は問題じゃない。
「私たちが互いに触れている事、だよね」
「そうでしょうね」
「でも何でキスした時は離れても暫く聞こえてたのに、今は手を放したらすぐに聞こえなくなっちゃったんだろ?」
「それは……」
……触れるだけじゃなく、その、キスをした時は私の中に……。
「知りません。知りたくもありません」
「えー……」
思い出し、体温が上がるのを感じる。怒りと羞恥からに違いありません。
「とにかく、もう気安く触らないでください」
「……ほっ」
言ったそばから女性は身を乗り出し、手を私の顔に伸ばして来た。顔を逸らし、それを避ける。
「ふっ、はっ、ほっ」
「だから、やめて、ください」
二度三度と伸ばされる手を避けながら、もう一度繰り返す。
「はい、お待たせ」
「あっ、ありがとう、幸仁さんっ」
「ありがとうございます」
そんなやり取りを何度か繰り返している内に、幸仁さんがグラスを二つテーブルに置いた。氷の入った透明なグラスに注がれているのはカフェオレだろうか?
「私の一押しのココアなんだよ?」
「織音ちゃんは僕が淹れたコーヒーよりもこれが好きでね。いつかはコーヒーを取ってもらいたいんだけど」
「いやいや、コーヒーも十分美味しいよ? ただやっぱりこれは別!」
「……いただきます」
グラスを手に取った女性に続き、私もそれを口にする。
「……美味しい」
匂いと風味は確かにココアだけれど、ミルクの味が強く、薄味だ。でも自然と喉を通って行く。
「でしょ?」
「はい、すごく美味しいです」
「ありがとう。ゆっくりしていってね」
微笑みを絶やさず、幸仁さんはカウンターへと戻って行った。
「……私ね、お父さんとお母さんがいないんだ」
「え……?」
「幸仁さんは遠い親戚。両親が小さい時に亡くなって、色々な所に預けられて、最後に来たのが此処」
初めて見る表情。あの少年を見送った時とも違う、悲しげな表情。
「響ちゃんがお父さんの事で何を苦しんでるのかは分からない。私は此処に来て、幸せで、だから響ちゃんの苦しみが分かるなんて言えない。でもね? 力になりたい、笑顔を見せてもらいたい、そう思ってるのは本当だよ?」
「楠、さん」
「織音でいいよ。ううん、そう呼んで欲しいな」
「……」
幸仁さんとよく似た、大人びた、包み込むような笑み。
駄目だ、やめろ、そう心が叫んでも、止められない。曝け出してしまいたくなる。期待してしまう。私は……ずるい。
「……お父さんが」
「うん」
会って一日しか経っていないのに、あんな出会い方だったのに、頼ってしまいたくなる。
「お父さんが、二年前、亡くなったんです。仕事帰りに、交通事故で……私の誕生日で、私にプレゼントを買いに行く途中だった、って……」
グラスを掴む手を濡らすのは、水滴じゃない。私の瞳から溢れる涙。
「……お父さんは、私が普通の人には聞こえないものを聞こえるって、信じてくれました。人と違うのは悪い事じゃない、って……私は純粋で、良い子だから、他の人よりも色々な世界の音を聞けるんだって……そう言ってくれました」
「うん」
「聞こえて来る楽しげな声も、恐ろしい声も、悲しい声も、お父さんが一緒なら、怖くなかった。私も一緒に楽しく、悲しくなれた。恐ろしい声が聞こえた時は大丈夫だって、手を握ってくれた……でも、もう……っ」
お父さんはいない。私の手を握ってくれる人はいない。
「……私には姿を見る事は出来ない。でも分かってはいたんです。聞こえる声の中には、ピクシーやケルピーたちとは違う、元は人間だった者の声がある事も……」
人を恨む声、何かに苦しむ声、呪う声。それが恐ろしい時、お父さんはいつもそばに居てくれた。
「……ピクシーたちのような幻想が居て、あの少年のように幽霊が居るのも本当は分かってる……でも、認めたくなかった。幽霊が、死んだ人の魂がこの世界に漂っているなら、なんで……どうしてお父さんは何も言ってくれないんだろう、って……どうしてそばに居てくれないんだろうって……そう、思って」
お父さんにとって、私は邪魔だったのだろうか。聞こえないはずのものが聞こえてしまう私は、鬱陶しかったんだろうか。だからお父さんは、私に何も言ってくれないんだろうか。
「……お父さんが亡くなってから、お母さんは変わりました。優しくて、いつも笑顔だったのに……今はいつも暗くて、お母さんももう、何も言ってくれないんです」
昨日、水に濡れて、あんな時間に帰っても、お母さんは私の方を見向きもしなかった。心配も、何も……。
「お父さんが成仏しているなら、それを喜ぶべきなのに……考えてしまうんです。お父さんは私やお母さんの事、気にしてくれなかったのか、って……私たちの事なんて見てくれていないんじゃないかって……そんな事を考えてしまう自分が嫌で、お父さんの事も、お母さんの事もっ、段々と嫌いになってしまう自分が嫌で……っ」
……だから幽霊なんていないって、そう思おうとした。死んだ人はそれでお終いなんだって、そう思おうとした。
でも見てしまった、安らかに天へと昇って行くあの少年の姿を。心残りをなくし、穏やかに消える顔を。お父さんは……あの少年と同じように、消えてしまったのだろうか。私たちを置いて、遠くに昇ってしまったのだろうか。
「……あなたには、あなたの両親の姿が見えるんですか……?」
だから幽霊たちも居るって、そう言えるんですか……?
「ううん。お母さんとお父さんの事は写真でしか見た事ない。遠くて、年に一度しか行けないお墓でも、幸仁さんが用意してくれた仏間で毎日拝んでも、一度だってお母さんたちが見えた事はないんだ」
その答えに、私は顔を上げた。
なら、なんで……。
「でもね、響ちゃん。幽霊も確かに居るんだよ。あの男の子もそう、他にも色々な幽霊を私は見て来たよ」
「どうして……? だってあなたの一番大切な人たちは見えないのに……」
「それでも、あの子たちは其処に居るから。死んでも死にきれなくて、死んでもずっと一人で苦しんで、誰かを、何かを待ってるあの子たちが其処に居るから。だから、幽霊は居るんだ。そしてお母さんたちも、私にも見えない何処かで、今でも私を見守ってくれてるって、そう信じてる」
彼女の表情に、悲しみはもうなかった。穏やかな表情。此処には居ない誰かを想う、そんな表情。
「楠、さん……」
「良し! じゃあ確かめに行こうっ!」
「え……」
グラスに残ったココアを飲み干し、楠さんは私に手を差し伸べた。
「響ちゃんのお父さんがまだ居るのか、私たちの目で、確かめよう?」
「で、でも……今更……」
「分からないよ。まだ分からない。響ちゃん、私たちは互いに見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえたりしたけど、今は違うよ。響ちゃんとなら私は聞こえなかった声が聞こえる、響ちゃんは見えなかったものが見える。……二人でなら、見つけられるかもしれないじゃない?」
恐る恐る、それでも、私は差し伸べられた手に手を伸ばした。
『仲良し、仲良し♪』
手が握られる。楠さんと、ピクシーの小さな手に。
「うん。仲良しさんになれたら、私も嬉しいな」
見えるのだろうか、聞こえるのだろうか。二人でなら。
ピクシーの笑みが見えたように、ピクシーの優しい声に気付けたように。お父さんの事を、見つけられるのだろうか。
「……これで見つけられなかったら、キスの件と合わせて責任、取ってくださいね」
後ほんの少しだけ、馬鹿でいよう
後少しだけ、素直になろう。
この人を、頼ってみよう。
・ケルピー
イギリスに伝わる幻獣。藻で出来たたてがみと魚の尾を持ち、手綱をつけた白馬の姿をしている。性格は臆病で気が荒い。
水辺の近くに現れ、その背中に人を誘うが人が乗った途端に水に入り、乗った人を溺れさせてしまう。
しかしそれでも手綱を放さずにいると次第に大人しくなり、地上へと上がる。そうなれば乗せた人を主人と認め、生涯付き従う名馬になると言われている。
・ピクシー
同じくイギリスに伝わる妖精。外見は様々だが、特徴的なとがった耳(いわゆるエルフ耳)と大き目な瞳は共通している。
悪戯好きな性格で人間にちょっかいを出すが、人間を友人として認め、様々な手助けをすることもある。
・少年の霊
元ネタなし。
夏休み、かくれんぼで遊んでいる中、熱中症にかかり、そのまま誰にも気づかれる事無く亡くなった少年が地縛霊となったもの。
遊びが終わり、音葉感謝しながら成仏した。
天国できっと、新しい友達と遊んでいるのだろう。
※実際に伝わる話とは異なる部分があります。