表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

其の五

 私はひとり浴室の前に立っている。


 脱衣所の床とバスマットは、あちこち赤黒い染みで汚れていた。湿った重い物を引き摺った痕、手形、足跡……ゾッとするほど汚らしい。しかも魚が腐ったような臭いが籠っている。

 嫌だ、綺麗に拭いたつもりだったのに。漂白剤を使えばさっぱりと消えるかしら。


 そんなことを考えながら浴室の扉に目をやると、擦りガラスの引き戸にも赤い汚れがついている。ごく小さなそれは、かすかに動いているようだった。

 私は思わず手を伸ばす。その赤い染みは、蝶だった。浴室側からガラスにとまって翅を動かしている。


 捕まえなければ――私が扉を開けようとした時、土砂降りの雨が打ちつけるような音がして、いきなり赤い染みが増えた。蝶の数が増えたのだ。

 無数の赤い蝶が出してくれと羽ばたいている。後から後から扉に貼りついて、擦りガラスは真っ赤に変わった。扉がギシギシと軋む。私は必死で押さえた。


 出てくるな。勝ったのは私だろう。どうして甦ってくるの、今になって。


 澄んだ音を立てて、ガラスは割れた。

 浴室から噴き出してきた血色の奔流が、私を飲み込んだ。





 ベッドの上で、私は目を覚ました。

 きちんとパジャマを着て、タオルケットを被っている。細く開いた窓から夜風が入ってきていた。


 よく覚えていないが、ひどく悪い夢を見ていた気がする。まだ心臓がドキドキしていた。枕元のスタンドを点けて時計を見ると、午前零時過ぎ。隣に浩一郎こういちろうの姿はなかった。

 私はにわかに不安になって、ベッドから起き出した。浩一郎はまた幻覚を見てパニックを起こしたのかもしれない。


 廊下に出ると、階下のリビングから明かりが漏れているのが見えた。人の気配もする。浩一郎と――女の声だ。死んでいるくせにいつまでも浩一郎から離れない、あの厚かましい女の。

 追い払ってやらなければ。殺したのはあの人だから、家から追い出すのは私の役目だ。


 意外なほどたやすく、覚悟は固まった。時間をかけても即決しても、答えは同じなのだから。


 私は隣の子供部屋を覗いた。小さなベッドでは、お気に入りのアニメのポスターに見守られて、まもるがすやすやと寝息を立てている。私はほっとした。大丈夫よ、お父さんは絶対に渡さないからね。

 私はいったん部屋に戻って、戸棚の中を探った。





 リビングからは、テレビの音声とともに二人の会話が漏れ聞こえてきていた。


「ねえ……お義母かあさんの様子やっぱり変よ。そう思わない?」

「ん……まあそう言われてみれば」

「今日は早いシフトだったから四時過ぎに帰ったんだけど、強盗を見るみたいな目で睨まれたのよ。別の人の名前で呼ばれた。くみこ……とか」


 プシュ、という空気音は、浩一郎が缶ビールを開けたのかもしれない。


「一度病院で診てもらった方がいいんじゃない? 何だか気味が悪いわ」

「そんな言い方すんなよ、明日香あすか。母さんが家事をやってくれるから、俺たち共働きできてるんじゃないか。この家だって……」

「それは分かってるわよ。育休が終わるのに陽太ひなたの保育園が決まらなくて、もう仕事辞めなくちゃいけないと思ったけど、お義母さんのおかげで復帰できたんだもの。同居を決めたのだって後悔してないわ」

「親父が死んでから女手ひとつで育てくれたからさ、母さん、明日香を応援したいと思ったんだよ。いい姑だろ?」

「まったくマザコンねえ! 女同士はそう簡単じゃないのよ」


 女の声がクスクス笑う。言外に、浩一郎の言葉を否定する含みがあった。


「でも真面目な話、最近のお義母さんはやっぱりおかしいわ。普通に話してるんだけど、たまにぼーっとして変なこと言ったり。もしかして若年性ナントカってやつかも」

「まさか!」

「夕食の時、陽太を『衛』って呼んでたの、気づいてたでしょ? 衛、あなたのことは、亡くなったお義父とうさんだと思ってたんじゃない?」

「だってまだ五十代だぜ。そんなに早く……」

「早い人は早いのよ。進行する前に病院に連れて行って、ちゃんとケアした方がいいわ。せっかく職場復帰できたのに介護で退職するなんて、私、嫌だからね」


 話の内容はまったく頭に入って来ない。どこか別の国の言葉を聞いているようだった。

 しかし、あの女が馴れ馴れしく浩一郎に擦り寄って、私の悪口を吹き込んでいることだけは理解できた。


 ちりん、とどこかで風鈴が揺れる。赤い蝶が解き放たれ、夢と現実は擦り換えられる。


 あそこで生きている久美子こそが夢だ。

 悪夢なら切り刻んで、冷凍庫の中に閉じ籠めて、小分けにしてから何度でも捨ててやる。

 私は洋裁用の裁ちばさみを握り直し、リビングのドアに手を掛けた。


 一度はやりとげた。もうコツは分かっている。

 今度はもっと手際よくできるはずだ。





-了-

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=544103722&s
― 新着の感想 ―
[良い点] ∀・)すごく濃い2時間モノ深夜ドラマをみた感じでしたね(そんなものありませんが)。まぁ、塔子さまのホラー作品です。いわずもがなどんなことでもやってのけると思ってましたけど、主人公の狂気が想…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ