其の五
私はひとり浴室の前に立っている。
脱衣所の床とバスマットは、あちこち赤黒い染みで汚れていた。湿った重い物を引き摺った痕、手形、足跡……ゾッとするほど汚らしい。しかも魚が腐ったような臭いが籠っている。
嫌だ、綺麗に拭いたつもりだったのに。漂白剤を使えばさっぱりと消えるかしら。
そんなことを考えながら浴室の扉に目をやると、擦りガラスの引き戸にも赤い汚れがついている。ごく小さなそれは、かすかに動いているようだった。
私は思わず手を伸ばす。その赤い染みは、蝶だった。浴室側からガラスにとまって翅を動かしている。
捕まえなければ――私が扉を開けようとした時、土砂降りの雨が打ちつけるような音がして、いきなり赤い染みが増えた。蝶の数が増えたのだ。
無数の赤い蝶が出してくれと羽ばたいている。後から後から扉に貼りついて、擦りガラスは真っ赤に変わった。扉がギシギシと軋む。私は必死で押さえた。
出てくるな。勝ったのは私だろう。どうして甦ってくるの、今になって。
澄んだ音を立てて、ガラスは割れた。
浴室から噴き出してきた血色の奔流が、私を飲み込んだ。
ベッドの上で、私は目を覚ました。
きちんとパジャマを着て、タオルケットを被っている。細く開いた窓から夜風が入ってきていた。
よく覚えていないが、ひどく悪い夢を見ていた気がする。まだ心臓がドキドキしていた。枕元のスタンドを点けて時計を見ると、午前零時過ぎ。隣に浩一郎の姿はなかった。
私はにわかに不安になって、ベッドから起き出した。浩一郎はまた幻覚を見てパニックを起こしたのかもしれない。
廊下に出ると、階下のリビングから明かりが漏れているのが見えた。人の気配もする。浩一郎と――女の声だ。死んでいるくせにいつまでも浩一郎から離れない、あの厚かましい女の。
追い払ってやらなければ。殺したのはあの人だから、家から追い出すのは私の役目だ。
意外なほどたやすく、覚悟は固まった。時間をかけても即決しても、答えは同じなのだから。
私は隣の子供部屋を覗いた。小さなベッドでは、お気に入りのアニメのポスターに見守られて、衛がすやすやと寝息を立てている。私はほっとした。大丈夫よ、お父さんは絶対に渡さないからね。
私はいったん部屋に戻って、戸棚の中を探った。
リビングからは、テレビの音声とともに二人の会話が漏れ聞こえてきていた。
「ねえ……お義母さんの様子やっぱり変よ。そう思わない?」
「ん……まあそう言われてみれば」
「今日は早いシフトだったから四時過ぎに帰ったんだけど、強盗を見るみたいな目で睨まれたのよ。別の人の名前で呼ばれた。くみこ……とか」
プシュ、という空気音は、浩一郎が缶ビールを開けたのかもしれない。
「一度病院で診てもらった方がいいんじゃない? 何だか気味が悪いわ」
「そんな言い方すんなよ、明日香。母さんが家事をやってくれるから、俺たち共働きできてるんじゃないか。この家だって……」
「それは分かってるわよ。育休が終わるのに陽太の保育園が決まらなくて、もう仕事辞めなくちゃいけないと思ったけど、お義母さんのおかげで復帰できたんだもの。同居を決めたのだって後悔してないわ」
「親父が死んでから女手ひとつで育てくれたからさ、母さん、明日香を応援したいと思ったんだよ。いい姑だろ?」
「まったくマザコンねえ! 女同士はそう簡単じゃないのよ」
女の声がクスクス笑う。言外に、浩一郎の言葉を否定する含みがあった。
「でも真面目な話、最近のお義母さんはやっぱりおかしいわ。普通に話してるんだけど、たまにぼーっとして変なこと言ったり。もしかして若年性ナントカってやつかも」
「まさか!」
「夕食の時、陽太を『衛』って呼んでたの、気づいてたでしょ? 衛、あなたのことは、亡くなったお義父さんだと思ってたんじゃない?」
「だってまだ五十代だぜ。そんなに早く……」
「早い人は早いのよ。進行する前に病院に連れて行って、ちゃんとケアした方がいいわ。せっかく職場復帰できたのに介護で退職するなんて、私、嫌だからね」
話の内容はまったく頭に入って来ない。どこか別の国の言葉を聞いているようだった。
しかし、あの女が馴れ馴れしく浩一郎に擦り寄って、私の悪口を吹き込んでいることだけは理解できた。
ちりん、とどこかで風鈴が揺れる。赤い蝶が解き放たれ、夢と現実は擦り換えられる。
あそこで生きている久美子こそが夢だ。
悪夢なら切り刻んで、冷凍庫の中に閉じ籠めて、小分けにしてから何度でも捨ててやる。
私は洋裁用の裁ち鋏を握り直し、リビングのドアに手を掛けた。
一度はやりとげた。もうコツは分かっている。
今度はもっと手際よくできるはずだ。
-了-