其の三
それが起きたのは、十一カ月前、昨年の八月のことである。
八月の第一土曜日、幼稚園が夏休みに入った衛を連れて、私は電車で二時間ほどの距離にある実家に帰省した。おばあちゃんちに一人で泊るんだと張り切っている衛を父母に預け、お盆に改めて夫婦で帰省する計画になっていた。
その日、実家で夕食を食べてから戻るつもりだったのだが、虫が知らせたのだろうか、私は早めに自宅へ帰って来た。焼けつくような夕映えが広がる、蒸し暑い夏の日暮れ時だった。
土曜日だから仕事は午前中で終わっているはずだけど、私も衛もいないので、浩一郎は外で夕食を済ませてくるかもしれない。そう思いながら鍵を開けて玄関を入ると、三和土に見慣れない靴があった。夫の革靴と並んで、黒いハイヒールが一足。
私はとてつもなく嫌な予感を覚え、静かに廊下を歩いてリビングのドアを開けた。
その先にあった光景は、私の予想を遥かに超えるものだった。
ちりん、とガラスの澄んだ音がする。
「奈江……」
ソファに座り込んだ浩一郎が、ぼうっとした目で私を見る。
彼の足先には、人間の身体が転がっていた。
恐る恐る近づいて覗き込むと、テレビの前に仰向けに倒れているのは久美子だった。仕事着と思しきシンプルなパンツスーツ姿で、大の字になって伸びていた。
眠っているのではないとすぐに分かる――アイラインに縁取られた両目は見開かれたままだったからだ。その目が不自然に真っ黒なのは、瞳孔が全開になっているからだろう。だらしなく開いた赤い唇は、奇妙な笑みを浮かべているようにも見える。
久美子は死んでいた。完璧な死体になっていた。
また、ちりんと音がする。開いた窓から生温い風が入ってきて、窓際で風鈴が揺れた。
それを合図のように、
「仕事帰りに……うちに来たいと言って……話しているうちに喧嘩になって……」
浩一郎は独り言みたいにぼそぼそと呟いた。
久美子の頭の下から赤黒い染みが広がって、床がてらてらと濡れ光っていた。不気味な蝶が翅を広げているようだ。テレビ台の角の部分にも同じ色の液体がついている。台の上に飾っていたはずの造花の薔薇は、花瓶ごと床に落ちていた。
「殺すつもりはなかったんだ……事故なんだ……事故……」
ここでつい数十分前に起きたことを、私は理解した。
浩一郎が誘ったのか、久美子が押し掛けたのか――いずれにせよ初めての逢引ではないのだろう。奈江といつ別れるの、私とは遊びなの、などと陳腐な痴話喧嘩が始まって、激高した浩一郎が彼女を突き飛ばす。彼女は転んで頭をテレビ台の角にぶつけて――。
「いつからなの?」
私の口から出たのは、そんな言葉だった。恐怖はない。我ながら奇妙なほど冷静だった。
「去年の……秋頃……社員旅行で箱根に行った時……酔った勢いで……」
「それからずっと?」
「ああ……週に一度くらい……仕事が終わってから彼女の家かホテルで……」
浩一郎は面白いくらいにべらべらと喋った。やらかしたことのショックが大きすぎて、取り繕ったり誤魔化したりする余裕がないのだ。最後にごめんと付け足したのがひどく滑稽だった。
私は大きく溜息をついた。同時に可笑しさが込み上げてきた。
何が控え目な女が好きだ。久美子は『男を押しのけて前に出る女』そのものじゃないか。私に家庭を放り投げて、自分は正反対のタイプの女と恋愛してたってわけか。挙句に殺してしまうなんて、もう救いようのない馬鹿だ。
浩一郎はソファの上で小刻みに身体を揺すっている。風鈴が乾いた音を立てる。
馬鹿だとは思ったが、不思議と彼を恨む気持ちは湧かなかった。現在進行形の不倫が露呈したのなら、私はきっと怒り狂っていただろう。しかしもう全部ことは終わってしまっている。残されているのは後始末だけだった。
そして少しだけ思ったのだ――いい気味、と。他人の夫に手を出した女は、相応しい罰を受けた。
ねえ久美子、浩一郎も罰せられるから、おあいこだと思ってるでしょう。残念だったわね、それを決めるのは私なのよ。本当の被害者は私なんだから。
「助けてあげるわ、浩一郎さん」
私はにっこりと笑った。浩一郎がソファから立ち上がる。
「ほ、本当か……?」
「ええ、私たち、夫婦じゃない」
それは久美子に聞かせるための言葉だった。
遺体さえ発見されなければ、殺人事件にならない。そのためには遺体を確実に処分することが肝要だと私は考えた。海や山に遺棄してもいずれ見つかる。そうなったらきっと何らかの証拠が出てくる。
処分の方法はすでに考えついていた。正攻法だが、いちばん確実な手段だ。
まずは、久美子を細かくしなければならない。
幸いなことに、我が家には肉切り包丁が数種類常備されている。スペアリブの煮込みはワインによく合って、浩一郎の大好物だ。道具は揃っているので、落ち着いてやればできるはずだった。場所は浴室がいいだろう。
ざく、ざく、ざく――私は作業を続ける。
コツは分かっていても、無論私一人ではできない力仕事だから、浩一郎にずいぶん手伝ってもらった。むしろ私の指示で彼が動いたという方が正しい。
ざく、ざく、ざく――私たちは言葉少なに、でも実に効率よく働いた。こんなに息の合った『共同作業』は、披露宴のケーキカット以来かもしれない。
肉体的にはきつい仕事だったが、とても楽しかった。浴槽もタイルも鮮やかな色彩に塗れ、強烈な臭いに包まれて、私は独特の高揚感に酔っていた。
衛を実家に預けていて本当によかったと思う。解体作業は結局まる一日かかってしまった。
ここまで終われば後は簡単だ。木を隠すなら森の中に、肉を隠すなら生ゴミの中に。
「大きめの冷凍庫が必要ね」
小分けにされた大量のポリ袋を前に、私は計算する。
いっきに捨てると露見する危険性が高いから、他の生ゴミと混ぜて少しずつ廃棄しよう。全部で約五十キロ、一度に五百グラムずつとして、百回。燃えるゴミの日は週に二回だから、一年かかる計算だ。気の長い話だが、慎重にやるつもりだった。
私が浴室を掃除している間、浩一郎は脱衣所に蹲って膝を抱えていた。その姿は、私にきつく叱られた時の衛とそっくりで、何だか可笑しかった。
「大丈夫よ、浩一郎さん」
隣に膝をついてそっと頭を撫でると、彼は顔を上げる。
「だ……駄目だよ、きっとバレる。こんなのうまくいくはずがない」
作業中は余計なことを考える暇がなかったのに、一段落ついて我に返ったのだろうか。私を見返すその表情は怯えた子供そのものだった。
今夫が頼れるのは私だけだと思うと、嬉しくて仕方がなかった。
「うまくいくわ、絶対に。家族で助け合えば何でもできる」
「助け合えば……?」
「そうよ。明日からゴミ出しはあなたがやってね」
私は浩一郎を抱き寄せた。彼の手が私の背中にしがみついてくるのを感じて、私はようやく彼を取り戻したと実感した。
さっそく大型の冷凍庫を購入して、納戸に設置した。三畳ほどの小部屋は冷凍庫に占拠されてしまい、せっかく重宝していた収納スペースを久美子に譲り渡したようで、私は気分が悪かった。が、仕方がない。一年の辛抱だ。
私たちはその日から少しずつ、少しずつ久美子を処分していった。
朝のゴミ出しは浩一郎の仕事になった。これまで、男がそんなみっともない真似ができるかなんて言って協力してくれなかったのに、嘘みたいだ。そればかりか、部屋の掃除までやってくれるようになった。久美子の髪の毛や血痕が残っていないか心配らしく、彼は頻繁に掃除機をかけ浴槽を磨いてくれた。
久美子の失踪は、社内でもかなり話題になったらしい。だが浩一郎との関係は周囲にいっさい漏れていなかったために、疑いを向けられることはなかった。
私としては、彼が真っ直ぐ家に帰るようになったのが嬉しかった。あの日を境に浩一郎が肉を食べなくなってしまったくらい、大した問題ではなかった。
冷凍庫の久美子は、徐々に少なくなっていった。
夏が終わり、秋が来て、秘密を抱えた日常に私たちが慣れてきた頃、しかし、久美子は戻って来た。