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其の一

 私は夢を見る。

 赤い蝶の夢を見る。


 湿った空気の中を、真っ赤な花弁のような蝶が飛んでいく。その動きは不出来なコマ撮りめいていて、奇妙に立体感がない。捕まえようと、私は蝶に手を伸ばす。しかし、風に流されているかに見えた蝶は指の間を擦り抜けた。


 逃がしてはいけない。早く元の場所に閉じ籠めないと。


 焦れば焦るほど、蝶は逃げた。手にかからないのならいっそ遠くに飛び去ってくれればいいのに、指先ほんの数センチの所でいつまでもひらひらと舞っている。

 私は苛立ち、そして不安になった。私はあれを本当に捕まえたいのだろうか。それとも消し去ってしまいたいのだろうか。

 どこか遠い所で誰かの悲鳴が聞こえた。





 夜更けに、私は叫び声で目を覚ます。


 エアコンのタイマーが切れてだいぶ経つらしく、締め切った寝室の空気はすでに蒸し暑い。汗に濡れたパジャマがじっとりと肌に貼りついていた。

 こんな時刻に睡眠を破られたことに、私はまず苛立った。誰が叫んだかは明らかで、その理由も分かり切っていた。


「……どうしたの?」


 いちおう、私は訊いてみた。

 ダブルベッドの隣では、夫が半身を起こしてハアハアと荒い息をついていた。薄暗い中でも彼の髪が汗で濡れているのが分かる。ぐしゃぐしゃになったタオルケットを握り締めた指は震えていた。


「いっ、いたんだ、また……あいつがいたんだ!」


 彼は自分の膝の上を睨み据えながら言った。


「息苦しくて目が覚めたら、胸の上にあいつの首が……ち、血塗れで……」

「そう……それから?」

「それからっ……腕と脚と胴体が次々に落ちてきて……俺の身体の上に……ほらまだ血がついてる! ここに! ほら!」


 彼はタオルケットを放り出して叫んだ。無論血糊などついてはおらず、皺になった部分の色味が濃く見えているだけである。私は小さくたしなめた。


「大きな声出さないで。まもるが起きちゃうでしょ」

「でも見たんだよ……あいつの首、にやにや笑ってて……あの時と同じ顔で」

「夢を見たのよ、いつもの悪い夢。こんなに暑いんだもの、神経も磨り減るわ」


 私はベッドサイドのリモコンを取って、エアコンのスイッチを入れた。ぬるく湿った室温は、徐々に快適な温度へと下がっていく。

 夫はしきりと目を擦っている。もしかしたらまだそこにあの女の幻を見ているのかもしれない。いい加減にしてほしかったが、私は彼の肩を抱いて無理矢理に横たわらせた。


浩一郎こういちろうさん。もうあの女はここにはいないのよ。よく頑張ったわ、私たち。だからもう大丈夫なの」

奈江なえ……」

「不安に思わなければ幽霊なんて見ないわ。その証拠に私には何にも見えない」


 何回も何十回も繰り返した言葉を、私はまた口にした。子供を寝かしつけるように胸を叩いてやる。こうすれば夫のパニックは過ぎて、徐々に冷静になってくるはずだった。

 しかし彼は、私の手を上から押さえて、泣きそうな顔で見詰めてきた。


「もう……俺は駄目だ。あいつに恨まれてる。きっと一生付き纏われる……」

「それはあなたが優しいからよ。もっと気を強く持って」

「もう耐え切れない……限界だ……楽になりたい……」


 そう呻いて、縋りつくように私の身体を抱き寄せる。胸も腕も汗ばんでいるのに、肌は氷みたいに冷たかった。


 あの女を心底憎らしく思った。あの女――久美子くみこはまた夫の前に姿を現すだろう。どこまでも執念深い女! どうせ出てくるのなら私を襲えばいいのに。

 そうしたら、もう一度切り刻んでやるのに。





 ガラスの触れ合う澄んだ音で、私は浅い眠りから覚めた。


 窓から差し込む午後の日差しはだいぶ弱まっていたが、空気はむっと蒸し暑い。ダイニングテーブルに突っ伏してうたた寝をしていた私は、汗ばんだ頬を何度も擦った。

 時計を見ると時刻はもう四時を過ぎている。三十分ほど眠っていたらしい。リビングのテレビではサスペンスドラマの再放送をやっていた。

 私はリモコンを手に取って、「凶器は鋭利な刃物」だの「怨恨と強盗の両方の線で」だの物騒なセリフを垂れ流すテレビを黙らせた。


 ちりん、とまた音がする。

 庭に続く窓から温かい風が吹き込み、レースのカーテンを揺らしている。その窓枠に吊り下げたガラスの風鈴が、澄んだ可愛らしい音を立てていた。

 私は髪を撫でつけながら立ち上がって、窓に近づいた。

 風にひらひらと揺れる短冊はだいぶ色褪せてしまっているが、風鈴本体はまだまだ綺麗だ。丸い透明な吹きガラスに、赤い蝶の絵が描かれている。風鈴が揺れる度、ちりんちりんと音を立てる度、凸面の蝶はまるで生きているように舞った。


 このところ昼間に寝てしまうことが多い。夜中に頻繁に夫に起こされるからだろう。そればかりか、目が覚めていても何だか意識がぼうっとしている。暑さと睡眠不足で疲労が溜まっているのだ。

 両腕は何かを固く握り締めた後のように痛み、胃にはムカムカと不快な痛みが滞留していた。きっと三十分もテーブルに突っ伏していたからだろう。


「衛を迎えに行かないと……」


 私は気分を変えようと、息子の名前を口に出した。

 五歳の衛は、ちょうど幼稚園の送迎バスに乗り込んだ頃合いだ。公民館前の乗り場まで迎えに行って、ついでに近所のスーパーで夕食の買い物をしてこよう。衛はきっとアイスを買ってとせがむだろうけど、この間冷たい物を飲みすぎてお腹を壊したばかりだから我慢させないと。

 日常のあれこれを考え始めると、徐々に意識がはっきりしてきた。


 バッグと帽子を手に部屋を出た私は、廊下の真ん中で立ち止まる。玄関の扉が外から開いて、ひとつの人影が中に入ってきたところだったからだ。

 外界の眩しさを背負って、その姿はシルエットのように見えた。小柄で丸みを帯びた輪郭から、女性と分かる。

 私はその人を知っていた。


 ちりん、と乾いたガラスの音がする。風もないのに。


 玄関の扉が閉まると光が遮断され、彼女の姿がはっきりと浮かび上がった。見覚えのある顔が薄い笑みを浮かべていた。

 視界の隅で赤い蝶が舞った。

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