チャプター62 対峙
桐彦の目の前に立つ老人はゆっくりと近づいてくる。桐彦の警戒は解かれることはなく自分の間合に入る瞬間に殴り掛かるために足に力を込めていた。老人が一歩、また一歩と歩を進める中、桐彦の緊張は高まる。
あと一歩で桐彦が殴り掛かろうとしたところで老人は歩みをとめた。
「改めて名乗ろうかの…ワシは色欲の悪魔、アスモデウス。知り合えた記念にこれをやろう」
そういいながらアスモデウスは一冊の本を桐彦の前に放り投げていた。
「こ…これは…月刊『黒パンストに踏まれたい』じゃないっすか!!」
「ほう、これを知っとるとは…なかなかのフェチズムをもっとるのう」
アスモデウスはニヤリと微笑む。
「そこの24ページをみてみぃ…その見下されるような視線たまらんじゃろ?」
「たしかにこれは…」
そういうと桐彦は本を一度パタンと閉じるとアスモデウスに近づき、何か自分に近しいものを感じたようで左手を差し出した。
アスモデウスもまたその伸ばされた左手の意味を理解して左手を伸ばした。
「爺さん…いい趣味してるっす」
「これがわかるとは…死神の小僧よ…同士じゃな」
そういいながら彼らは握手を固く結びつつ、アスモデウスは少しばかり口角を上げる。
「さて…どうしたもんかの」
「なにがっすか?」
「すばらしい同士に出会えたことでワシは気分がよい。そこでじゃ、貴様を見逃してやってもよい」
「ずいぶんと気前がいいことで…」
「タダではないがの…貴様の命の代わりにあの女子を貰いたいのう」
そういうと色欲の悪魔は杖で望月を指していた。当然桐彦はそんなことは容認できずにすぐさま握られた左手を無理矢理離そうとするが予想以上にアスモデウスの力が強くそれはできなかった。焦りを隠し切れない桐彦の体には大量の汗が滲む。
その焦りを感じ取ったアスモデウスは作り出した微笑みを歪ませ、自身の妄想を膨らませる。
「いいよのう…あの躰…そして若さの保たれた肌…そしてあの声…」
桐彦は目の前の悪魔が考えている思考が忠実に脳内に再現され始めていた。おぞましいと言わざる終えないその妄想はアスモデウスの口から吐き出されると同時に桐彦の身の毛を逆立てた。
「始めは、ただ見ていたいのうぉ…1週間…いや2週間は楽しめる。やっぱりあの躰つきを保存するためには石膏に生きたまま埋めて形を取らずにはいられない…いや待て待て…それじゃあ勿体無い、あの女子が泣き叫ぶ姿が見たいのう…そうじゃそうじゃそのための悪魔憑依ではないか…意識までは奪わずに身の動きだけを封じて…適当な男に食わせるか…お主も食いたいか?そこの死神」
怒りに任せて桐彦は握られた手を一気に振り払う。自然と紅い炎は燃え上がり桐彦の心を代弁していた。
「悪いっすけど…お断りっす…」
「なんでじゃ?貴様には利点しかないはずじゃが…ああ、なるほどなるほど、あの女の苦しみながら死んでいった像もほしいってことかのうぉ…しょうがないそれもつけてやるから安心せい…それほどまでにワシの機嫌はいいのじゃ。ふぉっふぉっふぉっ」
「いや、違うっすよ…彼女の痛みも知らないくせに、みなもっちをそんなふうにしたいと考えたお前を殺したくなった…ただそれだけっすよ…」
桐彦の死力は一気に膨れ上がり、それと同時に色欲の悪魔に殴り掛かった。それを容易に避けたアスモデウスは寂しそうな表情と共に湧き上がる衝動を抑えられずにいた。
「むぅ…残念じゃ…せっかく同士を見つけられたと思ったんじゃが…ただ略奪愛…それもまた色欲の一部じゃな…」
「そう簡単にいくと思わないことっすね…」
肥大した怒りは死力になり、桐彦に力を与える。しかし悪魔はそれがどれほどの程度のものか知っている。それを知っているからこそ目の前の死神をあざ笑う。
「綺麗な紅い光じゃの…おぬしの鮮血とどちらが綺麗かのう…」
色欲の悪魔との戦闘は幕を開けた。
その一方でシロはルシファーを睨み付ける。以前まで使用していた神の遺産がどれほど悪魔に対して有効なものであったかを痛感しながらも彼は作り出した大鎌を振り回した。
「ルシファーぁぁ!!零花はどこだっ!!」
「零花?まーだ諦めてなかったわけ?しつこいと嫌われちゃうよ?」
「俺は確かめなきゃいけないんだ…彼女の思いを…彼女の願いを!!」
「だーかーらっ、あの時聞いたのが彼女の本音だって何回言えばいいのさ」
「悪魔の言葉なんて信じるかっ!!」
「まぁ…それは正論だけどさぁ…嘘じゃないってことも証明できないだろ?」
「うるせぇええ!!」
ルシファーはどこか残念そうに溜息をつきながら、彼の振り回す大鎌を避けてみたり、受け止めてみたり、ひらりひらりと踊る。
「あ~あ、君の力ってこんなもんだっけ?神の遺産をなくしただけでここまで劣化するなんてねぇ…でも神の遺産があったらめちゃくちゃ面倒だし…ま、いっか」
その言葉と同時に傲慢の悪魔は速度を速める。それは今までの速度を容易に超え、シロの目には残像しか与えなかった。いつ襲ってくるかもわからない残像に警戒するが、それが意味のないことであることをシロは強引に理解させられる。
シロの背後に突如として現れたルシファーは全力で死神の後頭部を蹴り飛ばした。防御することもままならずシロは容易に数十メートルを吹き飛ばされる。無慈悲な悪魔はただそこにある現実を死神に突きつけたのだった。
「はっきり言おうか、神の遺産をもたない死神が大罪の悪魔に勝つことなんて万に一つもないよ?」
彼のめんどくさそうに頭を掻き毟ると、吹き飛ばされた死神のほうにゆっくりと歩みを進めた。
「死力がなぜ悪魔には通用しにくいのか…それは君達の死力は全て悪魔の根本となる絶望から生まれるからさ」
さらにシロとの距離をつめながら悪魔はどこか誇らしげに知識を振りまいた。
「神の遺産がなぜ悪魔に有効なのか…それは悪魔の原初となる力だからさ」
痛みで動けないシロの頭を踏みつけながらルシファーは語ることを続けた。
「原初と根本これは同じ意味合いをもつにも関わらず違いが生まれるか…それは”人の思い”か、”神の思い”か、その違いしかない」
悪魔は自分の足に力を込める。ミシミシと音を立てながらシロの頭は破壊されそうになる。あまりの痛みに耐えるしかないシロには悪魔の言葉が聞こえることはなかった。
「何を言いたいか、わかるかい?一之宮シロ…僕が言いたいのは…所詮人間風情が悪魔を倒そうなんて甚だおかしいし、ましてや神の力を元人間が使えることがむかつくってことさ!!」
シロの頭から足を退かしたルシファーはシロが立ち上がるよりも先に横たわる頭を全力で蹴りぬいた。
死神の体は再び容易に宙に舞う。ふたたび地にを這いつくばるシロはそれでも立ち上がろうとするが与えられたダメージがそれを阻んだ。
明らかに退屈そうにルシファーは死神を蔑んだ。
「せっかく…待ったのに…」
「げほっ……俺は…引くわけにはいかないっ!!」
その言葉を口にだし、自らの願いを叶えるためにシロは再び悪魔に立ち向かった。
何度も何度も立ち向かえどもルシファーにとって立ち向かってくる死神は遊び道具にもならないのだった。
吹き飛ばされたシロの体はついに動くことを拒否し始めた。それでも彼の意思は強引に体を起き上がらせる。
「くそが……」
退屈そうに浮遊する悪魔を睨み付け、再び自分を奮い立たせようとしたときだった。
その声は突然降ってきた。
「うぁああ!!」
突如自分の近くに落ちてきたのは桐彦。
彼の体はすでにボロボロで至る所に裂傷による血が滲む。すでに左腕はなく、肩からは止まる気配のない鮮血が流れ出ていた。
「桐彦?」
「いってぇ…シロさんじゃないっすか…大丈夫っすか?」
「俺よりもお前のほうがひどいだろうがっ!!」
「こんなの大したことないっすよ…」
そういうと桐彦はゆっくりと立ち上がろうとする。もうすでに体が悲鳴をあげていることは誰の目にも明らかだった。
「もうやめろって!!殺されたら…お前が望んだ世界はどうなる!!」
桐彦は立ち上がると再び自分の絶望を思い返して死力を自分の体に纏いなおすために深呼吸をする。
その深呼吸すら今の桐彦には激痛を与えるが、それでも桐彦がやめることはなかった。
「…確かに死ぬことは怖いっす…でも…仲間たちが笑い会える世界にしたい…みなもっちが笑っていられる世界に…」
”死”という一文字は間違いなく彼に恐怖という感情を与えていた。しかし、”死”の恐怖は彼の表情からは感じ取れなかった。
シロが桐彦のから受け取ったものは、ただ一つ。それは…”覚悟”
「シロさん…世界を変える…そう願うだけじゃダメなんす…願うだけじゃなにも変わらない…」
桐彦の覚悟は死力として放出される。これまで出すことができた死力の数倍、十数倍ほどを容易に発生させる。そしてふたたび桐彦は色欲の悪魔を睨み付ける。
「それに何かを変えるってのは大変っす…でも、だからこそ…命を賭ける意味がある!!!!」
「桐彦…」
シロは彼の覚悟を受け止め自分が借神を返済した時の思いを思い出す。そして彼もまた動きの鈍い体を強引に立ち上がらせた。
「…そうだな…俺もそうだ…俺は仲間を信じたい…」
彼もまた自分を変えるために立ち上がる。それと同時に彼の消えかけた死力は希望を手に入れるために、輝きを取り戻し始める。
「俺は何も信じれない人間だ…いや、それもこれで終わりにしてやる…」
今までの死力の最大値を容易に超える身に纏い二人の死神はいまだ無傷の悪魔たちに立ち向かう。
しかし彼らは気がついていなかった。彼らがどれほど死力を増やしても悪魔に対して有効的なものではないということに。
死神と悪魔が戦闘を始めた場所から数100メートル先の高層ビルに少女は佇んでいた。高層ビルの屋上に死神と悪魔の戦闘は光や音になり届く。
それらはどれほど激しい戦闘を行っているかを少女に容易に与えていた。少女は黒髪をたなびかせながら広場に向かったのだった。




