チャプター58 悪魔の願い
シロが目を覚ますとそこには見慣れた天井が広がっていた。しかし、いつも見ていた天井よりはるかにボロボロでいつ崩れ落ちてもおかしくはないような天井。ひび割れた天井からは時折、パラパラと壁を形成していた物質が零れ落ちてくる。横たわる自分の横に人の気配を感じ取り、ゆっくりと体を起こす。そこには桐彦と望月の姿があった。辺りを見渡しながら状況を判断する上で必要な情報を集め始めた。入り口の近くでは大門が腕を組みながら神妙な面持ちをしていた。
「…俺…生きてた…?」
「シロさん!!大丈夫っすか?」
「…体は大丈夫みたいだ…」
顔一杯に喜びを表した桐彦は声をあげた。その声にビックリした望月もまたシロの顔を見て安心するように胸を撫で下ろす。壁に寄りかかっていた大門はハッと体を起こすと、シロの顔をみて安堵したのだろう、穏やかな表情でゆっくりとシロに近づいた。三人はシロが生きていたという事実に安心しながらも、どこか悲しげな表情を作り出し下を向いた。その表情を感じ取ったシロはここにいない死神たちの行方を聞いていた。
「天津は…このえは…レイは!?大丈夫なのか?」
しばらくの沈黙のあと、大門が口を開く。
「天津は消息不明だ…」
「…消息、不明…」
「おそらく、悪魔との戦闘でやられたんだろう…」
大門がゆっくりと吐き出したその事実にシロは耳を疑っていた。天津なら大丈夫だろうという根拠のない自信が揺らぐと共にシロが同時に抱いたのは"死"というたった一文字の言葉だった。その一文字はシロの鼓動を急速に早め、額には汗を滲ませる。
「このえさんは大丈夫…まだ目は覚ましてないけど…息はしてる」
「そうか…」
唖然としたシロに望月は現状を冷静に伝えていたが、目はどこか悲しそうなままだった。シロの言葉を最後に部屋には沈黙が訪れる。それと同時に彼が抱いたのは誰も零花について言及するものがいないという違和感。彼はそれが意味することを容易に思いつきながらも言葉にすることが怖かった。しかし、この現状においても隠そうとする皆に苛立ちを感じ、思わずシロは声を荒げた。彼自身の恐怖を隠そうとする心がそうさせることに気がついていなかった。
「レイはどうしたんだよ!!」
「零花は…私たちを裏切った。久瀬と共にな…」
大門が放ったその言葉は部屋全体を再び沈黙に支配させ、皆が皆、その沈黙に身を任せるしかなかった。どこか遠くの建物が轟音を鳴り響かせながら崩れ落ちていく、まるで現状を表すかのようなその音はシロに現実を突きつけた。
わかっていたことだった…レイが敵意を向けたのは…
頭の中に蘇る彼女とのやり取りは彼に新しい絶望を植え付け始める。
「…なんでだよ…」
シロは頭を抱え今にも表情に出てきそうな絶望を押さえ込んだ。どんなに押さえ込んでも噴き出してきそうな絶望が心を締め付ける感覚。
シロはベッドから足だけを下ろし、今回の襲撃の詳細を聞くために小さく声をだした。
「結局…今回の襲撃は誰がやったんですか…大門さん…」
「情報が錯綜して正確なことは言えんが、おそらく…久瀬、悪魔ルシファーが主犯だろう…それに加担したのが憤怒の悪魔、サタン…」
「悪魔…」
そう呟くとシロは立ち上がり、叫んでいた。存在の全てを憎むように叫ばれた声質にも関わらず、他の死神たちは微動だにすることはなかった。できなかったというのが正しいのかもしれない。
「サレオス!!!」
その叫びに応じるように空間に黒い光が集まり始める。その中から姿を現したのは鰐を連れた悪魔サレオスだった。その姿をみるやいなや、シロはサレオスの胸倉を掴み、差し迫る。自分に与えられた絶望、恐怖、悲しみを悪魔に返すように強く壁に押し当て、シロは静かに怒りに支配された感情を吐き出した。
「てめぇが…俺たちを売ったのか?」
悪魔はシロに呼ばれることが予想できていたのだろう。焦ることもせずゆっくりと声を出す。自分を睨み続ける死神の目は瞳孔が開き、血走っていた。壁に押し当てられた悪魔はどうしても理解してほしい事があったのだった。
「シロ、その質問に応える前に…一つ質問しよう」
「ふざけんな!!状況的にお前しか考えられないんだよ!!」
シロは衝動に任せてサレオスを殴りつけた。しかし、彼に宿る力は死力しかなくサレオスは動揺することなく睨み付ける死神を見続けた。シロは自分に力がないことがこれほど悔しいことだと初めて気がつかされる。その言葉にもシロは耳を貸さず、依然胸倉を掴んだままだった。そんな死神を悲しそうに見つめながらサレオスは問いをぶつけていた。
「とりあえず、落ち着け…なぜ…悪魔は死神よりも強いと思う?」
頭に血が上った死神をみてサレオスは問いの答えを勝手に彼に与え始めていた。
「それは…自分の欲求に愚直なのさ。どんなことをしても自分の望むことを成し遂げようとする。どんなに不運なめぐり合わせでも不遇な存在であってもね…」
「だから、どうした!!不運だから、不遇だからって他人を犠牲にしていいのかよ!!」
「違うよ、シロ、そういうことじゃない。僕が君に出会ったときになんて言った?僕は君の友人だといった。その言葉に嘘はないよ、絶対にね」
サレオスはゆっくりと胸倉を掴む死神の手に自分の手を重ねる。
悪魔は伝えたかった。
自分の生まれは悪魔という異形の存在、しかし、自分の目の前にいる一人の友人に自分がもつ友情という思いを。
不運なめぐり合わせ自分が異形、彼は元人間であるという絶対に変わらない事実に隠れた自分の思い。
「僕は君の友人になりたいと心から願った。そして、友人であり続けるためなら何でもしよう…たとえ他の悪魔と敵対することになってもだ…」
静かに告げられたサレオスの覚悟はヒシヒシと感じ取っていたのはシロだけではなかった。サレオスは胸倉を掴まれた手をゆっくりと解きほぐす。そしてそのままシロの手を自分の首もとへ持ってくる。
「どうしても君が僕を信じれないというなら、その手で僕を殺してくれ。君に友人ではないと罵られる前に…君の友人のままで…」
目の前の悪魔がどうしてそこまでするのかシロはその疑問の回答が得られずに苦しんでいた。しかし、彼にはすでに回答が与えられていたことに気がつきハッとする。
だから、悪魔は強いのだ、愚直に自分の望みを叶えようとする。それが叶わないのなら命を懸ける。
シロは悪魔の首元にある手の力をゆっくりと緩めると、ただ一言だけ呟いた。
「……ごめん」
サレオスもまた一言だけ彼に言葉を返す。
「いいよ…気にしてないさ」
サレオスがニコリと微笑むとシロはばつがわるそうに悪魔に背を向ける。そっぽを向いたままシロは窓辺に移動した。窓から見える景色は普段の死神の本拠地というには無理がある。建物は幾千もの戦いの傷跡を表すように廃墟と化していた。サレオスはシロをなだめ終えたことを確認すると死神たちが必要としている情報を自分が知る限りを伝え始めた。
「今回の襲撃についてだけど…僕が知る限りではルシファーとサタンの独断だったみたいだよ?他の大罪の悪魔たちは襲撃のことすら知らなかったらしいし…」
大門が不思議そうに首を傾げていた。
「独断?大罪シリーズの悪魔たちは神の復活のために足並みを揃えていると聞いていたのだが?」
「まぁ、それも事実なんだけど…大罪の悪魔である以前に一つの悪魔だからね…ルシファーには別の思惑があったとしか思えない、たぶんどうでもいいことだろうけど」
「どうでもいいこと?」
「そう。さっき言ったように悪魔は自らの望みのためにどんな苦労もいとわない。どんな些細なことであっても、望みを叶えるために何十年、何百年と耐え続ける」
桐彦がその言葉に驚いて思わず声をあげていた。
「何百っすか…桁が違うっすね」
「そうさ、悪魔には寿命もないし、人間が存在する限り存在し続ける」
桐彦はいつもの穏やかな表情の中に信念を隠しながらサレオスに問いかけた。誰もが気になっていたことは、誰もが言えることではなかった。未来を見続けると決めた青年だからこそ言えた言葉。
「それはそうと…一つ聞きたいことがあるっす」
「なんだい?」
「レイねーちゃんを助けることは可能なんすか?」
彼の言葉がその部屋にいるものに別々の思いを与える。望月はどこか決意したように桐彦を見つめ、大門はどこか切なそうにシロをみていた。
桐彦がその言葉を発した瞬間にシロは何も告げることなく部屋を後にした。あまりにも突然の出来事に桐彦は驚きを隠せなかった。
「ちょっ…シロさん!!」
「ほっといてあげてくれないか?」
サレオスは目を伏せて悲しそうに呟いた。
一人部屋を飛び出したシロは草原に向かっていた。何か目的を持っていたわけではない。草原にたどり着いた彼はそのまま座り込み、自分が落ちてきた空を見上げる。
自分はどうしてここに来たのだろうか、どうして自分はこの世界に存在してしまったのだろうか。
どうして…どうして…全ての過去を嘆くように頭は”どうして”で埋め尽くされた。一つ一つの疑問に答えられずに彼の心は再び絶望に染まり始める。それでも彼は自分が抱かされた”どうして”という疑問に答えようとする。
どうして…彼女は…
どうしても信じたくはなかったけれど、彼女本人から聞いた言葉。絶望を与える言葉はシロに怒りを通り越し、悲しさやせつなさを与える。もう彼女を助ける気持ちすらなくなってしまった。全てを投げ出しかけたそのときだった。
「一之宮…話を聞いてほしい…」
一人の少女の声を聞いてシロは深いため息を吐き出しながら心の中で囁いた。おそらく彼女は彼女らは零花を助けようといってくるのだろう。そう考えながらシロは目を伏せ心の中で呟いた。
これ以上、俺にできることはないのに…
俺はもう彼女を助けることなんかできやしない…
何も残っていない心を閉ざし、それを隠すように膝を抱えた。




