チャプター57 殺意の終点
憤怒の悪魔は二つの後悔を重ね、心のそこからため息を吐き出した。
一つ目に天津神地という神の代行者を相手にすると言ったこと。神の遺産は悪魔にとって脅威であることは言うまででもないが、天津はその神の遺産を誰よりも使いこなしていた。直接、神の遺産の力を流し込まれてしまえば自分の体が痛みを伴い転生に向かってしまう。そのため、サタンは自身の体に人間たちから奪った存在の結晶を埋め込んでいた。しかし、5分ほどの戦闘で存在の結晶は1万個ほど消費しており、それは集めるのにかかった時間を容易に下回ったためである。
二つ目に不意打ちをしておきながら神の遺産を奪えなかったという事実がサタンをひどく落胆させていた。ため息をつきながら悪魔は黒い光を手に宿し光の球を作り出し天津に投げ込んだ。しかし、その光の球は簡単に避けられ、地面へと潜り込んだ。
「そろそろ止めといたほうがいいんじゃねぇの?ホントに死んじゃうぜ?」
悪魔は心の中で”俺が”という言葉を付け足した。天津は崩れ落ちそうな体に力を込めて自身の殺意の元凶をただただ睨みつけながら自分の決意を口に出した。
「俺の命なんて…どうでもいい…」
彼は今も血が流れ出る穴の開いた体に手を添え、神の遺産を放出した。傷口から流れ出る血液は少なくなっていたが、それと同時に彼の傷口はまるで何年も開いたままのように色は黒くなり劣化していく。
「そもそもその”殺意の遺産”卑怯だろ…細胞一つだけを殺すことも可能って…死神を代表したチートでしょ…この反則小僧め」
「お前に言われる筋合いはない…存在の結晶を何個埋め込みやがった…」
全てを見透かされているような質問に悪魔は嫌気が差しながら、その答えをはぐらかした。
「さあな…もう見逃してくれたっていいんじゃねーの?」
「見逃すわけないだろ…お前が何万個、何億個埋め込んでても殺してやる」
天津が添えていた手を離し、穴が開いたままの体は完全に血の流出を止めていた。それと同時に天津は力をさらに拡大した。サタンは力の拡大を恐れ、その場から凄まじい勢いでその場を離れようとするが天津の力はサタンを巻き込み、縦、横、高さ100m程の立方体の空間となっていた。
「…殺戮の領域」
「はぁ…いきなりかよ…お前の必殺技は文字通りすぎて洒落にならん…」
「どの口が…言ってるんだ…この不死身やろう…」
サタンは一度この技を経験していたからこそ知っていた。天津の展開した領域は内側、外側からの敵の侵入をほぼ不可能にする。その領域から出るための方法は二つ。その領域よりも強い力を使い領域ごと破壊するか、神の遺産の発動を止めさせるかのどちらか。サタンが現状、持っている存在の結晶を全てつぎ込めば前者も可能かもしれなかったが、それでは天津の攻撃によって容易に滅ぼされてしまうためその方法はとることができなかった。結論が出たところで悪魔は天津に向かって移動した。結局のところサタンに残された道は天津を倒すそれだけだった。
速度を速め向かってくるサタンを睨みつけながら天津は悪魔に聞こえないように静かに呟いた。
「29555から29559、下に4列」
サタンは天津の唇が動いたことをかろうじて目で捕らえると、身の危険を察知し地面を蹴りなおし180度後方へ方向転換をする。
その瞬間、先ほどまでサタンがいた場所に1立方メートルの立方体が4列が姿を現したのだった。すぐさま天津は再び呟いた。
「39555から39559、下に四列」
悪魔の体はいまだに後方へ飛び続けていたが、天津の攻撃を予想していたサタンは再び地面をけり上空へ飛び立った。一度もぎ取られた羽を瞬時に復活させると上空から天津の元に向かい始める。しかし、それを阻むように立方体は姿を現していた。
「34050、33992、42121、51150、51151、41150から41154、下四列」
「ちっ…天津め…最強の名は伊達じゃない…ってか?あの時、殺せなかったのが最大の誤算だな…」
「くそっ…速いっ…この範囲じゃ捕まえきれないか…ならば」
天津の能力は単純なものだった。彼が作り出した空間内を均等に体積1立方メートルの立方体に分割し、ブロックは個別に番号付けされる。そして、そのブロックは天津が殺意を込めれば、命を否定する空間を瞬時に作り出す。しかし、その一つの立方体を出現させるのには人間20人を殺すだけの殺意を込めなければならず、天津はその立方体を50個しか作り出せない。外枠の領域を覆い体積100万立方メートル、均等に分割した立方体は総数100万個それに対して彼が殺意を込めることができる50個という数が明らかに少ないのは天津自身も諦めるほかなかった。彼も元人間、いかに神の遺産を使いこなせど自分が抱ける殺意には限度があった。だからこそ、彼は外枠を縮めることで、その問題を解決した。
「圧縮!!80!!」
対象を刈りとりやすくなることは事実だが、敵の攻撃を受けやすくなるのは言うまでもない。常日頃、死神たちに命じている守護霊程度の強さであれば天津は外枠を圧縮することはしない。そもそも、殺戮の領域を発動することすらしない。単純に憤怒の悪魔サタンが逸脱した強さを持っていることは天津が一番よく知っていたし、一番用心していた。
「くっ…クソが…範囲が狭まる…考えたな…神の代行者、天津神地!!」
「伊達に生きてねぇよ、塵芥の悪魔、サタン!!」
天津はこのとき勝負を急いでいた。それは自分の体がすでに限界を迎えかけているということに気がついていたからだろう。体から流れ出る血は今でこそ止まったが、不意に意識が途絶えてしまってもおかしくはないほどの出血量には達していた。視点のあわないぼやけた世界が天津には見えていた。朦朧とする意識の中で彼は一人の悪魔だけを見続ける。
サタン…お前は知っているはずだ。そこは死の領域…今度こそ殺してやる…
朦朧とする意識を晴らすために天津は再び唇をかみ締めた。痛みは天津に覚悟をもたらし、その覚悟が天津に自分の過去を走馬灯のように思い出させた。
過去の回想は悪魔サタンとの戦いの最中に蘇る。
あの日は寒く白い雪が降る日だった。一度死んでいるにも関わらず、この皮膚はまるで生きているときと同じように冷たい空気を感じ取る。死んでからもう何百年も経ってしまったというのに感覚は冴え渡る一方だ。月日を重ねることがこんなにもつらいことだとは思っていなかった。子供の頃は早く大人になりたいと願ったのにも関わらず…まったく自分という人間は…いや…人間という生命はどれだけ業が深いのか。
天津神地は細々と伸ばした枝に降り積もる雪をみてそう思っていた。枝は降り積もる雪の重みで次第にしなっていく。ついに限界を迎えた枝はミシッと一度だけ泣き叫ぶとそのまま折れ、雪と共に地面に落下した。その光景は天津に共感を与えるのだった。
俺は…あの枝と同じだ…
始めは降り積もることが楽しみでならない、けれど重ねれば重ねるほど重みに耐えるしかない。そして…最後は…
再びどこかで枝が折れる音が乾いた冷たい空気伝わり天津に届いた。彼の足元には白い雪は一つとして存在していなかった。新たに降り積もる真っ白な雪も地面に落ちるたびに朱色に染まる。どんなに降り積もれど、赤黒く染まった雪を白に塗りなおすことができずにいた。
天津神地、彼が死神であったとき、彼は仕事をすることが怖かった。
その恐怖心は悪魔たちによってもたらされていたのだった。”悪魔に出遭ったらすぐに逃げろ”自分の師匠となる死神にそう叩き込まれてきたし、仲間の話を聞いても絶対に逃げろとしか言われなかった。そして、そう答えるのには全ての死神が死神として再起不能になるまで痛めつけられていたことが背景にある。
痛めつけられていたというのは適切ではなく、希望の中に生き埋めにされたというのが正しいのだろうと、天津は結論付けた。
天津は雪に埋もれた枝を探し出し、ゆっくりと拾い上げる。雪が彼から熱を奪い去ろうとして指先はジンジンと痛み出した。
死神は借神を返し終えたあと、ただ消えることしか許されていない…どんなに死神の世界に居たくてもそれは叶わない。けれど、死にたくないと心から願うことができれば死ぬことが可能というルールがなければ…
指先の感覚がなくなり始めていたが、それを気にすることなく拾った枝についている些細な雪やゴミを天津は払いのける。
悪魔たちが死神たちに行った行為は簡単だった。彼らが望む幻想を抱かせた、ただそれだけ。
幻の希望に触れた死神たちは、死神であり続ける以上、幻想を抱くことができる。その幻想は彼らから死神としての力を奪い去るのに十分だった。
そして、死ぬことができる体となった死神たちは危険を冒して自らの借神を返そうとは思わなくなってしまった。当然といえば当然、幻とはいえ、自分の手の上には希望がある。そしてそうなってしまった死神は死ねないという制約からはずれ、悪魔によって簡単に命を刈り取られる存在となり、死神のシステムはいとも容易く崩壊した。
人よりも何倍、何十倍と生き続け、誰よりも何よりも、自分が望む未来を知っているはずの彼らたちが目の前の希望のために仮初の生を求め続ける、そんな光景が天津にとっては異様であり、恐怖だった。かろうじて救いとなったのは悪魔は高確率で出会うというわけではなく、特定の場所、特定の時間に現れるということでもないということだけ。天災ともいえる悪魔は通りすがった者に無作為に幻想を与え、気分次第で死神たちの命を刈り取っていることには変わりはない。
できることなら、悪魔と出会うことなく自らの人生に幕を閉じたい。天津はそう願いながら日々の仕事をこなしていた。
そんなある日、冬の日の出来事だった仲間数人と仕事に出かけたときに彼は出会ってしまったのだ。
突如、漆黒の羽が頭上から降り注ぎ、雪が降り積もっていた地面は白いキャンパスの上に黒い斑点が広がる。不思議に思った天津は天を見上げた。仲間数人も同じように羽がどこからやってきたのかを調べるために辺りを見回す。
一瞬だった。仲間の数人がその場に倒れこみ動かなくなった。なぜ自分だけが無事なのだろうかと考える前に原因は天津の目の前に現れていた。
空から降りてきた黒い羽を持つ男はゆっくりと羽をしまい込みと倒れた死神たちに近づき、頭を掴み右手で持ち上げる。そしてあいた左手で死神たちの体の中を探すように掻き回した。
「コイツは…違う…コイツも…違うな…」
天津はすぐさま目の前に立つ黒い羽を持つ男が悪魔であるということを直感で感じ取り身構える。一方の悪魔は立ち尽くす天津をみることなく、横たわる死神の体の中を掻き回しては投げ捨てる、その行為を続けていた。
「あ…あまつぅ…たっ、たすけてくれ…」
倒れこんだ死神の一人が天津に助けを求めて小さな声を発したために天津は戦闘を覚悟した。死力を開放するやいなや、助けを求めた仲間の下へ飛び込んだ。
悪魔が倒れこむ死神に手を伸ばそうとした一瞬の出来事で、とおりすがる死神に悪魔は驚きを隠せなかった。
「あぁ?!!何で動けんだよ…お前…」
そういいながら悪魔は近くに横たわっていた死神の体を掻き回して調べた後に蹴り飛ばした。
「コイツもちげぇじゃねか!!」
「お前が…悪魔か…?」
「………だったら…なんだよ…」
そういいながら、悪魔はまだ調べていない死神の体の中に手を入れて掻き回す。しかし、探していたものが見つからず舌打ちしていた。そして調べあげた死神は投げ捨てられた。
「もうやめろ!!何が目的だ!!」
「………」
無言のまま悪魔は再び死神を調べるために体の中に手を入れようとしたときに天津は怒号を悪魔に向かって飛ばし、殴りかかった。
「それ以上…俺の仲間に…手をだすな!!」
「…こいつももってねぇ…はぁ…」
天津の攻撃をひらりと横に避け、大きくため息をついた。天津は敵が避けたことに驚きながらもすぐさま体勢を立て直し、悪魔を睨みつける。悪魔はゆっくりと対象を見定めるように天津を足元から徐々に視線を上げて、天津の目を睨みつけた。
「あとはお前とそいつか…」
天津は一瞬にして凍りついた。寒気、悪寒、恐怖を含んだ悪魔の眼光を前に彼はたじろぎ、逃げ出したい気持ちが彼の心に湧き上がる。自分が抱いた感情を全て吐き出すために大声あげ、同時に一気に死力を開放させた。
「うあああぁぁぁぁ!!!!」
「うるせぇよ…お前…」
後ろから聞こえてきた声と同時に天津の体には衝撃が訪れていた。数メートル程、体は吹き飛ばされ痛みで声は出ない。
「すこし黙ってろ…俺には探してるもんがあんだからよ、コイツは…違う」
「…さ、探し物…?」
痛みを与えられた天津の体は咳き込みながら悪魔の目的を聞いていた。
「神の遺産って言うんだがな?文字通り、神の遺産なわけよ」
「なにを、言ってやがる…」
聞いたこともないその言葉に天津は首を傾げるが、それを信用するような相手ではなかった。
「そこでお前に質問。死神の中で白い光を発する死神はいなかったか?」
「いない…」
「…本当か?」
そういいながら、悪魔は山積みにされた調べ終わった一人の死神の頭を片手で持ち上げる。
「何してんだ!!やめろ!!」
悪魔は天津の言葉を聞くことなく片手に掴んだ頭蓋骨を勢いよく握りつぶした。死神の頭蓋骨は砕け散り、白銀の世界に赤い点を飛び散らせた。頭蓋を無くした死神の体は雪の上へと落下し、辺りを紅蓮の世界に変えていく。
「さて、もう一回…聞こう、本当にいないのか?」
「いないって言ってるだろうが!!」
「…ムキになるところが怪しいな…」
そういうと悪魔は一人の死神の肩を持ち、勢いよく引き千切る。体の脆い部分から体は裂け、その傷口から血が大量に流れ出る。再び地面には大量の血液が白い雪の上に飛び散った。その光景は天津に怒りを与えるが、先ほどの悪魔の攻撃が予想以上に急所に当たったらしく立ち上がることが困難なほどだった。彼は怒りの全てを言葉に変えて悪魔を睨み続ける。
「知らないっていってんだろ!!もう仲間を傷つけんじゃねぇ!!」
「そうか…てか、なんか勘違いしてんな。この死神たちを殺してるのは問い詰めるためじゃないぜ?」
「あ?」
「殺しとけば、俺がまた調べるっていう二度手間はなくなるだろう?だから殺してるだけだ」
「何を…言ってる…?」
「だから…説明すんのめんどくさ…ようはこの山積みの死神を全員殺して、お前の体調べて、お前を殺してそれで終わりさ」
十数人の死神たちが山積みになっているところに足を向ける悪魔がそこにはいた。ゆっくりと悪魔が手を伸ばし、無残に現状がそこには広がっていた。悪魔は笑いながら腹を裂き、四肢を切り裂き、心臓を貫き、まるでゴミを扱うように沈黙した死神の体は投げ捨てられた。
「やめろぉぉおおおお!!」
天津は動けない体を呪った。必死に声をあげた。だが、悪魔は死神を殺していく。体を引き裂かれたもの、頭をつぶされたもの、臓器を引き抜かれもの、様々な死の要因を与える作業は続く。作業と化した命を奪う行為を天津は止めることができず、激しく拳を地面に打ちつけた。
「はぁ…くそがっ、返り血浴びちまったじゃねえか…今度から首絞めて殺すか?いや、糞尿たらされても困るし、まだ返り血のほうがいいか。さてと…」
そういいながら、悪魔はゆっくりと天津に視線を向けた。雪が悪魔の歩みを遅めているが確実に紅い足跡は天津は近づいてくる。悪魔をみて、彼は忘れていた感情を思い出していた。
あいつが…憎い…仲間を殺しやがって…人を死神をなんだと思っている…
死ぬために生きてきたわけじゃないのに…あの時の村人たちと同じだ…自分のことしか考えない…
「こ……た…い…」
「なんだよ?死神のくせに死ぬのが怖いか?」
この感情は俺が死んだときに抱いた感情と同じだ…
でも、知ってる…汚い感情だ…人を殺したいという気持ち…
「ころ…たい…」
「死が身近な存在が死を恐れるってどうかと思うぜ?ま、お前らに言っても仕方がないがな」
いや…もう認めよう…自分は…人間は汚い生物だ…どんなに綺麗にいようと思っても無理なんだ…
なら俺は一生この汚さを自分として、人間として認める…
そう自分を認めた天津は声を荒げた。
「殺したいって言ってんだよ!!!糞悪魔ァ!!!!!」
その想いが彼に光を与えた。何が起こっているか天津には理解ができていなかったがあふれ出る力を感じ、悪魔を殺すために動き出す。
彼が白い力を発したことで悪魔は興奮を抑えきれずに目を見開いた。
「お前が持ってたのかっ!!やっと見つけた!!」
「お前の事情なんか知らないっての…俺はお前を殺したいと思っただけだ…」
「殺したいか…殺意の遺産だな」
「何言ってやがる…」
「だから、その力の正体」
「どうでもいい、お前の命を消せれば俺は満足だ」
「俺にとっては重要なんだよ、死神よ」
「お前の名前、聞いといてやるよ。墓標に刻み込むためにな」
「それはご丁寧なこって…憤怒の悪魔、サタンだ。お前の名前を聞いておこう、俺のために死んでもらう死神の名前ぐらい知っておきたい」
「天津…神地だ…」
「神々しい名前だな、吐き気がするぜ…」
そういうとあからさまにあきれ果てた表情をして悪魔は天津に向かって走り出した。恐怖を押し殺し、天津もまた悪魔に向かっていく。そこからの戦闘はまさに地獄だった。天津にとっては手に入れたばかりの神の遺産は扱うことが容易ではなかった。サタンにとっては使いこなしていない力であっても、禁忌の状態から変化した力である神の遺産は自分の身が消失してもおかしくない力であることはわかっていた。二人はそれぞれのハンディキャップを持ちながら戦っていたが、数時間の戦いで彼らの体は限界を迎えてしまい、唐突に終わりを迎えた。意識を失いその場に倒れこんだ天津が目を覚ましたのは数時間後、すでに悪魔はその場から立ち去っており上空からは地面の黒い斑点を消すように白い結晶が降り注ぐ。冷静になって辺りを見渡すとあたりは白銀と紅蓮の世界が入り乱れる。
立ち尽くした彼は急に振り出した雪を見ながら、自分が持つ力を改めて考えた。拾った枝は綺麗に雪や砂埃を払いのけ、天津の手に握られていた。
「ああ…全部…思い出した…」
俺は殺したかったんだ…母と父を蔑ろにしてきた村人を…
殺したい…なんて…なんて汚い感情だ…
けれど、この力はおそらく願いなのだろう…
天津の手に握られた枝はいつの間にか音を立てて、くの字に折れ曲がる。彼は枝を投げ捨てその場を後にした。
混濁した意識の中で拾い上げてきた彼の思いは戦いの中で表れ始めていた。口に血の味が染み渡るのを感じた天津は過去の回想から意識を現在の戦いに集中する。サタンは変わらず天津が作り出す立方体を避けつつ向かってくる中で天津は誰かの声が聞こえた気がしていた。
”貴方の殺意は誰に向けるの?”
どこからか聞こえてくる声に天津は自分の答えをぶつけようとしていた。
「そうだな…」
もう…自分と自分の家族を蔑ろにしてきた人間達は死んでいる…
それでもこの力が失われない…それはきっと…
ニコリと微笑みながら天津は自分自身の胸を押さえつけ、殺意の根源と自分の守りたいものを心に思い浮かべる。息を大きく吸い込んで自分自身の思いを背負い、ただ心の中で呟いた。
業の塊…欲の塊…人間ども…
その化身ともいえる悪魔ども…
その身勝手な自己満足を満たすためどれだけの他の人間を苦しめているか理解もできない、理解しようともしないゴミ野郎ども…
俺はそいつらを全てを…殺しつくしてやる
そして…そう思う自分も…全て…コロス…
「俺の願いに応えろっ!!殺意の遺産!!!お前が望む殺意を俺が振り回してやる!!!」
天津の体はすでに限界を超えていながらも、彼の力が衰えることはなかった。白い光はさらに発光を強め、死神本拠地全体を照らす光となる。隔絶空間に閉じ込められたサタンはただただ絶句するほかなかった。強大なその力は肥大したかと思えば全て天津の体に収束する。憤怒の悪魔はあまりの力の大きさに回避行動をとりたかったが、それは到底叶いそうにはなく落胆する。
圧倒的な力を振り回すために天津は悪魔に向かっていく。速度は悪魔を容易に上回り、力は自身が作り出した領域をも歪め始めた。神の代行者は体術を繰り出し、悪魔を追い詰めていく。ただの対術だが、その拳には天津の全ての殺意が込められて、それに応えるように神の遺産は彼に力を与え続けた。悪魔はただ振り回される暴力にただ蹂躙される。悪魔の持つ存在の結晶はさらに破壊され、塵となり、天に昇る。
神の遺産が天津の体を蝕み始めていることに悪魔は気がつきながらもどうにもできずに、致命傷だけは避けていた。
天津の体は次第に黒く変化し、崩れ落ちていく。
「もう…限界か…」
その言葉と共に天津の左肩は砂のように散っていった。そして何かに自分の存在の許可を求めるように彼は呟いていた。
「わかってるよ…全部終わる前に…一つだけしておきたいことがあるんだ…」
何かに急かされているように天津がそう一言だけいうと、彼は端末を取り出し操作する。その行為が意味することを理解できなかったサタンは自然と問いかけた。もはや、この戦闘では勝ち目がないと悟った悪魔は立っている事が精一杯だった。
「誰かに最後の言葉でも送んのか?お前らしくもない…初めて会った時散々仲間を殺すなとか言っておきながら、戦闘終わったら放置したやつが…」
「そうさ…でも、嘘をついたままじゃ可哀相な後輩がいるもんでね…」
「一之宮シロか…」
「…まあね」
端末を操作し続ける天津はどこか寂しそうに呟いた。悪魔が彼の行動が終わるのを待っていたのは彼の保有する神の遺産の力が自分の持つエネルギーをはるかに超えていたからだろう。サタンの体に埋め込んだ護身用の存在の結晶は先ほどの暴力によって枯渇し、隔絶空間を破壊する術をなくした。まるで斬首台にくくりつけられたような感覚をサタンは感じていた。すでに恐怖を通り越し、諦めの感情が心を覆う。行動を終えた天津は端末を胸ポケットへしまいこむ。
「またせてごめんよ…殺意の遺産」
その言葉に反応するかのように天津の体を覆う白い力は揺らめきだつ。その光景が不思議でならないサタンは悪意も他意もなく問いかけた。
「殺意の遺産…いや、神の遺産には自我があるのか?」
その純粋な探究心を感じ取った天津もまたその問いに答え返していた。
「わからない…でも、自分の心の中に誰かがいるように語りかけてくるような感覚はある…」
「本当の神か…」
「さあね、僕が知ることに意味はないと思うし」
互いに殺し合いをしたとは思えないほどやさしい雰囲気に包まれる。
天津に訪れた感覚は奇妙なものだった。先ほどまで殺したいと願い続けた対象が目の前にいるにもかかわらず心に静寂が訪れている。それはまたサタンも同じで、先ほどまでのナイフの先端を喉元に当てられているような鋭く尖った殺意が天津から感じ取れず、自分自身の牙を折られてしまったような思いにさせられていた。。
「さぁ…終わりにしよう…サタン…過去の因縁も、未来での因縁も」
「それ…いや、なんでもない…」
悪魔の告げようと思った言葉とはなんだったのだろうか、そんなことを考える間もなく神の遺産は更なる力を天津に与え始める。
「…滅私」
その言葉に反応した彼の殺戮領域は急速その範囲を縮め、サタンと天津を巻き込んでいく。天津が作り出した空間は全ての命を殺しつくし、消えていった。残ったのは正八面体の結晶一つだけだった。辺りが静かになったことを確認した何かが地面から這い出てくる。うごめく黒い液体が徐々に神の遺産に近づいたところで、液体は人型に変化した。
「それ…やめといたほうが良かったのにな…」
そういいながら神の遺産の結晶を拾い上げるサタンだった。
「しっかし、最初に分裂させといてよかったな、分裂してなかったら今頃…考えたくねぇな。あーあ、分裂したせいで力はそこらへんの低級悪魔と一緒だし、何十年かけて集めた存在の結晶はなくなるし…だから天津と戦うのは嫌なんだ…」
サタンは天津との戦闘の前に打ち込んだ光球に自分の存在を確定させる最低限の力だけを込めていた。最低限の力さえあればサタンは分裂が可能であり、それが憤怒の悪魔の固有の能力だった。それを知らなかった天津はそれには対処しようがなかった。
「また…一から集めるか…」
そういいながら手に入れた結晶を瓶の中に入れサタンは本拠地から消えた。




