4
薄暗い空間に、健三の足音だけが残響している。
地下空間の、狭いパイプの中を歩いていた。地上のマンホールから降り、ここへ至っている。明かりはまったくなく、彼の手元にあるLEDライトだけがその足元を照らしていた。
彼の吐く息が白く濁る。ここから、更に地下へ潜るという。埃臭い腐ったような空気で肺を満たしながら、健三は目印を探していた。
(……これか)
壁に大きく『E-5』と赤いペンキで書かれている。その真下、健三は左脇に小さな扉が設置されているのを発見した。上からの情報通りだった。
しゃがみ込んで扉を開けると、人がやっと一人通れるくらいの大きさの穴があり、梯子が続いていた。まるで化け物が黒い口を開けているようだった。そして、その口はきっと異世界へと繋がっている。
健三は口にライトを銜え、下へ降りていった。取り付けられている足場の金属が老朽化しているようでところどころ錆びている。随分と前に作られたらしい、と健三は足場を確認しながら下って行った。
三分ほど掛け、ようやく下へ着く。今度は横に狭い通路が伸びている。無機質なコンクリート剥き出しの通路。健三は生きている自分がここにいることに違和感を覚えていた。
ライトで奥を照らすと、その先に電子ロック式の扉が取り付けられているのが見えた。通路の奥行きはそんなに長くはないようだ。健三は扉に足を進めていった。
電子ロック式の扉は、比較的新しいようだ。十年前くらいのものだろう。健三が近付くと、まだ電気が生きているようで、扉が青白く光り、機械音声が流された。
『IDを確認します。身分証明のできる媒体を提示してください』
健三は徐にポケットから携帯端末を取り出し、電子ロックの上に翳した。ピーッ、と高い音が響き、『承認しました』の声と共に錠の外れる音がした。
重たい鉄の扉が横にスライドする。
隙間から白い光が溢れてくる。暗闇に目が慣れた健三は、明るすぎる光に思わず手を目にやった。中の空間では蛍光灯が煌々と光っている。
ようやく目が慣れた頃、彼が中に入ると、そこはエレベーターのようだった。取り付けられているボタンにはB6からB13まで番号が振ってある。その最深部となる地下十三階のボタンを押す。
再び重苦しい音がして、扉が閉まると、ゴウン、という駆動音と共に空間が下降し始めた。
健三は小さく息をついた。ここは空気が緊張している。何もないはずなのに、こっちまで気を張らなければならないくらいに。まるで何もないはずの闇に猛獣でも紛れているような錯覚。これより危険な潜入捜査は今までに幾度となくこなしてきたはずなのに。
そう、ここは明らかに異空間だ。
胃袋にずしりと圧し掛かる何か。腐った空気。ただの軍部施設のはずなのに。
そうこうしていると、エレベーターが止まり、重苦しい扉が再び開いた。
重要すぎる任務を託されたせいで気が張っているだけだ、別に何もない。あとは、頼まれたものを取ってくるだけ。健三はそう自分に言い聞かせ、扉の外へ出た。
「……」
再び、暗い空間。ライトで奥を照らしながら、目的地へと足を進めていく。
扉からは一本の道が通っている。左右は例によって、無機質なコンクリート剥き出しの壁。
奥に辿り着くと、やはり電子ロックの扉があった。健三が近付くと、扉が反応して彼に身分証明の提示を求めた。
扉が開く。健三は感じた。
ここからが、本当の異空間なのだと。化け物の胃袋に足を踏み入れる、ここがその境だと。
背中に汗が伝い、ゴクリと飲み込んだ唾で咽喉がなる。
だが、任務は任務だった。戦争における自分の役目を果たすべく、回れ右をしたいという自分を殺し、健三は足を踏み出した。
背後の扉が閉まり、空間は闇で満たされた。健三はライトを点灯させ、足元を照らした。
ここは軍の研究施設だ。一度、過去の戦争で壊滅した新潟の中央に位置する、巨大な地下空間――本来開発されるはずだったそれを、そのまま軍が研究施設の建設に当てた。
表向きは物理研究所と名を冠していた。周囲に建設された加速器もそれを物語っている。だがそれは応用して兵器を開発ためのカモフラージュでしかない。
実際はもっと別の――凄惨なことが行われていた。
妙に凍てついた空気が肌を刺している。地上より更に寒い。残響する自分の靴音を聞きながら、健三は奥へ奥へと向かっていった。足が自然と速くなるのが分かる。本能的にここにいたくないのだ。上からの指示で取るものを取ったら、さっさと撤収すればいい。
一度立ち止まって、大きく深呼吸する。それで落ち着こうとした。
だが、足を止めたその瞬間――彼は妙な物音を聞き、体を硬直させた。
(……何だ?)
気のせいではない。耳を澄ますと、やはり電子音が確かに聞こえてきた。
心臓が萎縮する。研ぎ澄まされた空気に、僅かに漂う音。健三は懐の自動拳銃に手を掛けた。
ライトを消すと、視覚を擬似暗視スコープモードに切り替える。白黒になった視界で、目の前のドアノブを捻り、音を立てないように扉をゆっくりと開ける。
(あれは……?)
健三の立っている狭い足場から俯瞰できる、この広大な空間。巨大なコンテナが積まれ、迷路のように入り組んだ場所になっている。何のための場所なのかは、全くもって不明である。
開けた場所に出た――その広大な空間の隅で、巨大な物陰の合間を縫って、白い光が断続的に漏れている場所がある。健三は鉄の柵から体を乗り出して、その場所を見つめる。
導き出されることは一つ。
この空間に、健三以外に誰かがいる。
健三は駆り立てられるように、上から送信されてきた地図を開く。予感は的中し、光の場所は目的の場所とほぼ一致している。健三は焦燥を感じ、鉄の階段を踏みしめて下へ降り立った。
(しかし地下にこんな空間を作って、何の意味がある?)
上から送られてきた地図、その迷路のようになっているものがこれを表していることは分かった。ゴール、と言わんばかりに赤いポインターが点滅している場所が目的地だ。健三は柵から飛び降り、下の階層に着地した。
迅速に、最短ルートを計算しつつ、足音を殺し健三は走る。壁となっている高さ七メートルほどの鉄の箱は、一つ一つが何かを保管するための倉庫のようなものらしい。沈黙しているそれが今、機能しているのかどうかは分からない。
UZIの銃把を握り締める。緊張に心臓が軋んでいる。まるで自分の足の感覚がなかった。
音が近い。咽喉がからからに渇き、ごくりと固唾を呑む。
遂に目的地に辿り着く。この角を曲がった先だ。この先に、誰かがいる。一際心臓の鼓動が高ぶり、呼吸が荒くなる。
健三は胸に押さえたUZIを前に構え、一つ深呼吸をする。目の色が変わる。戦場に経つものとしての覚悟を決める。
「動くな」
健三は構えた銃口をそこにいる人間の後頭部に向けた。
背中が広く、がたいのいい男だった。ノートパソコンのディスプレイを覗き込んでいるその男の短く刈り込んだ白髪交じりの頭は、一見他の人と変わりない。だが、無骨なメタルフレームの左腕は、彼が半サイボーグ人間であることを示していた。
男は横目で健三を一瞥する。そのまま、自分は無抵抗というように両手を上に上げた。
「おいおい撃たないでくれよ……俺は別に怪しい奴じゃないって」
「それは何だ」
「ノートパソコンだよ。見てわかんない?」
「ここで何をしている」
ノートパソコンに接続されたケーブルのもう片方の端が、壁をなす鉄の箱に繋がれている。単刀直入に健三は問うた。
「何って――」
健三は瞬間、目を疑うような光景に直面した。
男の上げた左腕――サイボーグ化した金属腕が、液体のように流動し、その形を変えた。
形成されるのは、奥に深い闇しか広がっていない銃口。それが健三に向けられていた。はっとして、しまった、と思ったときには既に遅かった。
ドンッ、という重苦しい音が空間に残響した。
「ああああッ!」
健三の口から苦悶の声が漏れる。左腕を貫かれた。先ほど処置した場所とほぼ同じ場所だった。凄まじい衝撃と痛みがそこを中心にして広がり、健三は地面に倒れ伏した。
「……やってくれるじゃないの」
銃口が元の形に直っていく。しかし男も左側頭部を押さえながら、苦痛に耐える表情だった。
撃たれる瞬間、健三もUZIを撃っていたのだ。頭を貫くことはできなかったが、男のこめかみを掠める結果となった。「あ、あ」と声を出し、男は耳の不調を訴えている。
ノートパソコンからピピッ、という音声が漏れた。
同時、ガコン、と音がして、壁の側面の溝に、青い光の筋が何条も走り始める。鉄の箱が、ようやく命を吹き込まれたようだった。そのまま箱の側面の一部が横にスライドし、中の空間を曝け出した。
男は血を流す頭を押さえたまま、右手をその空間に伸ばす。健三は、男がそこから旧時代の記憶媒体――CDを取り出したのを見た。上の情報どおりのものだ。
「何してるって、ハッキングに決まってるだろ、軍人さん」
そう言いながら頭に湿布を当てる男の傍らで、何もないはずの空間がぼやけ、何かが形を現していく。酸素が電離し、オゾンの臭いが漂う。
(〈鉄人形〉……! 光学迷彩モードにしてあったのか!)
生身では何とか凌げると思っていたが、相手がパワードスーツを装備しているとなると話は別だった。健三は焦り、しかし苦痛を抑えつけるのに必死で、何もできない。
男がパワードスーツを装着する。その右腕に握られているのは、アサルト・カービンだった。
健三の心臓が鷲摑みにされたように萎縮した。冷や汗が背中を流れ落ちる。
男は何も言わなかった。ただ、その目が、健三を冷たく見下ろしているだけだった。
だが、引き金が引かれるその刹那。
空間が震えた。瓦礫の崩落音がどこかで連続して響き、上からどんどん近付いてくる。
そして一際鮮明に崩落音が聞こえた。真上の天井に穴が開いて、この空間に何かが二つ落ちてきた。
(何だ……!?)
呆然とする健三は、はっとして男の方を見た。だが、そこに男の影はなくなっていた。あたりを見渡すが、いつの間にかあの巨体はどこかへ消えてしまった。
九死に一生を得たのか――健三は二つの影を見る。
(……まさか!)
真上に開いた穴、二つの影が落ちてくる。ズンッ、と重苦しい音がして、彼の眼前に白い影が着地した。
その姿は紛れもない、機甲少女だった。
「飛鳥少佐!」