君の居ない世界で
「水鏡創世記」の続編、後日談です。
桑の葉を摘んでいた少女は、ふと顔を上げて陽光の眩しさに目を細めた。
この世界に守護の女神と地上の王が誕生し、秩序がもたらされて、はや五年。
穏やかな世界の中で働きながら、少女は自分の手を見下ろした。
あの手を離してしまってから、もう五年になるのだ。
自分を集落から連れ出してくれたあの少しかさついて骨ばった手を、あの時離してしまったことを、少女は未だに後悔している。
自分に何か、彼を、彼の心を支えられる何かがあったなら、彼は踏み誤らずに済んだのだろうか。
今、世界は女神と守護神に守られ、人々は秩序を覚えて平和な暮らしを享受している。
それが女神と王の作りだしたものだという事は誰もが知っているが、その礎となった少年が居ることを知る者は無い。
少女は今や王となった青年に思いを馳せた。
世界が定まった後、草原で出会った青年は、少年の行方を訊ねた少女に、明確な答えをくれはしなかった。
しかし、その伏せられた瞳が。
僅かに震える手が。
少年がもうこの世に居ない事を、どんな言葉より雄弁に伝えた。
あの時、青年は少女に、自分と一緒に来ないかと声を掛けてくれた。
彼は彼なりに、何か少年に対する償いをしたかったのかも知れない。
けれども、少女は首を横に振った。
この世界が、彼の言うように、少年の望んだ世界だったというのなら、自分はそれを見届けたいと思ったからだ。
王の居る高みではなく、この地に暮らす民草の底辺から。
桑の葉を籠いっぱいに抱えて、少女は今住んでいる集落へと向かった。
五年前、身寄りも行く当ても無く彷徨っていた少女は、運よく子の無い夫婦に拾われ、彼らの娘として暮らし始めた。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
家に戻れば、穏やかな笑みを浮かべた母が迎えてくれる。
「お父さんは今畑仕事に出ているからね。お弁当を届けてあげてくれるかい」
「はい、もちろん」
母の作った弁当を手に持ち、父の居る畑へと向かう。
幸せだった。
少年が命と引き換えに残してくれた幸せを、少女は確かに感じていた。
集落の中を小走りに駆けていた少女は、気がはやっていたせいか、角から出てきた人影にぶつかりそうになった。
「あっ、すみません」
慌てて取り落としかけた弁当を抱え直し、謝罪しながら顔を上げる。
「いや、俺も前見てなくて悪かっ……」
不自然に、言葉が止まる。
少女の目に、くすんだ金の髪と黒い瞳の青年が映った。
「あ……」
「君は……」
何故、ここに。
混乱する少女をよそに、青年は満面の笑みを浮かべた。
「そっか。ここに居たのか。幸せそうだなぁ」
少女が幸せに暮らしていることが心底嬉しいというような、弾んだ声。
けれどもその瞳の奥には、確かに深い哀しみが湛えられている。
「どうして、王様がここに……」
「王様なんてよしてくれ。柄じゃないよ」
苦笑した青年は、少女の頭に手を載せた。
「大きくなったなあ」
そっと撫でられる。
少女は不意に目頭が熱くなるのを感じた。
世界が穏やかに回っていることを、誰もが喜び、笑っている。
その影に埋没した哀しみを、この人は、この人だけが知っている。
「陛下!」
「あれ、見つかったか」
従者らしき数人の男達が駆けてくると、青年は悪戯が見つかった子どものような顔をした。
「また急にいなくなられて……!」
「悪い悪い。しかしなあ、ずっとお前達と居ると肩が凝るだろ?」
「陛下!!」
従者達と青年が言葉を交わし始めたのを見て、少女はそっと青年から離れた。静かに頭を下げて、立ち去ろうとする。
「待って」
その腕を、青年が掴んだ。
「陛下?その娘は……」
従者が何か言いかけるのを片手で制して、青年は真っすぐに少女を見つめる。
「俺と一緒に、来ないか」
五年前と、同じ問いだった。
その言葉に、自分の中で何かがぐらりと揺れたことに、少女は動揺する。
「……返事は、五年前に申し上げました」
やっとのことで、少女はそう答えた。
掴まれた手が、妙に熱く思える。
痩せて骨ばっていたあの少年の手とは違う、逞しい手。
しかしそこに、同じ優しさが宿っている気がした。
少女の答えを聞いた青年は、にっこりと笑った。
「何度でも、俺は言うよ」
腕を掴んでいた青年の手が、そっと移動して少女の掌を包み込む。
「俺と一緒に、来てくれないか」
眩しい陽光が降り注ぐ。
この明るく優しい世界に、この手を引いてくれた君は居ない。
けれども今繋がれたこの二つの手の中に。
君は確かに、今も居た。