3.鬼の接触
京都の空はいつになく蒼く晴れている。
「やっぱり寝坊しやがったな」
映画館の前で、緒方駿は苛々と片足を踏み鳴らしながら時計を見た。
直に慌てるでもなく、走るでもなくやって来るのは判っていた。
「くそ面白くねぇ」
と言いながらも、帰る事をしない自分にも腹が立つのだが。
自問自答を繰り返していると、人ごみの中から片腕を上げて手を振る女が見えた。
沖野葵である。
「ごめーん」
ほらな。
遅刻はいつもの事だった。その度に今日こそは怒鳴ってやろうと心に決めるのだが。
「早く入ろうよ、始まっちゃう」
そしていつもそのタイミングを失うのだ。
「遅れて来たのはてめぇだろうが」
「だから謝ったじゃない。心のせまーい男は捨てられるよ?」
「てめぇに捨てられても、痛くも痒くもないぜ?」
ふーん、と葵は相手にはしないで映画館の扉を潜って行く。
(いつかマジでぶん殴ってやる)
と思いつつも、女に手を上げる事はできないのだけどれど。
葵が映画を観たいと言い出したのは、付き合うようになってから初めてだった。
いつも神社や寺、城めぐりがデートコースとなり、恋愛ムードもへったくれもない。お陰で一年も彼氏彼女の間柄だというのに、まだキスの一つもできてない。急な坂を登る時に手を握るくらいが関の山、という按配なのだ。
駿が葵に出会ったのは、京都にある二条城でだった。
徳川家康が築城して400年余り。本丸御殿の南西に在る堀沿い梅林に、一本の木に紅梅白梅が入り混じっている【源平咲分】と呼ばれる梅がある。
その梅の前でもじっと花を見上げている葵が居た。
駿はその立ち姿に見惚れ、考える間もなく声を掛けてしまった。
付き合って下さいとも、好きですとも言った覚えはない。だが、梅の花を二人で見ている内、互いの連絡先を教え合い、次に会う約束をした。
考えれば不思議な事である。
(こいつのどこに俺は惚れたんだ?)
映画の内容はベタな恋愛物で、欠伸が出そうだったが、横に座る葵は真剣な眼でスクリーンを見ている。
「この主人公、最後に死ぬんだよ」
周りに聞こえないよう小さな声で、顔を近づけて来た葵が耳元で囁いた。
(クライマックスを喋ってどうする・・)
か細い手が駿の手に重なった。
(!?)
その冷たい手は震えていた。
反対に手を握り替えし、葵の横顔を見る。
泣いているわけではないが、辛そうなその表情に駿は目を細めた。
「葵」
そっと名前を呼ぶと、葵の眼が駿を捉える様に動く。
軽くその唇にキスをすると、葵は照れた笑みを浮かべて駿の肩にことりと頭を乗せた。
二時間もない映画は退屈極まりなく、ストーリーなど頭に入る事もなかった。駿は映画自体観ていないのだから、感想を聞かれたとしても困るだけなのだが。
いつも元気で明るい葵が、今日はやけに大人しいものだがら、調子も狂う。
「さて、飯でも食いに行くか?」
「駿のおごりだからね」
「へいへい」
少しは元気が出たらしい。
手を後ろで組み、軽くスキップしながら前を行く葵に苦笑を漏らす。
「何食べたい?」
くるりと体を回し、葵が笑顔で聞く。
「そうさなあ・・・」
「お蕎麦にしよう!」
なら、いちいち聞くな。
拳を握り締め、腕を絡めて来た葵にひっぱられる形で、三条から川原町通りを下り五条通へと出る。右へ曲がってさらに行くと、烏丸通の一本手前の不明門通の角に【蕎麦の実 よしむら】の暖簾が見えた。
「ここ、私のお気に入りなの」
そう言いながら暖簾を潜り、戸を開けて入って行く。
二階へと案内され、階段横の席を進められる。そこには丸く壁が開いていて、欄間(天井板と鴨居の間の空間)を見ることが出来た。
二人は十割そばの太麺を注文し、出で来た蕎麦はちゃんと手打ちで打たれていた。
「へえ。店構えから期待は薄かったが、ちゃんとした蕎麦を出すんだな」
「失礼だなあ。私がお気に入りなんだよ? ちゃんとしてるに決まってます」
「へいへい」
ずるずると音を食べるのが蕎麦の食べ方。おちょぼ口で一本一本食べていたら、蕎麦の旨味なんて味わえるわけが無い。
と、葵も周りを憚らず、ずるずると麺を口に吸い込むようにして食べて行く。
「で、なんかあったのか?」
一息ついたところで、駿は尋ねてみた。葵の様子がずっと気に掛かっていたのだ。
「ん? なにが?」
「いやあ・・・いつものお前らしくなかったからさ」
「そう?」
「うん・・・気の回しすぎならいいんだけどよ」
「ねえ、駿」
「うん?」
「私の事、好き?」
ぶっ、と飲みかけたお茶を噴出しそうになる。
「なんでこんなムードもへったくれもないとこで、そう言う事を聞くんだてめぇは」
「いいじゃん、どこだって」
葵にはムードを作ろうとしても通じない事を、駿はこの時に悟った。
「そりゃあ・・・お前、なんだ」
面と向かって聞かれて、答えるだけの度胸など駿にはない。
「何があっても、側に居てくれる?」
「やっぱ、変だぞ?」
「ちゃんと答えるの」
「・・・居てやるから、安心しろ」
にこりと葵が笑う。
「約束ね」
葵の言葉が終ると同時に、背後から別の含み笑いが聞こえて来た。
聞かれていたのだろう。
(くそ。蕎麦屋でする会話じゃねぇだろうが)
お茶を飲み干した駿の手が止まった。
「・・・おい・・・なんの冗談だ?」
「冗談でもなんでも、ないんだけどね」
また葵が笑う。そして、後ろを指差した。
「?」
駿が振り向くと、先ほどの含み笑いを零した主が、腕を組んで口端を上げて笑っていた。
「・・・・・・」
「失礼した。笑うつもりはなかったのだが、つい笑ってしまった」
「誰だ、お前」
人を見下した眼。薄ら笑いに覚えがある。
「君の前に座る女性はとっくに気付いていたらしいな」
駿の顔が葵に戻る。
「てめぇ・・・」
「やだなあ、怒らないでよ? 私だって天命が下りたの、つい昨日の事なんだから」
「ふ・・・ふざけんじゃねぇ!」
店内に居た客の視線が一斉に駿に向けられる。
「ちょっと、場所考えてよ」
「本当に、君は相変わらずだな。ここでは何かと迷惑を掛けるようだし、外へ出ようじゃないか」
男に促され、直ぐ葵は腰を上げて階段へと向かう。
「ちょっと待て!」
二人で下りて行くその後ろを、慌てて駆け下りて行く。
来た道を戻り、三本通りを超えた反対側に宗仙寺がある。
その境内に入った駿は、葵を傍らに男を睨みつけた。
「天命だかなんだか知らねぇが、こういう茶番は好きじゃねぇんだよ、俺は」
「茶番などであるものか。私も好き好んで君たちに会いたいと思ったのではない。ただ、天命が下った者を集めるのが今の私に与えられた命でな。そこを理解してくれると助かるのだが」
「じっくり訳を聞こうじゃないか」
「事を急ぐと碌な事にはならぬぞ、若造」
「わかっ・・・俺は緒方駿! 若造呼ばわりされる覚えはねぇよ」
「ほう、そうだったか? 昔も今も、私からすれば若造で十分だ。いいか、6月10日、ここへ来い。さすればちゃんと話しを聞かせてやる」
男は内ポケットから取り出した紙を差し出した。
「・・・・」
それを受取ったのは葵だった。
「どうやら君はちゃんと理解する頭を持っているようだね」
男がにっこりと微笑み、葵の頬に手を添える。
「触んじゃねぇ、くそが! てめぇも受取るな!」
その手を駿の手が叩く。
「含むところはお前だけではなく、私の方にもある。が、因縁などこの際捨てろ。君は納得できぬ事やも知れぬが、してもらわねば困る」
駿の限界は、握られた拳を出すところまで来ている。
「ここで死闘を繰り広げるつもりはない。いずれ、その場も与えられよう。それまで我慢しておくがいい」
男は駿の拳を指差し、そう言って歩き出した。
「話しは終っちゃいねぇ!」
「私は終った。いいか、6月10日だ。忘れるな」
追いかけようとする駿の腕を、葵の手が掴んだ。
「放せ!」
「もう! 駄目だってば」
「どっちの味方だ!」
んー、と考え込む葵。
「この場は、あの人かな」
「っ!」
「約束したよね?」
へっ? と駿の顔から憤怒の色が消える。
「何があっても側に居てくれるって、約束したよね?」
「うっ・・・」
くそっ!
こうなる事を葵は解っていたのかもしれない。
「駿・・・また、動乱が来るよ」
「・・・ちっ」
自分の意志とは関係なく、時が動き出した。
腹立たしい気持ちと一緒に、歓喜に震える心が混在している。
「理なんざ、俺の知ったことか」
避けたくても、避けて通れない道が出来てしまったと、傍らに立って寄り添う葵を抱き寄せた。