4.総鬼-紅蓮-
アメリカ、ワシントンD.C.のポトマック川に隣接する入り江、ダイダル・ベンスンから北西地区に上って行くと、アメリカ大統領の住まうホワイトハウスが在る。
そこから北東に行ったフランクリン・パーク内で、深い真紅の双眸で瞬きもせず、じっと前を見据えている男が居た。
「忌々しい結界だな」
「紅蓮さま」
両腕を背もたれに掛けてベンチに座る背中に、小柄な女が遠慮気味に声をかけた。
「奈呵か」
紅蓮の片腕が動き、背後に立った女を振り返った。
「どうした」
「バーモント・アベニューを越えないのですか?」
「奈呵の頭はあいかわらず馬鹿が詰まっているな。迂闊にアレに近づけば、炎獄に堕ちて戻れぬ身となる。俺はそんなの御免蒙る。どうしてもと言うなら、おまえ一人で入ってみろ」
ひくりと奈呵の頬が引き攣る。
「使鬼の私にはとても・・・」
紅蓮は不愉快だと言わんばかりに眉を寄せた。
「人間が施した封印が邪魔をしている」
紅蓮の目的は、フランクリン・パークから西に位置するスコットサークル・パークで、奪取しなければならない躯が埋められている。だがスコットサークルを護る様に、六芒星で囲われた真南にホワイトハウス、左上にデュポンサークル、右上にローガンサークルが置かれ、上空から見ると逆さまの三角形を成している結界が行く手を阻んでいる。
「ですが、じっとしている訳にもいかないのでは?」
「総鬼の俺でも今は無理だ。封印を壊す力がまだ十分ではない。おまえも力の減少に少しは気付いてるだろ」
深淵より出て来たばかりの紅蓮の力は、公園の中で寛いでいる人間と然程の違いもない。そんな状態では、壊すどころか結界に近づくことすら不可能なのだ。
「封印を壊すには、どれか一つ破壊すればいい。そうすれば後は容易いが、本来の力が戻るまで封印に皹を入れることもままならん。今は動けんと言う事だ。わかったか?」
「わかりました」
「インドの封印破壊を言われた黒沙は、俺よりもっと苛立ってるだろうな」
紅蓮は小さな嘲笑を零した。
エンパシーロウの一角に立てられているワシントン大聖堂へ行くため、マサーチューセッツ・アベニューNWを、北西に向かって歩いていたルース・アンダーソンは突然足を止めた。
並んで歩いていたサンドラ・ベイリーもつられて足を止める。
「なんだよいきなり」
「嫌な気配がするのよ。司祭さまのおっしゃってたアレかしら」
キョロキョロと辺りを伺うように視線を走らせるルースに、サンドラは首を傾けて考え込んだ。
「ん-、なーんも感じないけど」
「不感症なんじゃない?」
「それ酷くない!?」
「アレックスに振られたのも、そのせいとか」
拳を握りしめたサンドラが腕を突き出す。
そこにはアレックスの名前が彫られていた。
「振られてないし!」
「あら、そうなの。それは失礼いたしました」
歩き出したルースの顔はまだ辺りを伺うように動いている。
「で、どの辺り?」
それが特定できないから気配を探っているのだが、相手の気が弱すぎるのと、無人ではない町中では人間の気も多く、更に場所の特定が困難となっていた。
「もう少し気が強ければいいんだけど、それはそれで私たちには厄介なことだものね」
存在が判るのであれば、それ相応の力を持っている相手と言う事になる。
「とにかくシング司祭の所へ急ぎましょう。午後には雨になりそうだし」
空は雲ひとつなく晴れ渡っているが、風の中に、わずかだが湿気を感じ取ったのだ。
「他の奴らは?」
「司祭さまが知らせを出してるから、そのうち集ってくるんじゃない?」
ルースとサンドラの元に、シング神父から呼び出しが掛かったのは三日前の事だった。
代々封印を護ってきた家系に生まれた二人は、他の人間にはない特異な能力が備わっている。
ルースは自然の気を感じる事に長けており、サンドラは物質の質量を自在に変化させる事ができる。
だが二人の両親は一般人と変わらない。祖父母がこの世を他界する時、父母ではなく彼女らに守護の役目が継承された。
ワシントン大聖堂は、正式名称を聖ペテロ・聖パウロ大聖堂と言い、セオドア・ルーズベルト大統領時代に建設が始められて83年後に完成した。Presiding Bishop(首座主教)が居る米国聖公会ワシントン教区の主教座聖堂である。
ミサがない時間にも関わらず、ここには多くの信者や観光客が訪れる。
小高い山の上から、ルースはオベリスクが遠くに見えるの確認してから、聖堂へと足を踏み入れた。
「ルース」
声を掛けてきたのはシング司祭である。齢50歳を越えた初老の男性だ。
「司祭さま」
「よく来てくれました。さあ、中へお入りなさい」
東西に細長く作られた大聖堂内は、人が居ても厳かな雰囲気を保っている。
磨かれた大理石がステンドグラスを通して差し込む光りに照らし出された、聖所は東側の一番奥へと歩いて行く。
「私たちの他は、まだ来ていないのですか?」
「いえ。お二人とも先ほど到着されて、修道院の方へ案内して来たばかりです」
シングはこちらへと、ルースたちを大聖堂の裏手にある修道院へと連れて行くと、先に着いた二人に引き合わせた。
「俺はケネス・パーカー、こいつはブライアン・ミラー。職業は二人とも消防士だ」
「よろしく、パーカーさん、ミラーさん」
ルースが手を差し出すと、ブライアンがまずさの手を握った。
「ブライアンでいいよ。こいつもケネスで。さん付けで呼ばれるのに慣れてないんでな」
握ったままの手を、間に立ったサンドラが叩いた。
「いつまでも女の手を握るもんじゃない」
「・・・あんた、彼氏いないだろ」
腕を組んでブライアンを睨むサンドラの顔が真っ赤に染まった後、ブライアンの右頬に手形が付いた。
「ってぇ!」
頬を押さえて座りこんだブライアンになお殴りかかろうとしたサンドラの腕を、ルースは掴んで引き寄せた。
「神聖な場所で殴り合いはだめよサンドラ」
「今のは失礼すぎるぞブライアン」
コーヒーを入れて戻って来たシング司祭も、場の雰囲気に一瞬戸惑った様子を見せたが、知らぬ振りでテーブルの上に4客のコーヒーカップを並べた。
「さあ、お座り下さい」
シングは落ち着いた所で、安倍晴明から送られてきた手紙に書かれてある、鬼妖と封印の守護について読み聞かせた。
「天命を受けた者が、封印の地に集まりつつあるとのこと。無論、このアメリカも例外ではありません。他にもインド、イギリス、フランスに結界を施した土地が在り、貴方がたと同じ様に命を受けた者が守護にあたっております」
「もと封印を破られたらどうなるのですか?」
アメリカは数ヶ月もしない内に鬼妖が跋扈する国になり、破滅する。
4人は息をのんで押し黙った。
「これは映画の脚本などではありません。封印が破られると言う事は、鬼妖の棲む世界とこの世を繋ぐ穴がアメリカに出来るということです」
ゾンビやエイリアンに侵略される映画は腐るほど創られている。それはスクリーンの中の非現実的な物語であって、実際に突きつけられる恐怖ではない。
「鬼妖には、アメリカが誇る最新鋭の武器も役に立ちません。無論、核もです。彼らに通じるのは剣のみ。それも選ばれた者が振るう剣のみです」
「それが、俺たちってことか」
シング司祭は静かに頷いた。
「要は日本です。その日本の結界を崩すために、鬼妖は他の結界地の破壊を遂行して来るでしょう。それを防ぐのが、貴方がたの役目となるのです」
「命を懸けて、か」
「消防士だったんだろ? いつも命がけの仕事やってたんだ、今更命が惜しいなんていわないよな?」
嘲笑交じりにサンドラがブライアンに嗾けた。
「誰が惜しいなんって言った!?」
中腰になったブライアンをケネスが止め、ルースがサンドラを嗜める。
「仲間割れしてる場合じゃないって、サンドラ、貴女にも解ってるわよね?」
「生理的に虫が好かない男が居るんだ、我慢して仲良くしましょうなんて-」
ルースに睨まれ、シング司祭にため息を吐かれては、後の言葉を飲み込むしかなかった。
「我慢するから怒るな」
背もたれに体を預け、コーヒーの無くなったカップの淵を指でなぞりながら、ここに来る途中に気になった気の事を口にした。
「凄く弱い気だったから、場所を特定できてないんだけど」
ケネスが立ち上がり、窓際へと歩いて行く。
「人の気の性質と区別がつくんじゃないか?」
「やってみたんだけど・・・アメリカ人全部が聖人じゃないの。嫌な気のどれが鬼妖かなんてわからない」
「だけど君は"違う"と感じた」
ええ、とルースは答えた。
「気を抑えているのか、別の理由があるのか解らないが、結界の中に入っておいた方が良いようだな」
「私もそう思います。主教さまにもその旨をお伝えし、皆さんをスコットサークル・パークにお連れする用意を整えさせて頂きます」
シング司祭は戸口へ向かいながらそう言い、一度4人を振り返ってから部屋を出て行った。