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ASDとして生きている

作者: 夜空アクエ
掲載日:2026/10/02

このエッセイにはネガティブな要素が大量に含まれています。精神的に落ち込んでいる人や影響を受けやすい人はご注意ください。

 中学生の頃、初めてリストカットをした。子供用の包丁で、そこまで深くはないけれど跡が残る程度に切った。血なんてそんなに出なくて、傷も浅かった。痛みはそこまで感じなかったと記憶している。もうかなり昔のことだから、記憶が薄れている部分は多い。なぜそんなことを、と言われても、その時の感情なんて覚えてやしないから、ハッキリとはわからない。

 後から理由を作り上げることはできる。一言で言うなら、生きづらさ。

 その当時、私はいじめを受けていた。いじめ、と言っても、暴力を受けていたわけではなく、物を壊されたりなくしたりなんてことでもない。精神的に追い詰められる系ではあったが、まあでも、軽度のものだったと言えば軽度ではあっただろう。

 軽度、と言っても、いじめはいじめである。しかし、私の感じていた生きづらさは、それだけではなかった。後になって思い返せば、ASDの特性によるところが大きかったんだろう。と、今になれば言うことはできる。

 中学生だった私に「発達障害」なんて言葉の知識はなく、また、私の周りにもそんな知識を持っている人間はいなかったんだろう。周りの人間にとって私はただの自己中心的で頭のおかしな人間だった。

 生きづらかった。息が出来なかった。学校という社会で生きていくことが、苦しかった。

 リストカットをした理由なんて、思い出せることではないけど、とにかくつらくて、どうにかしたかった。心を病んでいる人間はそういうことをするものだというイメージがどこかにあったのかもしれない。自分は心を病んでいるのだ、つらいんだ、と、周りに理解してほしかったのかもしれない。「かもしれない」と理由を後付けすることはできるけれど、その時のハッキリとして感情は誰にもわからない。

 リストカットをしたことは、最初は誰にも知られないようにと隠していた。知られたらいけないと思った。けど、学校の先生に最初に見つかった。それから、親にも伝わって、使った子供用の包丁を見えない場所に隠された。

 けれど、また、私はリストカットをした。その時に使った刃物はカッターだったか、なにを使ったのかはよく覚えていないけれど。

 記憶が薄れているから、時期もハッキリ覚えていない。中学生の時だったか、高校生の時だったか。

 後になって思い返せば、中学生の時から精神状態はおかしくて、できることならあの頃から精神科に行けていればよかったんだろう。でも、私が初めて精神科に行ったのは高校生の頃だった。

 高校生の頃、私は不登校になっていた。高校では、ハッキリとしたいじめがあったわけではない。と、記憶している。いじめられたわけではない。でも、とても息苦しかった。

 クラスの中で、自分の存在が浮いていることを感じていた。奇異な目で見られていることを感じていた。自分は頭のおかしい人間なのだと、周りから言われているように感じていた。

 ハッキリそう言われたわけではない。でも、そう感じていた。自分は頭のおかしい人間だからクラスに馴染めなくて居場所がないんだと、そう感じていた。

 学校に私の居場所なんてないんだと思って、学校をサボった。家族には理解されなかった。家にも私の居場所はないんだと思って、夜遅くまで、家に帰らないようにしたこともある。補導された。当然のことだ。

 精神科に行って、診断されたのは「神経衰弱」だったと記憶している。そんなトランプ遊びじゃないんだから、と自嘲気味に笑っていたような記憶がある。

 次第に私は不登校になった。たくさんリストカットをした。おびただしい傷跡が、消えずに残っている。多分、一生、この傷跡は消えないんだろう。

 高校は留年するかもしれないと言われたが、通信制の高校に編入することになり、編入先では単位が足りていると言われた。でも、私は、できるならもう一年ほど高校生をやり直したいと思っていた。留年していいから、やり直したいと。

 けど、親は当然のことながら、そんなことは考えていなかった。留年しないで進学できるならそれがいいというのは、まあ当然のことだろう。私はやり直したかったし、やり直せば変えられると思っていた。

 結局、留年はしないで、編入した。編入した先の通信制の高校では、目に見える問題はなかったように記憶している。クラスから疎外されることはなく、周りはみんな優しかった。そう、目に見える問題はなかったはずだった。

 それなのに、私は、「学校」という存在そのものへの忌避感でいっぱいだった。進路を決めなくてはならないとなった時、大学へ進学するということは微塵も考えられなかった。学校という存在そのものを忌避していたから。

 では大学へ進学しないなら就職するのか、となった時、就職ってどうすればいいのかまったくわからなかった。高校受験は、ある程度の行ける範囲の中から選ぶだけだった。親や学校の先生がある程度の行ける範囲を見繕ってくれて、その中から選べばよかった。就職も、ある程度の選択肢を提示されるのだろうと私は勝手に信じていた。でも違った。

 就職に、親や先生はそこまで関わってくれなかった。それは当然のことなのかもしれないが、高校生の私には、自分で就職したい先を選ぶなんて考えがそもそも存在していなかった。選択肢を与えられて、その中から選べばいいんだと思っていた。選択肢なんて、提示されなかった。

 私は、どうすればいいのかわからなくて、でも、「どうすればいいのかわからない」ということを相談することもできなかった。親や先生などは、それくらいのことはわかっているだろうと思っていたのかもしれない。わかった上で、選んでいないのだと思われていたかもしれない。でも、違う。

 私はなにもわかっていなくて、なにがわかっていないのかすらわからなくて、なにもわからないということを伝えることすらできていなかった。自分がなにをわかっていないのか、わかっていなかった。

 なにもわかっていない私に、それでもどうにかしようとしてくれた学校の先生は、就職できない若者を支援する施設を紹介してくれた。私はしばらくそこに通っていた。

 そこの施設で、私は「発達障害」というものを初めて知った。高校を卒業してからのことだから、年齢で言うと十九歳くらいだろうか。施設で、発達障害に関する講義のようなものがあった。そこで私は発達障害というものを初めて知って、もしかしたら自分もそうなのではないか、と思い至ることができた。

 施設で相談をし、発達障害の検査ができる病院を紹介された。検査の結果を聞かされた時、私は絶望で物が言えなくなった。

 検査結果を聞かされた当日、言われたのは、「生活ができているなら問題ない」ということだった。「発達障害かどうかで言えば発達障害ではある」「しかし生活ができているなら問題ない」そう言われた。かなり時間は経っているから記憶に間違いはあるかもしれないが、自分の記憶ではこういうニュアンスだった。

 生活ができていないと感じるから、藁にも縋る思いで検査を受けた。なのに、「生活ができているなら問題ない」と言われた。生活なんてできていないのに、できていないんだ、と私は心の中で叫んだ。しかし、口からその言葉を出すことはできなかった。後から思えば、あそこで泣き喚いて否定していればよかったのかもしれない。泣き喚いて否定したい気持ちだった。生活ができているなんて自分では微塵も思えていなかった。

 それなのに、一緒に検査結果を聞いていた親は、心底から安心した様子だった。私は絶望に打ちひしがれていたのに。親が安心しているのを見て、ますます私はなにも言えなくなった。

 それから、しばらく病院には行かなかった。だって、問題ないと言われてしまったのだから。「問題ない」と言われてしまったことが、私にはとてもショックだった。発達障害ではあるというなら、支援を受けられるはずではなかったのか。なぜ支援が必要ないと判断されてしまったのか、わからなかった。

 生活なんてできていないと自分では思っていた。でも、生活能力はあると思われてしまった。わからなかった。私には、わからないということを発信することができていなかった。何もわからなくて、わからないのに、わからないと言えなかった。

 通っていた支援施設は、スタッフの異動があり、信頼していたスタッフがいなくなってしまってからは、通うのをやめた。そして、仕事を探すこともせず、なにもせず、家にいる日々がしばらく続いた。

 卒業した高校の先生に相談に行ったこともある。何もしないで家にいるのは苦しい、と。先生からは「仕事を紹介してくれと言っているのか?」と呆れられた。そんなつもりではなかったけれど、そう言っているようなものだったと、後にしてみれば思う。しかし、自分にはそんなつもりはなかった。ただ、何もできない状況から抜け出したい、それだけだった。

 今からでも大学に進学しないかとも言われたが、それは自分には考えられないことだった。学校というものへの忌避感と、今から大学へ進学しても、周りはみな現役で進学している者ばかりなんだろうという思い込み。周りから浮いてしまうだろうという、想像でしかない痛みと恐怖と不安。そこで踏み出せていたら、なにか変わっていたかもしれないと、後になって思うことはできる。でも当時の私にはできなかった。

 何もしない日々が続いた。でも、何かしなければと焦る日々だった。ある時、私は、コンビニでアルバイトをすることを決めた。いや、結果的にコンビニだったけれど、自分を採用してくれるアルバイトだったらなんでもよかった。とにかく採用してくれるところを探した。

 結果的にコンビニでアルバイトをすることになった。しかし、発達障害の人間にとってコンビニのアルバイトなんて地獄でしかない。ASDの特性で、私は様々なミスを繰り返した。でも、クビにされるようなことはなかった。人手が足りていなかったから、いないよりかはマシだったんだろう。

 様々なミスはしていたし、人間関係も構築できず、地獄の日々だった。でも、その時の私には、辞めるという選択肢は見えていなかった。初めてのアルバイトで、辞める方法もよく知らなかった。辞めたいと思っても、どうすればいいのか、なにもわからなかった。わからない、ということを誰かに相談できていればよかったのかもしれない。でも、私は「わからない」を言えなかった。

 それでもなんとか続けていたけれど、ある時から、夜勤に入るように指示をされた。私はただ、稼げるならそれでいいと思って引き受けた。地獄だった。日勤でも苦しかったけれど、夜勤はさらに地獄だった。

 いや、正確に言うならば、仕事の内容自体は大したことではなかった。眠る時間が不規則になったことが、最悪だった。睡眠時間が不規則なことが、本当に私の体にも心にも耐えられなかった。

 本気で死を考えた。そんな中、ある冬の日、仕事とは関係なく、レジャーで長距離を車で運転して出かけたことがあった。けっこうな深夜に、車で長い距離を運転していた私は、カーブに差し掛かった時、このまま曲がらずに道路から落ちてしまおう、と考えた。そうすれば、楽に死ねるかなと思った。

 でも、そうはならなかった。私がその当時に住んでいたのは北海道で、冬には雪が積もっていた。カーブを曲がらず道路から落ちようとしても、積もった雪に引きとめられただけだった。雪でタイヤが動かなくなった。

 周りを通っていた車の運転手が、雪で動かなくなった車を見かねて助けてくれた。助けてくれた運転手に、どうしてそんなことになったのかと聞かれた。夜道でカーブで冬だったとはいえ、滑って雪につっこんだと言うには不自然なところ。私はとっさに「眠くて……」と答えた。居眠りは仕方ない、と納得してくれた運転手は、なんとそこから私の自宅まで代わりに運転をして送ってくれた。その運転手には同乗していた友人がいたので、その運転手の車は友人が運転して付き添ってくれたようだった。

 死のうと思ったのに、人の温かさに触れ、助けられてしまった。ここで死ぬことはできないんだなと思った。生きろと言われているように感じた。なにかが、私はここで死なずに生きていかなければならないのだと言っているようだった。

 その時はそう感じたけれど、だからと言って生活が改善されるわけではない。コンビニの夜勤で安定しない睡眠は、私の心をむしばんでいった。

 私は、コンビニの仕事を辞めないとこのままでは死ぬしかない、と思った。でも、辞める方法がわからなかった。私はなにも知らなかった。

 だから、逃げた。ある朝、本当は出勤しなければいけない時間に、逃げた。家族へは「このままでは死んでしまう」というような内容の置き手紙を残して、逃げた。遠くへ遠くへ、とにかく遠くへ、車で行ける限り逃げた。逃げた先で、ネットカフェに泊まった。家族から連絡が来て、家族を通して、職場に連絡が行き、辞めることになった。自分で職場に連絡はしなかった。

 家族がすべてのことをしてくれて、辞めることになって、私は家に帰った。そこからは、家でなにもせずにいた。

 しばらく家にいた頃、その当時は東京に住んでいた兄から、一緒に東京で暮らさないかと誘いを受けた。私は何度か東京へ一人で旅行に行っていたことがあり、兄は、私が東京に憧れていると思っていたようだった。実際、私は東京に憧れて都会の暮らしに焦がれていたし、理解のない両親から離れたいとも思っていた。私にとって好都合すぎる誘いだった。

 私はすぐに誘いを受けて、東京で兄と二人暮らしが始まった。しかし、仕事を見つけるのは、そう簡単なことではなかった。私はとにかく、電話が怖かった。電話が怖くて、インターネットで応募できる求人を探したけど、応募自体はインターネットでできても、その後の連絡はほとんどが電話だった。私は恐怖心から電話を取ることができなかった。

 今にして思えば、その時点で精神科案件である。でも、その当時の私に、精神科に行くという選択肢はなかった。とにかく早く仕事を見つけて、稼ぎを手に入れなければならないと思っていた。

 結局、最終的にたどり着いたのは、日雇い派遣バイトだった。派遣なのかバイトなのか。その当時はよくわかっていなかったし、後になってもちゃんと調べる気にもならなくてよくわかってはいない。とにかく、インターネットで応募ができて、面接や試験などなく採用してもらえる、というのが私には助かった。

 本当は、本来なら、世帯年収がどうこうだのなんだのとそういう仕事をするには制限があるらしいが、それは後になってもよく把握していない。私にはとにかくお金が必要だとしか考えられず、少しごまかすくらいいいだろうという感覚だった。

 どうにかこうにか仕事にありつき、稼ぎ、しばらく生活はできていた。その当時の記憶があいまいで、わからない部分が多々ある。でも、生活はできていたようだった。

 記憶がこの辺りひどく抜け落ちていて、わからないことがある。私はいつからか、東京で精神科の病院に通っていた。うつ病だと自分では思っていた。北海道に住んでいた頃に、「生活ができているなら問題はないけれど発達障害の範囲ではある」と言われたことも覚えていた。だから、発達障害なら障害者手帳を貰えるはずだと思って病院に行った。

 しかし、この辺りの記憶がひどくあいまいになりすぎている。わからない部分が多すぎる。

 そこまでの流れの記憶が抜け落ちているけれど、障害者手帳は、取得できた。障害者として支援を受けられるようになった。私はちゃんと障害者になれたんだと安心した。発達障害なのに、健常者として生きることは、とても苦しかった。ちゃんと障害者として支援を受けることができるようになって、安心したはずだった。

 ASDと、うつ病で、障害者手帳を貰ったと記憶している。そう、うつ病も併発していた。ASDには薬がないけれど、うつ病も併発なので、薬は処方されていた。

 障害者になった私は、A型事業所に通うことになった。そして、その時期にもまた、私はリストカットをしていた。支援を受けられて、安心していたはずなのに、リストカットをした。想定していたよりは血がけっこう出て、慌てて押さえたガーゼは、すぐに血に染まった。その当時まだ一緒に暮らしていた兄には、「まだ働ける状態ではないのではないか」と心配された。それは当然のことだったかもしれない。

 でも、それでも私はそれを隠して、稼ぎを得ることを選んだ。今更やっぱり働けないなんて言えないと思った。

 しばらくのあいだ、安定して働くことができていたように思う。仕事内容は難しくなく、自分のペースでできていた。人間関係は少し希薄だったというか、やっぱりうまく人間関係を構築することはできていなかったと思う。でも、大きな問題はなかった。職場の人間はいい人ばかりだった。

 しかし、土日が休みではない仕事だった。日曜日は休みだったけれど、土曜日にも仕事があった。その分、平日に休みはあったけれど、土日に休めないことはストレスだなぁと感じていた。祝日も休みではなかった。祝日は休みたいなぁと思った。

 いつ頃からだったか、頭痛に悩まされるようになっていった。ひどい頭痛で仕事にならなくて、仕事を休むことが増えた。脳外科で色々なお薬を出されたけれど、効果を実感できず、脳の病気ではないんだろうと言われた。ハッキリとした原因はよくわからなくて、なんとも言えない。

 後になって思うと、とにかく仕事を休みたかっただけなのかもしれない。でも当時は、自分から休みたいと思っていたわけではないと自覚していた。

 そこで私は、休職をした。休職をしても、体の具合は良くはならなかった。精神科にはそれ以前からずっと通い続けてはいたけど、体の病院には行かなかった。脳外科で脳に異常はないと言われたのにひどい頭痛があるというのが、どこの病院でどう見てもらえばいいのかよくわからなかった。

 休職をしても、状態は良くならず、遂には精神科で入院を勧められるくらいに、精神状態も悪化していた。精神科に入院をした。入院をしたことで、精神状態は少しは良くなったかもしれないが、体の状態は良くなったのかよくわからなかった。

 退院後も、体の調子がいいとは言えなかった。体調がいいと思える日なんて、一年に一日もないかもしれないくらい、ずっと体調が悪い。ずっとだ。その当時から、時間が経って、今も、体調がいいなんて思える日は存在しない。

 睡眠の調子は何年もずっと安定しなくて、睡眠薬を様々なものを試したけれど、どれが自分に合うのかわからない。ちゃんと寝て、食べて、健康に生きたいと願っても、しっかり寝ることができず、寝ることができていないから様々な弊害が起きる。

 今は、障害者として様々な支援を受けて生活をしている。ASDとして生きている。でも、インターネットでADHDのことを言われているのを見て、これは自分に当てはまるのではないかと思うことがある。自分は本当はADHD、あるいはADHD併発のASDなのではないかと思う時がある。

 ASDには薬がないけれど、ADHDにはコンサータがある。薬があるなら、試してみたい。でも、自分が診断を受けているのはASDとうつ病。医師に相談をすればいいのかもしれないが、それができない。なんて言えばいいのか、そもそも自分の勘違いかもしれない、様々な不安と心配で、なにも言えなくなる。

 私は、「わからない」が言えない。わからないことを、知らないことを、困っていることを、周りに言えない。自分から周りに相談することができない。だから苦しくなる、とわかっているはずなのに、周りに頼るということができない。

 自分はこの世界に存在していてはいけないんだと思う時がある。自分は、世界に存在を許されていないんだと思う。自分の存在は、世界にとって迷惑なんだと思う。自分がいなくなれば、世界はきっと正しく回るんだと思う。自分の存在が許せなくて、自己肯定なんてできなくて、自分を好きになんてなれなくて、消えてしまいたい。

 でも、それでも、生きていたい。いや、生きていたいわけでもないのかもしれない。死ぬのは怖い。この世に何も残せずに死ぬのは怖い。死ぬのなら、この世になにか残してから死にたいと思う。

 だから私は、この文章を書いている。私の経験が、誰かの一助になればいいと思う。いや、そんな崇高なことでもないのかもしれない。私は私の苦しみを、誰かにわかってほしい。伝えたい。

 なら、なにか残せたと思えたなら死んでもいいのか? それは違うけれど、でも、なにかを残したいとは思う。生きていたいのかどうかは、わからない。できることなら幸せに生きることができればいいんだろうなとは思う。でも、幸せってなにかわからない。

 幸せだなと思うことはある。けど、自分が本当に幸せに生きていられているのか、わからない。苦しいことはたくさんある。今だって体調が悪くて苦しくて仕方ない。頭が痛い。頭が重い。

 できることなら、すべてを投げ出してしまいたい。すべてを……なにを? 私はなにを抱えているんだろうか。人間社会で、周りに馴染んで、生活をしなければいけない。そんなもの、投げ捨ててしまいたいと思う。でも、縋りつきたいとも思う。

 人間が嫌いなわけではない。一人になりたいわけではない。むしろ、誰か……好きな人と、一緒に、幸せに生きられたら、と、願う。でも、それは叶わない願いだとも思う。けど、せめて、生きていたいと思う。

 ASDで、苦しいことがあっても、うつ病でどうしようもないことがあっても、生きていくしかないんだと思う。生きていく。

 今は、数年のあいだは、リストカットはしていない。でも、したくなる時もある。けど、抑えている。でも、軽い自傷行為はしてしまっている。足の爪を剝いでいるのだ。足の爪を深く切って切って、剥いで、血が出て、後悔する。そんなことを繰り返している。

 やった後は後悔するし、痛みもある。血が落ちてなにかが汚れてしまっては嫌だし、めんどくさい。でもやってしまう。繰り返してしまう。リストカットはしてない。でも、自傷行為は繰り返している。

 後悔も痛みもあるのに、繰り返している。もう二度とやらないようにしよう、と、その時は思っても、気が付けばまたやっている。自分にとって、自分の存在が許せなくて、自分を痛めつけることでしか、解消できない苦しみがある。

 そんなことをしないで生きていければいいと思う。いつかは、そんなことをしないで生きられるようになりたい。それがいつになるのか、わからない。

 わからないということを、誰かに相談できればいいんだろうとは思う。でも、自分がなにをわかっていないのか、そこからわからないから、何をわからなくて、どこの誰にどう相談すればいいのかもわからない。

 それでも生きていくしかなくて、足掻くしかなくて、ASDとうつ病での支援は受けて、生きている。生きていくのは、とても苦しくてたまらない。それでも生きていく。

 いつか苦しくなくなったらいいなと願いながら、生きていくしかない。苦しくなくなるには、どうすればいいのかわからない。ASDに効く薬があればいいのにと思う。ADHDにはコンサータがあって羨ましいと思ってしまう。どうして薬がないんだろう。

 いや、薬は処方されてはいる。不眠も抱えているし、うつ病なのだから。でも、ASDに効く薬なんてなくて。何をどうしたら、息苦しさを解消できるのか。様々な支援を受けて、考えてはいるつもりだけど、わからない。

 自分の存在を許せるようになりたい。自分を愛せるようになりたい。自己肯定感というものが、わからない。自分を愛せない人間が、本気で人を愛せるわけがないかもしれない。それなのに、人に愛されたくて、人を愛したくて、でも自分は愛せない。自分を愛せないのに、人からは愛されたい。ゆがんでいると思う。

 自分を、自分のまま、ただ世界に存在していていいのだと思いたい。それだけのことが、どうにも難しくて、息苦しくて仕方ない。私はまた、自傷行為を繰り返してしまう。自分の存在が、許せない。

 なのに、あぁ、私は、愛されたい。生きていたい。好きな人に大切にされたい。許されたい。

 私は、私の存在を、世界に許されたい。許される必要なんて、ないはずなのに。人が生きていくって、許すとか許されるとか、そういうことじゃない。誰にも、誰かに、許されなくても、人って生きていていいはずなんだ。生きていくことって、そんなに難しいことではないはずなんだ。なのに私は生きていくことが難しいと嘆いている。

 生きていくことは、息苦しくてたまらない。どうすればいいのか、わからない。それでも、生きていくしかないんだ。


〈了〉

ASDとしての自分の人生が、誰かのなにかになればいいなと思って書いた文章です。もっと具体的にこれがこうでって書くほうがいいかなとも思いつつ、ぼやかした部分もありますし、そもそも記憶が抜け落ちている部分もあるのですが、なにかになればいいなと思います。

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こんにちは。 辛そうで大変そうです。 同じような境遇の人が集まる機会が日本では少ないので、より辛いのだと思います。 似たような環境の友人ができただけで、私は救われましたから。 専門書を読んでみるの…
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