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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

健一さん、

作者: カオル
掲載日:2025/12/02

 老人が家の敷居をひとつ跨いだ。

 彼の手には斧が握られている。斧は老人の手に対してその斧は鋳型のように寸分違わずあっていて、長年連れ添った形跡が滲んでいた。

 2人の女がそれを見守っていた。40代ほどの中年女性と、成人して幾年かという若い女性だ。若者の方は見ていると言うよりも、眺めているという方が正しかった。彼女は目の前で起こる事情に何の感情も動かさず、ただ情報として受け取っている。彼女の瞳はどこまでも暗かった。中年女性は若者を抱きながら涙を流している。若者と言っても抱えられるような幼子ではなく、それがその光景に歪な違和感を生じさせていた。彼女らは老人にとっての娘であり、孫であった。

 田園風景と山岳が広がり続けるこの土地では、斧は常に日常とともにあるものだった。彼は薪の風呂に拘り、毎日木を割り続けた。この地では、斧は牧歌的だとすら言える。だが、娘には今の父の姿が酷く悲壮感が漂うものに見えた。老人は歩く。這った方がはやいのではないかという速度で微々たる進みを続ける。娘は父を見る。かつて自分を軽々とおぶったあの背中は、いつからあんなにも頼りないものになっていたのだろう。腕は枯れ木のように細く萎び、腰は丸く婉曲している。自らも中年と呼ばれる年齢になったのだから、当然だ。老いと死、それらは人類の持ちうる最も平等なものだ。なのにこんなにも感傷に浸ってしまうのは、きっと罪悪感だ。自分の背負うべき感情の結果を父に託している。押し付けている。私は今から、父に人を殺させるのだ。

 「ごめんなさい。」

 呟く。皺が目立ちはじめた顔に一筋の涙が伝う。それは丸みを帯びた顔を流れ、抱きかかえている愛おしい我が子の顔に落ちた。数年前に成人を迎えた、成熟した顔をひとつ撫でる。幼子に対するそれと同じ手つきで。傷つけられて帰ってきた我が子を、押しとどめるように抱く。微動だにしない。だが、温もりは確かにある。祈るように瞳を瞑った。


 心配をよそに、老人の足取りは軽やかだった。彼の心持ちには今にも浮遊しそうな気軽さがあり、それを表に出さないように努めていた程だ。

 老人は殺人という罪の重みを理解していないわけでも、残虐な嗜好を持っているわけでもない。腹の奥には嫌悪と恐れがずっしりと重石のように沈んでいる。だが、それでも老人の足取りは軽かった。それは老人にとってこの行いが人生初めての自発的な行動であったからだろう。

 求められるがままに生きてきた。結婚、仕事。人生のあらゆる場面において、老人の選択の背後には必ず第三者の存在があった。それは両親であり国であり、別の誰かでもあった。老人の生きてきた時代を鑑みれば、それは不幸でも奇特でもない。強靭な精神を持って第三者を無視する。または、暴れ出しそうな自我を宥め、抑える。老人にはそのどちらもが出来なかった。尊大な自尊心を持ちながら、強靭な精神を持ち合わせなかった。老人は思考を疎んだ。ことさら自分自身のことについては。それは逃避だった。自分の中の欲望に向き合わなければ、それが実現されない渇きも存在しない。愚かで、臆病な男だった。

 だから、老人が気づいたのは年老いてからだった。結果的にそれなりに慈しむことが出来た妻が死んだ時、それなりに幸せだった人生を振り返った。振り返ってしまった。伴侶が死に子供は巣立ったその瞬間、はじめて何もかもの枷がなくなり、思考する時間を得た。その時、自分の人生において自らが欲し、手に入れたものが無かったことに気づいた。なんてもの寂しい人生だろう。その事実が、老人の骨ばったからだの芯を煮えたぎらせた。縛り付けて鬱血した老人の自我が、今更に暴れだした。

 だが、時すでに遅し。人生が終わりに近づくにつれ、否応がなく選択肢を突きつけられる場面も次第になくなっていく。結婚や仕事というものがそれであった。選択せずとも悠々と生きられる。それは老人にとって途方もない絶望だった。

 だから老人にとって、これはきっと最後の機会だ。絶望に沈む娘と孫を見下ろし、老人はひとり、仄暗い希望を胸に宿した。

 神からの最後の祝福だ。あるいは、仏か。

 どうでもいい。老人は神や仏というものを信じていなかった。そんなものがあれば孫がこんな目にあっていいはずがない。だが、今だけはその神とやらの無力に感謝した。自身に選択の余地が回ってきた幸運に感謝した。

 傷ついた孫に対する哀れみや慈しみ。それらは嘘ではない。だが、それらを自らの悦びが容易に上回る。それは自分で制止できるものではなく、理性を感情が追い越すような、そんな恐ろしさがあった。酷い祖父だ。理解していながら、なくしようのない喜びがせりあがる。

 大切にすべきものは既にない。だからこそ、ようやく自由だった。

 行わんとしている行為、娘と孫の悲しみと不釣り合いに、老人の口角はつり上がっていた。


 気づくと、老人は下卑た笑みを浮かべる男の前に立っていた。ここまでの足取りの記憶はもはや断片的だった。多少の罪悪感と怒り、それを塗りつぶすほどのほの暗い喜びが老人の足を突き動かした。老人の脱力した手で握られた斧が鈍く光っている。彼の仄暗い瞳と目が合うと、男の目からは軽薄さが消え、恐れに塗り変わった。それを必死に取り繕うように、笑みを貼り付けている。

「おじいさん、」

 絞り出すように発したその言葉が、男の厚顔無恥を最も端的に表していた。紫色に変色した孫の肌が脳裏に浮かぶ。僅かに殺人への嫌悪を打ち消した。老人の頭は怒りに支配されつつあった。

 この怒りをどうしてくれようか。今老人は、自分の感情の発露がもたらすものを、自らの意思で選択することが出来た。ここでこの男を殺すことも、このまま何も無かったかのように帰ることも可能だ。心地良い。そう思った。老人の中で怒りと悦びが共存している。倒錯的だ。自分は狂っているのかもしれない。自らの逸脱性を自覚しながら、それに快楽を覚えていた。

 斧を振りかざす。男は目を大きく見開き、血走らせた。何かを叫ぶ。意味をなさない、喉を痛めつけるだけの叫びだった。

 その血走った目を見て、老人はふと思い出した。リフレイン。その目は娘のそれと同じだった。

「…殺して、殺して。あの男を、おとこ、男を、」

 なにかを乞う目。この微かに震える声は昔も今も老人を突き動かしてきたものだ。

 だが逡巡する間もなく、斧は重力に従い、男の脳天に突き刺さった。


 証拠となるであろう痕跡、凶器、その全てを置いて老人は家に向かった。老人の青ざめた顔を見て、娘は合点がいったようにゆっくりと頷き、決壊したように涙を次々と溢れさせた。

「ありがとう、ありがとう、ごめんなさい、」

 無数の感謝と謝罪が降り注ぐ。

 老人は娘のその言葉をこそ恐れた。人を手にかけたという事実は老人にとって重要なことではなかった。彼女の血走った瞳をこそ恐れた。

 あの悦びも快楽も興奮もすべて幻想で、私はずっと糸引かれる人形なのかもしれない。

 懇願の海から逃げ出すように、軒先から離れた。老人は振り返らなかった。娘の嗚咽が老人の耳に響く。

「あ、健一さん、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど。」

 また、老人の耳に誰かの願いが響く。


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