偽りの顔も三度まで 〜二度騙された公爵様。三度目の“嘘”は終わりじゃなくて始まりでした〜
──二度あることは三度ある。
いい意味でも、悪い意味でも使われる言葉。
それは奇跡かもしれないし、あるいは悲劇かもしれない。
けれど、繰り返すことに意味があるとするならば、それはもう運命みたいなものだろう。
そして今の私は、たぶん前者──いい意味にあたる。
だって、またあの公爵様を騙せるんだから。
⌘ ⌘ ⌘
「はじめまして、ロイド様。今日からお世話になります、ニーナと申します。よろしくお願いいたします」
身にまとったメイド服の裾を両手でつまみ上げた、寸分の狂いもないカーテシー。
動作は滑らかに、表情はにこやかに。
これが完璧な“初対面用の顔”。
ぴっしりと編み込んだ三つ編みが顔の左右で揺れた。
亜麻色の髪と相まって、なんだかロープみたいに見えるのがちょっと残念だけど。
まあ、今回は“地味で真面目そうな専属メイド”って設定だから、これくらいがちょうどいい。
もちろん、伊達眼鏡も忘れていない。
知的で信頼感のある印象を出すのに便利なアイテム。
笑顔を浮かべながら、私は目の細めかた、口角の上げかた、角度まで計算する。
笑顔は大事。
『人の印象は三秒で決まる』と言われているからだ。
信頼を勝ち取るには、まず“顔”から。
これは、私の職業の基本中の基本。
ちなみに、「ニーナ」は偽名。
私の職業は──騙し屋。
嘘で生きて、嘘で稼ぐ。
でも、バレなきゃそれは「本当」と同じでしょ?
なんで騙し屋になったかというと──長くなるから割愛。
特技は変装。
ついでに、口八丁と逃げ足の速さが自慢だったりする。
そんな私の目の前にいるのが──ロイド=ウィンストン。
この国でも随一の名門、ウィンストン公爵家の若き当主。
まだ二十四歳だっていうのに、容姿も地位も名声も、私にないものをじゅうにぶんに持っている男だ。
そして過去に二度、私がきれいに騙して逃げきった男でもある。
まあ、そのときはまだ当主じゃなかったけれど。
私は今まさに、三度目の潜入の真っ最中。
正体がバレたら即終了。
冗談抜きで、首が飛ぶ可能性だってある。
だけどそのぶん、成功すれば報酬は破格。
それこそ、もう騙し屋なんてしなくてもいいくらいには。
──大丈夫! 今度も、上手くいく!
準備も完璧。
何せ、前回彼を騙したのは十八歳のとき。
あれから二年経って、二十歳になった私は──顔つきだって大人びたし、声のトーンや雰囲気もずいぶん変わったはずだ。
それでも一応、別人に見えるメイクをほどこしてるし、メイドとしての所作も三週間かけて猛特訓してきた。
そもそもで、あの公爵様の警戒心はゼロに等しい。
もう二度も騙されてくれたんだから、三度目だって──。
「ニーナとははじめまして、だね。君のような可憐なメイドが来てくれるなんて嬉しいな」
不意にかけられた声に、肩がびくっと跳ねた。
気づけばロイドがすぐ目の前に立っていて、にこりと笑っている。
アメジスト色の瞳、さらさらのブロンド。
すらりと伸びた背と無駄のない体つき。
金糸のような髪が光をはね返して、やけにまぶしく見える。
まさに、誰もが思い描く王子様像そのもの。
──やっぱり……! 顔が……姿が……全部がよすぎる!
はっきり言おう。
何度見ても、かっこいいものはかっこいい、と。
だがしかし、ここで心拍数が上がるのは騙し屋として完全に失格。
──顔面に惑わされちゃダメ! 私は騙す側なんだから!
心の中で自分に喝を入れていると、ロイドは自然な仕草で小首を傾げ、優しく言った。
「ニーナとは、なんだか……どこかで会ったことあるような気がするよ」
どきり、と一瞬だけ心臓が変に脈打った。
──あ、やばい。
開始十秒で、このセリフ。
でもここで取り乱したら、もう負けだ。
「そんな、気のせいですよ。よくある顔立ちに、よくあるそばかす、よくある髪色ですから」
私は涼しい顔で、にっこりと微笑んだ。
──まあ、そばかすは描いたものなんだけど。
笑顔をキープしながら、内心では冷や汗をかいていた。
でもロイドはそれ以上ツッコんでくることなく、微笑みを浮かべたまま頷いた。
「では、改めて。ニーナ、よろしく頼みます」
その仕草も、声のトーンも、全部がやけにやさしい。
以前とわからないようだけれど、どこかこちらを試しているような──そんな気もする。
「はい、承知いたしました」
完璧な礼儀作法で頭を下げながら、内心では警戒レベルをじわじわ上げていく。
──やっぱり……何か勘づいてる?
今回は慎重に行ったほうがいいかもしれない。
互いの腹の中を探るように、彼と微笑みの視線を交わし合った。
⌘ ⌘ ⌘
二度あることは三度ある──というけれど。
三度目は、ちょっと勝手が違った。
何がって、ロイドと四六時中一緒にいるという、この状況。
過去二回の“仕事”は、正直言って一瞬芸だった。
最初は十六歳のとき、踊り子に化けて宝石を高額で売りつけてトンズラ。
二度目は十八歳。
薬師を名乗って、「ロイド様の体調が心配です」とか言いながら、適当に脈を取って、眉間にしわを寄せてそれっぽい顔をして。
で、『滋養強壮に効く特別な薬です』って言いながら、ただの市販ドリンクをそれっぽい瓶に詰め替えて売りつけた。
どちらも半日かそこらで完了する、いつもどおりの軽業──だったけれど。
今回は違う。
専属メイドとして「おはよう」から「おやすみ」まで、ぴったり横に張りつくお仕事。
ロイドの私生活なんて、本当にこれっぽっちも、微塵も興味がなかったのに。
今では寝起きのあくびの仕方まで把握している自分がこわい。
すべてにおいて、距離が近すぎる。
すぐそこにあるのは──完璧な顔面とスタイル。
やさしい声で話しかけられるだけで、何度でも心拍数が乱れる。
騙す側なのに、騙されそうになる。
このままじゃ本末転倒だ。
そう思っていたのに──。
「ねえ、ニーナ。ちょっと付き合ってくれないかな」
ロイドのその一言で、私の一日がまた狂いはじめた。
⌘
「……お出かけ、ですか?」
「うん。公務じゃないから安心して。今日はちょっと気分転換をしたくて」
ロイドはいつも通りの笑顔で、軽やかにそう言った。
「ニーナも付き合ってくれると嬉しいんだけど。……ダメかな?」
その顔が、もうずるい。
いつもそうだ。
きらきらの顔面と、甘えるようで断れない縛られるような声。
「もちろん、お供いたします」
まあそれは置いといたとしても、今は専属メイドだ。
主人の命に断れるはずがない。
それに。
──どこに行くつもりなんだろう。
なんて、軽い調子で行く宛が気になったりした。
だけど、私はまだ知らなかった。
この外出が、私の「嘘」と「本当」の境目を曖昧にしてしまうことになるなんて。
⌘ ⌘ ⌘
私たちは公爵邸の裏門からひっそりと出た。
私は黒くて動きづらいメイド服から、麻でできたシンプルなワンピースに着替えている。
ロイドも普段の貴族らしい装いではなく、控えめなシャツと革のブーツ姿。
一見、なんかの商業人っぽい。
けれど隠しきれないものはある。
立ち振る舞い、姿勢、声の抑揚──どれもが育ちの良さを物語っていた。
「……ずいぶん慣れていらっしゃるのですね、こういうの」
思わずもれた私の一言に、ロイドはふわっと笑った。
「たまにね、抜け出したくなるんだ。邸の中ばかりだと、外のことがわからないし。それに、ちょっと空気が重いときもあるから」
さらっと言っているけれど。
私には──たぶん、彼の言う「重さ」はわからない。
でも、きっと彼にしか見えないものがあるんだろう。
若くして公爵家を継いだ男の背中には、たくさんのものが乗っているのかもしれない。
⌘
賑やかな市場を通り過ぎた、街の外れ。
たどり着いたのは、古びた教会の奥にある敷地。
庭の奥から、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
夕暮れの少し前。
わずかに傾いた日差しは、走り回る子どもたちを暖かく包み込んでいるかのようだった。
「……ここって」
「孤児院だよ。“星華の園”って名前。知ってる?」
そう問いかけられた瞬間、心臓が捩れる感覚がした。
「……いえ。存じ上げません」
ほんの少しだけ視線を逸らす。
ロイドはそれ以上は何も言わず、にっこりと笑って足を踏み入れた。
⌘
わっと子どもたちが集まってきて、ロイドの周りに群がりはじめた。
「ロイドおにいちゃーん!」
「また来てくれたんだ!」
「これ見て! お花、咲いたよ!」
思い思いの言葉を口にする子どもたち。
その中心に、彼がいる。
「久しぶりだね。みんな、元気だった?」
「きれいな花だ。いっぱい咲くといいね」
天使でも、神でもない。
光そのものであるかのように、彼は笑っていた。
相手の目を見て話して、言葉を選んで、ちゃんと覚えていて──。
それは、『貴族の公爵様』の姿じゃなかった。
政治の駆け引きも、大人の薄汚い損得勘定も、どこにも感じられない。
ここにいるのは、『ロイド』というひとりの人間。
──どうして……こんな人を二度も騙したんだろ、私。
胸がきゅっと縮む。
──これは……まずい。
“仕事“であることを、忘れそうになる。
「ニーナ」
「っ、はい。なんでしょう」
呼ばれて顔を上げる。
ロイドは子どもたちに囲まれたまま、にこにこと笑っていた。
「君もおいでよ。みんな、ニーナみたいにすごくいい子だから」
──いい子……。
ああ、そうだろう。
今の私は従順なメイドで、よく働き、物腰もやわらかい。
“いい子”に見えているのなら──それはもう、私の演技が成功してるという証。
なんせ、私は騙し屋だ。
いい子のふりくらい、慣れている。
──だけど。
だけど、本当の私は、決していい子なんかじゃない。
逃げて、誰かを欺いて生きてきた。
“生きるために仕方なかった”なんて言い訳も、もうとっくに擦り切れてる。
私自身が、それをいちばんよく知ってる。
──本当の私は、あの子たちの仲間じゃない。
“ここにいた”ことはあっても、もう“ここにいる資格”はないんだ。
「……いえ。私は……今日は、見学だけで」
そう答えると、彼は少しだけ寂しそうに笑った気がした。
でもそれ以上は何も言わず、また子どもたちの相手に戻っていく。
その背中を見て、胸がまたちくっと痛んだ。
──やめてよ……。
そんな顔しないで。
だって私は──あなたを騙そうとしてるんだから。
目の前にあるロイドと子どもたちの笑い声が、とても遠くに聞こえた。
⌘
帰りの馬車の中は少し気まずかった。
さっき抱いた感情が、まだ胸の片隅に残っているせいだ。
車輪の音だけが、やけに静かに響いた。
「……あの孤児院ね、五年くらい前から寄付が寄せられてるんだって」
ぽつりとロイドが口を開いた。
「そう、なんですか……」
目を合わせずに私は答える。
「うん。でも匿名らしくて、誰からかわからないらしい。噂じゃ、孤児院出身の誰かって囁かれてるみたいだけど」
「……そうなんですね」
興味がないふうに返した。
でも、心臓の音だけはうるさいくらい響いてる。
「きっと、やさしい人なんだと思う」
彼は穏やかな声でそう言った。
アメジスト色の瞳は、窓の外を見ているようで──どこか私を見ているようでもあった。
見透かされているかのような瞳の輝きに、胸の奥が締めつけられる。
──ねえ、どうしてそんなこと今言うの?
私のこと、何か知ってるの?
「そうですね……やさしい人、なんでしょうね」
平然と答えたつもりだったけど。
手のひらには、わずかに汗がにじんでいた。
それからロイドは何も言わず、馬車の揺れに身を任せている。
私もそれ以上は何も話せなくて、通り過ぎる景色だけを眺めていた。
⌘ ⌘ ⌘
──このままじゃダメだ。
気づけば、私は何度もその言葉を頭の中で繰り返していた。
感情なんて邪魔なだけ。
優しさも、ためらいも、尊敬も、好意も。
全部、騙し屋には不要なもの。
だから私は、実行に移すことにした。
夜。
邸の中はすでに静まり返っていた。
使用人部屋では、同僚のメイドたちの寝息がかすかに聞こえてくる。
その隙を縫って、私はそっと部屋の扉を開けた。
息を殺し、メイド服がひるがえる些細な音にさえ気を配りながら廊下を歩く。
決意がブレてしまいそうになる前に、繰り返し自分に言い聞かせた。
これは仕事。
ただの仕事。
自分の生活と、あの孤児院──星華の園を支えるため。
そのためには、これが一番手っ取り早い方法なんだから。
目指すは、ロイドの書斎。
そこにはウィンストン家の歴代記録や、さまざまな機密文書が置いてある。
そして、彼が誰にも見せようとしない“特別な書類”が存在しているということも調査済み。
それは財産の在処だとか、貴族間の闇取引の記録だとか、中には「王族すらも動かす極秘文書」なんて笑えるような噂もある。
ただひとつ、私には確信していることがあった。
その“特別な書類“があれば、私だけじゃなく、あの子たちの生活も変わるかもしれないってこと。
──見つけさえすれば。
そこには何十人もの未来を変えてくれる価値があるはずなんだ。
⌘
私は、書斎のドアの前に立っていた。
分厚い木の扉が重苦しくそびえいる。
月明かりに照らされたそれは、なんだか拒まれているかのように、いつもより大きく見えた。
──大丈夫、大丈夫……。
手の震えを抑え、髪からヘアピンを抜き取る。
脳内でシミュレーションした鍵の開け方を思い出しながら、そっとドアノブに手を伸ばした。
ガチャリ──と錠の開く音が静寂した廊下に響く。
開いたことに安堵しつつ、誰もいないか慌てて周囲を見渡した。
──よし、誰もいない。
私はゆっくりと慎重にドアを開け、体を滑り込ませるようにして書斎へと立ち入った。
手も足も震えが止まらない。
自分でも感じたことのないほどの緊張感。
──もう引き返せないんだから……。
今までいろんな人を騙してきたけれど、実際に金品を盗んだことは一度もなかった。
あくまで口先だけでうまく立ち回ってきた、けれど。
これは今までとは違う。
私の手で、直接誰かのものを奪うのは、これが初めて。
──これを最後に、私は騙し屋から足を洗おう。
彼を騙すのも、これが最後。
彼に会うのも──これが、最後だ。
物音を立てないように机に近づく。
鍵付きの引き出し、左側の上から二段目。
前に一度、ロイドが何気なく開けていたのを私は見逃していなかった。
ヘアピンを差し込み、息を整える。
うるさいくらいに鳴っている心音が体の内側で反響していて、今にも外にもれてしまいそうなほどだ。
──落ち着け、落ち着け……。
意識を集中させる。
震える手で回して、上下左右に動かして、また回して。
やがて、カチッと鍵が外れる手応えが指先に伝わってきた。
──うまくいった……!
期待と興奮と不安と警戒と、少しの後悔。
いろんな感情がごちゃ混ぜになったけれど、とにかく私は“特別な書類”に手を伸ばせるところまできた。
──さて、中身は……と。
擦れ合う音に気をつけながら引き出しを開け、私はついにその正体を知る。
中には、一通の封筒と、丁寧な木彫りが施された箱。
その木箱にはところどころに金粉があしらわれ、月明かりの下、艶やかな輝きを放っていた。
一目で高価なものとわかるそれは、普通なら真っ先に手を伸ばす対象だった──のに。
私は木箱を素通りし、封筒に目を留めていた。
──これって……。
封筒に記されている文字に、たまらず息を呑む。
『星華の園 関係書類』
あの孤児院の名前。
忘れるはずもない、自分が育った場所。
目にした瞬間、体がひやりと冷たくなった。
──なに……これ。
手に取ってしまった封筒。
開けようかどうか、一瞬だけためらう。
けれど、封にかけた指は止まらない。
それがなんなのか、確かめずにはいられなかった。
細かい文字の羅列。
暗がりの中では目を凝らしても読み取りづらい。
それでも、紙に並ぶ言葉のいくつかは目に入ってきた。
「星華の園」
「現地視察記録」
「維持費の概算見積もり」
「寄付候補者向け提案資料」
首を傾げながら、一枚、また一枚と書類をめくり──やがて私は、それがなんなのかを理解した。
それは、あの孤児院を支援するための準備資料だった。
現状の財政状況、施設の老朽化、子どもたちの人数や生活費。
それを見越して、どのくらいの寄付があれば十分に運営が可能になるか。
私には理解できそうにないことまで、こと細かにまとめられていた。
そして、どの書類の最後にも、万年筆で書かれた署名がある。
その名はすべて──
『ロイド=ウィンストン』
その文字を見た瞬間、息が止まった。
胸が詰まって、それは喉元まで迫り上がってくる。
目頭は熱くなっていた。
──これ、まさか……。
彼は、あの孤児院を支援しようとしているのだ。
それに気づいたとき、目の前が少しだけ滲んだ。
──私……。
今までずっと、誰にも言わずに一人で続けてきた。
嘘で稼いだお金。
あの子たちにしてみれば、そんな金は汚れているかもしれない。
それでも。
独りよがりでも。
偽善でも。
あの子たちには、ちゃんと笑って生きてほしくて。
私の力ではどうにもならなかったことが、彼の存在ひとつで静かに、だけど大きく変わっていく。
知らないうちに、涙が浮かんでいた。
それを拭うように、力なくうっすらとした笑みがこぼれる。
──こんなの……盗めるはず、ないじゃない。
もしかしたら、この公爵邸のどこかにはもっと高価な宝石や、それこそ「王族すらも動かす極秘文書」なんて笑えるようなものがあるかもしれない。
だけど、どんなものよりも。
この一枚の書類のほうが、ずっとずっと価値がある。
過去の私なら笑っていたかもしれない。
「ありがとうございます」って嬉し泣きして、一生忠誠を誓ったかもしれない。
でも今は──胸が苦しくて仕方がなかった。
──このまま、消えよう……。
私がいなくなっても、星華の園はもう大丈夫だ。
私なんかより、あの子たちをちゃんと守ってくれる人がいるんだから。
静かに引き出しに書類を戻そうとした、そのとき。
「やっぱり、来てくれると思った」
夜の静寂の中。
突然背後から聞こえた声に、びくりと肩が震え上がった。
咄嗟に振り返ると──月光に照らされたロイドが佇んでいた。
艶のある金髪は夜の光を受けて、昼間よりもずっと高貴な印象を受ける。
「……っ、ロイド様! こんな夜更けに、いかがされましたか?」
精いっぱい平静を装う。
声を震わせないように、背筋を正して。
──よかった、ちゃんとメイド服を着てきて。
万が一に備えたその判断を今ほど感謝したことはない。
内心焦っている私とは反対に、彼はいつものように穏やかに笑って首をかしげた。
「ニーナに会えるかなって思って。前回も、その前も、君はオレの前からすぐに消えてしまったから」
さらりとした声が、気まずい空気の中をかすめていく。
──前回も……その前も、って……。
体から血の気が引いていくのわかった。
「……何をおっしゃっているのか、私にはよくわかりません」
どうにか否定したかったのに。
わずかに声が震える。
ごまかしの言葉さえ頼りない。
微笑んでいる彼の瞳には、すべてを知っている人間にしか出せない落ち着きがあった。
「そっか。でもオレはずっと思ってたよ。君になら、騙されてもいいなって」
その言葉が胸に突き刺さる。
試されている──わけではないのだろう。
何かを探るような気配も、責めるような怒りも感じられなかった。
「何の、お話を……」
それでもなお逃げる言葉を探そうとした私に、ロイドは一歩踏み出した。
「踊り子のジェシー、薬師のノア……。全部、君だったんだろ?」
心臓が大きく跳ねた。
──うそ……バレてる……。
冷たいものが背筋を伝う。
だけど、ここで認めてしまったら「負け」どころか、あの子たちを想って稼いだ日々まで偽物になってしまう。
自分の行動が否定されてしまう気がした。
騙し屋なら最後まで騙し切ってみせる──そう思ったのに。
「証拠なんてないよ。君は本当に見事だったからね。でも、気づいてしまったんだ。……ずっと前に、君と会ったことがあるから」
「え……?」
自ずと、困惑の声がもれた。
「昔、まだオレが子どもだったころ、父に連れられて星華の園に行ったことがあるんだ。今思えば視察だったんだろうけど、当時はただ怖くて、父の後ろに隠れてた」
ロイドは少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
彼が生まれ育ってきた煌びやかな世界とは、真逆の環境。
それを『怖い』と思うのは、無理もないことだろう。
「そんなとき……オレに飴をくれた女の子が現れたんだ」
ロイドは目を細めて、懐かしむように微笑む。
「にっこり笑って『食べて』って。歳は、たぶんオレと同じくらいだったと思う。けれど……その目だけは、オレなんかよりずっと年上に見えた。自分のことより他人のことばかり考えてるような、そんな目だったんだ」
ロイドの声は遠い昔の記憶をなぞるようにゆっくりしていたけれど、眼差しだけは確かに“今”の私をまっすぐに捉えていた。
まるで、そのとき出会った女の子が私である──そう疑う余地もないように見つめていた。
──ああ、もうダメかも……。
この人には、嘘も偽りも通じない。
それが苦しくて、だけど少し嬉しくて。
私はきっともう、この瞳から逃げられない。
「優しい子だった。忘れられるはずがない。だから……君がジェシーとして現れたとき、すぐに気づいたんだ」
そう言って、彼は表情を真剣なものに変えた。
いつもの優しくて穏やかな「公爵様」じゃなくて、「ロイド」というひとりの男性がそこにいた。
「どんなに姿が変わっても、どんなに名を偽っても……瞳の輝きは、君そのものだったから」
まっすぐな言葉に、胸の奥と目頭が熱くなる。
昔の私を知っていてくれた事実よりも、「騙されていた」という真実を知ってもなお向けられる優しさのほうが、ずっとずっと苦しかった。
「全部わかってて……どうして……」
問いかけというより、心の叫びだったのかもしれない。
ロイドは少しだけ目を伏せて、しばらく沈黙したあと、静かに口を開いた。
「五年前から、あの孤児院には匿名寄付があるって言ったよね。最初のうちは少額だったけど、あるときから急に金額が跳ね上がってたんだ。調べていくうちにわかったことだけど……その時期と君の活動が重なっていた」
私は口を噤んだ。
彼の中では、すべてが綺麗につながってしまっている。
──もう、終わりにしよう……。
そう思った瞬間、体から力が抜けていった。
「……断罪でも、罰でも、なんでも受けます。どうとでもしてください」
認めるしかなかった。
騙し屋の最後。
当然の報いが、今おとずれただけの話。
ロイドがあの孤児院を支援してくれるなら──もう未練もない。
だけど、彼の声は相変わらず優しかった。
「君が売ってた宝石も、薬も、全部本物だろ」
私はハッとして顔を上げる。
「たしかに、どれも相場以上の値がついてたかもしれない。けど、それを買い手に納得させたのは……君の技術と、言葉の力だ」
少しだけ間を置いて言葉が続く。
「君は……絶対に偽物は売らなかったよね。盗みにも手を出さなかった。それってたぶん、君の中にある良心なんじゃないかな」
どきん、と心臓が大きく鳴った。
自分でもあえて触れないようにしていた場所に、優しく触れられたみたいな。
息をするのが少しだけ苦しくなった。
「本当なら、責めるべきなのかもしれない。でも……どうしても、怒る気にはなれなかった。君のやってきたことが全部、悪いこととは思えなかったから」
彼の言葉が涙腺を刺激する。
優しさがすごく嬉しくて──だけど、苦しい。
「それでも、私は……許されないことをしました」
絞り出すように言葉がこぼれる。
「騙して、過剰なお金を取って、身分を偽って……。気づかれてしまった以上、あの子たちに合わせる顔がありません。あなたの……そばにいる資格も」
視線は上げられなかった。
ほんの一瞬だけ、ロイドのほうへ手が伸びそうになる。
この人ならきっと許してくれる、いや、もう許してくれている。
──だけど……。
救われてしまったら。
私はもう、自分を責めて生きることさえできなくなってしまう。
罪の意識も消えて、償いも、贖罪も、全部なかったことにしてしまいそうで。
ここで甘えてしまったら、私はまた同じことを繰り返してしまうんじゃないか──。
そんな自分が何よりも怖かった。
だから、伸びかけた手をぐっと飲み込んだ。
「罰なら受けます。私にできることなら、なんでも」
私は頭を下げた。
沈黙があたりを包む。
でも彼の静けさは、責めるためのものじゃなかった。
「じゃあ……その才能を、オレのそばで役立ててほしい」
その言葉に驚いて、思わず顔を上げる。
ロイドは、まっすぐに私を見ていた。
「君の言葉があれば、貴族同士の席でも、会談の場でも、うまくいくと思うんだ。もちろん、騙すんじゃなくて、ちゃんと意思を伝えるって意味で、ね」
少し照れたように笑っていたけれど、その声は真剣だった。
「みんなきっと耳を傾ける。不思議と、君の言葉は信じたくなるんだよ。オレが、そうだったから」
彼が微笑むのと同時に、小さな涙が私の頬を伝った。
真剣だけど、優しい声。
やわらかな眼差し。
どれもが過去の私を責めるどころか、まるごと抱きしめてくれているようだった。
「だからその才能を、今度はオレのそばで使ってほしい。それが君の罪滅ぼし」
──私……そんな優しい言葉で許されていいの……?
素直に頷けない。
迷いが残っている。
それを見透かしたように、ロイドはこちらに手を差し出した。
「今だけは逃げないで……選んでくれたら、嬉しい」
私の道標であるかのように、月の光が淡く彼を照らしている。
──ああ……そうだよね。
私はずっと逃げていたのかもしれない。
生活のため、子どもたちのためって言い訳して。
正当化して、見ないふりをして。
だけど、本当はずっと怖かった。
誰かに見透かされるのも、誰かを騙し続けるのも。
「選ぶ」ということが、こんなにもあたたかいなんて。
私は知らなかった。
視線を落としたまま、言葉がこぼれる。
「……あなたのそばにいて、いいんですか?」
それは問いというより自分自身への確認だった。
ロイドは何も言わず、微笑んだまま頷く。
その仕草に、すべてが込められていた。
私もほんの少しだけ微笑んで、彼の手に自分の手を重ねた。
⌘
気づいたら私たちは、ふたり並んで書斎の床に腰を下ろしていた。
「気づいていたのに……どうして声をかけてくれなかったんですか?」
自分でもどんな答えを望んでいるのか、わからなかったけれど。
それでも聞きたかった。
「……あのころのオレは、まだ当主じゃなかったから。知識も力も全然なくて。支援なんて言葉を使うのも、ずいぶん先の話だった」
ロイドはゆっくりと視線を上げて、懐かしむような笑みを浮かべた。
「だから、二度目に会えたときは本当に嬉しかった。だけど、まだ言えなかった。『気づいてるよ』って言ったら、君は二度とここには来ないと思ったから」
「私に……また騙されるために、黙っていたんですか?」
皮肉じゃない。
単純な驚きと疑問が口をついて出ていた。
「そういうことになるかもね」
そう言ったロイドは責めるでもなく、やっぱり微笑んでいた。
「……ごめんなさい」
「謝らないで。オレが会いたかっただけだから。だから、次に君と会えたら……そのときは、ちゃんと全部伝えようって決めてたんだ」
迷いのない声だった。
嘘じゃないとわかるほどの、澄み切った声。
「……ありがとうございます」
感謝と、痛みと、安堵が混ざった。
「やっと、本当の君に会えた気がするよ」
彼はそっと目を細める。
「三度目の正直、ってやつかもしれないね」
そうかもしれない。
私はやっと、私になれた気がした。
どの役でもない、なにかを偽ってもいない──ありのままの私自身に。
ロイドが体ひとつ分、距離を詰める。
そしてアメジスト色の瞳をわずかに揺らめかせながら、私に訊ねた。
「ねえ。君の本当の名前、教えて」
月明かりが私たちだけを照らしている。
その光の中で私は少しだけ息を吸って、ゆっくりと口を開いた。
「私の、本当の名前は……」
⌘ ⌘ ⌘
──三度目の正直、なんて言葉がある。
願いが三度目にして叶うとか、そんな前向きな言葉。
それは奇跡かもしれないし、あるいは必然だったのかもしれない。
けれど、何度も巡り会えるのなら、それはもう運命と呼んでいいだろう。
そして今の私は、たぶんその「正直」を自分の手でつかんだ側。
だって──もう誰かを騙さなくても、私はここにいられるのだから。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ご意見、ご感想お待ちしております!
ブクマ、評価していただけると大変励みになりますので、ぜひよろしくお願いします。
★ひとつでも大歓迎です。
いつかまた、他の作品でお会いできたら幸いです。
ありがとうございました。
葉南子