おねしょ
夏の雨は好きではない。
曇天の癖に蒸し暑く、服にへばりつく水滴は不快そのもの。ザーザーと打ちつける音も嫌いで、雷が鳴るなら耳も塞ぎたくなる。雨上がりの太陽と蚊の大群には目も当てられない。
そして何よりも、水崎美咲を思い出すことがこの上なく後ろめたい。
彼女との関係性は小学校の同級生というだけである。同じクラスで同じ委員会だっただけである。夏休み前に告白されただけである。
ちょうど今日のように雨が降っていた日のことだ。ジメジメと蒸し暑く、雨か汗かもわからないほどびしょびしょに濡れた僕らは人気の無いバス停で雨宿りしていた。
その時の僕らは何の話をしていたのだろうか。何故彼女と二人っきりだったのだろうか。その後の日常はどうなっていったのだろうか。
考えても思い出すことはできず、いつも、唐突な告白から記憶は始まって、涙か雨かもわからない水崎の俯く顔を遠目に見て終わる。
でも、小学生なんだから仕方がないだろ。恋愛感情なんて僕は知らなかったのだ。僕を好きになる人がいるなんて知らなかったのだ。
五年、十年、成長していくにつれ、僕は呪われたように後悔する。あの日の僕に会えるのなら、逃げるなとだけ伝えたい。面と向かって勇気を出した人間をどうして僕は裏切られたのか。
「ムリ」
たった二文字の言葉がどうしてこんなにも冷たいのか。
店の外で雨が降っている。いつから降っているのかもわからない土砂降りの雨。それを掻き消すほどに店内は賑わいを見せている。
当然だ。今日は、同窓会なのだから。小学校の仲間が、十数年振りに集まって、あの頃の姿のままにどんちゃん騒ぎをしているのだから。僕はビール片手に「変わらないな」と旧友を懐かしみながら、店内を見回す。水崎はいない。当然だ。
水崎美咲は二学期が始まる前に引っ越して行った。それが僕のせいだと思っていたかったのに、親の転勤だと知らされてホッとした。
そうして忘れるのだ。思い出せない日常が怒涛に押し寄せてあの日を忘れさせてくれる。夏に雨が降るまで、彼女の存在を綺麗さっぱり失くす。それまでは、のうのうと。
蒸し暑い雨が降れば、脳を沸々と激らせて、強い後悔を呼び覚ます。
水崎はどう思っているだろうか。僕を恨んでいるだろうか。今の僕を見て喜ぶだろうか。それほど好きでいてくれただろうか。考えてもわからない。
だから僕はここにいて、彼女が来るのを待っていた。お前は最低だと吐き捨てて、私を見てくれる人は他にいると、幸せをまざまざと見せつけてくれないだろうか。そうすれば僕はこの呪縛から解放されるのに。
願いはいつだって心地良い夢を見せてくれる。
スライド式の扉がガラガラと開いた。外の雷雨が鮮明に聞こえるのと同時に来るはずのない待ち人がいつもの微笑みを携えてやって来る。
水崎は、まるで真っ白なキャンバスに鮮やかに彩られたような美しさで、周りの雑音を掻き消しながら歩いて来る。ゆっくりと。跪きたくなるほど優雅に。
「久しぶり」
続きの言葉を期待した。太陽のような笑顔を崩して、暴風雨の如き怒りを露わにしてくれるのだと期待した。今の僕を惨めだと嘲笑ってくれることを期待した。そうはならなかった。
感動の再会は驚くほど味気なく、まるで親友であるかのように思い出話に花が咲き、はぐらかすようにあの雨の日のことはなくなった。
気がつけば、僕らは店を抜け出して、雨の中を汗と混ざりながら走り回り、見知ったベッドで愛を囁いていた。
目を覚ました時、ぐっしょりと濡れたシーツを残して水崎は消えていた。残ったものは何もなく、ただ、嫌な解放感が胸と下腹部を満たしていた。
三十近くにもなって。誰にも言えない恥ずかしさが染みとなって残る。惨めだ。欲しいものは夢幻であり、遠くの後悔ばかりが胸を締めつける。
水崎は彼女の知らないうちに復讐を遂げたのだ。
だからこれで許された。
清々しい太陽が僕を照らす。のうのうと。
さて、今日は何を食べようか。