第10話
成り変わったのかイマイチ分からない状態で、ふわふわとした感覚のままに、僕は家に帰宅。成り変わりにかかった時間は、本当に2分弱だったし、家に帰ったのも、家を出てから15分後のことで、ちゃんとQアンドAに則っていた。
「ただいま」
「おかえり、北翔。寒くなかったか?」
「うん。心地いいぐらいだった」
「そうか」
「父さん、僕、風呂入る。明日も仕事早いんだろ?」
「ははは、気遣いされるとはな。うん、分かった。準備する」
時刻は22時を回った。虫たちの声が微かに聞こえる中、ベッドに潜って考え事をしていた。が、変に緊張していたためか、その日は特に微睡むこともなく、すとんと寝落ちしていた。
翌日。母が料理を作る音で目が覚める。一定のリズムで刻まれていく何かしらの食材。僕は寝ぼけ眼で母のほうに視線を送る。
「おはよう」
「北翔、おはよう。今日の朝ごはんは、野菜炒めね」
「え、朝から野菜炒め?」
「仕方ないでしょ。びっくりするぐらいの量のお裾分けいただいたから」
視線をテーブルの上に向ける。ゴミ袋並にでかい袋の中に入っている、大量の野菜。サツマイモやらカブやら、とにかくたくさんあった。確かに、びっくりするぐらいの量だ。
「もしかして、いつもの喜田さんがくれたの?」
「そうよ。変形してて出品できないから食べて、って」
「そうなんだ。でもさ、すごいよね。仕事もしながら農業もするって」
「そうね。私には到底できないわ」
「いや、してるじゃん。僕の介護しながら仕事も」
「農業ほど大変じゃないわよ。入所者さんたちにしてることを、家でもやってる、ってぐらいの感覚だから。延長線よ、延長線」
母の発言に対して僕が想像した言葉は、そんなもんか、というもの。介護施設で仕事をする母にとって、僕の身辺の世話は何とも思っていないのだ、と。それなら――
「北翔?」
「あぁ、ごめん、ごめん」
「これだけ切るから、待ってて」
「……うん」
午前10時を過ぎ、母はソファで微睡み始める。テレビから流れてくるのは、胡散臭いテレフォンショッピング。販売すると言っている品物からして、相手にしている年代は、母よりも年上の高齢者ぐらいだろうか。
「母さん、ちょっと出かけてくる」
「どこ行くの?」
「スーパーだけど」
「何買いに行くの?」
「ちょっと、食べたいポテチあって」
買い物がてら散歩をしようと思っていた。が、その考えていることがばれたのか、母はゆっくり、腰を労りながら起き上がり、開口一番こう告げる。
「待って、北翔。お母さんが付添うよ。着替えるから待ってて」
まただ。
テーブルの上においてあったコンタクトを手に取る母。僕は手を伸ばし、母の手首あたりを掴む。
「母さん。どうして、こう毎回毎回、1人で行かせてくれないんだよ」
「それは、北翔のことが心配だからよ。昔みたいに自由が利くわけでもないんだし。これ以上不幸なことに巻き込まれて欲しくないのよ」
「僕なら大丈夫だよ。もう、不幸な体質じゃなくなったし」
「何言ってるの。根拠もないこと言わないで」
「僕自身が言ってるんだよ? 何で信じようとしないんだよ」
「何かあってからじゃ遅いでしょ。だから言ってるのよ。どうして分かってくれないの?」
母の眼差し、息遣い、口調、全てが荒々しくなる。それに比例するように、目にも呼吸にも口調にも力が込められていく。
「母さんはそう言うけどさ、これでも、こんな身体でも僕は僕なんだよ。母さんが付き添えば付き添うほど、僕は自立できない。やりたいこと、まだあるのに。このままだと、母さんがいないと何もできなくなる。そんなの絶対に嫌だから」
「北翔……」
落ち込む演技みたいなことをする母。演技なら、星野さんのほうがよっぽど上手かった。下手を晒すならやるなと言いたいぐらいだ。エンジンがかかり、ヒートアップしていく。落ち着こうとしない僕。もはや何に苛立っているのか分からなくなってきた。
「一応さ、やりたいことっていうか、夢あるんだよ。こんな僕でもできることなんだ。だからさ、そのために――」
「駄目よ。駄目なの、北翔!」
母は、逆に僕の手を握り返す。指の先端は冷たくて、でも掌は温かい。
「大丈夫よ、北翔。心配しないで、私が面倒みてあげるから。結婚しなくてもいいし、焦って自立しようとしなくたって、全然いいのよ。夢はあるかもしれないけれど、それって、今やらなきゃいけないことなの? 慌てなくてもいいんじゃないの?」
「いや、母さん、それは違う――」
「違わないから」
母の語気に圧され、僕は次の言葉が何も思いつかず、発言までに至らなかった。こうして、僕は今日も負けるのだ。僕はただ、買い物と散歩をする中で、本当に成り変わったのか、確かめたかっただけなのに。
「待ってて、すぐ着替えてくるから。勝手に出かけないでよ」
「……かった」
手紙が届くことは分かっていた。けれど、いつ届くか分からない手紙に、毎日ドキドキしながら待つなんて馬鹿らしくて、身をもって確かめることが一番有効だと思っていた。確かに母の言う通り、焦っているのかもしれない。けれど、今焦らなくてどうするんだ。いまが一番若いのに、これからできなくなることが増えていくかもしれないのに。母と違って、自由が利かないのに……。
母と買い物に来たはいいけれど、気分は晴れなかった。都会から離れて、田舎の秋らしい景色を見て憂さ晴らししたかったのに、鬱憤は蓄積されていく。
「北翔、今日の夕飯、何にする?」
「何でも」
「それが一番困るって言ってるでしょ」
「食べれるなら、何でもいい」
太腿の上に置いてある買い物かご。中はまだ空っぽだ。野菜コーナーは素通りし、やがて近づいてくる肉のコーナー。広告の品、とか、店長おすすめ、とか、手描きのポップが目立つ。
「肉、何買う?」
「うーん、そうねえ。鶏肉が安い……から、シチューでも作ろうかな。喜田さんにいただいた野菜たくさんあるし」
母は名案を思い付いた、みたいなテンションで言うが、シチューは苦手な料理第1位に、昔から君臨しているものだ。母はそれを分かっていて、ニヤニヤして僕のことを見る。さらに鬱憤が溜まる。
「嫌いなの分かってて言うなよ!」
「揶揄いたかっただけよ。本気で怒らなくてもいいじゃない」
「あー、もう。分かった、じゃあ、煮魚。魚の種類は分からないから、任せる」
「煮魚ね。分かった」
買い物を終え帰宅すると、母は早々に、家に残っていたインスタントラーメンを作り、僕の分と言って机の上に置く。上には野菜がモリモリとトッピングされてあった。
「いただきます」
熱々のうちに口に含ませる。母も自分の分をサクッと作って、僕よりも早く食べ、洗い物はあとでするから、と言い残し、そのまま寝室へ入った。リビングに取り残された僕は、一人ラーメンを啜り続けた。
それからと言うもの、母とは将来の話が全くできないままに時間だけが過ぎ去った。何度か話そうと試みるも、いつも言葉を遮られ、無理やり同僚たちの間で話題になっているニュースの話を振ってきたり、父に仕事は順調かと尋ねたり、とにかく避けられ続けた。
いつか必ず話さなければならない、と思っていた日曜日の朝。特にやることもなく、最近話題になっているアニメを、何も考えずぼーっと観ていたとき、玄関ドアを閉めた母が、歩きながら「北翔、手紙来てるよ」と告げる。
母がポストから取ってきた手紙類。その中に、奇抜すぎる原色の黄色の封筒が紛れ込んでいた。「誰から?」僕は駆動輪を押して、母に近づく。封筒の裏には、小さく黒猫のイラストが描かれてある。
「星野……さん?」
「おっ! よっしゃ」
「ん? って、誰なの?」
「ちょっとね~。ヒャハハハッ」
「そうやって笑うの、久しぶりに見た」
星野さんから手紙が届いたのは、成り変わってから1週間が経過したタイミングだった。今日をどこか知らない場所で過ごす星野さんは、本当に5年が1日で過ぎ去るのなら、今、41歳になっているはずだ。40代の僕は、何をしているのだろうか。でもきっと、独身なのだろう。20代でも30代でも出会いはないはずだ。そもそも、不幸体質の僕に近づく者なんて、ある意味“異質者”なのだから。そう勝手に想像しながら、封を切っていく。
手紙を取り出す。蛍光灯に透ける、月のデザインが施されている便箋。そして、星野さんがボールペンで書いた文字。封筒書きを見ても思ったが、男性が書いたとは思えないほど、サイズも形も揃っていて、綺麗すぎるぐらいだ。
拝啓 東北翔様。成り変わり後の生活は、いかがお過ごしでしょうか。不幸体質でなくなったことを喜んでいらっしゃるでしょうか。こちらは特段変わらず、不幸体質の生活を楽しみながら送っております。この体質に長年苦労してきた北翔様には、こんなこと言ってはいけないのかもしれませんが、僕としては、貴重な成り変わりを経験させてもらえているので、毎日充実しています。ここまで堅苦しい文章になったので、ここだけ本音で、ラフな口調で言わせてもらいます。
「やめようと思ってた将来の夢、簡単に諦めないで。粘ってでも掴んで。ほくてぃの選択は、間違ってなかったよ」
最後に、この手紙をもって、成り変わりが成功したことを証明させていただきます。この先も、北翔様らしくお過ごしくださいね。お幸せに。敬具 星野昇多
手紙をそっと閉じる。母に散々言われて阻害されてきた夢を、やっぱり諦めたら駄目なんだ。変わらなきゃいけない。僕は星野さんの手紙にサポートされて、エールを受けて、前に進む。
「母さん、僕、高校行き直すよ」