第10話
10時過ぎに家を出てから、既に3時間。私は今、町中華の店舗にて、ラーメンと餃子を食べている。お昼時を過ぎ、ガラガラになった店内。私は悠々と一人時間を楽しむ。ラーメンは家系で、具材は最初から乗せられているもの以外は乗せず、また餃子も1人前を頼み、全部ラー油を付けて食べていく。比較的安めの店を調べて入ったものの、お会計は1300円を超えてしまい、私の財布は空っぽになった。残るのは、どこかの飲食店のクーポン券で、もうすでに期限切れになっている。
「ごちそうさまでした」
私は初めましてのご老人店主に挨拶をし、「また来てね」と温かい声を掛けてもらって、そのまま店を出た。湿気をそれほど感じない風が吹く。程よく火照った身体がスッと馴染んでいくその感覚に、私は両手を広げて深呼吸をした。
待ち合わせの時間まで5時間以上。私は買い物をするつもりもないのに、駅前の大型ショッピングモールへ足を運んだ。周りは皆お洒落をしていて、少しよれたアウターを羽織る私は浮く存在だった。
とりあえずふらふらと服飾関係やら、スーパーやら、ゲームセンターやらといった常設コーナーから、期間限定特別コーナーまで色々と覗いてみた。いい歳をした大人でも、見たら欲しくなるものもあった。それらは全て、私が普段行っている家事を楽にしてくれるアイテムばかり。ただ、私だけの財力では決して買えないものばかりで、私は目移りしている客を装って、とにかく色々なアイテムを舐めまわすように見続けた。
久しぶりのショッピングモールは、私の知る頃とはだいぶ変わっていて、全体的に明るくて、ギラギラとして見えた。歩く中で来た道を見失うことも多くあった。それでも、電子看板を見て自分の位置を把握したり、どんな店があるのかを調べたり、若い子の気持ちになって楽しんだ。そして18時を過ぎた頃、私は来た時と全く同じ状況でショッピングモールを後にした。長時間滞在したにも関わらず、何も買わなかっただけ私は偉いと、そう自分に言い聞かせながら食べたコンビニ飯は、ちょっとだけ爽快感を伴う味をしていた。
待ち合わせの場所は、星野さんが運営する代行サービス運否天賦が入る建物裏。路地裏へと続く道の入り口だった。私は履き慣れたスニーカーで初めての地を踏みしめる。天をカラスが滑空する中、曲がり角に差し掛かったところで、前方から歩いてきた星野さんとバッタリ出くわした。
「あっ、星野さん。こんばんは」
「松島さん。こんばんは。お早いですね」
「すみません。待ちきれなくて、つい」
「全然。僕も楽しみにしてきましたから。さぁ、どうぞ」
「いま電気付けます。あ、よかったらそこのソファに座っててください」
「ありがとうございます」
温かみのあるLED照明が灯る。それによりハッキリとした間取り。整理整頓されているデスク周り。大きな壁掛けタイプのモニター。その下には手作り感満載の棚が置かれてあって、その中には同じ色のファイルたちが、見事なほどにシンデレラフィットしている。勤める会社とはまた違って、どこか大人の遊びっぽいというか、殺伐としていない感じがまた趣深くて、とても良い雰囲気の会社のように思えた。
「モニター、すごいでしょ」どうやら、私はまた食い入るように見てしまっていたのだろう。「そうですね。大きすぎてびっくりです」と言って、微笑み掛ける。
「僕の会社、社員みんなが出社している訳じゃなくて、在宅で作業している方もいるので、その方たちとの会議に使ったりするんですよ」
「へぇ。画面が大きいと見やすくていいですよね」
「はい。あと、映画を観るにも最適です」
ニヤッと笑った星野さん。私も釣られて頬をゆるませる。
「松島さん、コーヒーとお茶、どちらがいいです?」
「そ、そこまでしていただかなくても大丈夫ですよ」
「そんなこと言わないで。今日の松島さんはお客さんだよ。おもてなし、ですから」
星野さんはずるい人だ。そして、私は星野さんの笑顔にめっぽう弱いみたいだった。お茶を選択してものの数分で出てきた、淹れ立ての緑茶。若葉がデザインされた湯呑を両手で持って、私はお茶を啜った。
「成り変わりの前に、色々伝えることがあるんですけど、いいですか?」目の前に座りながら言った星野さんが言って、私が了承してから15分ぐらい、成り変わりの手順とか、成り変わったあとに証明する手紙が送られてくることとか、前回の説明時にはされなかった説明を受け、私は成り変わりへの期待感を更に高めていくのだった。
21時。そのときは、一瞬にして訪れた。テーブルの上に置かれていた星野さんのスマホが、突然バイブレーションしながらメロディを奏で始めた。驚く私に、星野さんは悪戯な表情と申し訳なさそうな表情を織り交ぜて、「すみません」と笑う。
「21時が来たら鳴るように設定してあったんです。事前に言っておけばよかったですね」
タップして曲を止めて、スマホをポケットの中に入れ込む。
「いえ」
「それじゃあ、お時間になりましたので、成り変わっていただきます。よろしいですね」
「はい。お願いします」
私はここで頭を下げた。そこまでの記憶はある。確かにあるのだけれど、気が付いて目を開いたら、私は自分の布団の上で、仰向けになって寝ていたのだ。あれは夢だったのかもしれない。そう思ってスマホの画面を見ると、日付はちゃんと6月5日になっていて、6:45と表示されていた。夢じゃない。そう確信した瞬間になぜか身震いした。と同時に、現実の世界へと一気に引き戻される。
「あっ、ヤバい、会社……!」
30分の寝坊は私にとって悲劇に近い。急いで着替えなければ、会社の始業時間ちょうどに着くバスに乗るしかなくなる。電車で行けなくもないが、駅まで行くにも時間がかかる。そんな私に残された選択肢は、たった1つ。朝ごはんを食べずに、着替えたらそのまま家を出て、パンプスでバス停まで走ること。そうとなったら……。
*
成り変わってからの生活は、幸せ、と言うよりは、楽、だと思えた。成り変わりのお陰で、貧困生活からはおさらば。父はパチンコ店の駐車場で誘導する警備員のアルバイトを始め、私は変わらずクレームを電話で聴き、対応する仕事をしている。少しだけ、お金に余裕が生まれると、気持ちにも余裕が生まれるようになった。父との関係は昔ほど悪くはなく、月に一度、私の通帳に給料が振り込まれるタイミングで、居酒屋へ夕食を食べに行くぐらいの仲に戻った。
「お父さん」
「何だ」
「私のこと、引き取ってくれてありがとう」
「なんだ、急に」
「ううん。ちょっと、感謝伝えてみたくなっただけ」
「ハハハ」
父は大きな笑い声を上げた。でも、知っている。恥ずかしい気持ちを表に出さないために、そうやって大笑いしているのだと。照れからか、アルコールのせいか、頬は赤らみ、重そうな瞼が目を覆う。
「そこまで笑うことじゃないでしょ」
「やっぱり、志織は真面目だな。一時はもう、あの頃の志織は戻ってこないと思ったからな」
「あれは若気の至りってやつだよ。もう大丈夫。私、馬鹿なことはしないから」
「そうだな。そうだろうと思う」
しみじみと、頷いた父。私は空になっている盃に日本酒を注いでいく。
「お父さん、これからもよろしくお願いします」
私と父は、日本酒の入る盃を交わし、グイッと呑んだ。最近呑んだ日本酒の中で、一番うまい酒だった。
*
「拝啓 松島志織様。いかがお過ごしでしょうか。クレーム対応には、慣れてきたころでしょうか。それとも、もう嫌だと思っている頃でしょうか。どちらにしても、お仕事を頑張っていることだと思います。僕がこの手紙を書いているのは、特別養護老人ホームです。成り変わりから死期を迎えるまでのお話しは、直接会った際にお伝えしますね。仮に、という形にはなりますが、この手紙をもって、成り変わりが成功したことを証明させていただきます。結びに、松島さんの人生は豊かな仲間に囲まれて、とても良い人生でした。成り変わりが終わり次第、そちらの世界に戻ります。それまで、もう少しお仕事を続けていてください。愚痴なら沢山聞きます。それでは、また会う日まで。敬具 星野昇多」
この手紙が届いてから1週間が経過したころ、星野さんが職場へ帰ってきた。星野さんの帰りを待ちわびていた社員たちは、朝から総立ちでお出迎え。照れる星野さんだったが、私は誰よりも星野さんの帰りを歓迎した。
そしてこの日の仕事終わり、星野さんに呼び出された私は、星野さんおススメの飲食店を訪れた。そこで、優雅にパスタを食べながら、星野さんが成り変わってくれた私の話について、一から話を聴いた。
私の人生に成り変わってくれた星野さんによると、私は85歳で死ぬらしかった。自宅ではなく、海の見える施設で。そこには、江藤六花という女性がいて、親しく接していた、という話も耳にした。
「六花は私の妹です、小学2年生のときに離婚した母について行って、そこからは生き別れ同然の状態で――」
そう説明したところ、星野さんは1枚の写真を見せてくれた。そこに映っていたのは、顔に幾つもの皺が刻まれた、年老いた私と、皺があっても美人な老女。星野さんは、「この方が六花さんですよ」と言って、私に優しい眼差しを向けた。言われてみれば、どことなく母に似ていて、六花らしい部分も残っているように見えた。私は写真を受け取って、星野さんにもう一度礼を告げた。星野さんは、演技でもなんでもない、素直な笑みを浮かべてくれた。