第6話
千明さんのアパートを出た私は、家賃の安い1Kのアパートに引っ越した。父が一人で住む家とは反対方向にあるところを選んだ。父とは一緒に暮らすつもりもない私は、変わらずアルバイトを直向きに続け、もらった給料のうちで、食費や光熱費を削り、その分、ギャルになるための用品にお金を使った。当時の私には、将来のために貯金するという考えはなく、破産しない程度の暮らしを続けていた。が、45歳になった今、貯金してこなかったことを後悔する羽目となっている。
「志織、今日も面接か」
「そうだけど、何?」
「どこかの企業に就職できたらいいな」
「フンッ、お父さんに言われる筋合いはない」
「そうか。そうだな。ハハハ」
「笑いごとじゃないから。じゃあ」
私はドアをいつもより強く締めた。手首で揺れる黒いビジネス用の鞄。ひざ丈のスカートを履くことは今でも落ち着かない。高校生時代とギャルに憧れ続けた当時は、毎日のようにスカートを履いていたものの、どれもこれもミニ丈だった。ギャルを諦めて15年近く経過しているのに、まだ慣れないだなんて、信じられなかったけれど、受け入れるしかない現実でもあった。
今日、私が面接を受けに行く会社は、電話でクレーム対応をするところ。面接は、これで10回目。二桁の大台を突破し、3度目の正直を、もう3回も繰り返してきている。45歳にして、私は就活生を味わっている。まぁ、ここまで不合格になるとは思ってもみなかったけど。
電車に揺られること30分。駅を降り、曇り空の中を、私はパンプスで歩き始めた。最寄り駅から徒歩15分のところにある会社は、ビルの3階に入っていて、受付で手続きを済ませた後、運動がてら階段を上って、私はようやく面接会場へとたどり着いた。
会員証を通さなければ入れないドアが、ガチャっと開く音がした。顔を上げると、そこには若くてイケメンの好青年が立っていて、私に向かって一歩ずつ近づいてきた。首から下げられた社員証には、星野という表記がある。その隣にある小さな顔写真よりも、実際は随分と大人びて見えた。
「あぁ、お待たせしました。松島さん、ですよね。こちらへどうぞ」
男性は聞き取りやすい声で言った。私は男性に見惚れてしまい、礼を言う際に思わず甘噛みしてしまったが、その男性はふふっと笑って、私のことを6畳ほどの小さな会議室に招き入れた。
会議室には、長机1台と椅子が2脚あり、そのうちの1脚は、ドアのすぐ近くに置かれていた。
「どうぞ、お掛け下さい」
「失礼します」
私は緊張した足取りで椅子に腰かける。目の前に座る男性は、終始微笑みながら私のことを見つめていた。その瞳は輝いていて、吸い込まれそうになるほどだった。
「では面接を始めさせていただきます。僕は今回、松島さんの面接を担当する、星野昇多です。よろしくお願いします」
見た目に合わず、堅苦しいほどの言葉遣いをした星野さん。私も釣られて、「よろしくお願いします」と言った後に深く頭を下げた。
「事前に履歴書のほうは確認させてもらいました。松島さん、アルバイトを結構長く続けられたんですね」
「そうですね」
「でも、どれも同じ時期に辞められている。どういった理由でお辞めになられたんですか?」
「実は、現在父と2人暮らしをしているのですが、父がもらう年金では暮らしていけなくて。それに、恥ずかしいのですが、若い頃に遊び惚けてしまったせいで、貯金が全然なくて。父のこともありますし、私の老後のこともあるので、お金を貯めたいと思い、アルバイトを辞めて、正社員になろうと思いまして、それで、はい」
私は、頬が熱くなっていくのを犇々と感じていた。アルバイトに関して、今まで受けてきた面接でも同じことを聞かれて、同じように答えているものの、この過去は自分にとって、とても恥ずかしいこと。やはり、頬が紅潮していくことは避けられない生理反応だった。
「なるほどね。確かに、お金って以外と貯まらないですよね。実は、僕も結構ギリで生活してて。まぁ、役職持ちなので、お金はたくさんもらっていますが、家族に流れてしまうので、手元に残らなくて」
星野さんは、私に同情するような言い方をして、そして表情を作る。シンプルに表情の管理が上手だと思った。言ってしまえば、俳優並みに、簡単に人の心を動かせてしまいそうだった。
そこから、どうしてこの会社を選んだのか、とか、得意なこととか、面接で尋ねられる質問を一通り受けた。緊張が一向にほどけない私に対し、終始微笑んだり悲しんだり、感情管理に忙しない星野さん。そんな星野さんが、いきなり両手を机の上で組み、少し前のめりになって、私のことを見てきた。ファイルから出された履歴書の、学歴を書いた辺りが、星野さんの手の下敷きになる。
「では、最後に、松島さんの意思を聞かせてもらってもいいですか?」
この瞬間、私は、あぁまた不合格だ、と思った。面接時間は、10分にも満たないだろうと思う。短いと不合格。面接対策の本で読んだことでもあって、実際に体験してきたことでもあった。私はこの会社に採用されることは見込めないと思いながら、一応考えてきたことを告げる。
「恥ずかしながら、こうして面接を受けるのは、御社で10社目になります。もう、これ以上不合格だと、体たらくな父に負けてしまうので、どうにか合格させていただきたいのです。よろしくお願いします」
私は何の未練もなく、(というのは嘘だが)頭を下げた。また、次の面接会場にて、こうして頭を下げなければならないのだ。ゴールの見えない、就職への道。大雨の中、荒波の中を進む舟は、そろそろ沈没しそうだった。そんなとき、急に差し込んできた太陽、静まり返った波。頭を上げると、星野さんは今日一番の笑みを浮かべて、私にこう告げた。
「採用」
「へっ、さ、採用、ですか?」
「はい。採用です」
ニコッと口角を上げて言う星野さん。たった二文字なのに、その二文字に、私は喜びを上乗せしながらも、疑心暗鬼になって、星野さんに対して馬鹿な質問を投げかけた。
「あの、こう言うのは変ですけど、いいんでしょうか」
当たり前だが、星野さんはクスクス笑って、小さく、失礼しました、と呟いた。
「はい。僕たちの会社は、あなたのような人材を求めていまして」
「えっと……」
「電話越しとは言っても、業務内容がクレーム対応ですから、メンタルをやられる人が多くて。9社も落ちているのに、こうして10社目の面接を受けるほどの心を持つ松島さんです。役に立ってくれると思います」
私は褒められているのか、それとも批判されているのか分からない状態のまま、頭を下げた。隠しきれない笑みに、口角は緩むばかりだった。
「明日から出勤できますか?」
「はい。もちろんです」
「それでは、短く、説明させていただきますので、少しお待ちいただけますか?」
「分かりました」
「一旦、失礼します」
履歴書を手に会議室を出て行った星野さん。残された私は、声を押し殺して、口を大きく開けて喜んだ。握った拳を天井に向けて突き出す。45歳にして、初めて正社員として会社への採用が決まった喜びは、ひとしおどころではなかった。
翌日、私は星野さんに言われた通り、午前9時前に出社。仮の社員証を首から下げて、朝礼なるものに参加。社長から自己紹介をするように求められ、私は名乗るだけの軽い挨拶をした。それでも温かな拍手をしてくれた社員の皆さん。見る限り、私よりも若い世代が多いように見えた。社長さんや、星野さん以外の役職持ちの人を除いては。
午前は、資料による研修に時間が割かれた。面接を受けた会議室に通され、星野さんが読む文章をメモ帳に残していく。星野さんは随時、「何か分からないことはありますか?」と聞いてくれ、その度に私は説明で分からなかったところを、遠慮もせずズケズケと尋ねた。それにもかかわらず、星野さんはどれもこれも丁寧に教えてくれ、優しいなと思うと同時に、会社を辞められたら困るのだろうとも思った。
一人での昼食時間を終えた午後からは、先輩社員たちがどんな対応をしているのか、実際に観察するということに時間が当てられた。この日、私の手本となった先輩は、私よりも10歳年下であり、2児の母親として、旦那さんとともに家計を支える花村さんという方だった。その仕事ぶりは凄まじく、迷惑なものなら相手にもせず、対応が必要な時には真摯に案件に向き合うという、瞬時に判断して、バッサバッサと裁いていくというスタイルを貫く、社長からも一目置かれているという人だった。
星野さんも感心しているようで、腕を組んで花村さんの仕事を、私の隣で見ていた。当の私はというと、感心は勿論しつつも、持ってきた小さなメモ帳が文字で埋まるほど、じっくりと観察していた。あとでちゃんと整理しなければ、というほどの汚さと乱雑さ。人に見られるのは恥ずかしいと思っていた矢先、星野さんが覗き込みながら、こう呟いた。
「松島さんって、やっぱり賢いんでしょ」
「え」私は口をぽかんと開けていた。意表を突かれた、とはまた違うが、唐突の発言に、私の心臓は妙に早く動き始める。
「そのメモ見てたら分かる。まぁ、分かってるだろうけど、1日で全部を覚えようなんてしなくていいからね。ゆっくり、松島さんのペースで覚えてくれていいから」
「は、はい」
ニコッと微笑みかけられた私は、星野さんの期待に応えられるような社員になろうと決めたのだった。正社員として初めての仕事は、やりがいのあるものになりそうだと思った。
翌日以降、私は花村さんみたくはなれないけれど、新入社員なりに、迷惑をかけ過ぎないように、かかって来る電話に対応した。初めて受けた電話は、クレームではなく悪戯だったけれど、それでも変に緊張せず、比較的リラックスした状態で相手と会話できたことは、楽しいと思えた。居酒屋や焼き肉店で散々電話を取ってきたことも、ようやく活かせるようになってきたのだ、と嬉しくもなった。ただ、仕事内容は思っていたほど簡単なことばかりではない。そう思い知ったのは、初出社から4日目のこと。私が取った受話器の向こう、相手は、ネチネチと同じことばかり繰り返して、電話を切らしてもらえないということで、迷惑客のリストに名前がある人だったのだ。
対応中、何度か先輩や上司の人から「代わろうか?」と言われたものの、強がってしまった私は、「いえ、大丈夫です」と作り笑顔で言って、その人の対応を続けた。何度か心が折れかけたものの、持ち前の賢さを全面的に出し続けた結局、その人は「喋り疲れたから今日はもういいや」と一方的に言って、電話を切った。そして、この日以降、この人が会社に迷惑電話をかけてくることはなくなった。そのことに対し、私は社長を含めた社員さんたちから賞賛され、45歳にして初めての感情を抱いたのだった。
1日が長く感じたその日の退社途中、疲れ果てた私の後ろから駆け寄って来た星野さん。息を切らしながら、「よかった、間に合った」などと言って、微笑んだ。よく分からない私は、「私、何かやらかしました?」と尋ねると、星野さんは首を大きく左右に振った後、「松島さん、いいですか?」と言って、ビールを傾ける動作をした。