第3話
朝は5時半に起きて、一番に歯磨きと洗顔を終わらし、小さなキッチンの前に立って朝食を作り、それを1人で食べて、食器を洗い終わってからようやく学校に行く服装に着替える。この時点で既に7時を過ぎていることが多く、慌てて夜に洗濯してあったタオルや着ていた服を部屋干しする。そして、1個だけ付けている電気を消して、真っ赤なランドセルを背負って家を出る。学校に着くのはいつも登校時間ギリギリだが、下校は誰よりも早いし、どこにも寄り道することなく帰宅する。その後、着替えないまま夕食を作り、1人で食べてから宿題をして、19時半にお風呂に入り、洗濯機を稼働させ、翌日の学校の準備を終えてから、20時半には寝る。これが、小学2年生の9月から、中学卒業まで続けていたルーティーンだ。
そんな生活だったから、テレビなんて見ている時間もなければ、無駄な電気代を払える余裕はないために、学校ではテレビの話題となった途端に蚊帳の外に放り出される。同級生とは同世代の話が全くできない。今世間でどんなことが話題になっているのか、どんなことがニュースになっているのか、聞くのは全て同級生たちが交わしている会話の中からだった。
たまに聞かれていた。「志織ちゃんの家にはテレビ置いてないの?」と。その度に志織は「私もお父さんもテレビ見ないから、置いてないんだ」と嘘をついていた。離婚をする前までは超がつくほどのテレビっ子だった。今ではテレビが付いていない生活に慣れてきたが、やっぱり1人でいると無音の空間に寂しさを感じてしまっていた。
ずっとテレビがない生活を続けていたが、私が中学1年生の12月、確か20時を過ぎた頃、父がテレビを抱えて帰宅してきた。昔家にあったテレビより、サイズも、型式も、古いものだった。
「どうしたの、それ」
私は訝しげに尋ねた。すると父は笑って、「同僚が、新しいテレビを買って要らなくなったから、よかったら貰ってくれって」と言って、テレビを床に置いた。
「お父さんが頼んだんじゃないよね?」
「当たり前だろ。それに、向こうも処分する費用がかかるから、タダでもらってくれたほうがありがたいって言ってたんだから、気にすんな」
「それで、つなぎ方、分かるの?」
「それに関しては、明日同僚来て繋いでくれるから、大丈夫。明日の午後にはテレビが見られるぞ。良かったな、志織」
父は得意げな顔をしていたけど、私にとっては、何も嬉しくなかった。あれほどテレビ、テレビって言っていたのに、電気代がかさむだけの代物でしかないと思い始めていたから。有名な番組を見たからって、いまさら友達ができるわけじゃないし、アイドルとかお笑いとかに一切興味がなくなったから、本当に必要がない。父は、自分のことを何も分かっていないと思っていた。
「ところでさ、志織、クリスマス、何かいるか?」
「ううん。要らない」
「じゃあ、サンタにお願いしたのか?」
「ううん。してない」
「どうして?」
父は額から汗を垂らした。そして、薄汚れた服に吸われていく。
「サンタにだって、お父さんにだって頼めないものが欲しいから」
「どんなもんだ? 言ってみろ」
「たくさんのお金と時間。これ、アタシにプレゼントできる?」
口籠った父は、俯き、頭を掻いて、とにかく居心地悪そうにし始める。
「テレビあっても見ないよ。電気代もったいないし、見てる暇ないし」
「そうか」
「でも、もらったんだし、返すわけにはいかないから、そのままにしておいてよね。相手に迷惑かけるわけにもいかないでしょ」
私はテレビから視線を逸らした。テレビが視界にちらつく度に、悪魔と天使が脳内でバトルを繰り広げる。悪魔のほうが優勢だから、余計に腹が立つ。
「本当は、見たいんじゃないのか?」
「そんなわけないでしょ。見てる時間も電気代も勿体ないから。それに、お父さんが何もできないダメ人間だから、私が料理とか洗濯とか全部しないといけないんだもん」
腕を組み、ふっと振り返ると、父は跪き、頭を抱えていた。
「志織、ちょっと、言い過ぎ……」
「言い過ぎじゃないよ。事実だもん」
「ごめんな、志織。ダメ人間で」
「いいよ。もう諦めてるから」
「ははは、だいぶキツイこと言うな」
頭をガクッと落とした父。この瞬間、口には出さなかったものの、ざまぁみろと思った。自分の行いを反省しろとまで思った。アタシの腹黒さが滲み出た瞬間だった。
「もうその話終わり。早くお風呂入って。アタシ、もう寝る時間だから」
「はいはい」
父がお風呂に入っている中、私は川の字に布団を敷いていく。目にはうっすらと涙を浮かべていた。
小学校を卒業し、中学生になっても、そして、受験生になっても、ルーティーンを壊さず、堅苦しいほどの真面目さで生活を続けた。同級生からどう思われているか、口に出されなくても分かっていた。陰で悪口を言われていることも、知っていた。誰とも深く関わらないように生活を続けていた私。将来、きっと母のように倹約家な生活を送って、結婚をして幸せな家庭を築くのだろうと思っていた。でも、あることをきっかけに、私の人生はがらりと路線を変更する。そのキッカケとは、私が高校受験を控えていた2月のこと。雪がしんしんと降っているときだった。
18時過ぎ。夕食の片付けを終え、一息つこうとしていたとき、父親がいつもより早い時間に帰宅してきた。手には、仕事用の鞄ではなく、段ボールを一箱だけ持っていた。
「おかえり」
「……」
「今日のご飯は、豚肉の――」
「志織、ごめん」
「え、何?」
「お父さんな、会社、くびになった」
「え……」
段ボールを床に置く父。蓋が明けられた中には、使い古された鞄と筆記用具、資料が何枚か入っているのが見えた。まただ。
「なんでクビになったの?」
「成績が上がらなかったから。3年ぐらい前からクビって言われ続けていたんだけどさ、なんとか食らいついてたんだ。でもな、顧客が一気に離れてってさ、ここ2カ月は新人よりも酷い成績しか納められなかったからさ」
私はヨレヨレのエプロンで手を拭いながら尋ねた。「仕事、どうするつもりなの?」と。すると父はなぜか笑って、呟いた。
「明日から探すけど、定職に就くまでは収入ないし、迷惑かけると思う」
「ごめん、なんかもうずーっと迷惑かけられてるから、もう何も思わない」
「ごめんな、迷惑ばっかかける父親で。だらしないよな、俺」
「だらしないよ。家事だって何もできないからアタシが全部やってる。我慢してばっかりだよ」
「ごめんな、志織」
はらわたが煮えくり返るとは、このことか。何となく、母がずっと堪えていた思いが分かった気がした。お母さん、こんな気持ちだったんだ。
「もういい。知らない」
「志織!」
「ちょっと出てくるだけ。頭冷やしたいの」
「おい、こんな時間に危ないぞ」
父は毛深い腕で私の手首を掴んだ。ぞっとした。
「ついて来ないで!」
そう言い残し、私は父の手を振りほどいて、家を出た。気温は氷点下。寒いはずなのに、全体的に熱を帯びていた私。行く当てもないのにひたすら歩き続けた。途中で靴擦れをして、両方の踵から血が出ても、歩き続けた。足が重たくなって、もう歩きたくないと思っても、前に進もうとする気持ちが勝手に歩を進め続けた。
足裏の感覚がなくなるぐらい、だいぶ歩いた。息が切れる。涙が流れそうになって、顔を上げると、そこには澄んだ空に輝く無数の星が瞬いていた。テレビでしか見た事がなかった景色が広がることに、私は感嘆の息を漏らす。
「キレイ……」
そう呟いた私。そのとき、何気なく見た店の看板に、心を奪われた。その看板に投影されている2人の女性は、いわゆるギャルメイクをしていて、こちらに向かってピースサインをしていた。その瞬間に、私は意を決したのだ。自分は、ギャルの聖地で1番の女子になる、と。