第9話
星野の身体を手に入れた高坂。仮眠をした後、家を出た高坂と田辺。雲の切れ間から出ている満月。風さえも凍り付く寒さの中、田辺の運転で駅に向かった。そして、7時過ぎの新幹線に乗り込み、目的地のある駅に着いたのは10時半を過ぎた頃。駅を降りた高坂と田辺は、駅のロータリーに停車しているタクシーに乗り込み、待ち合わせ場所へと向かった。
「緊張されてますか?」
「そうね。何十年振りに会うんだもの。どういう顔をして会おうかしら、とか、どんな話をしようかしら、とか、色々と悩むの」
「そうですよね」
「あのね、田辺君、私からお願いがあるの」
「何でしょう」
「お店の中で、見守っていてくれないかしら」
「でも、和食店の個室ですよ」
「それでもいいの。ちょうどお昼でしょう?」
信号が黄色から赤に変わる。タクシーが速度を緩める。ハンドバッグから財布を取り、チャックを開けて、何枚も入っているお札の中から、万札を取り出し、そのまま田辺に渡す。
「これで食べたいもの食べて。お釣りもあげるから」
「でも、僕はただの付添いですし」
「あなたにはとても感謝しているのよ。遠慮せず受け取って」
「それじゃあ、はい。ありがとうございます」
お札を受け取る田辺。高坂は笑いながら言う。「星野君みたいには謙遜しないのね」と。「あ、いや、そ、そういうつもりは」そう言って慌てふためく田辺。
「今のは冗談よ。うふふふ」
「高坂さんって、お茶目な方ですね」
「そうかしら」
「星野が高坂さんに懐くのも、何となく分かります。あの、ありがとうございます。星野、高坂さんに出会ってから、前よりも明るくなったというか、少年心に更に磨きがかかった感じなんです」
「そうなのね。じゃあ、この話は内緒にしないとね。星野君、たぶん嫉妬しちゃうから」
「ですね。ありがたくいただきます」
アクセルを踏み込む運転手。景色が徐々に田舎へと変わっていく。そして、次第に周りを走っていた車はいなくなり、気が付けばタクシー一台が走るだけになっていた。
「到着だよ」運転手が告げる。タクシーが停車したのは和食屋の前。ちょうど、暖簾がかけられるタイミングだった。
「ありがとうございました」
金銭を支払い、降車。運転手がトランクから取り出した荷物を、高坂の代わりに田辺が受け取る。
「俺が持ちますね」
「ありがとう」
トランクが閉められ、発車するタクシー。高坂がぽつりとつぶやく。「ここが待ち合わせ場所なのね」
「このお店、お料理が美味しいんですよ」
「来たことあるの?」
「お盆のときに、よく来ていたんです。もう何年も来ていないんですけどね」
「そうなの」
「それに、富子さんも常連だとおっしゃっていたので」
「あの子が、そうなのね」
田辺が頷くと同時に吹いた、凍てつくような寒さの風。思わず身震いする田辺と高坂。
「寒いですね。入りましょう」
「そうね」
暖簾をくぐった瞬間に、一気に田舎の穏やかな空気が身体全体を包み込んでいく。
「いらっしゃいませ」
店内に入るなり香ってくる、上品な鰹と昆布の出汁の匂い。店内にいた若い女性が、話しかけてくる。名札にはミカという表記があった。
「えっと、2名様――」ミカの言葉を遮って、田辺が優しく「11時半で予約をしている高坂です」告げると、女性は何か思い出したような目をして、
「あぁ、高坂さんですね。どうぞ、こちらへ」と店の奥を示す。
「それじゃあ、俺はここで待ってます。お荷物どうされます?」
「持って行くから大丈夫よ。ありがとう」
「そうですか」
「それじゃあ、ごゆっくりね」
「ありがとうございます。高坂さんも、再会の時を楽しんできてくださいね」
「そうさせてもらうよ」
田辺が持っていた荷物を受け取ろうとする高坂。しかし、転生してすぐの長時間移動はやはり身体に堪えたのか、バランスを崩しかける。それを支える田辺。「お荷物、私がお持ちしますよ」とミカが言って、田辺から受け取る。
「わざわざありがとう。お手数おかけしてごめんなさいね」
「気になさらないでください。あ、どうぞ、こちらへ」
ミカと共にゆっくりと店の奥へと歩いていく高坂。田辺はカウンター席に腰かけ、店内を一通り見まわしたあと、メニュー表を見ずに言う。「大将、1万円以内でおすすめの料理、出してくれませんか?」と。
高坂が案内されたのは、店の一番奥にある小さな個室だった。懐かしさを覚える土壁。障子を開けると、小さな日本庭園が広がっている。どこか懐かしさを覚えるような雰囲気に、高坂はすぐに落ち着くことができた。
「お揃いになられてから、メニュー表をお持ちしたほうがよろしいでしょうか?」
「そうね。そのほうがいいと思うわ」
「かしこまりました。そのように致しますね」
「ありがとう」
「それでは、一度失礼します」
襖が閉まり、一人になった高坂。鞄の中から、富子に渡すバームクーヘンが入った袋を取り出す。一体どうやって渡そうか、入ってきたときに何て声をかけようか、そもそも自分をみて母親だと瞬時に判断してくれるだろうか、もし違う人物だと思われたらどうしよう。そんな心配を吹き飛ばしてくれる星野は隣にいない。かといって、ここに田辺を同席させるわけにはいかない。どうしようか、そう思考回路をぐるぐるとさせていたとき、襖の奥から、大将と思われる男性の声と、常連と思われる女性の話し声が聞こえてきた。きっと地元住民が来たのだろう。そう思っていた。
次第に近づいてくる足音。高坂の胸は不安と緊張から痛み始める。
「お客様、お約束の方がお見えになりました」ミカの声がしたのと同時に、高坂は「は、はい。どうぞ」と少しの動揺を含ませた返事をする。「失礼します」女性が襖を開ける。その向こうにはミカと、50代ぐらいの、とても女性らしい身体のラインをした1人の人物が立っていた。
「お連れ様が来られましたよ」
「あ・・・・・・」
「メニュー表、今お持ちしますのでね、どうぞどうぞ」
「ありがとう、ミカちゃん」その女性は、ミカへ親しみを込めて微笑みかけた。
「久しぶり、お母さん」
「と、富子、なの?」
「そうだよ。紛れもなく、あなたの娘の富子よ」
「あぁ、あ、と、富子・・・・・・」
溢れる涙。堪えきれず、顔を覆う高坂。
「もう、泣かないでよ。ちょっと、まだ何も話していないじゃない」
「ごめんね、ちょっと、会えただけで感動しちゃったの」
「そんな大袈裟な。昔と全然変わってないね、お母さん」
「富子も、全然変わってないわね」
「変わらないよ」
高坂の目の前に腰を下ろす富子。長く伸びた黒髪には、ところどころ白髪が混じっている。口元にはほうれい線が刻まれ、少しだけ頬がたるんでいるように思えた。でも、自分よりはまだまだ若いなと高坂は思う。
「メニュー表です。ご注文がお決まり次第お知らせください」
「ありがとう」
「ありがとね、ミカちゃん」
「はい」
静かに閉まる襖。富子は羽織り物を脱ぎ、鞄にかける。そして、数十年振りに再開した母、由紀乃の顔をみながら、こう呟いた。「お母さん、いきなりで申し訳ないんだけど、私が家を出てから生きた30年の話、聞いてくれる?」と。