第5話
星野と別れて一日。高坂は、固定電話の前でうろうろとしていた。富子に関する話が1秒でも早く訊きたい、という気持ちと、1日で見つけ出すことはないだろう、という気持ちが交叉して、やりたいことがあるのに、電話の前から動けないでいる。この歳にもなって恥ずかしい、と思いつつも、まだ胸がときめく瞬間があるとは思ってもみなかった。
しかし、ずっとこのまま、いつ電話がかかってくるのか、そもそも電話が掛かって来るかも分からない状況の中で待っているわけにはいかない。手入れをしなければ花が悲しむだろうし、掃除してあげなければ、綺麗な空間を保つことができない。富子のことは、きっと探し出してくれる。いつも通りを心がけよう。そう考えて、掃除道具を手に持った瞬間に突如感じた激しい痛み。高坂は腰を擦る。悶絶しながらも、心の中で「大丈夫」と言い聞かせるように、落ち着かせるように。
11月6日。転生を明後日に控える中、今日は、息子の健蔵が凶弾に打たれ、亡くなってちょうど○○年の、大切な日。弟が死んだことを、富子は知っているのかしら。それとも、その知らせを聞く前に、もしかして先に妹に会いに行っていたり……、そんなはずはないわよ。いくら音信普通だったとしても、親には連絡がくるものだろう。いや、そもそも病死やらそういう感じで死んでしまったのなら、連絡がくるわけないのか。なんて悲しいことなの……。そんなこと考えている暇があるなら、気分転換に散歩にでもでかけようかな。
その時だった。
固定電話の着信音が、お年寄り向けの音量で、激しく、そして騒がしく鳴り響き始める。
「はいはい、ちょっと待ってね。今出ますよ」
表示される電話番号。高坂の心臓が、病気とは違う痛みを伴い始める。事前に家族と登録してあってよかった。そう思い始める高坂。受話器を手に取り、左耳に当てる。
「もしもし」
「高坂さん、お久しぶりです。代行サービス運否天賦の代表の星野昇多です」
「あら、お久しぶりね。元気だった?」
「はい。高坂さんはどうですか?」
「あぁ、おかげさまで。ふふ」
「よかったです。あ、それでですね、今日お電話を差し上げたのは、富子さんに関することです」
「は、はい」
「落ち着いて、お聞きください」
声色を変えて言う星野に、高坂は言われた通り、深呼吸をして心身を落ち着かせる。
「娘さんの富子さんですが、9日の午後に、お会いできることになりました」
「え、ほ、本当なの?」
「はい。僕が直接お電話させてもらって、お母様が貴方にお会いしたいとおっしゃっている、というお話しさせていただきました」
「あの娘、何か言っていたの?」
「そのままお伝えすると、『私も、お母さんに会いたい。会って謝りたい』と」
「・・・・・・」
まさか、あのとき勝手に出て行った富子が、会って謝りたいなんて……。そんなことあっていいのかしら。何かの間違いじゃ……、そう考えるだけで喉から言葉が出てこない。電話の向こうからは、星野がずっと「大丈夫ですか、高坂さん」と呼びかけてくる。溢れ出してくる涙。溺れそうになる。
「高坂さん、大丈夫ですか? あの、こうさ――」
「ごめんね、ごめんね、星野くん」
「・・・、泣きたくなりますよね・・・・・・」
「まさか、この歳になって、娘と会えるなんて。言葉がうまく見つからないの」
「そうですよね」
「ありがとうね。ありがとう」
「お礼を言うのは、僕じゃなくて、友達のほうですよ」
電話越しで星野が笑っているのが、高坂には伝わってきた。笑い声はしなくても分かる。昔からの推しなのだから。
「ねぇ、その星野君が言っていたお友達って、どんなお方なの?」
「実は、その地域出身の人間でして。僕の高校と大学時代の友人なんです」
「そうなの。それじゃあ、直接お礼言わないといけないわね」
「転生する前に、ソイツ連れて行きますね」
「ありがとう」
高坂は電話越しに頭を深々と下げる。小さなブタのフィギュアと目が合う。そして思わず目を細めてしまう。
「それと、このこと、高坂さんにお伝えすべきか迷ったんですが、スムーズにお話ししてもらえるほうが良いだろうと判断したことがあるんです」
「何かしら」
「言ってもよろしいですか」
「えぇ」
「実は、富子さんが家を出られて3年後に、一度、警察のほうに逮捕されているんです」
「え。富子が、逮捕・・・、何かの間違いじゃ、あの娘がそんなバカな真似するわけないわよ」
「僕も、何度も疑いました。でも、事実でした。罪名としては、占有離脱物横領。捨てられていた自転車に乗車していたところを、警察官が発見し、そのまま逮捕された、という流れです。それで、刑務所に1年間収容されていました」
「まさか、富子が人様の物を盗むなんて。どうしてそんなバカなこと・・・」
悲しくて、辛くて、胸が苦しい。反省しなければ。富子が犯した罪は、母親が犯した罪でもあるのだから。
「聴取の内容までは、すみません。僕がどうこう言える立場じゃないことは分かっているのですが、そのことは、直接富子さんにお伺いしたらどうでしょうか」
「そうね。そうしたほうがいいのかもね。これは、星野君は関係ないんだもん。私がちゃんと育ててあげなかったから」
「高坂さんのせいではありません。断じてそう言えます」
「でも・・・」
「人間は毎日同じわけではありません。進化ばかりしているんです。ですから、高坂さんの元を離れて3年間で、富子さんは成長されたんです。だから、行動に移ったそのすべての要因が高坂さんにあるとは限らないんですよ。だから、これ以上ご自身のことを傷つけるのだけはやめてください。これは、僕からのお願いです」
星野の、電話越しでの訴えは、高坂の負のスパイラルを打ち砕く。歳がいってから、余計に抑鬱状態になっていく自分を変えてくれるのは、星野しかいない。もう子役の頃の星野ではない。今は、立派な社長でもあり、老人一人の思いに真正面からぶつかって、解決してくれ、支えてくれる人物でもある。そして、高坂の唯一の推しでもある。でもこのことだけは変わらない。
「ちゃんと、あの娘と向き合う。私が知らない富子だらけかもしれないもの。母親は私ひとりしかいないものね。私までもあの娘の敵になってしまったら、守ってあげる人が誰もいなくなるものね」
「そうですよ。高坂さんは、富子さんにとって最高の母親ですよ」
「ありがとう。もう、星野君に救われてばっかりね。ふふふ」
高坂は頬を伝う涙を拭う。その背後には、いつもと変わらぬ背景が広がっている。
「出所されてからは、お菓子の製造会社に就職し、そこで出会われた年上の男性とご結婚をされて、その1年後に男の子を、3年後に女の子を出産されています」
「そう。私にも、孫がいたのね」
「はい。それで、富子さんが言っておられましたよ。ぜひ、私の子供達に会ってもらいたいって」
「でも、今聞いただけだと年齢は分からないけれど、大きいわよね」
「はい。ご長男さんが31歳、ご長女さんが28歳だそうですが、今も4人で仲良く暮らしておられるそうで、いつでも会えるとのことでしたよ」
「そうなのね」
「よかったですね」
「星野君、私のために色々とありがとう。こうして富子のことが少し知れただけでも良かったわ。本当にありがとうね。感謝してもしきれないわね」
「いえいえ。僕はただ、依頼者の方のお気持ちにお答えしただけですから」
――ピンポーン
――ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン
インターホンがしつこく鳴る。画面には、ご近所さんの皺とシミだらけの顔がドアップで映し出されている。
「あら、ごめんなさい。来客みたい」
「分かりました。長々とお電話失礼しました」
「ううん。明後日、楽しみにしているわね。それじゃあね」
「はい。失礼し――」
星野の挨拶も聞かずに電話を切った高坂。胸に感じる違和感をよそに、笑顔で来客を出迎えるのだった。