罅割れる木
丘の上には一本の木が生えている。
短い草が風に波打つばかりの小高い丘で、不思議なことに他の木々は一切見当たらない。湾曲した頂上に、全ての葉を散らした貧相な裸木が空に梢を伸ばしているだけだ。
親の親から、そのまた親から伝わってきたという。丘の上の木には近づいてはならない。村のどこからでも望めるのにも関わらず、その禁忌を破った者はいなかったという。誰も曰くを知らず、口にすることさえなかった。
水面に映る月と同じで、其処にあって触れられない。あれは、そういうものだった。
この村で生まれ育った者は皆同じ認識だった。だから少女も日々丘の木を瞳に収めながら、あそこに近づこうとは微塵も思わなかった。その固定概念に綻びが生まれたのは、風に乗って聞こえてくる音のせいだった。
外で遊んでいると、何かが削られる音が鼓膜に触れた。音の出所を辿ると、いつも丘の頂上に帰着した。そこには相変わらず裸の木が佇んでいるだけだった。
他の村人には誰も聞こえていないらしい。初めて意識した丘の上の木は、少女の心に根を張った。発芽した好奇心は数世代に渡って守られてきた禁忌を破ることになった。
ある晴れた日、毬で遊んでいた少女はあの音を耳にした。まるで獣が爪を立てる音。その瞳が見上げた先に、丘の上の木があった。
ぼろぼろの毬を両手に抱えたまま、自然と足が向いた。いざ歩いてみれば、誰も近づこうとしないのが不思議なほどまっさらな丘だった。きっと皆で駆けっこをしたら気持ちが良いだろう。
丘の斜面を上っていくと、麓で眺めていたときよりも頂上の木がずっと大きく感じる。まるで巨木だ。奇妙な違和感に首を傾げた。あれほど痩せ細った木なのに、近づくほどに成長している錯覚に囚われる。
なだらかな丘の上を乾いた風が吹き抜ける。足元で草葉が揺れ、少女は足を止めた。村から見上げたよりも遥かに木は巨大だった。限界まで目線を上げて、ようやく先端に届くほどだ。
あの何かが欠けていく音は、まさに今この場で聞こえている。その音の正体を彼女は目の当たりにした。木が高くなっている。
いや、違う。これは木などではない。亀裂だ。
木の形をした黒い裂け目が梢を広げて、どんどん空を削っていく。あれは亀裂が広がっていく音だったのだ。
大きくなっていく裂け目の向こうから、無数の得体の知れない気配を感じた。出てきてはならない何かが、此方側に来ようとしている。
ああ、空が罅割れる。
とうとう毬を落とした少女の視界は、黒い裂け目に埋め尽くされた。