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二百年史

渡辺時代における漫画文化観、および刀晴大の生涯について

作者: 鱈井 元衡

賀来かく丈介じょうすけ編「哲人たちをしのんで」より抜粋


 近年、かつては忘れ去られ、打ち捨てられた古い文化へのルネサンスが起きようとしている。長い抑圧の元で息をひそめていた情熱が爆発し、若い世代が勃興しようとしている。どの大学でも20世紀以降の漫画やアニメを学ぶ学科が創設され、それを愛好することがすなわち愛国心につながるという理念が生まれてきている。

 民主共和国始まって以来の変革であろう。もはや渡辺時代は過去のものとなり、ようやくその社会や文化のしがらみから解き放たれた新しい秩序が確立されつつある。


 アニメ・漫画の発祥地となったのは日本だったが、それがいち早く衰退した国でもあった。

 その長い発展が可能だったのは、何より平和な社会だったから――というのが何よりも大きい。多様な価値観を許容していたからこそ、発展しえたのだ。だが一旦平和が崩壊してしまえば、一人一人が様々に生きることなど許されなかった。

 内戦により、強い者しか生き残ることができなかった地獄の中では、もはや日々の楽しみに浸ることなどできなかった。そして起きた価値観の激変を、アニメや漫画も否応なく受けたのだ。

 だがそれは、戦争以前からずっと進展し続けて来た社会の変化の末に起きたことであるのを忘れるべきではない。

 日本アニメ・漫画プロパガンダ研究会の発表によれば、アニメや漫画の柔らかい絵には、相手に快感を与え、密かに持っている、何かに誘導しようとする意図を隠そうとする機能があるという。渡辺時代にポスターやラジオなどさまざまな媒体で用いられたこの手法は、すでに特殊鉄鋼の情報戦にその淵源を見出すことができる。

 特殊鉄鋼は自社の宣伝のために、アニメ風のマスコットキャラを起用した。動物を擬人化したようなキャラを用いることで、公的イメージを揚げて人々の警戒心を解こうとした。

 特殊鉄鋼が日本の国防を堅固にするという名目で民間軍事会社に社会のあらゆる部分に手を出し、いよいよ日用品の生産といった分野にまで進出した時、アニメ・漫画の制作も深い影響を受けずにはいられなかった。

 日本国外でも、――『かえるのペペ』の事例が代表的であるが――すでにアニメ風の絵を政治的な目的に転用することはごく自然に行われていた。2020年代に入ると、政治家がアニメ風の絵を活用するのみならず、ネット上のアバターとしてアニメ風の美少女を活用する事例も増えて行った。

 アニメ・漫画文化かつては政治的な物と距離を取っていたのが、いつの間にか政治と密接にかかわる物となっていたのである。であればこそ、体制から支援を受けている場合は手厚い保護を受けているが、一旦その保護を外れると厳しい規制を受けることとなった。


 当時の一般的な人々と違い、『神君』渡辺哲雄はあまり漫画やアニメに興味がない人間だったという。

 自衛官や将軍時代の彼の私生活を知る者の証言によれば、哲雄はむしろ実写媒体に関心の強かったそうだ。時代劇や大河ドラマを好んで見たそうである。だが近臣と話し合う時は、それよりは野球やサッカーの実況を話題にすることが多かった。(1)

 哲雄が概して創作物に対して無関心であったのに対し、歴代将軍はアニメ漫画に関心を向けた。

 渡辺王朝にあっては体制に反するような作品の閲覧と制作は厳しく禁じられていたので、基本的に体制に肯定的なものしか存在を許されなかった。アニメや漫画風の絵が単なる流行などを越えて、様式となったことは、渡辺時代に発行されたポスターや雑誌の挿絵にその影響がみられることからも分かる。しかしアニメを制作する自由も、アニメ制作の技術も、哲雄が死んだ頃の日本にはもう消え失せてしまっていた。それ以後に出現したアニメは作画からいっても、そのテーマ性にしても、到底かつての水準に達するものではない(2)。昭和から令和初期に至るアニメ・漫画の奇形的発達は、それを陳腐な娯楽に落とし込もうとする社会の中で仇花となりつつあった。

 漫画的な絵そのものは一種の様式として定着していたから廃れることはなかったが、渡辺家の支配を肯定する物に限り、街中で大々的に公開されることがあった。哲雄が征夷大将軍に即位する前、彼を美少女にした絵が、平成時代に一世を風靡した漫画家により描かれ、丸の内ビルの壁に掲げられたという出来事が伝わっている。これは価値観が変化していくのを生身で体験できた、狭間の時代だからありえた出来事だろう。だがこういった事例も、社会が安定し、価値観が保守的になるにつれて絶えて行った(3)。


 渡辺時代以後アニメと漫画の中心地は高連こうれんや台湾に移るが、日本での伝統は絶えてしまったのである。

 二世紀に渡る文化遺産への軽視は、膨大な蓄積を絶やしてしまった。21世紀のライトノベルの中で名前が知られている現代まで残っているものは三割にも満たない。ボーカロイド曲は音譜が現存していても実際の音楽を再現することは難しいし(4)、電子書籍でしか発表されていなかった作品など、もはや存在した証拠すら残っていない。もっともこれは日本に限った問題ではなく、海底ケーブルの消失、動画サイトYoutubeやミニブログTwitterのサービス終了に代表される、21世紀の広範囲な情報交換を可能にしたインターネット技術の衰微によって人類の文化的営為が大きな打撃を受けたことが最も大きいわけだが。このせいで我々はワープロや腕木通信など、インターネット以前の機械に今でも頼っているありさまだ。何より痛ましいのはインターネットの一時的ではあれ隆盛を極めたことで紙の媒体が衰退し、結果当時の歴史記録が前後世紀より稀少になっていることであろう。

 昭平時代のヒット作漫画にしても、全ての巻数がそろっているものはたかがしれているし、かりにそろっていたとしても日本語の原書が見つからず、翻訳でしか伝わっていないものもある。つい昨年、日本では散逸して久しい手塚治虫のある作品がパリの図書館から大量に発見され、復刻計画が進行している最中だが、まだ未発掘の単行本が地下深くに眠っているとのことである。


 渡辺時代にあっては紙媒体だけが抑圧を受けたのではなかった。

 映画やドラマにおいても極めて厳格なコードが存在し、不必要に暴力的であったり性的であったりする内容は規制され、登場人物の性格付けや振る舞いに至るまで厳しく検閲の対象となったのである。

 そのような不自由の中にあっても何とか表現を磨き上げ、絶無の評価を受けた作品は渡辺時代にも無論存在するが、それらを制作した人々はみな、表現の自由のある国で活動することを望んでいたであろう。

 そもそもアニメや漫画の創立に関わった者たちが、基本的に全体主義や独裁などを嫌悪する左派的な思想の持主であるという事実が、体制にとっては不都合だった。

 平成や令和初期においては、アニメや漫画こそが日本の誇るべき文化であるとするナショナリズム的言説もささやかれたが、哲幸以降の体制にとっては、むしろそれらは国民を堕落させ、あるいは危険思想に誘導する悪しき産物として憎悪されたのである。

 戦争によって荒廃し、そこから立ち直るために社会は古めかしい男性らしさを尊ぶ気風を復活させてしまった。同性愛への対応や男女観も平成時代からだいぶ後退し、身体の力強さを男も女も持って当然であるとするような気風が一般的だった。

 神君の御心にかなうためと称して、『不道徳』な書籍の焚書とDVDの破壊を行う民間団体すら存在した。

 そのように文化の暗黒時代真っ只中で生を受けたのが、この失われた文化のルネサンスを引き起こそうとしたかたな晴大はるひろ(2121-2183)だった。


 刀晴大はその苗字から分かるように、渡辺時代に隆盛した刀家の血筋を引いている。

 刀家の始祖は大越帝国の皇子、りゅうしん(2040-2092)である。大越帝国は2040年代に広東省一帯で独立運動が巻き起こったことにより成立した国だったが、中国やベトナムなど周辺勢力におされ、常に劣勢であった。滅亡寸前の2070年、彼は皇族と共に故国を逃れて日本に亡命した。劉禛は、反体制的な思想を内面化し、常に不撓不屈の意志を持っていた親に比べると、覇気に欠けた不肖の息子だったという。

 大越帝国の事情を事前に聞かされていた哲雄から歓待を受けた劉禛は『かたなまこと』という和名を与えられ、京都府丹波地方に所領を授けられた。そして、死ぬまで一切政治に接点を持つたず、日本語を学ぼうともせず、怠惰な生活を送ったのである。真自身は何もなさなかった人間ではあったが、彼の息子たちは渡辺家の歴代将軍に仕え、高名な政治家や軍人を輩出した。

 民主共和国成立まで、刀一族は渡辺家、佐藤家と並んで国家の大姓たいせいだったが、その出自ゆえ移民系の血筋を嫌う国粋主義者からは邪険に見られた。特に大陸との関係が悪化してからは渡辺家の中でも刀家への蔑視を隠さない者が現れた。

 晴大が生まれたのはまさに、刀の家運が傾き始めた頃のことだった。

 刀晴大はるひろは三男として生まれた。真の頃の暮らしぶりとは比較するまでもなく、落ちぶれていた。

 晴大は生真面目で、一人遊びが好きな性分のために孤立しがちで、学校にはなじめなかった。

 不幸なことに、彼の家族は社会常識や道徳といったものに非常に厳格だった。また、母は愛国心の旺盛な人物であり、刀家が呪われた出自であり、そのために一層民族に尽くさなければならないと言い聞かせた。

 晴大少年はそう言ったものに反感を覚えた。だが渡辺時代にあっては社会全体が極めて保守的であり、少しでも規範に違反するような行為をとれば村八分にされる、不自由な環境にいたのである。

 その代わり彼は、文化資本の方には大いに恵まれていた。叔父刀刻虎ときとらは治安統括局の職員であり、国家を脅かすものではないかどうかを調べるため常に膨大な量の出版物に目を通していた。その出版物の一部は彼の自宅に積まれており、晴大は叔父を通して膨大な漫画の単行本や雑誌に目を通すことができた。晴大はそこからかつて存在した遺物への興味を引かれたのである。

 当時の漫画は、どれも日本国家の理念を称えるものばかりで、多様性に欠けていた。映画監督の名前も、業績は伝わっていてもどのような思想信条の持ち主であったかの情報には制限があった。

 晴大は最初画家を志しており、大学で芸術を学んだ。当時の日本ではあくまで『絵の技術』としてごく限られていたから、なかなか近世の漫画家の実像や思想について勉強することは難しい状況にあった。そのため彼は国外に出てきちんとした資料を集めなければならないと確信した。いつしか彼は絵を描くこと以上に絵画をとりまく歴史や思想を研究することへの使命に目覚め、国費で各国に留学生を送り出す計画へ申し込み、苦学の末選抜試験に合格して参加した。

 各国を旅行して、祖国では散逸した単行本の蒐集に尽力した。高麗こうらい連邦れんぽうでは、大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国時代著された多くの出版物が保護されていることに非常に衝撃を覚えた。また、日本ではとうの昔に散逸してしまった雑誌すら、高連では高い評価を受けていることも彼を驚かせた。またイギリスの古本屋では20世紀のパルプ雑誌を読みあさり、それが日本のサブカルチャーにどのような影響を与えたかについて推論を巡らせた。

 帰国した後、彼は図書館を建設する計画を立てた。渡辺日本の男性的社会に対して晴大は反旗を翻そうとした。平成時代が「平和」「繁栄」の時代であることに、「表現の自由」がきちんと施行されていたことに晴大は理想社会を見た。

 しかし彼の悲願は実現しなかった。

 かつて平成から令和初期にかけて京都漫画ミュージアムが存在していた土地を買い取り、いよいよ建設工事が始まろうとしていたところで晴大は突然逮捕された。彼は哲雄の国旨を否定する思想を流布し、国家転覆を企てている、と噂されたのである。途方に暮れた顔で留置所を訪れた叔父と、甥は激しく論争を行った。父は、息子があまりに革新的な思想の持主で、いつしか反国家行為に手を染めるのではないかと恐れていたのである。

 晴大は何とか釈放されたが、家族からの不信の目が解けることはなかった。計画は結局実現できずに終わり、彼は外出も許されず、自宅に軟禁された。それ以後晴大はほとんど無気力となった。

 晴大は失意の内に亡くなった。当局は彼が本当に成し遂げようとしていた理想を消し去った。刀晴大の名前もほとんど忘れ去られていたのである。渡辺匠による表現規制の緩和が始まるまで、彼は単なる郷土史家としてしか知られていなかった。彼の功績がようやく知られるようになったのは、民主共和国成立から数年後、廃止された治安局から民間に払い下げられた史料をあさっていた有志が膨大な量の彼の論考を目に留めた瞬間だった。そして彼の功績を評価を公的に認めるよう求める運動が起きたのである。

 多くの市民の嘆願により、彼は文化の保護者として表彰され、今では京都漫画ミュージアムの跡地に銅像が建てられている。

 だが刀一族そのものは時代のうねりを乗り越えることができず、断絶してしまった。刀家の面々は政争に明け暮れる中で誰もが没落していき、真の直系の子孫は譲平に近侍として仕えた刀源一郎げんいちろうで断絶した。晴大には三人の息子がいたが、二人は病気で亡くなり、一人は交通事故で亡くなっている。

 哲幸の時代にはアニメや漫画への関心が復活しており、海外に行って日本では散逸してしまった書物を探し求めた人物が多数存在したので、晴大が特異的にそのような活動を始めたのではなく、あくまで流れの上で現れた存在というべきなのだろう。晴大がもう少し長く生きていたら渡辺匠による表現規制の緩和に巡り合うことができたろうが、冷酷な運命の女神がそれを許さなかった。そして晴大の死後も、アニメと漫画はもう少しだけ冬の時代に再び閉ざされることとなるのである。


(1)鈴谷すずや日清にっしん「神君の実像――近侍らの証言」(三絶さんぜつ社、2232年)。

(2)渡辺時代を通してアニメや漫画は制作され続けた、文化事業として保護を受けたなどの反論はあるが、内戦後昭平時代に隆盛を極めた多くの雑誌が廃刊したことや、全体的な市場規模が縮小したことなどからこの芸術の市場に不可逆的な打撃があったことは否定しようがない。また政府による保護基準も恣意的なものであり、決して客観的なものでなかったことは、島村しまむらべん「令和アニメ資料集成」(実業社)に詳しい。

(3)平成時代に一世を風靡したFateシリーズや艦隊これくしょんなどを始めとする擬人化コンテンツは内戦後もかろうじて存続しており、渡辺時代の日本海軍の艦艇を美少女化したイラストはしばしば好まれて描かれた他、2137年には電撃文庫で哲雄やその側近を美少女化したライトノベル「それいけ! 僕らの渡辺☆哲子てつこ)」が出版された。しかし、神君を冒涜する内容であるという理由ですぐさま治安統括局に発禁処分にされ、現存しない。

(4)昭和以降の音楽には、ボカロを問わず、CDの老朽化やインターネットの途絶によって、元々のメロディがどのようなものであったか分からないものが多い。哲幸の時代には、ボーカロイド曲の歌詞を哲雄礼賛の内容にした替え歌が多数制作された。渡辺時代の神君賛歌や軍歌にも、元々が平成時代のボカロ曲やJ-POPに起源を発するものが多いことが知られている。

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