8 作家と担当
セシアの昔話を聞いたエマとアイラ。それが終わる頃には馬車はノーブルガーデンを出ており、馬車を引くエクセリオンホースは窮屈さから解放されたことを喜ぶように一声鳴くと、速度を上げてベルクローデンへ向けて駆け出した。
車内では、アイラがあっという間に流れていく景色を眺めては感嘆の声を上げ、エマはそんなアイラを微笑ましく思いながら、原稿に追われていた。
「というかマルさん、これぼくがこっちに来る前に書いてたやつじゃないですか! 主人公もそのまんまだし、これが出版されてるんですか!?」
エマに任されたのは現在大ヒット中だという小説の原稿。その主人公は男装の令嬢剣士であり、現実世界で晴真が出していたライトノベルの主人公と同一人物だった。つまりエマである。
「あうう……だって出版時にはエマ先生いなかったし、いいかなと……」
「自分が主人公の小説を書かされるとかどんな罰ゲームですか!? ああもう、これからぼく、どんな顔して街を歩けばいいんだ……コスプレとか思われたらどうしよう……」
決して意図したものではないが、先日の首都観光ではそれなりに目立ってしまった自覚がある。そう考えると道行く人々の視線がすべてなにか裏を含んだもののように思えてきて、エマは激しく悶える。
「えっ、エマ様本になってるんですか!? わたしも読みたいです!」
「やめてー!」
話を聞いたアイラの言葉が止めとなり、エマはいっそ殺せとばかりに悲痛な叫びを上げるのだった。
それから数時間後、頼まれた分の原稿を片付けたエマはぐったりとした様子で座席に背中を預け、大きな溜め息をつく。
「終わった……いろんな意味で終わった……」
泣き笑いのような表情で怪しい笑いを漏らすエマ。馬車に揺られて眠りに誘われたアイラに毛布をかけてやっていたマルグリットは、流石に悪いことをしたかなと思いながら躊躇いがちに声をかける。
「ええっと、その、宿に着いたらおいしいものいっぱい奢るから、元気出して、ね……?」
「気にしない……ええ、気にしませんとも。だから大丈夫です。エマ大丈夫」
どう考えても大丈夫そうには見えないが、触らぬ神に祟りなしとばかりにマルグリットは口を噤む。それからさらに数時間が経過し、日が沈みかけたところで一行は近くの村に立ち寄った。
「ふわああ……いつの間にか寝ちゃってました。マルグリットさん、毛布ありがとうございました」
「気にしないで、風邪引かれるわけにはいかないもの。お腹いっぱい食べてお風呂に入って、ちゃんとしたベッドでたっぷり眠って疲れを取りましょう」
「ぼくも全部洗い流しちゃいたい気分……先にお風呂入ろう」
宿でチェックインを済ませた三人は、夕食の前に風呂へと向かう。そこでエマは「ただいまの時間は女性専用です」と書かれた看板を前に、当たり前の事実に直面して愕然としていた。
「そういえばエマ先生。今更ですが、今までお風呂はどうしてきたの?」
マルグリットもそこでようやく気付き、疑問を投げかける。
「……初日は宿でアイラと二人で入ることになって耐えきれず卒倒。思い返せばそれ以降はお城の侍女達の居住区画でベアトリクスと二人で入ってたので、正直全然意識してませんでした……」
本来のエマであれば初日の出来事からアイラと一緒に風呂に行くことになった時点で気付いてもおかしくなかったはずだが、自身の手で自身の活躍を描いた小説を執筆するという、ある意味拷問のような行為によって精神をすり減らしていたせいで、気がつかなかったのだ。
「あちゃー……でも、仕方ないわね。エマ先生は男湯に行きたいかもしれないけど、その姿でいる以上どう考えてもアウトだし。私は気にしないから行きましょう?」
「何も知らないアイラや他の女性達に対する罪悪感が凄いんですよ……でも日本人としてお風呂には入りたいし、どうすれば……」
迷うエマだったが、先に入ったアイラの「あれ、エマ様? マルグリットさん? 来ないんですかー?」という声に覚悟を決めると、脱衣所へと足を踏み入れた。
脱衣所では予想通り、老若様々な女性の裸体がそこかしこに広がっており、エマは決してそれらを直視しないよう虚空に視線を固定すると服を脱ぎ、風呂場に赴く。
「エマ様、マルグリットさん、こっちです。一緒に入りましょう」
手を上げるアイラをぼやけた視界に捉え、エマは軽く体を流してからその横に腰を降ろす。
熱めのお湯がじんわりと体を温め、疲れが抜けていく感覚にエマは溜め息を漏らす。
「ふいー、いいお湯ねー」
眼鏡を外したマルグリットがエマの横でちゃぽんという音とともにお湯に浸かる。視界に占める肌色率が高まり、エマは条件反射的に目を逸らした。
「あら、エマ先生ったら照れてるのかしら?」
「そうなんですか? エマ様も女の人なのに、恥ずかしがり屋さんなんですね」
何も言い返せずただ顔を赤くするエマは女性の目から見ても可愛らしく、一部の女性客が熱っぽい視線を向ける。
「な、なんか頭がぼーっとしてきちゃったな! ぼくはもう上がるから二人はゆっくり温まってね!」
複数の視線を感じ、いたたまれなくなったエマは早口で捲し立てると湯船から上がり、手早く髪を洗い始める。
しかしちょうど髪を洗い終えたところで背後に人の気配を感じ、エマは体を強張らせた。
「エマ先生、今日はお疲れ様」
エマの背後に立ったのはマルグリット。彼女は手早く石鹸を泡立てると、緊張で動けないエマの背中をスポンジで優しく洗い始める。
「ま、マルさん……!?」
「そう緊張しないで。私と先生の仲じゃない」
確かに彼女とは仕事だけでなくプライベートでも付き合いがあったが、仲とは言っても一緒に『ファンタジーステラ・オンライン』で遊んだり、たまに食事を一緒にしたりといった程度で、決して男女の仲とかそういうのではなかったはずだ。
「些細な縁かもしれないけれど、こんな世界だもの。家族や友達から切り離された人には、ゲーム仲間がいるというだけでも心強いの」
家族や友人。この世界に来てまだまだ日は浅いが、エマとてそれを考えなかったわけではない。
作家になるという夢には現実的でないとして難色を示したものの、それでも見守ってくれた両親。
学生時代からの長い付き合いであり、夢についても背中を押してくれた数人の友人達。彼らにはまだろくに感謝も伝えていないが、その機会は失われてしまった。
正直、そのことに対する後悔はある。また会いたいという気持ちもある。しかし、もし元の世界に帰る代わりにこの世界に戻れなくなるとしたら、自分は後者を選ぶだろう。自分の中にあるなにかとてつもなく大きなもの、あるいは自分の根源とも言うべきものが叫ぶのだ。まだこの世界を遊び尽くしていないと。
サラリーマンとして、夢も目標もなくただ無為に生きるだけだった日々は、『ファンタジーステラ・オンライン』に出会って変わった。自分のどこにこれほど巨大な、狂おしいほど身を焦がすような衝動が眠っていたのかはわからない。しかし、あの時自分は確かにもう一度生まれ直したのだ。確固たる意志を宿した存在に。
「……マルさんは、元の世界に戻りたいですか?」
「どうかしら。現実世界に置いてきた人たちにはまた会いたいと思うけど、向こうでの私はあまりいい人生を送ってきたとは言えないから。そういう意味では、セシアと一緒に歩んできた日々の方がよっぽど充実していたわ」
「じゃあ、とりあえずそれはそういう選択肢が出てきた時に改めて考えるということで。それまでは、後のことなんてあれこれ考えずに楽しみましょうよ。二人して『ファンタジーステラ・オンライン』に熱中してた、あの頃みたいに」
「ふふ、そうね。難しいことはその時になったら考えればいいものね。今は、現実になったこの世界を楽しみましょうか」
くすりと笑ったマルグリットは、備え付けの桶にお湯を貯めてから、エマの背中をざばりと洗い流す。
「エマ先生、いえ、エマさんはセシアと似てるわね。ううん、みんな性格は違うけれど、ベアトリクスさんやレオンさんも、きっと根っこの考え方は同じなんだわ。自分の欲望に正直というか、自分に嘘がつけないって感じ」
「それ、褒めてます?」
「もちろんよ。さあ、体も綺麗になったし、湯冷めしないうちに上がっちゃいなさい」
「……なんかマルさん、ぼくのこと子供扱いしてません?」
「そんなことないわ。年の離れた妹みたいだとは思ってるけど。アイラさんも一緒にね」
むすりとするエマに、マルグリットはいたずらっぽい笑みを浮かべて舌を出す。
作家と担当。姿は変われど、そこにはゲーム時代と変わらぬ確かな絆があった。
翌日の朝、エマは窓から差し込む光に目を覚ましてベッドから体を起こすと、先に起きていたアイラと一緒に軽くストレッチを行い、その後でぐっすり眠るマルグリットを起こして三人で食堂に向かい、朝食を摂った。
娯楽都市ベルクローデンには予定通り行けば今日の昼頃に到着する。いよいよ憧れのセシアに会えるとあって、アイラのテンションは朝から最高潮である。そしてマルグリットが昨日も馬車を引いてもらったエクセリオンホースを呼び出し、車内でベルクローデンの簡単な都市構造や娯楽都市と呼ばれる理由、その歴史等について簡潔な説明を受けていた時、アイラが歓声を上げた。
「あっ、時計塔が見えましたよ!」
つられてエマが窓の外に目をやると、遠くに巨大な時計塔のシルエットが見えた。周囲には高い外壁が時計塔を囲うようにそびえている。
「へえ、あれが娯楽都市ベルクローデンか。で、あの時計塔にセシアが住んでるんだね?」
「そうよ。きっとまだ原稿が仕上がってないはずだから、エマ先生に手伝ってもらった分を早く持っていかないと」
話している内に正門らしきものが見えてきた。三人を乗せた馬車は華麗にそこをスルーすると、少し離れたところにあった関係者専用と書かれた場所に停車した。
「長旅お疲れ様。ゆっくり休んでちょうだい」
マルグリットは三人をここまで運んでくれたエクセリオンホースを労ってから送還すると、アイテムボックスを開き一枚のカードキーを取り出す。
「ここはこのカードキーとその所有者のマナを照合して、一致する場合にだけ先に通す仕組みになってるの。時計塔にはあそこの一般通行口からも行けるけど、いつも商人や観光客で混んでるからこっちを使った方がずっと早いの」
そう二人に説明しながらマルグリットが壁に近づくと、その一部が開いて入り口が現れた。
「ちょっと待っててね。このままだと二人が入れないから、向こうでちょっと色々操作してくるわ」
そしてマルグリットは通路を通って壁の内側へと消えていき、同時に入り口も消えてしまう。エマとアイラがしばらく待っていると、同じように壁の一部が二人を迎え入れるように口を開けた。
「いよいよだね。行こうか、アイラ」
「はい!」
二人は顔を見合わせると、壁の内側に向かって歩き出す。
晴真の三番目の持ちキャラ、セシア・トライドリーマー。彼女との対面の時が近づいていた。