プロローグ
VR技術が一般社会にも広く普及してから長い月日が流れた。
政治・医療・教育など分野を問わず多岐に渡って発展したVR技術は一般家庭にも広く浸透し、今では学校は仮想空間の校舎に通うのが当たり前となり、会社も仮想空間内のオフィスへ自宅から通勤するのが一般的で、実物のオフィスを所有するのは一部の大企業のみとなった。
VRの波は娯楽分野にも多大な影響を及ぼし、ゲーム市場には数多くのVRゲームで溢れることとなる。
『ファンタジーステラ・オンライン』というゲームがある。ジャンルはMMORPGのVR版、俗にVRMMOと呼ばれるもので、サービス開始から三年経った現在でもユーザーを増やし続ける人気作だ。
十塚 晴真もこのゲームに魅せられたコアなユーザーの一人だった。
彼がまだ会社員として企業に勤めていた頃は特にやりたいことも人生の目標もなく、ただ流されるまま日々を送っていた。
特に不満はないもののどこか消化不良のような虚しさを抱えたままだらだらと過ごすだけの日々。
そんな晴真はある日このゲームと出会い、そこから彼の人生は一変する。
ネットでオープンベータ開始の公告を見かけ、興味本位でVRデバイスを装着してログインしてみると、彼を出迎えたのはどこまでも未知が広がり、冒険に満ちたファンタジーな世界だった。
『ファンタジーステラ・オンライン』はゲームとしては異例の要素が数多く詰め込まれた、極めて斬新な作品としても知られている。
なかでも大きな特徴として、「あらすじや世界観、プレイヤーに関する説明が一切ない」ことと、「ゲーム操作について、チュートリアルすら存在せず右も左もわからない状態でいきなり世界に放り出される」という二点があった。
いくらなんでも不親切すぎやしないかという声も確かにあったが、それ以上に「白紙の世界を自分自身で切り拓いていく」という自由度の高さと、それを後押しする他のゲームの追随を許さないほどの圧倒的なリアルさにより肯定的な意見の方が多く、晴真もそうした肯定派のユーザーに含まれていた。
中世的な街並みに息づく人々の営み、そして見知らぬ土地を闊歩する数多の魔物たち。すべてがゲームであることを忘れてしまいそうなほどの圧倒的なリアルさでもって晴真の視覚に訴えかけてきた。
かつてないほどに好奇心と冒険心をかき立てられた晴真は、すぐさまこのゲームに熱中した。そしてその時、晴真の中で何かが変わった。
来る日も来る日も、自由時間はほぼすべてゲーム空間に入り浸った。人生で初めて一つのゲーム、一つの物事に熱狂と呼んで差し支えないほどの情熱を注いだ。
そのうち会社で働く時間すら惜しむようになり、ある決意とともに会社を辞めた晴真は、心配する家族を頭を下げて説得し無職となる。そして、稼いだ貯金を切り崩しながらゲーム漬けの一人暮らし生活を開始した。
ゲームを始めてからしばらくして、晴真は自身の経験や他のプレイヤー達との情報交換により重大な発見をする。
このゲームは他に類を見ないほどにプレイヤー自身の技術、つまりプレイヤースキルに左右されていたのだ。
剣士ならば剣道経験者の方が、武闘家ならば格闘技経験者の操作するキャラクターの方が、そうでない者と比べて明らかに戦闘能力に差があったのだ。それに気付いた晴真の日常生活は段々と変化していった。
朝早く起きて朝食を済ませ、それからランニングと筋トレの後に家事を片付けてから昼食、その後は夕食の前後に『ファンタジーステラ・オンライン』をプレイし風呂に入って寝る。
昼夜問わず没頭していた当初に比べプレイ時間こそ短くなったものの、規則正しい生活のおかげで体調を崩すこともなく、常に気力は充実し体力もついた。
別に健康的な生活をせねばという意識があったからではない。そういう生活習慣を送ることが最適であると判断しただけだ。
他のプレイヤー達との交流も積極的に行った。晴真は社交的ではなく、むしろ内向的で流されやすく主体性に欠けるところがあったが、そのぶん好きなものにはとことん妥協しない性格だった。
情報を惜しみなく共有し、積極的にパーティーを組んでダンジョンを攻略。経験と財宝を得て強さを増しながらさらに上を目指す。そうして走り続け――いつしか晴真はトッププレイヤーの一人として名を連ねていた。
しかしそれでも晴真は満足しなかった。術士から始めて、何もわからない状態から数々の魔法を発見、時には開発し、気づけば魔法の第一人者などと呼ばれるまでになっていたが、なんとそこから戦士の新しいキャラクターを作って再出発したのだ。
これには誰もが驚いた。『ファンタジーステラ・オンライン』はアカウントを複数用意せずとも複数のキャラクターを保持することが可能だったが、ごく一部のアイテムやステータス以外は引き継ぎ不可であったため、サブキャラとして違う構成で遊びたいという目的で利用する者がほとんどだったのだ。
なので本格的に複数のキャラを掛け持ちしてプレイする晴真は変わり者としても知られていたのだが、それは決して悪い意味ではなかった。そこには心の底からこのゲームを楽しむ彼に対する周囲からの称賛や尊敬の念が込められていたのだ。
遊んでも遊んでも遊び尽くせない広大な世界。終わらない冒険。日々積み重ねられていく己の力。
すべてが晴真を魅了し、そして、数々の刺激は晴真自身でも気づいていなかった才能を呼び覚ました。
彼がゲームの傍ら趣味で書いていた小説がとある出版社の目に留まり、書籍化されることになったのだ。
主人公は地方貴族の令嬢。幼い頃から外の世界で冒険することを夢見ていた彼女はやがて村を飛び出し、仲間とともに冒険を繰り広げる。
冒険に心を躍らせる主人公と個性的な仲間たちが大いに受け、ライトノベルとして出版されたこの作品はそれなりの人気を獲得し、無職となってからおよそ一年で晴真は再び職を得た。
周囲に流されるまま決めた前職と違い、今度は自分の意思だ。やる気も当然雲泥の差で、ますます晴真の生活は充実していった。
その日、晴真は仮想空間内で新たなキャラクターを作成していた。
実にこれで九人目となるアバターの性別は女性。別に晴真にそういう趣味があるわけではない。
いや多少はそういう趣味もあるが、最初のキャラクターが「どうせなら自分とは全く違う人物で遊んでみたい」という思いから女性であったため、その後のキャラクター作成はなんとなく男女交互にやっていたのだ。
モデルは自身が執筆するライトノベルの主人公。名前もそのままエマと入力し、容姿も膨大なパーツから選び抜いて限りなく近づけた。
最後に仕上がりを確認した晴真は満足そうに頷く。同時に彼の頭をある考えがよぎった。
(このゲームに巡り会ってからもう三年……、ぼくの生活はあの頃からずいぶん変わったし、ぼく自身も人間としてずいぶん成長したと思う。ほんとこのゲームに出会えたのは幸運だったな……)
キャラクター作成画面に映るエマの姿を眺めながら、晴真はこれまでの人生を振り返る。
しばし考え込んだ後、晴真は再度キャラクターのエディットウィンドウを呼び出してそこに名前を付け加えた。そしてそこまでのエディットを一時保存してキャラクター選択画面に戻り、残り八人のアバター達にも名前を付け加える。
(はは、さすがにちょっと痛いかな……。でもせっかく考えたんだし、みんなに笑われてから戻すことにしようかな――)
晴真が悩んでいると、ピコンという電子音がしてメールが届いた。差出人を確認すると、そこには『ファンタジーステラ・オンライン運営チーム』と記載されていた。
(運営から? 特定のプレイヤーに対して運営がコンタクトをとったなんて話は聞いたことがないけど)
『ファンタジーステラ・オンライン』の運営には謎が多かった。
人気ゲームながらプレイヤーへのコンタクトはほぼなく、過去に数回のアップデート通知が届いたのみ。ゲームのホームページはあったが会社のホームページは存在せず、製作者に関する情報は皆無だった。
それがこうして自分にメールを送ってくるなんて、いったい何の用だろう。ホームページに載っている注意事項に抵触した覚えはないし、心当たりは何もない。
メールの件名は『招待状』。本文はなく空白で、件名と同じく【招待状】という謎のアイテムが添付されているだけだった。
(招待状? 何かのイベントの案内かな? とりあえず開封してみよう――)
何はともあれまずは中を確認してみようとアイテムを選択する。そして――晴真の意識は闇に包まれた。
――――…………。
頬に風を感じる。鳥の囀りが聞こえる。暖かな陽気を、そして甘い花の香りを感じる。
目を開けると、晴真は花畑に寝転がっていた。軽く伸びをしながら体を起こす。
意識が途切れる前の最後の記憶を思い出し、ああ寝落ちしちゃったのか、などと考えた晴真はそこで首を傾げた。
寝落ち、つまりゲーム中に意識を失った場合はゲームによって主に二つの対処がある。
一つはそのままアバターが何もせず棒立ちを続け、もう一つは一定時間操作がなかった場合に自動でゲームが終了する。VRゲームは頭に付けたVR装置がプレイヤーの意識を検知できなくなった時点で強制シャットダウンするものがほとんどである。
それは『ファンタジーステラ・オンライン』も例外ではなく、なので本来であればまだ仮想空間にいるはずはないのだが、ではこれはどうしたことだろうか。
疑問はもう一つある。それは、嗅覚と触覚の存在である。これに味覚を加えた三つの感覚をVRで再現するのは困難であるとは昔から言われていたのだ。
最近になって触覚が、どうにか手足に専用の装置を装着することで再現されてきてはいる。しかしまだまだ実用にはほど遠い技術だったはずだ。
だが今は目を閉じればはっきりと日差しの暖かさを感じることができるし、そよ風とそれに乗って鼻腔をくすぐる花の香りを感じることもできる。
「うーん、いったいどういうことだろう……?」
思わず口をついて出た言葉。同時に晴真ははっとして喉をおさえた。
――声が出る。それはいい。『ファンタジーステラ・オンライン』はVR装置に専用のマイクを接続することでプレイヤーの声をあらかじめ設定したキャラクターの声に変えて話すことができるからだ。
問題はただ一つ。多少中性的ではあったが、その声が若い女性のものだったことだ。
慌てて立ち上がり、自身の体を見下ろす。すらりとした手足、上はコルセットの上から外套を羽織り、下はキツめのズボンと体のラインがはっきりと浮き出る服装をしている。そして何より――若干窮屈に感じる胸元と股間の消失感。
以上の事から導き出される答えは三つ。
一つ。これはただの夢。とはいえここまでリアルな夢など見たことはないし、意識もはっきりしているので可能性としては低いと思われる。
一つ。大型アップデートが入った。これも可能性としては低いだろう。なぜならこのゲームに限った話ではないが、アップデートのためのメンテナンス中はログイン不可が基本。メンテナンス前になるとログイン中のプレイヤーは強制的にログアウトさせられるのが普通だからだ。
そして最後。そこで晴真は自身の左手の人差し指に白い手袋の上から嵌まる、虹色の宝石が埋め込まれた指輪型の端末に触れた。空中に見慣れたメニュー画面が浮かび上がる。
よくあるゲームのメニュー画面。しかしそこに本来ならあったはずのログアウト項目はない。そのことに戦慄しつつ、アイテムボックスを選択してそこから手鏡を取り出し自分の顔を確認する。
予想は的中。そして晴真は、そもそもこんなことを可能姓として考える時点で自分も相当のマンガ脳だなと苦笑しつつ、ある仮説を打ち立てる。
――この世界は『ファンタジーステラ・オンライン』かそれに似た世界が現実になったもので、自分はそこに自身の作品のキャラクターである「エマ」としてやってきてしまった。
鏡に映っていたのは金髪でショートヘアの美少女。ぱっちりした碧眼に凜々しくもあどけなさの残る顔立ちは、間違いなく意識を失う直前に作成していたキャラクターのものだったのだ。
色々と慌ただしい時期を乗り越え、ようやくまとまった時間がとれたので前々から構想のあった新作を。
いろんな作品から刺激と着想を得て、ずっと書いてみたいと思ってたんですよね、VRMMOもの。