エピローグ 彼氏彼女
「それは――」
「透くんは知香さんを助けられなかったら、きっと後悔する。昔と同じ」
そう。それはそのとおりだ。このまま知香を見捨てて、愛乃との婚約を継続するのは簡単だ。
何もアクションを起こさなければ、いまのところ透には愛乃との平穏な同棲生活が約束されている。
愛乃もそれを望んでいると思った。知香がいなくなれば、本当に二人きりだから愛乃はきっとその方が良いのだと思っていた。
しかし。
「後悔して、自分を責めて、傷ついている透くんをわたしは見たくない。楽しそうに笑ってくれる透くんのそばにわたしはいたいから」
「だから、知香を助けてくれるの?」
「うん。わたしは透くんを独り占めしたい。でも、透くんの幸せのためなら、その願いを犠牲にしてもいいと思うの」
愛乃の言いたいことがだんだんわかってきた。
つまり――。
「そ、それはその……俺が知香にその……エッチなことをするのを許すってこと?」
知香は透と性行為をして……究極的には妊娠することで問題の解決を図ろうとした。愛乃はそんなことを許容できるのだろうか。
そう聞くと、愛乃はぶんぶんと首を横に振った。
「そ、それはダメ! 透くんの赤ちゃんを最初に生むのはわたしなんだから!」
叫んでから、愛乃ははっとした表情でみるみる顔を赤くした。
周りのカップルたちが何事かとこちらを見ている。
愛乃はこほんと咳払いをするが、ごまかしきれていない。
「と、ともかく、本当に透くんと知香さんが赤ちゃんができるような行為をする必要はないと思うの。そこまでしなくても、これまでどおり三人で生活して、知香さんが幼馴染と恋仲だって嘘をつけば十分じゃない?」
「た、たしかに……」
なら、知香はなんであんな過激なことをしようと思ったのだろう。
透は考えてみた。なるべく確実な方法を取りたかったのが一つ。
もう一つは……単純に、愛乃に抜け駆けして透とエッチな行為をしたかったのだろう。
愛乃も同じ意見だったらしい。
こくんとうなずく。
「知香さんもえっちでずるいよね。気持ちはわかるけど」
「ははは」
「それに、透くんを困らせていたし。わたしはそんなことしないよ?」
くすっと愛乃が笑う。愛乃の言いたいことが透はわかった。
知香はたしかに透のことが好きなのだろう。けれど、知香の主張はすべて自分のことしか考えていないものだった。
それで透が困るとか、愛乃との関係とか、そういうことまで考えていたわけではない。
一方で、愛乃は違う。愛乃は透と知香の関係まで考えて、しかも、透が一番幸せになれる方法を考えてくれた。
(愛乃さんは……別の意味でずるいな)
もちろん悪い意味ではない。
愛乃の言葉が、行動が、愛乃を透にとって不可欠なものにしている。
愛乃はとても賢い子なのだと思う。
そして、その愛乃は透のことを好きでいてくれる。
「近衛家のスキャンダルなら、マスコミの人に言えば記事にしてくれるかも。わたしと透くんと知香さんが三人で同棲しているっていえば……」
それはもう、週刊誌の格好のネタだろう。透や愛乃はともかく、名古屋最大の財閥・近衛家次期当主の少女がいるのだから。
そこまでしなくても、婚約相手に事情を告げるだけでも破談になる可能性はありそうだ。
「でも、どちらにしても、そんなことをしたら、俺と愛乃さんの婚約がなくなるかもしれない」
「婚約だけがすべてじゃないと思うの」
愛乃が期待するように透を見つめる。
そう。形だけの婚約者。それが今までの透と愛乃の関係だった。
でも、今は……。
「愛乃さん、俺からも大事な話があるんだ」
「う、うん……」
緊張したように愛乃が透を見つめる。
今でも透は恐れていた。
愛乃はどんどん透の中で大きな存在になっていく。その彼女を守れなかったら、ふたたび失ったら……。
それでも、そんな想像よりも強い欲求があるから。
透は深呼吸した。
「愛乃さんが言ってくれた言葉の意味、わかったんだよ」
「え?」
「ほら、Mina rakastan sinuaって言葉」
図書室で愛乃はそんな言葉をつぶやいた。フィンランド語で、結婚したらその言葉を教えてくれると言った。
でも、透は昨日、知ってしまった。本屋でフィンランド語の入門書を眺めていたら、載っていたのだ。
「『あなたを愛している』って意味なんだよね」
「……っ!」
愛乃が恥ずかしそうに身悶えする。いろんな大胆なことをしていたのに、いまさら愛の告白が恥ずかしいのも不思議だけれど……。
でも、愛乃もすぐに恥ずかしくなくなる。
透も同じ言葉を告げるのだから。
「俺も愛乃さんのことが好きだ」
愛乃が息を飲み、そして泣きそうな表情で笑う。
「わたしのこと、どのぐらい好き?」
「ものすごく。大好きだよ」
「嬉しい……。知香さんよりも、わたしのことが好き?」
「もちろん」
透は即答した。透が必要としているのは、知香ではなく、愛乃だった。
「愛乃さんがいるから、俺は俺でいられるんだと思う
「わたしも、透くんがいるから、わたしはわたしでいられるんだと思うの」
ふふっと愛乃は笑い、甘えるように透を見上げた。
「ねえ、甘やかしてほしいな」
透はその言葉に応え、愛乃をぎゅっと抱きしめる。
小柄な身体が、腕のなかにすっぽりと埋まる。
愛乃は安心したように、透に体重を任せる。
そして、ささやいた。
「これからは、わたしたち……恋人同士なんだよね?」
「そうだね。次は……」
「夫婦、だよね」
愛乃はそう言うと、くすくすっと笑った。
こうして、透と愛乃は「婚約者」から「彼氏彼女」になった。
☆
結局のところ、問題は山積みだ。
普通の高校生としても、知香や明日夏との関係がある。二人もいずれ透と愛乃が彼氏彼女になったと知ることになる。
二人がどう反応するか、透はちょっと怖かった。
加えて、差し迫った問題として、知香の婚約問題を解決する必要がある。
たぶん知香は先に家に帰っているはずだ。
透と愛乃は知香と話し合って、婚約のことを解決しないといけない。
透、愛乃、知香の三人の同棲生活を、婚約相手なりマスコミなりに告げれば、愛乃と透の婚約ごと吹き飛ぶかもしれない。
それでも、今の透と愛乃には新しい関係があるから。
帰り道。ずっと愛乃は透に甘えていた。
抱きついてみたり、胸を押し当ててみたり。
透はといえば、恋人になった愛乃と歩くだけで、胸がどきどきしている。
普段より愛乃の攻勢に透は平常心を保てなかった。
それは愛乃を「彼女」として意識しているからだろう。
イチャイチャしながら歩いていると、突然、乱入者が現れた。
「あ~! 楽しそうだね、透くん」
底抜けに明るい声に透と愛乃はびっくりして、慌てて互いから手を放す。
振り向くと、そこには黒いパンツスーツ姿の超絶美人女性がいた。
時枝冬華。近衛家の秘書であり、透の後見人だ。
「冬華さん……! どうしたんですか?」
「いや~可愛い弟分がどうしているか様子見しに来たの~。でも、その分だと順調そうだね!」
冬華はおもしろおかしいといった感じで笑う。透と愛乃はさっきまでの痴態を見られていたと知り、互いに顔を見合わせて、顔を赤くする。
だが、照れている場合ではない。
透は冬華に話さないといけないことがあった。
「冬華さん、あの……知香の婚約のことなんですが……」
「ああ、あのことね。まあ、君のことだから、知香ちゃんが可哀想だと思って、助けてあげようとしているんでしょう?
「まあ、はい、そうです」
「透くんは優しいものね。あんな子、放っておけばいいのに」
冬華の言葉が知香に冷たく聞こえたので、透は驚いた。現当主の秘書と、次期当主。二人の関係は良好だと思っていたのだけれど。
「実は知香ちゃんの婚約者は私の大学のときの同級生なの」
冬華の出身大学、といえば京都の吉田神社近くの国立大学だ。
それなら話が早い。事情を説明して、冬華から婚約解消の段取りをつけてもらえれば、透や愛乃が負うダメージも少ない。
婚約関係もそのままに、知香も望み通り、今の学校に通い、透たちと一緒に暮らすことができる。
冬華はそんな透の内心をお見通しだったらしい。
「話をつけてあげてもいいよ。ただし、一つ条件があるの」
冬華は透の耳元に、その唇を近づけた。香水の香りだろうか。
大人の女性の匂いに透はどきりとさせられる。
「透くんは近衛家を乗っ取るつもりはない?」
「え?」
「次期当主は近衛家の血を引く人間から、ふさわしい者が選ばれる。君にも資格があるよ」
冬華さんは真顔で言う。
その表情は驚くほど怜悧だった。普段はいい加減で明るい雰囲気の話しやすい「お姉さん」だが、冬華の本質は有能なビジネスマンなのだ。
「連城透くん。君が近衛家の当主になるつもりなら、私は君の力になるよ。まずは知香ちゃんを望まない婚約から解放して、あなたの仲間にしてあげる」
「な、なんのために……?」
「私はね、近衛家を変えたいの」
時枝冬華は、はっきりとそう言った。
☆
知香の婚約問題は冬華の暗躍のおかげで解決した。婚約は解消。転校の話も白紙。
あまりにもあっさりと解決したので拍子抜けしたが、つまり、冬華は近衛家内部の家庭問題にまで介入する政治力があるということだ。
近衛家当主が同意した婚約をひっくりかえしたわけで、関係者をどういうふうに説得したのかはかなり気になる。
冬華は今は透の味方だが、敵に回すと怖い人間だ。
(それに……とんでもない約束もさせられたし)
近衛家の当主を目指す。透はそう冬華に約束した。
それは驚くほど困難な道だ。
でも、ともかく彼女のおかげで平穏な日常が戻ってきたわけで。
冬華と話した一週間後の夜。
今、家のリビングでは愛乃と知香が楽しくゲームをしている。
「やった! またわたしの勝ち!」「あ、愛乃さんずるい!」
二人がやっているのは、大人気の格闘ゲーム。有名ゲームのキャラクターを操作して、画面外に落とせば勝ち。
意外にもゲームは愛乃の方が得意で、お嬢様の知香は苦手らしい。
(まあ、でも、二人とも楽しそうだな……)
こうしていると二人とも本当に普通の女子高生にしか見えない。
ちなみに透は今まで皿洗いをしていた。押し付けられているわけではなく、家事分担で今日は知香が料理、透が片付け、愛乃がお風呂掃除……みたいな感じにしているのだ。
ちょうど透が食洗機を回し始めてリビングへと向かうと、愛乃と知香がぱっと顔を輝かせてこちらを見た。
「ね、透くん! 一緒にやろ!」「と、透には勝てるはずなんだから!」
透は苦笑すると、ソファの二人のあいだに座った。
三人並んで座るのも慣れつつある。
平和な日常が戻ってきた。三人での同棲生活。
ただ、これまでと違うことがある。
透と愛乃が恋人同士になったことだ。普通なら、知香は疎外感を感じるところなのかもしれないけど……。
知香は全然平気そうだった。
それを言われると、知香は肩をすくめる。
「だって、もともと透と愛乃さんは恋人みたいなもので、婚約者だったし。いまさら大した違いはないでしょ?」
「彼女になったら、もっとイチャイチャするよ?」
愛乃は小首をかしげる。
「まあ、それは羨ましいし、悔しいけどね……。でも、平気。私には透との幼馴染としての絆があるんだから」
ふふっと知香が笑う。
そして、知香が透の膝に手を置き、その柔らかい手のひらで、そっと撫でる。
例の体育倉庫の一件以来、知香は以前より積極的になった。
吹っ切れたのかもしれない。
「まだ、私は三人でのポリアモリーを諦めていないんだからね?」
「うん。でも、わたしは透くんを独り占めするつもりだから」
愛乃ははっきりと言い、知香とばちばちと視線で火花を散らす。
「そうだ! お風呂でご奉仕勝負する?」
「ご、ご奉仕勝負って、な、なにそれ?」
「透くんを気持ちよくさせた方が勝ち、みたいな!」
「そういう破廉恥なのはダメでしょ」
「えー、知香さんだって、透くんの子どもを妊娠するつもりだったくせに」
言われて、知香はうっと言葉につまった。
こないだの体育倉庫の一件では、知香はたしかに子どもを産みすらするつもりだったようだ。
愛乃がえへんと大きな胸を張る。
「わたしはいつでも妊娠したいけどね」
「得意げに言うな!!!」
くすくすと愛乃は笑う。からかわれたことに気づいた知香は、頬を膨らませていた。
「ね、知香さん。お願いがあるの」
「な、なに?」
「『知香ちゃん』って呼んでいい?」
「へ!?」
「その方が可愛いもん」
「そ、そう?」
知香は照れた様子で目を伏せたが、やがてうなずいてしまった。
愛乃が「やったー! 知香ちゃん、だね」と言うと、知香は顔を真っ赤にする。
でも、まんざらでもなさそうだ。
知香は三人での生活を望み、愛乃は二人での生活を望んでいる。
ただ、今の生活は二人どちらにとっても楽しいもののようで。
それに、愛乃も一度は知香の婚約解消のために、三人での生活を選ぼうとしていた。
絶妙なバランスの上に、愛乃、知香、そして透の関係は成り立っている。
透は愛乃を一番に大事にしたい。同時に負い目のある幼馴染の知香にも傷ついてほしくない。
これからは透の選択にかかっている。
そして、「近衛家を乗っ取れ」という冬華の言葉。この平和な生活は透がその条件を飲んだことで実現した。
本当に近衛家の当主になるためには、透には足りないものが多すぎる。
近衛家に立ち向かうだけの勇気、覚悟、能力。
でも、仲間はいる。
愛乃をちらりと見ると、愛乃はサファイアのような美しい宝石の瞳をきらきらと輝かせていた。
そして、透を見つめる。そして、赤い唇をそっと動かした。
「Mennaan naimisiin.」
「え?」
「意味は教えてあげない。だって……透くんはもう、わたしからこの言葉を何度も聞いているはずだから」
これにて本作は完結です! 番外編などが続くかも……!
面白かった、ヒロインが可愛かった! 完結おめでとう! 二人の今後に幸いあれ!と思っていただけましたら
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