空蝉
3
熱い、暑い、夏休みの昼下がり。
誰も彼もが死にそうな程に汗を流し、誰も彼もが何処かに向かって歩いている。
男性は……仕事、営業などの外回りが主だろう。
女性は……主婦かなんかだろう。
茹だるような暑さに蒸されながら、一人。
木に寄りかかった青年はどうでもいい事を推察しながら、往来の人々を木陰から眺めていた。
「あー……死にてぇ……」
無気力に。気だるげにそう呟いた青年の名は草場景郎。
着の身着のままを地で行く景郎は、数少ない所持品であるスマートフォンを弄り、SNSアプリを開いた。
活力の無い指捌きで、とあるユーザーのページを開き、上下に指を動かし眺める。
「おー。相変わらず、すげー人気な事で」
気の抜けた声ともに目に映るのは、売れ始めた人気アイドル、日向陽子。フォロワーがもうすぐ五万に届きうる、景郎にとっては別世界の住人。正真正銘、高嶺の花である。
清楚なビジュアルで天真爛漫な振る舞い、何より、よく笑う。
陽子の笑顔に癒されながらも、どこか遠い目で眺める景郎だったが、画面を滑らせていた指を止める。
「これは……」
毎日一回、飯なり景色なり友人なり。何かしらコメントを添えた画像を投稿するのだが、最新の投稿は毛色が違った。
始めの文章は“訃報”の二文字。そして内容は……端的に言えば、飼っていた犬が死んでしまった。
それだけの事である。
その投稿には追悼のコメントが多く寄せられ、不特定多数の人々が、アイドルのペットの死を悼んでいた。
そして景郎も──
「……お悔やみを申し上げます……っと」
無気力な身体と指に少しばかりの気力を込めて、訃報の投稿にコメントを送った。
瞬間、見計らったかのように、スマートフォンの画面上に着信の表記が浮かび上がる。
顔をしかめた景郎は、ため息混じりに通話ボタンのマークをタップする。
「はい……はい。はい、わかりました。じゃあ午後六時からで……はい、失礼します」
適当な相づちを数回打って、仕事先の上司との通話を切った。
「はぁー……死にてえ……」
本日何度目になるかもわからない、もはや口癖と化した一句を呟いて、光熱費を浮かすべく放浪していた景郎は自宅へと重い足取りで帰っていった。
自宅に戻った景郎はシャワーで汗を流し、身支度を整え、仕事場に向かう。
仕事先の控え室に辿り着いた景郎は、むすっとした表情を浮かべ、黙々と作業着へと着替えていく。そして、着替え終わり、仕事の開始時刻までスマートフォンを弄っていると、通知が来た。
心当たりは、ある。
先程コメントを送った、日向陽子からだ。
無趣味無関心な景郎が日向陽子にコメントを送るのは、彼女が“必ず”返信をしてくれるからだ。
ほとんどの有名人は、余程親しい人でなければコメントのやり取りなどしないが、日向陽子は違う。
彼女はどれだけ遅くとも、多くの人から寄せられたコメントに、必ず一言は誠意の籠ったコメントを返すし、更には心の無い……アンチや嫌がらせの類いのコメントにも誠実に。真摯に。
対応するのが日向陽子という駆け出しのアイドルであり、草場景郎が唯一接点を持とうと思える相手である。
陽子からの返信に、目を通そうと、SNSアプリを開き確認する。
陽子からの返信の他に、個人間でのメッセージが一件、景郎の下に来ていた。
「なんだこれ……」
極稀に来る出会い系のメッセージだと怪しみながら内容を確認し。
「……は?」
景郎は眉間に皺を寄せ、間抜けな声をあげた。
2
「うーん……あーきーたー」
すらりと伸びた艶かしい生足をパタパタと交互に動かし、ベッドに寝転びながらスマートフォンを両手で持ち、左右の親指を器用に動かしていた女性、日向陽子は不満そうな声を天井に向かってぼやいていた。
ベッドの上の陽子は掛け布団が身体を覆ってはいるものの、掛け布団の下は多くの男性が求めるであろう、生まれたままの肢体が隠されていた。
これだけならば。清楚な見た目で天真爛漫な女性の、はしたない一面として仕事の幅の広がりや、意外なキャラクター性を売りにできるかもしれない。
だが、日向陽子が裸体でいるのは、もっと“原始的”な理由である。
今、この一室に居るのは、日向陽子だけではない。
ベッドが鎮座している部屋の奥。磨りガラスの向こうにシャワーで水を浴びている人がいる。一通り身体を洗い終えたのか、流水を止め、タオルで身体を拭き、バスローブを纏って出てきたのは。
「……いきなりどうした、陽子」
仏頂面で陽子を見ながら、生乾きの髪をタオルで乾かしつつ彼女の側に座ったのは、男性。
端正な顔立ち、引き締まった肉体、よく通る低い美声。
陽子に引けを取らない美麗な容姿の男、中村涯が陽子の側に腰掛けた。
薄着の男と全裸の女性。余程初心でなければ彼女らの関係は即座に男女のモノであることが察せられるだろう。訊ねた涯に、陽子は見向きもせず相変わらずスマートフォンを操作しながら返答する。
「なんかねー、飽きちゃった」
「ここの所そればっかりだが……悪質なアンチでも居たのか?」
「んー? それは大体いるよ。あたし駆け出しだから、やっかまれたり嫉妬されたりなんて当たり前だし」
陽子は手に持っていたスマートフォンを、涯に見せるように画面を向ける。
涯は自分の顔を陽子の顔に寄せて画面を覗きこむと、匿名を良いことに支離滅裂な罵詈雑言のコメントがそれなりに散見されていた。
「これは、酷いな」
「あたしも最初の頃は“うわー”って思ってたけど、段々“あーこんなもんか”って風に感じて来ちゃってね」
陽子は特に気に病む訳でもなく、スマートフォンを手元に戻して操作を再開し、淀みなく指を動かしながら話を続ける。
「暇な人たちの嫉妬はこっちが真面目に対応すれば、その内ファンの人たちが後始末してくれるからね。それにコミュニケーションの練習にもなるし。ってそうじゃなくてー、あーきーたーのー」
曖昧な発言にも嫌な顔一つせずに、涯は陽子の髪を手で優しく撫でながら訊ねる。
「もう少し具体的に教えてくれないか」
「アイドルするのに飽きた」
「………」
薄々予想はついていた涯だったが、いざ陽子の口から断言されると絶句してしまう。最近は事あるごとに「飽きた」と小声で呟いていた事から、突発性のものと判断した涯は諭すようにして陽子へ語りかける。
「せっかく仕事が軌道に乗ってきたんだから、もう少し頑張ってみるのはどうだ?」
「イメージ作りも枕営業もそれなりに頑張ってみたけどさー、なーんかしっくり来ないんだよね。それに、どうせ頑張るなら……」
世間のファンが聴けば狂死しそうな内容の淡々とした返答は、途中から艶を含めた声色に変わっていく。
陽子はスマートフォンをベッドの宮棚に伏せて置き、身体を起こし、掛け布団に隠されていた極上の裸体を惜しげもなく涯に見せつけながら、優しく、艶やかに、微笑んで、そっと涯の頬に手を添える。
「涯と気持ちいいコトするために頑張りたいな……って」
「……そうか」
素っ気ない返答の涯だが、内心は名状しがたい恐怖で埋め尽くされていた。
陽子本人としては彼女なりの扇情的な台詞と表情なのだろう。
しかし、涯にとっては底の見えない、深淵の闇のような物として捉えられる。捉えてしまう。だが、その恐怖を認めて尚、肉欲を煽られるのも確かである。
陽子に気付かれぬよう戦慄していた涯の顔に、いつの間にか顔を近づけていた陽子は息を吹き掛けるようにして囁く。
「ねぇ……シよ……涯が望むなら、あたしは恋人でもカラダだけの関係にでもなってあげるよ……?」
ゾッとするような陽子の甘い囁きに、涯は。
「ああ、俺も……お前が欲しい」
涯は陽子に自分の唇を重ね、被さるようにして押し倒す。
美男美女が、肌を重ね、交わり、乱れ、呼吸を荒くして絡み合って行き、そして。
互いに絶頂し、気怠い雰囲気を漂わせながら、微睡んでいく。
涯は日頃の激務と此度の情交で体力が尽きたのか、穏やかな寝息をたてている。
陽子は涯を労るように頭を優しく撫でた後、宮棚に伏せ置きしていたスマートフォンを手に取り、中断していた操作を再開する。
「あ、この人……」
陽子がSNSに投稿した文章に寄せられたコメント欄から、あるユーザーを見つける。
数秒思考を巡らせた陽子は。
「ヒツジくんみーっけ」
妖しい笑みと共に、文字を打ち込み始めた。
1
「じゃあ、お先失礼します」
そう言った景郎に、同僚や上司からおざなりな挨拶が送られ、その声を背に景郎は足早に控え室へと向かう。
手早く着替えを済ませ、控え室の扉に鍵を締めると、そのまま帰路についた。
「あれは一体……」
前方に注意を向けながら、仕事開始前に起きたあることについて、景郎は混乱していた。
発端はSNSアプリ内での一通の個人間メールだった。
その内容は。
【あなたの顔ちょーだい】
というものだった。これだけならば、質の悪い冗談や迷惑メールとして送信者とのやり取りを拒否すれば済む話である。
だが、問題は送信者。
送り主の名は、日向陽子。
草場景郎が淡い憧れを抱く、美少女。
自宅へと戻った景郎は、荷物を床に放り投げ、簡素なベッドに寝転がり、スマートフォンを取り出して画面を見つめる。
「顔ちょーだい、ってどんな意味だよ……」
景郎が軽くホラー要素が籠ったメールを眺めてると、再び個人間メールが届いた。
【時間がなくて、あんな文章になっちゃってごめんね。まだ本人だって信じて貰えて無いだろうから、写真送るね】
読み終わると同時に、添付された写真を確認する。そこには、バスタオル一枚の陽子が友達にでも送るような笑顔の自撮り画像だった。
「っ、げほっ、ごほっ」
予想外の写真に、景郎はスマートフォンを落としかけながら、咳き込んだ。
陽子の扇情的な姿を食い入るように見ていると、さらにメールが来ていた。
【信じて貰えたかな? 返信くれると嬉しいなー】
陽子の催促に、まだ完全に信用しきれない景郎は腹を括り、返信していく。
【あの、顔をちょーだいってどういう意味ですか】
しばらく返信は来ないと思った景郎は緊張の余りカラカラに渇いた喉を潤すために、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出しに行く。
ミネラルウォーター入りのペットボトルを手に取った瞬間、スマートフォンから通知音が鳴った。
まさか、と思いつつ景郎は恐る恐るズボンのポケットからスマートフォンを手に取る。
日向陽子からの、返信だった。
【それについてなんだけど、会って話したいな】
怒涛の展開に、景郎は今度こそ思考を停止した。
そして、それからのやり取りは非常に事務的なものだった。
まず陽子のスケジュールから、空き日を探す。
景郎がそこに合わせて有給を取るという形になり、その後もある程度変装して欲しいとの事から帽子などを用意し、色々と打ち合わせから、三日後。
幼少の頃に一度行ったきりの遊園地に、草場景郎は来ていた。
「浮かれてるなぁ……俺」
衣服にこれといった感心の無い景郎は、コンビニで男性のファッション雑誌を参考に、似たような安物の服装で整えていた。
一応、見つけられやすいように、黒いキャップ帽子を被っているが……日光の熱を十分に吸収してしまい、まるで燃やされてるかの如き熱さに、自身のセンスを呪っていた。
「しかし、暑い……このままだとぶっ倒れる……」
そうなれば。景郎が慢性的に求めていたモノが手に入る、と。
朦朧としつつある意識の中、腕をちょんちょんとつつかれる感触。
首を動かすのも億劫に思いつつ、つついて来た方向に向けると、大きなつば広の帽子をかぶり、スタイリッシュなサングラスをかけた可憐な格好の女性がいた。
景郎は数秒程ぼうっとしていたが、すぐに意識をはっきりさせ、佇まいを直す。
「あ、あの、もしかして」
「あはは、その感じだと、君がケイくんだよね? 遅れちゃってごめんねー。暑かったでしょ?」
「い、いえ! これぐらいは、別に!」
緊張しっぱなしの景郎に、SNS上での景郎のアカウント名を口にしながら声をかけた女性、日向陽子は口元に柔らかい笑みを浮かべ、景郎の手を取る。
「遅れたお詫びに奢ってあげるからさ、そこの喫茶店まで行こ!」
「あっ……」
自然に手を取られた景郎は流されるがまま、陽子と共に遊園地内にある喫茶店に入店した。
喫茶店の個室で草場景郎と日向陽子は二人、向き合っていた。
店内は冷房が効いているにも関わらず、景郎はガチガチに緊張して汗を流しまくっており。
対する陽子はカバンからタオルを取り出し淡々と汗を拭き終わると、景郎の顔をじっと見つめていた。
蛇に睨まれた蛙の如く萎縮する景郎は恐る恐る陽子に訪ねる。
「あの……俺の顔に何か」
「あっ、じろじろ眺めちゃってごめんね!
ケイくんって結構綺麗な顔立ちしてるんだなーって思って」
「い、いや……俺より陽子さんの方が……」
「あはは、ありがとー。嬉しいな」
女顔である事をコンプレックスに感じ、事あるごとに同僚や同性から、からかわれていた景郎は、容姿を憧れの存在である陽子に誉められ、また縮こまってしまう。
幸せな気分に浸りながらも、時間が無限にあるわけでは無い事を思い出した景郎は、本題を切り出す。
「あの、それで……“あなたの顔ちょーだい”って、どういう意味なんですか……?」
「ん、それねー。割と言葉通りの意味だよ」
ドリンクに刺さったストローから口を離した陽子はあっけらかんと言い放った。
景郎は神妙な顔をして、陽子の話の続きを聞く。
「あたしね、アイドルやめようかなーって思ってるんだ」
「そう、なんですか」
突然の発言に、ショックの余り景郎はただ相槌をうつ事しかできなかった。
「SNSも元アイドルって事を隠しながらやるのもめんどくさそうだしさー。じゃあ、やるなら徹底的にやっちゃおーって」
陽子は、極普通の調子で淡々と事情を語っていく。変わらぬ調子の陽子に対して景郎はただただ混乱していた。混乱する頭で景郎は再度、訪ねる。
「それで、何で俺に」
呂律も語彙も怪しくなり絞り出したのは、何故という問い。
その問いに、陽子は。
「ケイくんってさ──死にたい、って思ってるでしょ」
「……、ッ、それ、は」
陽子の発言に、景郎は心臓を射抜かれたような感覚を味わい、思考ができなくなる。
そんな景郎に慮る事なく淡々と、陽子は景郎の心情を暴きにかかる。
「ケイくんは覚えて無いかもだけど。君、前に虹の写真投稿したでしょ」
陽子に言われて、思い出す。
彼女の言う通り、仕事終わりに夕立の後にかかった虹の余りの美しさに、無意識に写真を撮って投稿した。そんな事を喋る陽子に再び“何故”の文字が脳内を埋め尽くすが、陽子はストローでドリンクの中身をかき混ぜながら続ける。
「写真を投稿した後に、“死にたい”って文章投稿したよね? すぐに消しちゃったみたいだけど」
「……はい」
陽子の指摘に、景郎はただ肯定の返事のみを返す。自分の下らない部分を見透かされた景郎は羞恥で俯いていた。
ストローでかき混ぜるのを止めた陽子は、声のトーンを少し低くして、真面目な調子で語りかける。
「あたしのやりたい事に、ケイくんの協力が必要なんだけど……どうかな」
頼れるのは貴方だけ。そう感じられるような甘えた陽子の声に、景郎は。
「協力、します」
服従の意を籠めた視線で、陽子の目を見据えた。
0
「は、ッ、はぁ……はぁッ……」
深夜の山奥に、一人。呼吸を荒くしながら、山頂を目指して登っていく人影があった。
登山するには余りにも軽装で、帰りをまるで考えないペースで登って行くのは日向陽子──の、顔に整形した、草場景郎だった。
元々女らしい顔立ちの景郎が、美少女の顔になった所で、暗い雰囲気の日向陽子にしかならなかった。
それでも景郎は整形後、まともに外出せず、今日の今まで閉じ籠っていた。
だが、それも終わる。
今日で、今日を以て、全てを終えられる。
景郎がそう思うと最早全力疾走に近いペースで山を駆け上がって行く。
所々、枝や葉に引っ掛かるが気にしない。気にもならない。
そして、駆け上がり、息も絶え絶えになりながら山頂に着くと、樹の側に一人。誰かがいた。
その人物は駆け上がって来た景郎に気付き、振り向く。
「待ってたよ。ケイくん」
草場景郎が、そこにいた。
より正確に述べるなら、草場景郎──の、顔に整形した日向陽子が佇んでいた。
草場景郎の顔面でありながら柔和な雰囲気を演出できるのは、一重に陽子の人柄が優れているからだろう。
この容姿でも、彼女はまた違った人気を得るだろうなと、思いながら景郎は呼吸を整えて陽子に歩み寄っていく。
「向かい合って前の自分の顔をみるのって、変な感じだね」
「俺も、そう思います」
お互いに苦笑しつつ、陽子が本題を切り出す。
「それで、準備はできてるかな?」
そう訊ねた陽子に、景郎はズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
その手に取ったスマートフォンは、景郎が普段使用している物では無く、日向陽子と同じ機種であった。
景郎は馴れた手つきでスマートフォンを操作し、画面を陽子に向ける。
しばらく画面を見つめた陽子は、満足そうな笑みを浮かべ、景郎の方を見つめる。
「うん。良くできてる。あたしの“遺書”。デートした甲斐があったね」
画面には、SNSでの日向陽子のホームページが映されており、最新の投稿には陽子の言う、“遺書”が投稿されていた。
【日向陽子は本日を以て、アイドルからも、この世からも、去る事にします。私を愛してくれたファンの皆様、未熟な私を支えてくれた関係者の皆様、本当に、今までありがとうございました】
遺書と呼ぶにはあまりに簡素と言える出来だが、その簡素さが日向陽子という人となりを表しているようで、陽子本人は気に入ったようだった。
景郎はスマートフォンを仕舞い、陽子はバッグからジップロックに入れられた黒い小瓶を取り出す。
「これ、おばあちゃんの遺品整理で見つけたものなんだけど。効果は前にペットで試したから、眠るように逝けると思うよ」
「ありがとう……ございます」
景郎は小さく震える手で、陽子からジップロックを開封し、そこから小瓶を受け取って、まじまじと見る。
この瓶の、液体が。
求めて止まない安息の死が得られる。
その事に、草場景郎は静かに涙を流していた。
親戚の死に遭遇して以来、景郎はずっと死にたがっていた。どれだけ慕い、大切な人でも。
死ぬ時は、死ぬ。
ならば。できることならば。
痛みを伴う事無く、安らかに死にたいと。草場景郎という男は死んだような日々を送っていた。
そして、景郎の悲願が達成される時が来た。
景郎が小瓶を受け取ってから少しの間、沈黙が流れ、改めてお互いの顔を見つめ合う。
先に口を開いたのは、陽子だった。
「じゃあ、ばいばい」
小さく微笑んた陽子に景郎も。
「さよなら……それと、ありがとう」
穏やかな微笑を浮かべながら、小瓶の蓋を開けて、ラッパ飲みで一気に飲み干した。
同時に、強烈な睡魔が景郎を襲い、確信する。
一度眠れば、二度と目覚める事は無いと。
ふらふらと、景郎は側にあった木にもたれかかり、滑るように座り込む。
閉じゆく瞼の中、景郎が最後に見たのは。
美男子に駆け寄る陽子と、足元に落ちてきた蝉の抜け殻だった。