365分のアイ
「七夕の今日はあいにくの悪天候で、織姫と彦星は出会えないかも知れませんね。それではまた――」
画面の中のアンカーが頭を下げたタイミングで、テレビの電源が切れた。
ぽんとベッドサイドにリモコンを投げる、腕枕をした、たくましい裸身の男と、その隣で柔らかな流線型の裸身を横たえる女。
「雲の上は晴れだっつーの、バカじゃネェか」
「まあねぇ、思い合う二人が年に一度しか会えない恋なんて、想像するだけで悲しいものじゃない。世の中があまりにも殺伐としてるから、他人の悲恋で自分たちの幸福度を測りたいのよ」
「会える会えないだとか、同じ陸地にいてるなら、さほどの距離でもネェだろうが」
「そうねぇ、私たちからしたら指先ひとつまみくらい、ってとこかしらね」
そう言って女は人差し指と親指で空をつまむようにして見せた。
会って早々一試合をやり終えた男女は、ベッドの上で寄り添ってクスクス笑い合っていた。
「そもそもだ、一年に一回しか会えない男と女が、雨降ったくらいで諦めるわきゃネェだろう」
「そうそう、あなた大時化で上陸できないってのに、生身で泳いで渡ってくるくらいだものね。でもさすがにあの時は一回でダウンだったから寂しかったわよ」
女は少し拗ねたように、頬を膨らませる。男はそんな女の仕草が愛おしくて、頬に口づけをする。そして女が身をよじり「やっ、まだ敏感なんだから、もうちょっと待って!」と、女の乳房に触れかける男の手をとる。
「あなたの手、こうしてみると大きいのね」
「へっ、何を今更……」
女は男の手を両手で包むと、そのまま自分の頬にあてる。
「ねえ、考えた事ない?」
「なにを?」
「もしも私とあなたが、ずっと一緒にいられたら、って」
女の瞳が男を捉え、男はその澄んだ泉の誘惑に吸い込まれそうになって、身体ごと向けた。
「なんだよ……なんかあるのかよ?」
「もう、例えばの話よ」
「そうだな、もしずっと一緒にいたなら、俺は毎日お前の事を愛するぜ」
男は満足げにそう言った。女が胸に飛び込んでくるだろうと思ったのか、両手を広げかけた。しかし女は男の胸に飛び込んでこなかった。
男の予想外に、女はぷいと背を向けて布団をかぶってしまう。
「えっ……おい……」
「――今は毎日じゃないんだ……普段は他の人の事を考えてるのね?」
「ちょ、おま、ちがちがちがうよー、何いってんの、俺はさ、毎年この日のために日も夜も働いてるんだぜ? それがどういうことか解るだろ? 男が仕事に向かうときはただ仕事の事だけを考えてるのさ、それすなわち愛する者のため! きりぃっ!」
女はその言葉にガバッと身を起こすと、露わにした乳房を隠す事もなく両手を広げてそのまま男へと覆い被さった。
「んんんーやっぱりすきー、かっこいいー」
ベッドに腰掛け二回戦を終えた男は、ローテーブルの上の灰皿を引き寄せる。
「結局まだやめられないのね」
女はベッドの上で枕を抱えて、男の背中に、悪戯っぽく投げかける。
「好きなものは誰になんと言われようとやめられねぇってことさ」
「でもでもぉ、世の中にタバコが好きな人っているのかしら?」
「へ? どういうことだい、そりゃ」
「単なる中毒って事。もしくは習慣ってところかしら?」
「どっちでもいいじゃネェかよ、嫌々続けてるわけじゃネェんだから」
「もしも私たちが一緒に住むようになったら、惰性で続けちゃうのかな」
「っ、ええ! なんで? なんでそこいくの? 俺の愛はそんなダセぇもんじゃないぜ! 俺とお前が一緒に住んでも、こうして毎日のように二回戦は維持してみせるぜ! いぇい!」
「二回だけぇ?」
「三回だ! いや、何回でも!」
「きゃんんんんーやっぱりすきー、たくましいいー」
女は三回目の昇天を果たした男を見下ろし、荒い息で上下するそのたくましい胸板にそっと触れてみた。乳首から白い毛が一本生えていた。女はそれを指でつまんで引っ張ってみる。
「わ、白髪発見!」
「っおい、やめろよ」
「えー、だって気になるじゃない」
「それは宝毛っていって、幸運を呼び込むものなんだ。抜いたりしたら不幸になっちゃうんだぜ」
「ええ? なんか信心深いのね、意外と」
「験はかつぐさ、仕事柄」
女は引っ張った毛に込めた力を緩めたが、次の瞬間勢いをつけてプチッと抜いてしまった。
「いだっ!」
「あははは、いたかったー?」
「抜くなって言っただろが!」
「だってぇ、私、胸毛許せない主義なのよね、知ってるでしょ」
男は仏頂面をして、小豆のような自分の左乳首をさする。
「もう、敏感なんだから……ごめんごめん、はい、痛くないー」
女もそれに倣い、唾をつけた人差し指で男の乳首をヌルヌルと撫ではじめる。
「んっほぉおお。まあ、なんだ、んん、もしかしたら俺、帰りに死んじゃうかもしんないぜ? んっああ……」
「毛一本で?」
「毛一本でだ」
「ねぇ、私とあなたの関係って、毛一本程度なのかしら?」
女は声を落として天井を見上げた。
「っちょ! ええ? なにそれ、なんでぇ? どうしてそう悲観的になるわけ?」
男は自慢の腹筋を使って上体を持ち上げ、女の腰に両腕を回した。
「だってぇ、死んじゃうかもしれないんでしょ?」
女は男の視線からさらに逃れようとするかのように、逆に上体をのけぞらせて、部屋の隅をみた。男は女の腰に回した腕に力を込めて、女の身体をきつく抱きしめる。
「ちょ、痛いわ……」
「俺がお前を思う気持ちはこの両腕よりも強いんだぜ。俺はお前を壊してしまわないようにいつでも毛の先ほどの繊細な気持ちに抑えているんだぜ! それはとてももどかしくて、切なくて……その、つまり、とっても我慢しちゃってる訳なんだな、これが! うぉう!」
はっと、女は男の顔を見つめる。そのあふれ出る美しい滴をたたえた双眸に、男はそれぞれに口づけをする。そして女が次に継ぐ言葉を吸い尽くすつもりで口を塞ぐ。
「んんんんんんんー、ひゃっぱひ、ふきー! ふへきぃいい!」
薄明るくなってきた窓外から、小鳥の鳴き声が聞こえる。一晩中降り注いだ雨も、どうやら止んだようだ。
ベッドの中央で胡座を重ねるようにして、じんじんと麻痺して腫たような余韻を楽しんでいた。このまま一つになれたならば、どれほど幸せだろうか、まるで一つの肉の塊かのように、絡んだ腕と足、密着する肌。二人はいつまでも離れようとしない。
「ねえ、今私たち、二人で一つなのよ」
「ああ、そうだな、でももう行かなきゃ……」
「私たち、どうして離れなきゃいけないの?」
「男と女とは、そういうものだからさ」
「厭よ、あなたが行っちゃったら、もう私、来年まで待っていられないかもしれない」
「わがまま言うなよ……まあ、いつものことだよな」
「今度こそほんとにほんとよ! わたしあなたしかいないの!」
「俺だってそうだよ、俺の港はお前だけだ」
「――そうね、女は港。荒波を越えて戻ってくる男達を受け入れるのが宿命――」
突然男が身体から女を引き離し、きょとんとした目を見開いて、女の顔を見つめる。
女は不思議な顔をして、口角を引き上げて笑顔を作った。
「なに? どうしたの?」
「さっき……、いや、聞き間違いかな……男達って言わなかった?」
女は満面の笑顔で、ぶんぶんと大きく首を振り、
「そんなわけないじゃない」
年に一度の寄港地から、再び男は船に乗る。
港の突堤から、男が旅立ってゆくのを、真っ白なワンピースをなびかせた女が見送る。
船上の男は、必ずまた来年、ここに戻ってくると誓い、大きく手を振る。
女は感極まった風に、ハンカチで口元を覆う。
蒼い海に残る幾筋もの航跡がやがて泡となり消えてゆく。
遠洋に向かう男達の乗ったマグロ漁船がみえなくなると、女はふっと息を吐いて密やかに微笑む。
「女は港じゃないのよ――女は、あなたたち男が迷う事のないように、心を照らす灯台。だって、あなたたちは、大事なものがないと何も出来ないんですもの」
女はハンドバッグにしまった札束をもう一度確認すると、次の船団が帰ってくる時間を、その白く細い腕に巻かれた腕時計で確認した。