Chapter-5 ②
話をするのはいいとして、どこで話をするのだろう。
監視されているとしたら、そのカメラがある場所で話すのは避けたい。
そんなことを考えていたら、放課後磯崎が高槻先生を呼びだしたのは校庭の隅だった。運動部が掛け声をかけながら時おり目の前を通り過ぎて行くけれど、確かに会話を聞かれる心配はなさそうだし、カメラや鏡も付近にはない。フェンスの出入り口のところには誰の目にも明らかな防犯カメラがあったけれど……そことはだいぶ距離がある地点に磯崎は陣取った。
「まあ本当は、ここ以外にもカメラや鏡がない場所はいくつかある」
「そうなの?」
「でも、高槻に知られたくはないし」
「それはそうかな。……でも、なら『廃屋』まで行かなくても、根津くんと学校であれこれ話できるんじゃないの?」
僕が言うと、磯崎はなぜか一瞬黙り込んだ。沈黙の後、ようやく口を開く。
「根津については……とりあえず、あいつの意向に従う方がいい気がして」
その言い方は、妙に歯切れが悪い。
やっぱり磯崎は、何かを僕に隠しているのだろうと思う。
けれども僕がことばを発するより前に、向こうから歩いてくる高槻先生の姿が見えた。普通に考えて、生徒が先生と話をしたいと言ってわざわざ校庭に呼びだすというのはかなり変な感じがするけれど……その辺り、先生は特に疑問を口にすることもなく、反対することもなかった。そういうことを、あまり深く考えたりはしない人なのだろうか。それとも生徒の突飛な誘いには慣れっこなのだろうか。相手が自称探偵磯崎の提案だから、とりあえずおかしくても受け容れているのだろうか。
「話って何だろう」
ゆるいいつもの笑顔で、高槻先生は訊ねる。その先生の後ろを、ファイト、ファイト、と揃った声を上げながら運動部の集団が通過する。
「先生は、この学校の卒業生なんですよね」
磯崎が口火を切る。よく知らないけれど、私立の学校はそこの卒業生が先生になることが結構多いらしい。
「いや」
「中学時代のクラスメイトで……え?」
そこは認めることを前提に話を進めようとした磯崎は、先生の否定にいきなり出鼻を挫かれた。
「そこ、隠すところですか?」
「いや、別に隠しているとかじゃなくて、実際違うから」
先生は、のほほんとした顔のまま、ちょっと戸惑ったように言う。
……なんで?
「誰かに訊いたの?他の先生と……勘違いしてるんじゃないかな」
先生は、他の先生の名前を何人か挙げた。卒業生なのは、あの先生と、あの先生と……という感じで。
僕は磯崎を見る。磯崎は、写真を出そうかどうしようか迷っているようだった。じゃあここに香々見の制服を着て写っているのはなんなんですか、と訊けば一発だ。でも、この写真はどこで入手したのかと訊かれたら……。盗んできたものを出すのは、ちょっと抵抗がある。
「……あ、卒業はしなかったってことですか?」
「え?」
「一時在籍していたけれど、途中で別の学校に移ったとか」
磯崎の問いに、けれども先生は首を横に振る。
「いや?この学校に生徒として通ったことは一度もないけど」
僕は先生の顔を観察した。
焦ったり、何かを隠そうとしている様子はまったくないけれど……でも、高槻先生は、嘘が上手そうな気もするし。
でも、嘘をついているとしたら、どうしてそんな嘘をつくのだろう。
「先生」
磯崎が、ひどく真剣な顔をして先生を見据えた。
対する先生の顔には、やはり緊張感がない。
「僕は探偵だ、って、いつも言っていますよね」
「言ってるね」
「僕がどんな探偵になりたいか、先生はご存知ですか」
「それはあんまり聞いたことがないかな」
「僕は、人の役に立ちたいと思っているんです」
「それは立派なことだね」
「すれ違いとか、誤解とか、憎しみとか、悪意とか、いろいろなことが原因で、人と人との間ではさまざまな軋轢が起こります。僕はそういった軋轢を、出来る限り解消したいんです。起こる感情は仕方がないけれど、起こる事件は防ぎたい」
「うん、そんな素敵な探偵になれるといいね」
「事件が起こりかけている。起こってしまっては遅い。悲劇を未然に防がなければ、そこに探偵がいる意味はない」
「うん」
「先生は今、誰かに復讐をしようとしている。違いますか?」
それまで先生の顔に浮かんでいた笑みが、その時すっと消えた気がした。
けれどもそれはほんの一瞬で、すぐさままたその顔には、相手の警戒心を解くようなゆるい表情が戻った。
「何のことだろう……。磯崎くん、誰かから何か聞いた?」
「思い当たることがあるんですか?」
「思い当たるというか……うーん……」
先生は、考え込む顔をした。
それは、復讐を考えている人が誰かにそれを指摘されて焦っている……というにはほど遠いものに見えた。
「磯崎くん。先生は、生徒のことを考えるのが仕事だから。だから君たちが話したいことがあったら、何でも話してほしいし、先生は何でも聞くよ。でも、生徒は先生のこと、そんなに考えてくれなくていい。気を遣ってくれるのはありがたい話だけれど、私は別に事件に巻き込まれそうになっているわけではないし、もちろん事件を起こそうともしていない」
「先生は、僕がこの学校に編入した理由をご存知ですよね?」
磯崎のことばに、僕はえっ、と彼を見た。
磯崎も編入生だったなんて……そんなの初耳だ。
「それは……まあね」
「だったら、僕はいじめの被害者寄りの人間だってことはわかりますよね。綺麗ごとで邪魔しようってわけじゃない。でも、結局復讐で不幸になるのは復讐した本人だと、僕は思うし」
僕は磯崎の顔と先生の顔を交互に見る。
いじめって、どこからそんな話が出てきたんだ。聞いてない。磯崎は、何を知っているのか。
「……はったりなのか何なのかよくわからないけれど……」
先生は、困ったように笑った。
「君が心配するようなことは、何もないよ」
磯崎くん、部活は?
殊更に先生ぶるような言い方をしたかと思うと、先生は、ちょっと会議があるからごめんね、とその場を去って行った。
磯崎は、その背中をじっと見ている。
僕は我慢して、我慢して、高槻先生の姿がだいぶ遠くなってもう大丈夫聞こえないだろう、というところでようやく口を開いた。「どういうこと?」
「ん?」
磯崎は、高槻先生から視線をはずしてぽかんと僕を見る。
「なにが」
「なにが、じゃないよ。途中から、全然話が分からなくなったんだけど」
「ああ、そう」
「なに?僕がわかってないのは僕のせい?」
自分が馬鹿みたいに思えてきて、磯崎の反応にますます腹が立った。が、その僕に頭を冷やさせるごとく、その時野球の白い球が僕の頬をかすめるように飛んできた。背後のフェンスに、ガシャン、と音を立ててぶち当たる。
悪い、大丈夫か?と声を上げながら遠くから走って来るユニフォーム姿に、磯崎は大丈夫だ、と答えると、ボールを拾って投げ返した。妙に綺麗なフォーム。だいぶ距離があったけれど、ゆるやかな放物線を描いて、球は相手のミットに納まる。こういうさりげなく「デキる」感じが……鼻につく。
「君も編入生だったなんて知らなかった」
「ああ、話してなかったな。君と違ってちゃんと学期始めからだよ。一年生の二学期からここの生徒になった」
「編入の理由はなんだって?」
「いじめだよ。耐え切れなかった。それでここに来た」
二人一組で向かい合ってキャッチボールをしている野球部を眺めながら、磯崎はさらりと言った。
「言っておくが、僕が探偵を自称し始めたのはここに来てからだからな。それが原因でいじめられたわけではない」
「別にそれは疑ってないけど。っていうか、どっちでもいいけど」
「ともかくそういうわけで僕は、いじめには敏感なんだ。探偵にとって視線の偏りはよくないものだとは思うが……そういうバイアスが自分にあることは自覚している」
バイアス、ってなんだ。
僕が知らない言葉を、知ってて当然のように使うのが癪に障る。
それはともかく、僕は、根津くんの提案を拒否した時の磯崎を思い出した。
だから僕をいじめるのは、たとえお芝居でもいやだったのだろうか。
「昨日の出来事で、まず僕の中で浮かんだのもいじめの構図だった。けれどもそれが僕のバイアスによるものである可能性もあり、客観的に見てどうなのか自信がなかった。だから今朝君に話す時には、なるべく僕の推論はまじえず、客観的な事実だけを語るよう心掛けたつもりだ。君は今朝僕の話を聞いて、いじめが絡んでいるとは思わなかっただろう」
「ぜんぜん」
「だからやはり僕の気のせいかとも思った。だが、畑を実際に見た僕と話を聞いただけの君では、受け取るものが違うかもしれないとも思った。普通の状態ではなかったけれど、見ればわかる、あの畑という男は、生粋のいじめっ子だ。こう、気質レベルでナチュラルにいじめっ子、という人種がいるんだよ。そういう人間が必ず深刻ないじめをするとは限らないし、そういう人間に優しさや人情がないというわけでもないのだけれど、ただ、性格が『いじめっ子』な人間というのはいる。そして畑の職業はおそらく教師だ。部屋にあった本、そして本人の、ちょっとまともになった時の僕への話し方の感じなどから、これは間違いない。同じ職業になったのなら、職場の学校が違っても、何らかの接点が生まれる可能性は高い。僕が思い浮かべた構図は、中学生時代、畑が首謀者でいじめが行なわれていた、というものだ。いじめの被害者は高槻。そうして大人になった高槻は、再会した畑に復讐をほのめかした。教師であるならば、かつてひどいいじめを行なっていたという事実だけでも、相手の社会的地位を奪うのに充分威力を発揮するだろう。畑は精神的に相当のダメージを食らっている状態だったわけで……」
「そういうことは、先に言っておいてほしかったよ」
「朝はまだ、自分でも整理しきれていない部分が多かったんだ。とりあえず、手帳の中身を見なかったことが悔やまれてならなかった」
「……ためらってしまったからどうのこうの、って言ってたこと?」
「そう、本当に、あれを見ていれば、もう少しわかったことがあったかもしれないんだ。思うに畑は、当時のことをあまりよく覚えていなかったんじゃないだろうか。いじめた側というのは、えてして自分がやったことを忘れてしまうものだ。自分が何をやって何をやらなかったのか、復讐を回避する策を見出すためにも、畑は当時の記憶を呼び起こす必要があった。それで家に帰って、中学時代にまつわるものを引っ張り出した。手帳には、いじめの事実に結びつく記載があったかもしれない。どうしてためらってしまったのか……」
「まあ、そういうこともあるんじゃないの」
「僕は……僕の中に、まだ『いじめる者』への恐れがあったんだという気がして、それが僕に動きを止めさせたのではないかと思って」
「……恐れがあったら写真を盗ってきたりできないって」
「恐怖心への必死の抵抗で、咄嗟に勢いづいてしまったんだな。でもよく考えると、写真を無断で持ち帰ったのは犯罪だな」
「よく考えなくても犯罪だよ」
はあ、と僕は息をついた。
もう少し、ちゃんと考えてみる必要があるのではないだろうか。
「君はどう思ってるの?高槻先生は、嘘を言っているのかな」
「難しいところだな。もしも復讐しようとしてるとしたら嘘をつくかもしれないし、そうでなくても昔いじめられていたことを隠したいとか、当時のことには触れられたくないといった理由で嘘をつくことはありえると思うが」
「でも、そんなすぐばれる嘘、つくかなあ。さっき高槻先生、他の先生について、誰それは卒業生だけど、とか言ってたじゃない。ここ出身かそうじゃないかってことは、他の先生みんな知ってるし、それを生徒に言うことも全然問題ないってことだよね。他の先生に訊いたら一発でわかっちゃうのに、そんな嘘つく?」
「他の教師にも隠している可能性はある。卒業はせず、在籍していただけなら履歴書に書くこともないわけだし」
「当時……高槻先生が中学生の頃からいる先生はいないのかな」
「いないはずはないだろう。私立の学校はほぼ異動もないはずだから。ただ、もしもそのいじめが深刻なものであったとしたら、学校にとっても不祥事となるから、その教師たちこそ隠そうとするかもしれない」
空はよく晴れていて、フェンス越しの緑は妙に生き生きと繁っている。前に視線を戻すと、野球部は試合を始めていた。この五月の爽やかな空気の中で、僕たちは教師の嘘といじめ復讐疑惑について考えているのだった。城山なら、こういう対比をひどく面白がっただろうなと思う。
その時、特に掛け声もなくばらばらと走っている運動部集団の中の一人が、トラックを離れてこちらに近づいてきた。何かと思っていると、彼は僕たちに折りたたんだ紙切れを差し出した。
「これ、さっき向こうで渡すように頼まれた」
同学年らしかったが、僕は知らない子だった。全校生徒の顔を把握しているという磯崎はもちろん誰か知っているだろうし、相手も磯崎のことは知っているかもしれない。とはいえお互い、特に関わる気もないのだろう。磯崎は、それを誰に頼まれたのかすら訊ねなかった。
「ありがとう!」
磯崎は笑顔でそう言い、彼はすっと走り去って行く。彼が充分遠ざかってから、磯崎は紙を開いた。1830とだけ書いてあった。
「根津だな」
磯崎は言った。
「なんか今日、根津くん機嫌悪くなかった?」
僕は気になっていたことを口にしてみた。
「そうか?」
「気づかなかったの、全然」
「同じ授業もないし、学校では接点がないからな……」
機嫌が悪かったと言うよりも、本当は、磯崎への視線がきつかった、と言った方が正しい。昼の時なんて、ほとんど磯崎のことをにらんでいた。
「君って結構鈍感な方?」僕が言うと、
「探偵が鈍感なのは問題だな」磯崎は、むむうと考え込んでみせた。