Chapter-5 ①
子どもみたいに拗ねたりしてはいけない。そう自分に言い聞かせながら、次の日の朝、僕は駅へと向かっていた。磯崎の親切をありがたく受け止めるべきだ。探偵云々、助手云々は、磯崎の特殊な社交術、僕みたいな新参者を話題に巻き込みやすくし、根津くんみたいなはぐれ者にも頼られやすくする、そういう一種の戦略みたいなものなのだろう。自称探偵なんて、そもそも馬鹿みたいだと、僕だって思っていたはずだ。真に受けてはいけないものだったのだ、それは。
朝の駅は通勤通学の人で賑わっていた。満員というほどではないけれどそれなりの密度となる車内は、決して快適とはいえない。昨日一昨日の朝の息苦しさを思い出し、僕はすでにげんなりしていた。編入前日に磯崎に指摘された制服の窮屈さなんて、もうとっくに感じない。
定期を改札に通し、階段を上ろうとした、その時。
ぬーっ……と背後に人の気配を覚えた。
思わずはっと振り返る。そこに立っていたのは長身の……磯崎だった。
「え?は?なんで?」
一昨日の言い方からすれば、磯崎の家の最寄り駅は学校と僕の家の最寄り駅の間にある。だから途中下車ではない。学校と反対方向の電車に乗らなければこの駅には来られないはずだ。なんで朝のこんな時間に、こんなところにいるのか。
「君を待っていた」
うつろな声で磯崎は言った。一昨日の夜以上の猫背で、髪はやけにぼさぼさ、目にも生気がない。
「……どうしたの」
「助手の助けが必要だ」
真顔で磯崎は言った。
それは、編入生のための方便ではなかったのか?
「どういうこと」
「……ちょっと頭の整理がつかなくなっている。君に話せば少し落ち着くかもしれない。聞いてもらえるだろうか」
「いいけど……学校ではしにくい話?」
「わからない。とりあえず学校外で話したい。それから考えたい」
磯崎は言った。
僕は時計を見た。今日はまだ編入三日目。遅刻はまずい。
とはいえ念のため余裕を持ってかなり早めに出ているので、時間は多少はある。
とりあえず僕たちは、学校の最寄り駅まで行った。ほとんど会話を交わさないまま電車を降り、一番人気の少ない出口から駅を出た。一昨日の夜そちらへ行かなかったのは、街灯が少なくてあまりに暗かったからだった。朝の光の中、誰からも忘れられたような小さな公園を見つけ、並んでベンチに腰かける。十五分くらいなら平気なはずだ。
「昨日高槻を尾行したんだ」
磯崎は口を開いた。ぼさぼさ頭でうつむいて、足元をにらんでいる。
「尾行」
思わず僕はその言葉を繰り返した。
本気だったらしい。社交上便利な個性付けのためではなくて。本当に、磯崎は自称だけど「探偵」だったらしい。
「なんで尾行?例の……根津くんの依頼の調査で?」
「それも少し関係はあるが。高槻に以前、尾行するなら自分を尾行するように、と言われたんだ。僕はまだ未熟だから、たびたび高槻で尾行の練習をしている」
「……へえ」
「教師という職業も大変だな」
「それを君が言うの」
磯崎は顔を横向けて僕を見ると、ちょっと笑った。
「ところが昨日、高槻を尾行していたのは僕だけじゃなかった。別の人間がいた」
高槻先生を追う謎の組織の存在……なんてイメージがつい頭に浮かんだ。磯崎のことばはそんな冗談に繋がるんじゃないかとふと思った。でも違った。
「そいつは学校を出てすぐぐらいから高槻の後をつけ始めた。ちょっと動きがおかしい、ふらふらと酔っ払いみたいな感じだった。けど露骨に高槻のことを尾行していた。たまに電信柱に隠れたりするような下手くそなやり方で、けど高槻は振り返ったり気づいたりするそぶりは見せなかった」
「高槻先生は、君の尾行にはいつも気づくの?」
「気づいたと言われたことは一度もない。けど実際は気づいているのかもしれない。あいつはタヌキだから」
「じゃあ、昨日も気づいてた可能性はあるんだよね」
「まあ、ある。そこのところは本当にわからない。……ともかく僕は、そいつのことが気になったので、途中で高槻ではなくそいつの尾行に切り替えた。とはいってもそいつは高槻を尾行してたから、つまりは途中までは僕は高槻の尾行も続けていたことになるが」
「尾行って、どこまで」
「まず高槻の家まで。高槻は、学校から徒歩十分ぐらいのアパートで一人暮らしをしている。この駅とは反対方向。男は高槻の家を見届け、しばらくまわりをうろうろして、ポストを覗いたり、表に回って窓を窺ったりしていた。しばらく呆然と立ち尽くしたりもしていた。しかしそのうち諦めたのか、その場を離れた。この駅まで来ると、電車に乗った」
その男は、五分ほど揺られた先の駅で降りたと言う。
「君の家と反対方向の駅だよね。よくもまあそこまで……」
「気になったんだ。動きが普通じゃなかった。妙に疲れていて老けて見える雰囲気だったが年はおそらく二十代。ちょっと皺になっていたし安物ではあったがきちんとしたスーツを着ていた。髪は朝念入りに整えていただろうのに、頭を掻きむしったらしくぐちゃぐちゃだった。そういった格好には慣れておらず、朝身なりを整えて出たが、用事が終わってから崩したのだろう。顔が赤く、かなり酒が入っている様子だった。高槻が家に着いた後、僕はさりげなく前からも奴を観察してみたんだが、目が妙に血走っていて、高槻の姿を追おうとするその目が……恐怖と怯えと軽蔑が入り混じったような……独特のものだった」
「それでどこまでついていったの」
「そいつの家まで行った。七階建てマンションにそいつは住んでいた。畑篤典。ポストで名前を確認した。奴の部屋の電気がつくのを僕は外から見ていたんだが、それ以上できることはなさそうだった。尾行を続けて喉が渇いていたんで、僕は近くにあった自動販売機でお茶を買って飲んでいた。そうしたら、部屋から喚き声が聞こえてきた」
僕は時計を見た。あと十分ぐらいなら、大丈夫そうだ。
「どんな喚き声?」
「半分以上は、何を言っているのかわからなかった。わあ、とか、おおお、とか、ただ叫んでいる部分も多かった。聞き取れた意味のあることばは、『来るな』『やめろ』『許してくれ』『ふざけんな』『死ね』『クソ虫が』『おまえ』『カス』『ゴミクソ』『悪かった』『高槻』」
「『高槻』って……はっきり言ったの?」
「それは間違いない。その名前は何度も言った」
僕はのほほんとした高槻先生の顔を思い浮かべる。確かに食えないところのある人だとは思うけれど……。
「声に気がついて、犬の散歩をしていた女性とランニングをしていた中年の夫婦も足を止めてマンションを見上げていた。そうしたら、声の主であるそいつが……畑篤典がベランダに出てきた。ふらふらと左右に揺れながらベランダの囲いの上に立ったかと思うと、次の瞬間そこから飛び降りた」
えっ。
僕は顔から血の気が引いた。
「そういう話だったの?その、死……」
「大丈夫だ。畑が住んでいたのは二階だった。すぐ下に木が生い茂っていた。その上に乗っかって、枝が折れたが、あちこち引っかかりながら段階的に落下して、最後に着地したのも植え込みだった。だから命には全く別条ない。まあそれでもびっくりしたし、僕はすぐに彼に駆け寄った。さっき言った三人の通行人もやって来た。畑はあちこちひっかき傷を作り、倒れたままうめいていた。なかなか起き上がらないのが、怪我のせいなのか酔いのせいなのかもわからない。とりあえず動きがぐにゃぐにゃしていた。大丈夫ですか、と僕は彼に呼びかけた。犬の散歩の女性が救急車を呼ぼうとしたが、その時目を覚ました畑は、それを強く制止した。それから僕を見て、『桂木じゃないか』と言った。僕のことを『桂木』という奴と間違えているようだった」
「たまたま君が知り合いに似てたってこと?」
「まあ、うん。ともかく僕は、あれこれ気になっていたから、咄嗟にこれはチャンスだと思った。よろめきながらも立ち上がった彼を支えて、助けながらマンションに入り、階段を上って、部屋まで行った」
「部屋まで?」
「うん。中年夫婦も犬を連れた女性もちょっと心配してくれているようだったが……知りあいですので大丈夫です、と嘘をついてね。畑の方は、身体はぐねぐねだったが、酔いが醒めてきたのか、その後は比較的落ち着いていた。階段を上っている時点で、僕が『桂木』でないことにも気づいたようだった。僕に対して『悪いな君』と言ってきたんだ。それから、僕の制服を懐かしいと言った。僕を『桂木』というのと間違えたのも、この制服を着ていて、背格好や雰囲気が似ていたかららしい。彼は香々見学園の卒業生だったんだ」
「それはすごい偶然……偶然なの?」
「ともかくそのまま僕は玄関の扉を開けて畑の部屋に入った。部屋は散らかり放題だった。外で尾行していた時から酒を飲んでいたようだったが、部屋に戻ってからもまた飲んだようで、カーペットの上に酒瓶が転がっていた。それからテーブルの上に、精神科の処方箋と薬のシートが大量に置いてあった。向精神薬が十数種類、おそらくそれを酒で摂取したんだろう。ああいった薬は飲酒すると効果が強まったり、変な副作用が出たりする。叫んだり飛び降りたりしたのはそのせいに違いない。救急車を嫌がったのは、注意を受けるのをおそれてだったのかもしれないな。
とりあえず僕は畑を座らせて台所に行き、勝手に戸棚のグラスを出して水を入れて持って行った。しかし畑は手が届くところに酒瓶があったので、また飲んでいた。僕は高槻について話を聞きたいと思ったんだが、もうまともに会話ができる状態ではなく、そのうち彼は寝てしまった。僕は奥の部屋を開けた。六畳の畳の間に、万年床らしくすでに布団が敷いてあった。その部屋もひどく散らかっていた。だがそれは、カーペット敷きの部屋の方とは違って、一時的に荒らしたような散らかり方だった。机や本棚があり、基本的にはきっちりと整理されていた。が、いくつかの棚の引き出しが出しっぱなしになっていて、中のものが畳の上に散乱していた。たぶん何かを探していたんだろう。しかし……」
「しかし?」
「しかし僕は、そこで一瞬ためらってしまったんだ。そこにあった紙類やノートや手帳には、彼が何者なのか、彼と高槻が一体どういう関係なのか、彼と高槻の間に何があったのか、彼はどういう思いを高槻に抱いているのか、そのヒントが書かれているかもしれなかった。それなのに僕は、それを見るのを躊躇してしまったんだ」
「別におかしくないだろ。他人の家で、勝手にそういうものを平気で見れる方がどうかしてるよ」
「でも、僕は探偵なんだ。真実の構図を見出さなければ、正しい行動を起こすことはできない。ためらったりするべきではなかった」
磯崎はうつむき、ぎゅっとこぶしを握っていた。
磯崎の中では、好奇心より躊躇が勝ったことは大問題らしい。
「よくわからないな」
正直に、僕は言った。
「わからないけど、君、僕と初対面の時、人のこと随分ずけずけ言ったじゃないか。他人のプライバシーに配慮する気持は、間違いなく人より少ないよ。大丈夫だよ」
磯崎は、うつむいたままだった。
「そろそろ時間が」
僕の言葉に、「あと少しだけ」と磯崎は続きを話し出した。
「気がつくと、畑が背後に立っていた。僕のことをどう認識していたのかはわからない。彼は『何をしてるんだ』と凄んだ。僕は自分の中で用意していた言い訳を言った。『寝るならこちらで寝た方がいいですよ』とね。彼は僕の言葉には答えず、『出て行け』と言った。喚くというよりは、静かで高圧的な感じだった。僕は素直に従って、その部屋を後にした」
「……以上?」
「最後にこれだけ見てくれ。僕は手帳その他を見るのをためらってしまったが、これをとってきた」
そう言うと、磯崎は制服の上着の内ポケットに手を入れた。
出てきたのは、一枚の写真。
「盗んできたの?」
「ああ」
「手帳を見るのをためらったとか言って。充分どうかしてるじゃないか」
僕は呆れた。
「僕は探偵である自分に自信を失わなくてもいいんだろうか」
「少なくとも、探偵ができないほど善良ではないよ。まったく」
「それはよかった。君と話してよかった」
妙に嬉しそうな磯崎が、わからない。
もしかして磯崎は、「いい奴」と呼ばれるのがいやなんだろうか。
でも、だったら昨日のバスケの試合の時みたいに……あんな風に振る舞わなければいいのに。ぶっきらぼうにして、悪態をついていれば、「いやな奴」になるなんて簡単に違いないのに。
でも一昨日根津くんが僕をいじめるふりをする提案をした時、磯崎はそれを拒否した。もしも「いい奴」であるのがいやで、クレイジーな探偵でありたいなら、そういった提案には嬉々と乗るものではないだろうか。
「君が何を目指してるのかさっぱりだよ」
僕は言った。
「何を言ってるんだ」
磯崎は、心外そうに目を丸くする。
「明快じゃないか。僕が目指しているのは探偵だ。探偵以外ない」
「目指してるんじゃなくて、すでに探偵なんじゃなかったの?」
「探偵だ。探偵だとも!」
磯崎は叫びながら立ち上がった。それ以上、つっこみを入れている余裕はなかった。ぐずぐずしている場合ではない。僕も立ち上がる。
「ともかく高槻に確認しなければ。畑篤典と、一体何があったのか?今、どういう関わりを持っているのか?」
走りながら磯崎が言う。
磯崎が盗ってきた写真は、クラス写真だった。全員が香々見の制服を着ている。その、並んだ中学生の中に、今よりずっと若い、というか幼い、少年時代の高槻先生の顔があった。
通学路には、すでに誰もいなかった。
僕たちは、二人揃って遅刻だった。HRはすでに始まっていた。僕はこっそり後ろから入ることを考えていたけれど、磯崎は真向前の扉を開けながら大声で「すみません!」と言った。
「……おはようございます。仲良くなったのはいいけど、遅刻はだめだよ」
やんわりと、高槻先生が言った。
やっぱり甘い先生だな、と思っていたら、
「磯崎くんは知ってると思うけど、三回遅刻したら保護者呼び出しだから」
冷やかに先生は続けた。
「すみませんでした!」
磯崎は大げさなぐらい頭を下げる。僕も隣で頭を下げた。
「いいから早く座って」
「すみません。放課後先生とお話したいことがあります。沙原くんも一緒に。いいですか?」
謝っている勢いそのままで、唐突に磯崎は言った。直球ストレート。横に立っていた僕は呆気にとられて彼を見た。磯崎は、平然としている。探偵というのは何となくひそかに動くイメージがあるのだけれど、クラスみんなの前でこの申し出。……いや別に、それで困ることはないはず……たぶん。
「はい、放課後ね。わかったから、HRの続きをしてもいいかな」
「よろしくお願いいたしますっ」
磯崎は、おどけて机に手をついて、上半身だけの土下座ポーズをして見せた。僕はそそくさと窓際後ろの自分の席に向かう。クラスメイトの大半が笑っていたのは救いだった。けれどもその中で、笑っていない根津くんが、僕の心に引っかかった。