Chapter-3 ①
わおおん、とどこかから犬の鳴く声がする。
僕たちは、家が並んでいる通りに入った。ちらほらと門灯が灯っている。和風で古めかしい、小ぶりの一軒家が多い。たまに小さな庭やちょっとした畑のある家もある。家の並びの向こう側は緑の繁る山だ。
一軒の家の前で、磯崎は立ち止まった。僕でも余裕で中を覗ける低めの塀の合間に小さな門があり、その門には南京錠がついている。磯崎は、小さな鍵をポケットから取り出した。
「……磯崎くんの家なの?」
「いや」
「じゃあ誰の家?」
「さあ」
磯崎は鍵を南京錠に差し込んだ。かちり、と音がして南京錠が開く。キイ、と音を立てて磯崎は門を開けた。
「さあ、じゃないよ。じゃあ何で鍵を持ってるの」
「僕が付けたから」
「え?ちょっと待って。磯崎くんの家じゃないんだよね。他人の家の門に勝手に錠をつけたってこと?」
「心配するな、不法侵入じゃない。この家は、依頼人の親の持ち物だ。今は誰も住んでいない。依頼人はたまにここの掃除をするように頼まれていた。不良の溜まり場になっても困るから南京錠くらいつけた方がいいと僕が提案した。ここで依頼人と落ち合うことになっている」
小さな庭は草がぼうぼうに生えていた。数歩分の踏み石が連なり、その先に玄関の扉がある。一階建ての、小さな家。雨戸は閉まっておらず、薄暗い室内が覗いている。生い茂る雑草は幸い丈の短いものばかりで、踏んで歩くのに苦労はなかった。玄関の反対側に回ると、山の木々を目の前にして庭に面した縁側があった。
「どうした?座ったら」
「……本当に大丈夫なの?」僕は訊ねた。「こんなことで補導されたりするのいやだからな僕は」
「心配するな。この家には誰も潜んでないよ、ほら」
僕の不安をどのように受け取ったのか、磯崎は室内をペンライトで照らしてみせた。がらんとして何もない、けれども掃除はされているらしい、小ぎれいな畳の和室がガラス越しに浮かび上がった。
僕は仕方なく磯崎の隣に腰かけて、横に鞄を置いた。何なんだろう。何でこんなことになっているのか。
「依頼人って誰なの。どういう人?っていうか何を依頼されてるの」
こんな「自称探偵」に、誰が何を頼むというのか。
そもそも昨日磯崎が僕に嘘を言ったという、その件について話をするのではなかったのか。
かちゃん。
その時、表の方から門を開ける音がした。
シャク、シャク、と草を踏む足音が響く。
「あれ……?」
ちょっと甲高い声。小柄で華奢な人影。
やって来たのは、根津くんだった。
「沙原くんじゃない。なんでここに?」
彼も制服のままだった。鞄とともに黒い小さな楽器ケースを提げている。たぶんフルートだ。彼は吹奏楽部なのだろうか。
「僕が呼んだんだ。彼は僕の助手だ。だから事情を話したい」
磯崎は言った。僕は口を開けて磯崎を見た。助手じゃない。そう否定したかったけれど、ここでそれを言ってしまうと、その「事情」とやらを聞く権利を失ってしまいそうだ。それは困る話だった。一体どういうことなのか、知らないままで帰るなんてできるわけがない。磯崎が執拗に根津くんを犯人に仕立て上げていたのは、根津くんの依頼だったということなのか。何でそんなことをしているのか。
根津くんは、僕のことを値踏みするように見た。
「ふうん。まあ、いいかもね」
言いながら、なぜかきつい視線を僕ではなく磯崎に一瞬向けた。
「僕が磯崎くんに依頼したのは、学園の謎を暴くことだ」
僕に視線を戻すと、根津くんは不敵な笑みを浮かべてそう言った。
「学園の、謎……?」
なんだそれ。
根津くんまで、磯崎と一緒に壮大な探偵ごっこをやっているのか。
僕が顔をしかめていると、根津くんはとことこと歩いてきて、僕の横にカンテラを置いた。そうして縁側に自分も腰かけると、続けた。
「はっきり言ってさ、おかしいと思うんだよ。うちの学校、お金がかかり過ぎてる」
……え?
学園の謎、とか妙にフィクションめいた言い回しをしていると思ったら、今度はえらく生々しいことを言う。
「学費はさ、はっきり言って安くはないよ。でも他の私学とそれほどには変わらないレベルだ。今どきどの学校も経営は相当苦しいって聞く。なのにどうしてうちの学校は、生徒数がこんなに少なくても平気なのか。生徒ひとりひとりへの手厚いケア、クラス担任と教科担当の完全分離による教師の負担軽減、充実した設備、何よりもあの豪華な施設の維持。どう考えたっておかしいよ」
いやおかしいかもしれないけれど。
それよりおかしいのは根津くんではないだろうか。
「根津くん、その、なんていうか……なんでそんな詳しいの。その、学校のこととか」
別に馬鹿にしていたわけではないけれど、昼間「自分は頭が悪い」と言っていた根津くんとは……なんというか、別人ではないか。
「調べたからだよ。なに?頭悪いはずなのになんで、とか思った?」
「いや、そんなことは」
「なんで調べたかというと、僕はある疑惑を抱いているからなんだ」
「疑惑?」
「鏡だよ」
話が見えない。
「こんな噂は知ってる?うちの学校はイケメンばかりを入学させているという」
平気で言う根津くんに、普通の表情で聞いている磯崎。
彼らの顔を、僕は思わず交互に見た。二人にとっては、自分は顔がいいというのは当たり前の事実なのだろう。だから噂のことを、こんなに平然と話題にできるのだ。
「へ……へえ。そんな噂があるんだね」
別に「噂を聞いたことがある」と言ったって問題があるわけでもないはずなのだけど、思わず僕はしらを切った。僕の気持を知ってか知らずか根津くんは、「まあ、全員が全員イケメンってわけでもないと思うけど」と、まるで僕へのあてつけのようなことを言う。
「そ、それと鏡とどういう関係が?」
「僕はね。あの天井の鏡は、カモフラージュじゃないかと思うんだ」
「カモフラージュ?」
「そう」
「なんの?」
「カメラ」
「カメラ?」
阿呆みたいに同じことばを繰り返す僕に、根津くんはちょっと馬鹿にしたような顔をした。そうはいっても、一体何が何だか、この話についていくのだけで精一杯なのに、この状況で頭がまともに働くわけがない。
「つまりね。鏡の裏から盗撮されてるんじゃないかと思うんだ」
ゆっくりと、噛んで含めるように根津くんは言った。「着替えはホーム教室だし、トイレの天井に鏡はないから、まあいかがわしいのではないと思うけど。イケメンの学園生活を眺めるために金を出す人はいると思う」
平然と言い放つ根津くんに、僕はのけぞりそうになった。
どう返したらいいんだろう、これ。
「ええと、つまり、その盗撮疑惑を調べることを、根津くんが磯崎くんに依頼したという、そういうことなの?」
「そういうこと」
言いながら、根津くんは僕を挟んで端にいる磯崎を見やる。磯崎は長い脚を組んで投げ出すように座ったまま自分の足元を見つめていた。視線に気づいて顔を上げると、
「そういうわけで、根津を犯人だと言ったのは、あくまでも作戦なんだ」
と僕に言う。
「根津くんを犯人にするのが、どうして盗撮疑惑を調べることになるの?」
僕が訊ねると、磯崎ではなく根津くんが口を開いた。
「学校にいる先生の、みんながみんな事情を知っているかどうかはわからないけどね。高槻先生には『視聴覚顧問』の肩書もある。国語教師のくせに、機械に強いんだ。校内の機材の管理は高槻先生の管轄。だとすると、盗撮映像の確認や管理も先生が担当している可能性が高い。さて、高槻先生は仮にも僕らの担任教師だ。いたずらが発生し、磯崎くんが僕を犯人だと決めつける。担任としては、なんとしてでも真犯人を知る必要に迫られる」
「磯崎くんが犯人で、根津くんに濡れ衣を着せようとしている。そんなの先生だってわかってるんじゃないの?」
「わかったって、証拠がない。磯崎くんがしらばっくれたらおわりだ。けど、映像があれば磯崎くんも言い逃れできない」
「けど、盗撮してるなんて生徒にばれるわけにはいかないんだから。いくら証拠を突きつけたくても、映像を出してきたりはしないでしょ」
「そこだ。映像は出せない。となればあとは、現行犯で押さえるしかない」
「そんなの、いつどこでやるかもわからないのに」
「わかるよ。学校すべての映像を観ておけば、どこで誰が何をやってるかわかる」
興奮したように根津くんが言った。
「磯崎くんがいたずらを仕掛けている。そこに先生が飛んでくる。不自然なタイミングでやって来て、磯崎くんがそこで何をやっていたかを事前に知っている。そうしたら、それは盗撮がまちがいなく行なわれていることを示唆していることになる!」
「……はずだったけれど」
靴の先で地面をこすりながら、磯崎が口を挟んだ。
「高槻は確かに妙なタイミングで現れる。でも、偶然といえばそれまで、という感じだ。少なくとも今日、あいつが僕の行動をどこかで観ていたことはありえない」
「なんで?」
熱弁を振るっていた根津くんは、拳を握ったまま磯崎に問う。
「今日、引っかけ糸を張った。あいつは盛大に転んだ。僕があそこにタコ糸を仕掛けていたことを知っていたら、あいつはあんな転び方はしない」
「うぬぬう……」
根津くんは、唸り声を上げた。
「高槻は、僕が根津を犯人に仕立て上げることに、何ら問題意識を持っていない。高槻が盗撮に関与しているかしていないかは不明だが、ともかくこの方法ではだめだ」
磯崎は言った。
「……なんで先生は、磯崎くんが根津くんのことを犯人だと決めつけたりしているのに、平気なんだろう?」
僕はずっと疑問であることを訊ねた。僕は先生のことをまだよく知らない。けれども、生徒の問題を見て見ぬふりするような……そんな先生ではない、と思う、のだけれど。
「わからん」磯崎は言う。
「わからないけど、もしかしたら」根津くんは口を開くと、ためらいがちに言った。「先生は、僕なんかのことはどうでもいいのかもしれない」
磯崎が、顔をしかめた。
僕も、何と言っていいのかわからない。
根津くんは、けれど思いのほか明るい表情で続けた。
「そこで提案なんだけど。編入生いじめなんて、なかなか深刻な感じがすると思うんだ」
「え」
僕と磯崎は、同時に言った。
「磯崎くんはいい奴だからなあ。口裏を合わせていない相手を酷い目に遭わせるなんてできないでしょう。でも、沙原くんは助手だし事情がわかってるんだから、問題ないよね。いたずらの犯人の濡れ衣対象を僕から沙原くんに変える、なんてのは無意味だし。誰も見ていないはずのところでひどいいじめを演じてみせて、高槻先生の様子を見ようよ。表面的には、磯崎くんはそのままフレンドリーに沙原くんに接するといい。沙原くんはちょっと引いている。うん、今日の昼の感じはまさにそれだったから、無理なくできる。磯崎くんは陰で沙原くんをいじめてる。それを知って見て見ぬふりは、担任教師としていくらなんでもしないだろう」
にこにこと根津くんは言う。気まずいことを、何でそんなにズバズバいうのだろう。昼間の僕の態度を、そんな風に見ていたのか。しかも、いじめの演技って。
僕はちらりと磯崎の方を見た。
「他にもっとうまいやり方があるんじゃないか」庭の方に視線をやりながら、磯崎は言った。
「うん、あるならそれでもいいよ」根津くんはあっさりと言う。
磯崎は黙り込んだ。
「何か質問ある?」根津くんは、僕を見て言った。
頭が整理できていなかった。質問は、あるといえばいろいろあった。
ただ、ここで訊いていいのかわからなかった。できれば根津くんのいないところで、磯崎に訊きたかった。
「いや……今のところは……」僕は言った。
「学校ではこの話題はくれぐれもNGだよ。通学路も誰が聞いているかわからない。話していい場所はここだけ。ここに集まりたい場合は、紙きれに時間の数字だけを書いて渡す。鏡のないホーム教室で、先生の見ていない時に。文字は厳禁。万が一誰かに見られても、数字だけなら誰も意味なんてとろうとしないだろうから」
根津くんのことばに、僕はうん、と頷いた。