Chapter-2 ③
放課後の廊下で、僕は背中を丸めてしゃがみこんでいる磯崎を見つけた。僕は部活動一覧の冊子を職員室で先生に借りて読んでいて、けれど結局見学に行く部を決められず、諦めて帰ろうとしているところだった。昨日と同様、放課後から少し時間が経ったタイミングで、廊下に人気はなかった。そのしんとした空間で、磯崎は床に片膝をつき、神殿を思わせる白い柱にぐるぐるとタコ糸を巻いていた。
「……なにやってるの」
磯崎に自分から話しかけるなんて、と思ったけれど、さすがにこの状況で無視して通り過ぎることはできなかった。そして人目を避けるようにやっている雰囲気であったのに、僕に声をかけられて振り向いた磯崎の顔は、なぜか妙に嬉しそうだった。
「沙原くんではないか!」
その反応に面食らいつつ、僕は気を取り直してもう一度訊ねる。
「なにやってるの?」
今磯崎がしゃがみこんで結んでいるタコ糸の反対の端は、すでに別の柱に結び付けられていた。タコ糸は床から十センチほどの高さでぴんと張られている。大抵の人は、足元にそこまで注意を払って歩いてはいない。気づかずに歩いていけば、足を引っかけて転んでしまうだろう。
考えられることは二つだった。
磯崎は、不特定多数をターゲットにいたずらを仕掛けている。
または、この自称探偵は、特定の人間を引っかけるための罠を仕掛けている。
どちらにせよ、大差ない。前者なら、自分でやっておいて、また誰かを犯人呼ばわりする気なのかもしれない。後者なら、それはきっと磯崎が勝手に決めつけた「犯人」が標的なのだろう。
僕は少し責める口調だったと思う。
けれども僕を見上げた磯崎は、ちょろっと首を動かして僕の背後に目をやり、まわりに人がいないことを確認すると、声を低めて言った。
「沙原くん。僕は君に謝らないといけない」
その真剣さに、僕は戸惑った。芝居がかった張りのあるいつもの調子ではなく、ちょっと揺れのあるような、そんな声音だった。
何となく、彼に合わせて僕もしゃがみこむ。
「僕は昨日、君に嘘をついたんだ」
「嘘?」
「僕は君を助手にしたい。だから君には本当のことを話しておきたい」
助手云々は本気だったのか。
助手になることを受け容れる気はなかったけれど、嘘をついたというのなら何が嘘だったのか、それは知りたかった。僕は黙って先を促した。
「昨日はあの場に先生が来ただろう」
「うん」
「だから嘘をつく必要があった」
「うん」
「その内容はここでは話せない。僕はしばらくやることがあるが、一時間後に学校の横の公園で落ち合おう」
え?
ここまで気になる言い方をしておいて、後で、なんて。
何だか嵌められたような気がしないでもない。
でも、そんな言い方をされたら、これ以上ここで訊くことはできない。
しゃがみこんだ磯崎が、天井の鏡を見上げた。斜めの角度の鏡のかけらの一つが、職員室の出入り口を映している。そこから出てくる先生の姿が見えた。……どうやら高槻先生のようだ。
「ねずみは目立たない生徒だ。勉強は苦手。身体が弱く運動神経も悪い。彼は歪んだ自己顕示欲でいたずらを繰り返している」
糸を結び終えた磯崎は、立ち上がるとさりげなく後退し、現場を検証している探偵のような口ぶりで話し始めた。
「でも、ここに糸を張っておいたとして、もし犯人なら、自分のいたずらの結果を見たいんじゃないの?」
磯崎の意図は見えなかったけれど、とりあえず僕は調子を合わせて少し糸から距離をとり、磯崎の方に歩み寄った。磯崎が糸を覗くように座りこんだので、何となく僕もしゃがみこむ。高槻先生はトイレに行こうとしていたようだったけれど、僕たちに気がついてこちらに近づいてきた。
「磯崎くんに沙原くん。そんなところに座りこんで、何してるんだい?」
緊張感のない様子で先生は歩いてくる。
先生そこ気をつけて、と僕は言おうとしたけれど、磯崎が目で僕を制した。
「二人仲良くなったのはいいけれど、磯崎くんは部活……」
話しながら先生の足は、糸の下に滑り込んだ。
足を引っかけて、そのまま先生は、僕たちの前で盛大に転んだ。びたん、という擬音がぴったりな、見事な転び方だった。
「痛い……」
先生はうつぶせに倒れたまま、情けない声を出した。
僕はとっさに磯崎に従ってしまった自分を恥じた。
「先生!大丈夫ですか!」
そう大声を上げながら先生に駆け寄ったのは磯崎だった。わざと転ばせたくせに、この必死さはどうだ。それともこれにも理由があるのだろうか。
「なんでこんなところに糸が」
先生はよろよろと身体を起こした。幸いなことに、どこかを捻ったりひどく痛めたり、というようなことはなさそうだった。膝を強打したようで、ズボンの下はもしかすると青あざになっているかもしれないけれど。
「犯人はねずみです」
磯崎は断言した。
「糸を張ってるところを見たの?」
先生は立ち上がると、すぐさま柱の一方に近づいて、糸をほどきにかかった。
「見てはいません。でも間違いないです」
「どうして?」
「このタコ糸の結び方は、この間の避難訓練の時、サバイバル術の話になって立花くんがみんなに教えてくれたものです。つまり犯人は二年B組の人間だ。そして背の低い人間は、低い場所に注意が行きがち。二年B組で一番背が低いのはねずみだから、これも彼が犯人だということを示唆している」
「……いくらなんでもその決めつけはひどいよ」
先生はやんわりと非難した。その口調のやわらかさに、僕は我慢ができなかった。
「『ひどいよ』じゃないですよ」
思わず僕は言った。もう一方の柱の結び目をほどきにかかっていた先生が顔を上げる。
「偏見にも程があります。おかしいです。磯崎くんがこんなにおかしなことを言って根津くんを不当に貶めているのに、どうして先生は注意しないんですか」
先生も磯崎も、ぽかんとした顔で僕を見た。
「優秀な生徒をひいきして、そうでない生徒はどうでもいい存在と見なしている。そういうことですか?」
いきなり失礼な口を利いた僕に、先生は怒り出すかもしれないと思った。編入初日に何やってるんだ、とも思った。でも、後の祭りだ。
先生は、あっけにとられたように僕を見ていた。
しかしなぜか次の瞬間、妙に優しい顔で笑った。
「……まったく、沙原くんの言うとおりだ」
笑顔で先生は言った。
「証拠もないのに人を犯人扱いしてはいけないよ、磯崎くん」
それだけ言うと、ほどいた糸を手で巻きながら、職員室に向かって歩き出す。
僕は思いきり顔をしかめていた。
「いいねえ沙原くん。そういうとこ」
磯崎が言った。
僕は先生にも磯崎にも、馬鹿にされたような気がした。
「すぐ戻るから、ちょっとここで待っていておくれ。待っていておくれよ!」
磯崎の言っていた「やること」は、先生がいたずらに引っかかり糸を取り去ったことによりなくなったらしい。というか、先生を引っかけることが「やること」だったのだろうか。「一時間後に公園で」の約束は変更となった。部活を途中で抜けてきていた磯崎は、荷物をとりに部室に走って行った。僕は前の学校での、ゆるゆるとした放課後を思い出す。もちろん学校にもよるだろうけど、文化祭前とかでもない限り、文芸部員が途中で抜けたり帰ったりしても他の部員に迷惑がかかることはほとんどない。……他の部には、あまり入る気がしない。文芸部がいい。けれど。
磨き上げられた神殿のような廊下で、僕は居心地悪く待っていた。頭の上の鏡は、天井が高いのでそんなに気にならない……はずなのだけれど、たぶん自分の姿が映っていることで発生する「人間の気配」のようなものがあって……何だか落ち着かない。落ち着かないので、開き直って敢えて見上げる。さまざまな角度の鏡片に映る僕の姿。黒い頭と肌色と、紺色の制服。それが自分だと分かるのは、単に自分の動きに合わせて動くからだ。自分なんて、ちっともわからない。
なんで磯崎と帰ることになったんだろう。
関わりたくなかったのに。
でも、あんな風に言われたら、気になって仕方ないし。
磯崎が不自然に根津くんを犯人にしたがる理由も、もしかしたら先生のあの態度の理由も、わかるかもしれないし。
「お待たせ!」
僕と同じ物のはずなのになぜか小さく見える鞄を手に、磯崎は走ってきた。彼が走ると廊下も狭く見える。
「廊下は走ったらいけないって、昨日先生が言ってたよ」
「沙原くんは真面目だなあ」
「別に真面目じゃない。なんでもいいから君を非難したいだけ」
なんだかよくわからないけれど、「学校の横の公園」に行くまでは、話題を選んだ方がいいのだろう。そう思うからさっき先生を転ばせたりまた根津くんを犯人にした件には触れないようにしていた。とはいえ今この磯崎と、愉しいおしゃべりなんてできるわけがない。
「磯崎くんはなんで運動部に入らなかったの」
「そりゃあ入りたい部があったからさ」
「なんでそんなに文芸部に入りたかったの」
「あれ?僕が文芸部ってもう話したっけ」
「高槻先生から聞いた」
「そうかあ。しかし文芸部は期待外れだった」
「じゃあ退部したら」
「まあね。でも君が入るなら」
「なんで僕が文芸部に入ると思うの」
「前の学校で文芸部だったんだろ?」
「だからなんで知ってるの」
「なぜなら僕は、探偵だから」
僕は顔をしかめて黙り込む。
夕方の空には太陽が赤く残っていた。昇降口を出て階段を下り、木々に囲まれた道を行く。校門までは距離がある。
「どうして文芸部に入ったと思う?」
磯崎は嬉々とした調子で続ける。
「さあ」
「助手という言い方は失礼だったかな。相棒の方がいいかな」
「何の話?」
「探偵には、探偵の活躍を描く作家の相棒が必要なんだよ」
「だから?」
「だから文芸部に入ったんだ。僕の冒険を書いてくれる相棒。文芸部に入れば、そういう相棒に出会えるんじゃないかと思ってね」
「へえ」
「でも、僕の相棒になりそうな奴はいなかった」
「それはよかったね」
「そう思うかい?」
磯崎は、目をきらきらさせている。……どうかしている。
「いや、別に。……今のは意地悪で言っただけ。どうでもいいよ」
「なんだい。相棒の席がまだ埋まってなくてよかったって思ったんじゃないのかい」
「そんなことはかけらも思ってない」
やっと校門を出た。遠くの方に犬の散歩をさせている人の姿がある。公園まで行かなくったって、そろそろ本題に入ってもいいんじゃないだろうか。そう思ったが、磯崎は口を開かない。しょうがないので僕も無言で隣を歩く。
「さっきのことだけど、なんで高槻先生にあんなこと」
公園の入口まで来たので、しびれを切らして僕は訊ねた。
「話せば長いのだけれどね。いくつか君に伝えなければいけないことがあってだね……」
僕はてっきり公園に入るのかと思ったのに、磯崎は話しながら公園の入り口を通り過ぎようとする。
「ねえ、どこ行くの。公園行くんじゃなかったの」
「公園は単なる待ち合わせ場所として言っただけだ。目的地は別の場所」
目的地?
ちょっと話をするだけのはずなのに、目的地ってなんだ。
「話なんてどこでもいいじゃないか」
「よくない。事は重大なんだ」
「重大?たかが探偵ごっこだろ」
僕のことばに、磯崎は足を止めた。
彼の空気の変化に、僕はしまった、と思った。
彼は人当たりがよくて、僕に好意的に接してきていたので……油断していた。たぶん僕は地雷を踏んでしまったのだろう。
こいつは城山に似ているところがある。
好意が怒りに転じた時に人がどうなるか、僕はよく知っているはずだったのに。
「あ、いやごめん、悪かった」
僕は慌てて謝った。体格の違う磯崎に、僕がかなうとは思えない。
「……なんで謝る?」
「いや。言い過ぎたかな、と」
空は赤く染まっていた。公園の木々は黒々と繁り、辺りに人気はない。
「そうか?そのとおりじゃないか」
「そんなことないよ」
「そんなことないってことはないだろ」
「いや、そんなことないよ」
「不誠実な話し方をするなよ」
ぞっとするような冷やかな声だった。立ち止まったまま、じゃり、と靴が砂をこする音がした。磯崎は自分のポケットに手を入れた。出てきた手には、何か握られている。
「探偵七つ道具」
「……え?」
間違いなくナイフだろう、と思った。逃げたくても動けなかった。情けないことに、僕の膝は震えていた。
ぱちん、と音がした。
白い光が磯崎の顔を照らし出す。
「ただのペンライトでも、『探偵七つ道具』っていうと何だかわくわくしないか」
磯崎は言った。
磯崎の表情は別に怒っているものではなかった。
それにほっとしている自分に気がつく。
磯崎がまた歩き出したので、僕も横をついて歩く。公園の脇を抜けた細い道に短いトンネルのような場所があり、そこで磯崎はペンライトをかざした。僕はこの辺りの地理に詳しくない。一体どこに向かっているのか。
「目的地ってどこなの」
耐えきれずに僕は訊いた。
「廃屋」
磯崎は答えた。それから、
「……と言った方がロマンがあるだろ」と付け加えた。




