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Chapter-8 ⑤

 磯崎は、助手席に乗り込んだ。僕は一人で後部座席に座った。

 車は静かに走り出した。夜の景色が、窓の外を流れて行く。

「先生は」磯崎が、口を開いた。「畑さんのことをまったく憎んでいないんですか?」

「どうしたんだい急に」

 ハンドルを握りながら、先生はにこやかに問い返す。

「よく……わからないんです。今日の昼間、僕は先生が畑さんに復讐したと思っていて、それで平然としている先生に何だかショックを受けた。でも、今は逆なんです。先生は畑さんのことを全然憎んだりしていないように見えた。それどころか、彼に何の興味もないように見えた。何だかそれが」

 言ってから磯崎は、僕の方をちらりと振り返り、「こういうことを気にしていると、また沙原くんに軽蔑されそうだが」と呟いた。

「べ、別に軽蔑なんてしてないよ」僕は慌てて言う。

「……僕は今日初めて畑さんとお会いしたんだ。へえ、この人が、とは思ったけれどね。確かに、特に何も思わなかったな」

「それは過去のことだからですか?十五年も経ったから、風化してしまったということですか?」

「風化?」

「先生のお兄さんは、畑さんのせいで死んだようなものでしょう。殺されたみたいなものでしょう。許せないと、当時は思っていたと思うんです」

「どうかな」

「復讐は復讐を呼ぶ。きりがない。みんなが不幸になる。僕はそう考えています。でも、もしも僕の兄や弟が……二人ともそういうタイプではないのでありえないけど、でももしも誰かに酷い目に遭わされて死んだとしたら、僕は……復讐心を抱くかもしれない」

 真剣な調子のまま磯崎は、「まあ、今夜僕はその兄に殺されるかもしれませんが」と続けた。そういえば、落ちて砕けた携帯は、磯崎の兄の物だと言っていたはずだ。

「お兄さんが死んだ当時は、先生もショックを受けたんですよね」

 磯崎は、確認するように訊ねた。

「それはね」

 先生は、少し笑ってそう答えると、

「磯崎くんは、もしも自分が誰かへの憎しみを書き残して自殺したら、残された人が復讐してくれると思う?」と訊いた。

 磯崎は一瞬黙り込んだ。

「……わからないけれど……ちょっとそれを夢見たりは……したことがあります」

「うん。それでも君は、結局はそれを選択しなかった。本当によかったと思う。覚えておいてほしいんだけど、死を選んだらすべてが正当化され、誰もが死んだ人のことを惜しんで愛を語り出すなんてことは決してない。それどころか、僕は兄を嫌いになった。それまでは好きだったけれど、自殺をしたことで、僕は兄を大嫌いになった。許せないと思ったし、今も許していない。……僕たち兄弟は仲がよかったから、兄をいじめた奴らに復讐したいんじゃないか、と当時何度か人に言われたけど、はっきり言って僕はそのたびにうんざりしていた。いじめた奴らより、いきなり死を選んだ兄自身のことを、あの頃の僕は誰よりも憎んでいた」

 信号が赤だった。車は静かに止まる。僕は後ろから口を挟む。

「別に、正当化されることや誰かが復讐することを期待して死ぬわけじゃないでしょう。あまりにも辛くて、だから」

「まあね。死ぬのは自由だよ。そうして僕が兄を許さないのも自由だ」先生は言った。

 遺されたノートにどんなことが書かれていたのかはわからない。けれど、陰惨ないじめ、と根津さんは言っていたはずだ。

「お兄さんがかわいそうです」僕は思わず言った。

「うん、かわいそうだ」前を向いたまま、先生は同意した。

「でも、かわいそうでも、許せないことはある」

 先生は言った。

 信号が青に変わり、車は静かに発進する。

 闇に灯る歩道側の赤信号が、後ろに流れて見えなくなった。


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