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Chapter-8 ④

 根津さんだった。

 えんじ色のパーカーに、細身のジーンズを履いている。切り揃ったつややかな黒髪と、夜行性の小動物を思わせる大きな黒目がちの目。その姿は、一見男の子か女の子かわからない。透き通るような白い肌が、申し訳程度の常夜灯と町明かりだけの薄暗さの中、まるで光を放っているように見える。

「なんだおまえは?」

「生徒の顔を見ればどんなタイプかわかるんだろ?さっき自慢げに言ってたよね」

 学校にいる時のようにやや低めの、男の子めいた声で根津さんは言った。

「なんでここに……」

「人呼んで、正義のみっちゃんとは私のことだ」

 誰も呼んでない、と磯崎が呆然と彼女を眺めながらつっこんだ。この状況で律儀につっこむ磯崎に、むしろ僕は感心する。

「オトモダチか何だか知らんが、この状況がわかってないのか?」

 畑さんが僕の喉にナイフをあて直す。けれどもにこにこと余裕の表情の根津さんは、僕の生命の危機なんて微塵も意に介していないように見える。

「まさかこんなに馬鹿だとは思わなかったよ」

 根津さんは言った。

「まったく馬鹿な奴らだ」

「二人のことじゃない、あんたのことを言ってるんだよ畑」

「ああ?」

「二人のどちらかを誘拐してここに連れて来い。そこに高槻先生を呼びだして、生徒を盾に香々見の教師をやめることを約束させろ。高槻先生が香々見学園をやめたら、その空席におまえを入れてやる。そう言われたんだろ?」

「……なんで知ってるんだ」

「高槻先生を学園から追放したがっている『謎の学校関係者』がいる。あんたはそいつの指示で動いた」

「だからなんで知ってる」

「そもそもあんたは公立中学を休職中で、香々見に転職するはずだった。内定も出ていた。けれどもその内定は取り消された。採用に関わっていた人間が、たまたま一部の教師に『今度入ってくる先生』として君について話したのが発端だ。高槻先生は、君の名前に覚えがあった。自殺した兄が残したノートにあった、陰惨ないじめの記録。その首謀者の名前だ。確認すると、確かに本人だった。結果的に君の内定は取り消された」

「おまえは」

「あんたは内定取り消しを言い渡された日に高槻先生を偶然見かけ、死んだクラスメイトだと思いひどく動揺した。翌日『謎の学校関係者』から電話があり、学園にいたのは弟であることが知らされた。あんたは彼のせいで内定取消になったと信じ込んでいるようだけれど、実際はそれはきっかけにすぎない。中学時代の悪事だけで君を判断したわけじゃない。内定を出す前に、もっとよく調べるべきだったんだ。休職中の学校で何があったのか。君の話と事実はだいぶ異なっていた。君のクラスは崩壊し、君は何度か生徒に暴力を振るっている。

 とはいえ、百パーセント悪い評判ばかりというわけでもなかったんだよ。君をいい教師だという声もあった。高槻先生もちょっと気に病んでいたしね。今回の君の反応によっては、香々見は無理でもどこか職を紹介してもいいと思っていた。言ってみれば今回の指示は、試験のようなものだ。従わないのが正解。香々見に入れてやるという誘惑は道を踏み外させるに充分なものだし、内定取り消しの原因を作った高槻先生に逆恨みする気持もわかる。けれど教師以前に人として、踏みとどまれることを示してもらいたかった。まあ、正直あんまり期待はしていなかったけれどね。甘言を弄して磯崎くんか沙原くんを連れてきてしまうだろうなぐらいに思っていた。まさかここまでノリノリで非道なことをするとは思いもしなかった」

「な、何者なんだおまえは」

「ふふふ。金づるみっちゃんとは私のことだ」

 いや金づるみっちゃんなんて聞いたこともないぞ、とまた磯崎が律儀に突っ込む。 根津さんは続ける。

「訳あって、腐るほど金があるんだ。金があれば従う人間ができる。従う人間がいれば権力が生まれる。権力があることで権力のある人間と繋がることができる。さらに私は超絶優秀だからね。一般人の気持はいつも測りかねる。ほんとはもっと早めに止めに入るつもりだったんだけど、あんまりにも刺激的なシーンが続くものだから、つい見続けてしまった。悪かったね沙原くん。磯崎くんも」

 その瞬間、さっきまで数メートル先の並んだ室外機の向こう側にいると思っていた根津さんが目の前にいたのでびっくりした。たぶん畑さんもそうだっただろう。宙に飛んだナイフを思わず目で追っていたら、がしゃん、と激しい音が響いた。小柄で華奢な根津さんが、大の男、しかも相当鍛えていそうな立派な体つきの畑さんの頭を柵に押し付けたのだった。彼の両手は根津さんが片手でまとめて本人の背中に押さえつけている。何がどうなってそんなことができているのか、僕には全然わからない。畑さんは唸り声のようなものを上げているけれど、まったく身体を動かせないようだ。

「警察は足止めしたけど、そのかわりに私の雇った警備員が待機している。あんたを警察まで連れてってくれるよ」

 根津さんはそう言うと、畑さんの頭を押さえつけていた手を離した。しかしそれと同時にまとめて押し付けている両手に何かをしたらしい。畑さんはひどく痛がるような呻き声を上げた。けれど激しく首を振りつつ、首より下はぴくりとも動かない。一体どうなっているのだろうか。

 根津さんはポケットから携帯電話を取り出すと、通話を始めた。

「もしもし。上がって来てくれる?そう。うん。……え?来ちゃったの?あ、そう……聞かないって?わかった、いいよ」

 渋い顔をして根津さんは携帯電話をポケットにしまった。それからするりと畑さんの首の前側に手を回し、何かツボを押さえるように指を当てた。ひぎぃ、と畑さんの口から悲鳴が漏れる。

「ほいっとぉ」

 軽く掛け声を上げ、反動をつけると、根津さんは自分よりも遥かに重量があるだろう畑さんの身体を、向こう向きに柵に寄りかからせるようにして持ち上げた。手を後ろ手にされたまま、畑さんの上半身が柵を越えた形になる。

「うるさいな。黙ってろよ」

 恐怖のために大声を上げる畑さんに、根津さんは不愉快そうに吐き捨てる。

「私の権力があれば、ここであんたを殺したっていくらでももみ消せるんだよ。あんたは精神科に通ってるし、つい最近も錯乱して自宅のマンションから飛び降りたらしいじゃないか。教師として追いつめられている上、頼みの綱だった内定は取り消された。自殺の動機は揃い過ぎてる。というかむしろ今、自殺したくてたまらないんじゃない?死にたいんじゃない?どうしよう、私ったら超絶親切すぎるよね。だからお節介みっちゃんって呼ばれるんだよね」

 さすがに今回は、磯崎も突っ込まなかった。

 キイ、と金属扉の開く音が響く。

「……そこまでで。根津くん」

 高槻先生が言った。先生は、私服らしいポロシャツを着ていて、髪がくしゃくしゃになっていた。汗をびっしょりかいている。

「なあに?止めようと思ってるの高槻センセ。どうして?お兄さんの仇だよ。教師としても人間としても最悪最低のクソだ。ここで死んでもらったらいいじゃない」

 振り向きもせずに根津さんは言う。

「生徒にそんなことをさせるわけにはいかない」

「私は生徒じゃない。あんたの上司だ」

「……それに他の生徒の前だ」

「あ、じゃあ磯崎くんと沙原くんには席をはずしてもらおう」

「私は別に……畑さんが死ぬことなんて望んでいない」

「偽善的だなあ、高槻センセ。そういう偽善、生徒は見抜くよ。生徒は馬鹿じゃない。思春期の中学生を舐めちゃいけない。そういうの、一番嫌われるよ」

 高槻先生は、根津さんを無視して畑さんを抱え下ろした。根津さんも、特にそれに抵抗はしなかった。畑さんはなされるがまま、どこを見ているのか分からないような目をして、虚脱状態でコンクリートに座らされた。続いて高槻先生は僕に向かって、大丈夫?と訊ねた。あ、はい、と答えると同時に、片手が自由になった。見ると磯崎が、小さな針金のようなものを持って、もう片方の手錠の鍵穴をいじっている。程なくそちらも外された。「探偵七つ道具」。そう言って、磯崎は得意げに笑った。僕も笑い返したけれど、その瞬間力が抜けて、僕はその場にへたりこんだ。

「ごめんね。大丈夫じゃないよね」

 僕に合わせるようにしゃがみこみ、先生が言う。

「あ、いえ。でもほんとに、なにも」

「首のところに血がついてる」

「あ、ちょっとだけ……でもほんとに浅くだと思います」

 高槻先生が僕の顎を持ち上げて点検する。「ああ、もうふさがってるね」自分でも触ってみると、もう血は固まっていた。

「畑さんは本気で沙原くんを傷つけるつもりはなかったし、僕を死なせる気もなかったんだろう」

 磯崎が横から言った。

「そうは思えないけど……」

「生来嗜虐的な人間だと思うし、快楽に溺れる危うさはあった。でも彼は心のどこかでひどく恐れてもいたと思う。ここでまた人が死んだら、自分にも精神的ショックがあることを、無意識的に察していたようだった」

「そうかな」

「そうだ。探偵にはわかる」

 断言してみせる磯崎に、僕は少し不安を感じた。ひどい違和感があった。けれども僕が口を開く前に、隣から先生が話を割った。

「磯崎くんは怪我はない?」

「残念ながらまったくです」

「残念じゃないよ。よかったよ」呆れたように先生は言う。その表情をじっと見て、磯崎がちょっと訝しげな顔をした。そこへ根津さんが近づいてきた。

「高槻センセ。私は先生に、ここには来るなと言いましたよね」

 根津さんは、先生を見下ろして言った。

「畑から電話が来るかもしれないけど、こちらで解決するから決して来るなと、そう言いましたよね」

「そうですね」

「学校は会社と同じですよ。上司の命令にそむくなんて、あってはならないことです。そのあたり、どうお考えなんですか?」

 根津さんは、高槻先生に向かってまるで目上のように話す。

「根津さん……先生の上司なの?」

 僕はその場の空気を無視して訊ねた。

「うん」

「その……どういうこと?」

「父親が香々見館……学校の建物のファンでね。元々維持費用を寄付してたんだ。でも私は外側より中に興味があった。金を出すだけなのも馬鹿らしいから、一昨年くらいから理事になっていろいろ口出しさせてもらってる。まず大規模な人事改革を行なった。古くからいる腐った教師はほぼ切って、新しい教師を大量に入れた。教師経験者が大半だけど、この高槻センセはうちの学校で初めて教師になった人だからね。実は任せたいこともいろいろあるけど、不安だから鍛えてるんだ」

 根津さんのことばに、先生は微妙な顔をした。生徒を前に、先生を「不安」というのは、ちょっとひどい。

「あのさ、根津さんってもしかして、年齢を偽ったりしてるの?」

「女子に年齢を聞くものじゃない」

「だって一昨年って小学生……」

「私は松島翔のファンだったんだ。そもそもこの学校に興味を持ったのは、ミーハー心だ。かわいらしい小学生女子の純真な心からすべてが始まったんだよ。それはともかく高槻先生。どうして従わなかったんですか?」

 高槻先生は、黙って立ち上がった。座りこんだ僕も、柵にもたれた磯崎も、そして高圧的に訊ねたはずの根津さんも、不安そうに先生を見上げる。

 先生は、すっと手を伸ばした。

 そうして僕の頭を、磯崎の頭を、最後に根津さんの頭を撫でた。

 初めて学校へ行った日と同じ、温かくてほっとする、大きな手。

「……なっ」

 根津さんは、ひときわ甲高い声を上げた。

「じょ、女子生徒の頭を教師が撫でるのはタブーですよ!?昨今の風潮では、生徒によってはセクハラと感じて、親からクレームが来ることも……っ」

「だって、生徒じゃないんでしょう?」

 心底きょとんとしたように、高槻先生は問い返す。

 こういうところが、この先生は本当に食えない。

 根津さんは、真っ赤になっていた。真っ赤になりながら、「どうして言うことを聞かずに来たのか、理由を説明しろって言ってるんです!」とむきになるように訴えた。

「そんなの、心配だったからに決まってるじゃないですか」

 そう答えると、先生は僕たちに、車で家まで送るから、と言った。

 畑さんはもういなかった。高槻先生が入ってきた時に後ろから入ってきた、妙にきびきびとしたスーツ姿の集団が、彼を連れ去ったのだった。根津さんが言ったように、彼らは畑さんを警察に連れて行ったのだろうか。何の罪になるのだろう。誘拐か、傷害か、それとも銃刀法違反だろうか。

 根津さんは、一人残っていたスーツ姿の人と一緒に帰ると言い、僕と磯崎の二人が先生の車で送ってもらうことになった。親御さんには僕から説明するから、と先生は言ってくれたけれど、僕も磯崎も断った。首は血を拭いたらほとんどわからないほどの傷だったし、あまり余計な心配をされたくない。単に喋っていて遅くなったことにしたい。だから根津さんにも、できれば後日警察に呼ばれて話を訊かれるとかはないようにしてほしい、と頼んだ。僕たちを巻き込んで申し訳なかった、という気持はあるらしく、根津さんはそれは了解してくれた。

「でも……どうして僕が畑さんの家に行くってわかったの?」

 ふと気になって僕は訊ねる。根津さんは僕か磯崎が現れたら連れて来い、という指示を畑さんにしていたということだったけど、そもそも僕が畑さんのマンションに行かなければ、今回のことは起こらなかったはずだ。

「沙原くんが一人で行くとは、正直思ってなかったけれどね。高槻先生が畑さんに何かしたとほのめかした上で先生自身には話を聞けない状況にしたら、畑に接触しようという流れになるんじゃないかと読んだんだ」

「ちょっと待て。どうして沙原くんがはじめ一人で行ったと知ってるんだ」

 磯崎が口を挟む。

「畑がどう反応するかが見たかったんだから、当然全部見張らせていたよ。万が一のことがあっても怖いしね。磯崎くんのことは、私の部下も途中まで気づいてなくてびっくりしたと言っていたけど」

「そういえば、磯崎くんはなんで」

 磯崎は、今いるマンションの前で唐突に登場した。よく考えると、それも謎だった。

「尾行してたの?僕のこと」

「ああ」

「いつから?」

「……ずっと」

「ずっとって」

「……沙原くんが、着替えて家を出てくるところから」

 ええっ。

 僕はのけぞった。僕と別れた後、僕に気づかれないように時間差を置いて僕の家まで来たということなのか。そんなのまったく気づかなかった。じゃあ僕が畑さんの家に行くまでにちょっと迷ったり何度も地図を確認したりしているのも全部黙って見ていたのか。畑さんに突然ナイフを出されてびびりまくっていたのも、全部。

 気まずくなり、僕は黙り込んだ。

 磯崎も黙り込んでいた。

 行くよ、と先生が呼んだ。

 上る時は畑さんと乗ったエレベーターに、今度は高槻先生と乗り、下まで降りた。



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