Chapter-2 ①
「新学期からひと月も経ってやって来た編入生、沙原彰吾。彼は一体何者なのか。一体どんな使命を帯びて、この学園にやって来たのであろうかあ!?」
張りのある声でそう言うと、磯崎は片手を自分の胸に当て、もう片手を僕の方に差し出して、陶酔したような表情を浮かべて見せた。黒板の前に立った僕は教室の他のみんなの様子をうかがった。しらっとした顔もちらほらあるけれど、面白がっている奴の方が多そうだ。自称探偵磯崎めぐるは、クラスでそれなりに認められた存在であるらしい。
「磯崎くん、歓迎してくれるのはいいけど、今から沙原くんが自己紹介するから。席についてもらってもいいかな?」
高槻先生は、にこにこしながらやんわりと言った。今朝はまず職員室に行き、僕は先生に連れられてこのホーム教室に来た。案の定階段も廊下もどこもかしこも神殿めいていて、鏡細工もいたるところにあったけれど、このホーム教室の中だけはそれがない。天井が廊下などよりも低めで、二十人の机しかないので前の学校の教室よりもこじんまりとしている。後ろの小さなホワイトボードには、「今週の目標 人の話をちゃんと聞く」とあまり綺麗とはいえない字で書いてあった。壁には色画用紙で作ったいろんな形の魚に、係の名前と担当生徒の名前なんかを書いたのが貼られている。なんというか、この教室の中だけはいかにも学校らしくて、妙にほっとさせられるものがあった。
「沙原彰吾です。……よろしくお願いします」
僕は言った。ほとんどの子が顔を上げて僕のことを見ている。まじめな子が多いのかな、と思った。昨日の水橋のことばを思い出し、そう言われたら確かに何というか……「すごく目を引く美形」みたいなのが磯崎と他にも数人くらいいるし、ちょっとかっこいい、ちょっとかわいい感じの顔がそれ以外で数人いるし、「顔で選んでいる」ことはないにしても、「顔がいいのが多い」のは本当かもしれない、と思ったりした。それが単なる偶然なのか、本当に入学の選考基準になっているのか知らないけれど。……って、そんなのが本当に選考基準にあったら怖いけど。
「沙原くんの席はそこ」
もっと長い自己紹介を、といわれたらどうしようかと思ったけれど、先生はあっさりとそう言って一番後ろの席を指し示した。廊下側の一番前の磯崎とは教室の対角線の端と端で一番遠い、窓際の一番後ろの席だった。
あとは通常のHRと変わらない感じで、僕が殊更に取り上げられるようなこともなかった。中間試験の日程を先生が伝え、方々から「げっ」という声が漏れた。背が高い磯崎はぴんと背中を伸ばして座っていて、勉強には自信があるのか、試験の話題にも余裕の表情をしていた。
僕が気になったのは、根津くんだった。
磯崎が頼まれもしないのにあおりを入れて僕を紹介していた時、面白がっている生徒たちの中に根津くんもいたのだった。根津くんは屈託のない顔で笑いながら磯崎を見ていた。
根津くんは、知らないのだろうか。
磯崎に、勝手にいたずらの犯人にされていることを。
「それではこれでHRを終わります」
先生が言い、日直が「起立」と号令をかけた。立ち上がりながら、僕はあれ、と思った。
昨日僕と磯崎が見た絵の具のいたずらについて、先生は一言も触れなかった。普通なら、校内でこんないたずらがありました、犯人は見つかっていません、とか、言いそうなものなのに。犯人が見つかっていたとしても、たとえば前の学校でなら、犯人の名前は伏せるにしても「大変残念な事件がありました」とかなんとか言ったに違いない。まあそれはHRではなく、臨時学年集会とか全校集会とか開かれて伝えられる気もするけれど。でもそういったものが開催されるという通達もない。
あの絵の具は、僕と先生が話している時にやって来た女性が報告したとおり、僕が帰る時には跡形もなくきれいになっていた。あっという間にきれいにして、「こういうことがあったのだ」と生徒に伝えもしない。私立の学校というのは、そういうものなのだろうか。それともこの学校が特殊なのだろうか。あるいはあの事件が特殊なのだろうか。
「礼」
号令に合わせて頭を下げながら、僕はひとつの考えに行きついた。
そうか。
昨日の事件、先生はあっという間に掃除の人に連絡をして、証拠を消し去った。あの廊下を通った人は他にもいたと思うけど、騒ぎなどにはなっていなかった。先生のように、気づかない人もいただろう。たいして気に留めなかった人も多かったのかもしれない。
普通ああいう事件が起こったら、先生たち全員で情報を共有し、「問題だ」ということにするだろう。でも昨日の件は、高槻先生は誰にも伝えずに消させてしまった。学校は、あの事件自体知らないのだろう。
高槻先生は、昨日の件をなかったことにしたのだ。
なぜなら……
「沙原くん、一時間目の国語、君は国語Aクラスじゃないかな」
気がつくと、磯崎が目の前に立っている。
「え、あ、うん」
国語はABC三つのクラスに分かれている。端末を確認すると、授業情報として、確かに僕は国語Aクラスとなっていたのだけれど。
なんで磯崎は人のクラスを知っているのか。
「なんで知ってるの」
「なぜなら僕は、探偵だから」
決め台詞のように言われて、僕はそう答えることのできる質問をしてしまったことを後悔した。
正直磯崎とは、あまり関わりたくない。
けれども露骨に避けることで目をつけられても厄介だ。
幸い磯崎は友だちが多いタイプのようだった。声をかけてきたのは彼だったが、同じように国語Aクラスらしい子たちが五人ほど、僕のことを待ってくれていた。集団で当たり障りなくつきあう分には、まあ問題ないだろう。授業が行われる教室の場所は端末でルート確認もできるとはいえ、他の人に連れて行ってもらえるならそれに越したことはない。
「いってらっしゃい」
高槻先生は、昨日の説明どおりこの教室に一日いるらしい。
教壇の横にある先生用の事務机に陣取って、先生はにこにこと僕たちを送り出した。
――高槻先生は、昨日の事件をなかったことにした。
なぜなら先生は、昨日の事件の犯人を知っているからにちがいない。
犯人は、磯崎の言うように根津くんなのだろうか。
それとも磯崎自身なのだろうか。
それともまったく別の生徒なのだろうか。
いやもしかしたら高槻先生も、誰が犯人かまでは知らないのかもしれない。
ただ、自分が担任するこの二年B組の生徒が犯人の可能性が高そうなので、保身のために事件を隠ぺいしたのではないだろうか。
「『マグクロ』のヒュウガ、あれは絶対死んでないって」
廊下に出ると、僕を待っていた子たちは、少年漫画の話題で盛り上がっていた。歩き出しても同じ話が続いている。横を歩きながら、僕は自分にも分かる内容であることにほっとしつつ、適当に相づちを打っていた。
「沙原くんも知ってる?『マグネット・クロニクル』」
一人が僕に振ってくれ、僕が「うん。結構好き」と言うと、「オオ」と二人が嬉しそうな顔をした。それからしばらく『マグクロ』の話が続き、その後も会話は漫画についてばかりだった。僕にはありがたい状況だったけれど、そこで僕は、磯崎がおとなしいことに気がついた。別に不満そうというわけでもないけれど、ほとんど話に入ってこない。
「磯崎くんは、漫画とか読まないの?」
つかず離れずで歩いている磯崎に、思わず僕は訊いた。
「え?」
考え事をしていたらしい磯崎はちょっと驚いたように僕を見て、「ああ、うん」と言った。
「こいつ漫画読んだことないんだって」
一人が言った。
そうなのか、と僕は思った。
城山とは、ちょっと違う人間らしい。
国語の教室はホーム教室の一つ上の階にあった。教室、と言っていいのか、カーペット敷きで、全体が淡いベージュ色の贅沢な雰囲気の円い部屋だった。広さはホームクラスよりも広かった。天井はやはり高く、きらびやかな鏡細工がほぼ天井中に広がっていた。同学年四クラス全員をABC三つの授業クラスに分けているわけで、さっきのホームクラスよりも人数が多い計算になる。
円周にあたる壁際には、文豪の手書き原稿のレプリカが飾られていた。中央部に高級そうな長テーブルが列を作っていて、椅子が並んでいる。円型であることは完全に無視して、部屋は四角く使われていた。奥にはホワイトボードが置かれている。電子端末に座るべき座席が表示されていて、僕たちはそれに従って別れた。どういう順番の座席なんだろう、と僕は思った。 僕は磯崎の二つ前の席だった。ホームクラスごとに固まっているわけでもなく、ホームクラスを無視した名前の順というわけでもない。一緒に来た子の一人、杉野くんが斜め前にいたのでその疑問を口にしてみたけれど、「さあ?」という回答だった。座席は毎回違うらしい。「テキトーなんじゃない?」と杉野くんは言った。
高槻先生が言った通り、授業はとても面白かった。グループごとの話し合いの時間が多く、みんな慣れているのか議論は活発だった。別のクラスの親切な子が、不慣れな僕にも上手に発言を振ってくれた。その子はすごく整った顔だちをしていたので、僕はまた、水橋の「イケメンが多い」説を思い出してしまった。時間が来るとそれぞれの代表がグループの意見を発表した。先生がそのそれぞれにコメントをする。テンポがよくて、飽きる時間がなかった。あっという間に授業は終わり、僕は慌てて次の授業の場所を確認する。
「残念だなあ。次の授業は別のクラスだよ沙原くん」
みながバラバラと動き出す中で席に留まっていた僕に、なぜか磯崎がいち早く近づいてきて言った。なんで知ってるの?とはもう訊かない。かわりに別の質問をする。
「なんで残念なの?」
「どうせなら同じ授業を受けたいではないか」
「なんで?」
「なぜなら僕は、沙原くんとお近づきになりたいから」
冗談めかして磯崎は言う。
その様子は、中一の時、前の学校で……初めて会話を交わした時の城山を彷彿とさせた。
「磯崎が愛の告白をしている!」
横から杉野くんが面白がった。
「愛の告白ではない。探偵には、助手が必要だ。沙原くんには素質がある」
磯崎は平然とそんな風に言った。