Chapter-8 ③
「まずポケットから手を出しなさい磯崎くん」
やはり先生のように畑さんは言った。磯崎は素直にそれに従う。
「次にポケットの物を出しなさい」
磯崎は再びポケットに手を入れて、財布を取り出した。続いて、ハンカチとティッシュを出した。
「それはしまっていい。だが、携帯電話があるんじゃないか?」
「僕は携帯電話は持っていません」
磯崎は言った。「沙原くんにも訊いてみるといいですよ。彼は僕の親友なんですから。もしも携帯電話を持ってたら、いの一番に彼に番号教えますよ。なあ沙原くん。神に誓って僕は携帯電話を持っていないよな?」
「持ってるか持ってないかは知らないけど、僕は彼の番号を知りません」
「つれないお答え……」
磯崎はわざと悲しげな声音を作って「よよ」と泣き真似をした。しかし申し訳ないけれど、ナイフを首に押しあてられている身としてはてきとうなことを言うわけにはいかない。
畑さんはひどく愉しそうな声で、
「じゃあこれから俺が確認する。もしもあったらどうする?」
言いながら、僕の頬をナイフでぴたぴたと叩いてみせた。
磯崎が、真顔になる。
「落ち着いてください畑さん。自暴自棄にならないでください」
慎重な声音で言った。
「何わけのわからないことを言ってるんだ磯崎くん。あるんだろう?携帯電話。出しなさい」
磯崎が、ためらうような動きをする。
「早く出しなさい」
畑さんが重ねて言い、ナイフをひらめかせた。
「……ポケットの中には携帯電話があります。でも、それは僕の物ではありません。だから嘘をついたわけではありません」
「いいから早く出しなさい」
「これは兄の物です。兄の物を勝手に持ってきました。ちょっとその時の話を聞いてもらえますか?僕の兄というのが……」
「早く出しなさい」
僕の首筋にナイフの先端が当たり、じわじわと肌に食い込む。
磯崎はポケットから携帯電話を取り出した。通話中の表示が出ている。
僕の腕から畑さんの手がはずされた。とはいえ首にナイフがつきたてられている状況で、動くことなど到底できない。
手を伸ばして磯崎から携帯電話を受け取った畑さんは、快活な声で話し始めた。
「すみませんねお騒がせしてしまって。磯崎くんの担任です。香々見学園中等部の高槻。ええ。本当に申し訳ありません。明日改めて本人も連れて謝罪に伺いますよ。性質の悪いいたずらです。ええ。私の指導不足です。本当に申し訳ない。いえ、ですからね。ちょっと事情がありまして。……さあ、それはちょっとわかりかねます。……とんでもない。まさか。結構ですよ。そんなご足労をかけさせるわけにはいきません。本当に。あ……そうですか?そこまでおっしゃるなら、こちらは構いませんけど。生徒のしでかしたことで、申し訳ないなあ。わかりました。じゃあお待ちしてますよ」
通話を切ると、畑さんはズボンの後ろポケットに手をやって自分の携帯電話を取り出した。手放された磯崎(兄)の携帯電話はコンクリートに落下して酷い音を立てたが、畑さんはそれをさらに足で踏みつけた。畑さんは片手で自分の携帯電話を操作して、それを自分の耳に当てる。
「今屋上です。ええ、二人と。でも片方が警察に通報しやがりましてね。担任教師名乗って今のはイタズラだ、って言ったんですが、来るって言うんですよ。……おお、さすが。頼みますよ」
話しながらも畑さんは、磯崎から目を離さなかった。ナイフは僕の首に突きたてられ、喉を圧迫している。僕の頭は思考なんてできないような状態になっていたけれど、目の前の磯崎の表情から磯崎の思考を想像することで、少しだけ今の状況について考えることができた。畑さんは高槻先生が香々見学園中等部教諭であることを知っている。僕たち二人が彼の担任クラスの生徒であることも知っている。畑さんが僕たちを屋上に連れてきたのは、誰かの指示らしい。その人物は、警察を止める力を持っているらしい。
「畑さん。お願いがあります。沙原くんの……」
畑さんが耳から携帯を離した途端、磯崎が何か訴えようとした。けれども畑さんはすかさず携帯電話を操作し、また別のところに電話をかけた。畑さんはうるさそうに磯崎を見やり、あごでしゃくるように僕のナイフに注意を向けさせた。
「……もしもし。高槻先生?」
愉しくてたまらないといった声で畑さんは携帯電話に向かって言った。
「畑です。畑篤典。あなたにお願いしたいことがあるんです。ぜひとも会ってお話したい。場所はあなたのお兄さんの最期の場所。思い出の屋上です。え?もしあなたが来なかったら?あなたの生徒が死ぬということです」
畑さんが通話を終えるや否や、磯崎は言った。
「畑さん。人質を変えてください」
「……なぜ?」
畑さんは妙に優しい声音で訊き返す。
「何のメリットもないのに、どうしてそんなことしなきゃならない?」
「ありますよ、メリット」磯崎は、必死で考えるように一瞬宙に目をやった。それから畑さんに目を戻して言う。「沙原くんは来たばかりの編入生だ。僕の方が長く高槻先生のクラスにいる。人質としては僕の方が価値が高い」
「馬鹿馬鹿しい」畑さんは鼻で笑う。「俺はこれでも教師なんだよ。てめえらの顔を見ればだいたいどういうタイプか分かる。磯崎くんな、君はいい子だ。必要もないのにオトモダチを助けたくてのこのこやって来たお人好しのお間抜け野郎だ。絶対おまえは裏切れない。そして沙原くん。おまえは裏切れる。今の立場を二人逆にするとな、沙原くんは逃げる。だから逆にはしない。以上」
畑さんのことばに、磯崎は顔色を変えた。ちょっとぞっとするような顔で畑さんをにらみつけると、低い声で「勝手に決めつけるな」と言った。「沙原くんは、そんなんじゃない」
「あれ、どうした、生意気な顔してるなおまえ。びっくりだな。こいつが死んでもいいのか」
畑さんが言いながら、ナイフをすっと引いた。初めはまったくわからなかった。少しして、首筋の表面に痒みに近いような痛みが感じられた。やがてとろりと液体が流れ出す感触があった。
「……畑さんの言う通りだよ、磯崎くん」僕は慌てて言った。
「おまえはお人好しのお間抜けだよ。僕なら逃げる。今からでも遅くないよ。おまえがここにいる意味なんて全然ない。さっさと行けよ、馬鹿みたいだ」
僕は畑さんの視線を感じて、間近の彼の顔を見上げた。「へえ」と畑さんは感心したような声をもらした。それから磯崎に視線を戻すと、
「ま、おまえがそこの扉から出て行ったら、その瞬間にこいつの命はなくなるから」
と言った。
磯崎は自分を落ち着かせるように目を閉じて少しずつ長く息を吐きだし、それから目を開いた。「すみませんでした」と畑さんに謝る。
畑さんはナイフを持った手を自分の羽織ったジャンパーのポケットに入れると、何か取り出した。それを無造作に放り投げる。立て続けに二つ。
「それを拾え」
コンクリートの上に音を立てて落ちたのは、金属製の手錠のようだった。
「どうしてこんなものを持ってるんですか?」素直に従いながら、磯崎が訊ねる。
「お子様は知らなくていい」そう言うと、畑さんは喉の奥からグヒ、と低い笑い声を洩らした。
「そこの柵の鉄棒に沙原くんを繋げ。両手ともだ」
「二つ手錠があるなら、僕と沙原くん一つずつつけたらどうですか。沙原くんの片手と鉄棒、もう片方の手と僕の手とか」
「つべこべ言うな。おまえは動いてもらう。俺の言うとおりにな」
磯崎が警戒するような顔をする。
「早くしろ」畑さんは再度柵を顎で示した。「こいつの喉元に、もう少し深い傷を作ってもいいんだぜ?俺は器用じゃないからなあ、間違えて、太い血管をざっくりいってしまうかもなあ」
グヒ、グヒ、と畑さんはまた笑う。どこか酔っぱらった人みたいな、まともでない感じがする。理性が失われてきている、というか。
磯崎は従った。なるべく僕がしんどい体勢にならないよう気をつけながら、両手と柵それぞれに手錠をかけた。畑さんが柵を背に僕の後ろに立っていて、僕は身体を斜めにし両手を前に揃えるようにして立っていた。
「よし。これでこいつの腕を掴んでなくてよくなった」
晴れ晴れとしたように畑さんは言って、自由になった左腕を振り回した。ナイフを持った右手は、変わらずに僕の喉元にある。
「それにしても遅いなあ」
畑さんは言いながら、柵から下を覗きこんだ。「来ないつもりかな、高槻先生」
僕は目だけで畑さんを見上げる。その顔は恍惚としていて、とろんとした目には異様な光が宿っている。
「よし。ただ待っているのは退屈だ。磯崎くん、君に指示を出す。柵を乗り越えて、飛び降りてみせろ」
ひどく愉しそうに、畑さんは言った。
磯崎は、静かな目で畑さんを見た。そうして僕を見た。
磯崎は、畑さんがそう言い出すことを予期していたのかもしれない。それは、そんな目だった。
「だめだ。それだけはだめだ、だめだ!」
思わず僕は叫んだ。
「うるせえなおまえ。急に喚くな。悪いのは高槻先生だよ。一体いつになったら来るんだ」
畑さんは言った。どこを見ているのかわからないような目をしている。たぶんこの人は、もう正気じゃない。
磯崎が、ゆっくりと柵に手をかける。策があるのか、それともないのか、僕にはわからない。
「ここから生徒が飛び降りて死んだら、高槻先生、ショックで先生をやめてくれそうだな。うん、そんな気がするな。兄貴が死んだ思い出のマンションだしな。でもやっぱり、それなら目の前で飛ばせたいよな。高槻先生が来た瞬間に落ちてほしいよな」
畑さんはぶつぶつ言う。磯崎は、こんな状況なのに焦ることも怯えることもせず、柵に手を置いたままやけに澄んだ目で畑さんを見ている。
どうしたらいいんだろう。どうしたら。僕は必死で頭を巡らせていた。その時だった。
「来ないよ、高槻先生は」
鈴が鳴るような声が響いた。
僕も磯崎も、そして畑さんも、呆気にとられて声のした方向を見た。
いくつもの室外機が並んだ向こう側。すっと立ち上がった華奢なシルエット。