Chapter-8 ②
家に帰って服を着替えた。グレーのパーカーに、くすんだ色のジーパンを合わせた。親になんと言ってもう一度家を出るか、これはちょっと難しい問題だった。友だちに貸したノートを返しもらい忘れた、宿題があるから今日返してもらわないといけない。だからちょっと行ってくる。何とかそんな理由をでっちあげた。遅くならないで、と母親は言った。
サラリーマンや学生で、電車はそれなりに混んでいた。吊革に掴まって揺られながら僕は考える。
畑さんに何があったのか知りたい。「高槻」を罵っていたのは、彼の人生にすでに何かが起こったからに違いない。何があったのか訊きたい。高槻先生は何をしたのか。過去、畑さんは高槻先生のお兄さんに何かしたのか。何をしたのか。
けれどもそんなことを、畑さんがぺらぺらと僕に話してくれるはずがない。何かてきとうな理由をでっちあげて写真を持って部屋まで訪ねれば情報は少し得られる可能性があるけれど、「人生を滅茶苦茶にされた」なら、それこそ磯崎の言うように、逆ギレやつあたりで何をされるかわからない。薬とお酒を一緒に飲んで酩酊して、大声で叫んでベランダから飛び降りるような人なのだし。
磯崎に話したように、こっそりポストに写真を入れ、部屋の窓を見上げるくらいがやはり関の山だろうか。
あれこれ考えているうちに、目的の駅に着いた。あまり人気の多い駅ではなく、人はまばらだ。外に出るとまだ明るさが残っていて、空が妙に青かった。僕は道の隅でノートから破り取ったページを取り出す。磯崎の地図を確認し、頭の中に叩きこむ。そこまでややこしい道でもないし、さほど遠いわけでもない。それでも途中で何回か迷って地図を確認し直しつつ、何とか目的のマンションに辿りついた。すでに真っ暗になっている。畑さんが住んでいる二〇三号室の窓を見上げると、電気がついていた。
いるんだ、あの中に。
ちょっと僕は興奮している自分に気がつく。
同時に僕の中では、今度こそはっきりとした。とてもじゃないけど僕はあの部屋を訪ねるなんてことはできない。僕は畑さんについてかなりあれこれ考えていたつもりだったけれど、結局のところそれらはすべて磯崎の話と写真から想像で作り上げたものに過ぎなかったのだ。現実ではなく、どこか架空のお話みたいに僕は思っていたのだろう。謎を全部解明してくれないミステリーには納得がいかない。僕の中の不満はそれに近いものだった。だから実際に建物があってその中に畑さんが住んでいるらしいという事実を確認しただけで、もう僕は圧倒されてしまっていた。これは物語じゃない、現実なんだ。どう考えても、見ず知らずの大人である畑さんの部屋に何か理由をでっちあげて話をしにいくことなんて、僕にできるわけがない。
ふう、と僕は息を吐き、明日磯崎に謝った方がいいかなという気持になりながら、もう充分だと思った。来たことに意味はあった。納得できたのだから。もう、ポストに写真を入れて帰ろう。謎は残っている。でも仕方ない。わからないことはある。それが現実なんだ。
僕はマンションの入り口の方に回った。並んだ郵便ボックスの中の、二〇三を探す。・・・…あった。
その時人の気配がしたので、僕は振り返った。そうしてそれが、写真で見た「畑少年」の面影のある大人だったので、仰天した。とっさに目的のボックスから離れて、脇の掲示板を見上げる振りをする。畑さん――たぶん間違いない――は、しかし僕が想像していた人物のイメージとは、少し違っていた。精神科の薬とお酒を一緒に飲んで叫んだり飛び降りたりしたなんて聞いたから、僕はもっと病んだ雰囲気の人をイメージしていたのだ。けれども今目の前にいる男の人は、細身だけれどもがっちりと引き締まったかなり筋肉質の体つきをしていて、勝ち気で自信に満ちあふれて見えた。写真と同じいたずらっこみたいな目が、僕の方を向いた。
「沙原彰吾くんだね」
彼は僕の名前を呼んだ。まっすぐ僕に向かってくると、立ちすくんだ僕の腕を掴み、「来てもらおうか」と言った。
なんで僕の名前を、僕のことを知っているのか。
なんで僕を捕まえたのか。
僕をどこに連れて行こうとしているのか。
頭の中がパニック状態になった。畑さんは僕の腕を掴んだまま、マンションのエントランスから外に出た。街灯がぽつりぽつりとついている真っ暗な夜の景色の中、冷たい風が吹いていた。畑さんはずんずんと進むので、僕は半ば引きずられるようにしてついていくしかない。
「あなたは、誰ですか」
かすれた声が、ようやく出せた。混乱状態の頭がどうにか捻り出した作戦は、完全にしらばっくれて探りを入れるというものだった。磯崎が写真を持ち去ったこと。僕がそれを持っていること。そういったことをわかった上で、畑さんは僕をどこかに連れて行こうとしているのだろうか。
「知らないのか?」
僕の問いに、畑さんは愉しそうに問い返した。
「本当に?」
その瞬間、僕はその手を振りほどいて逃げようとした。が、がっちりと僕を掴んだその手はまるで動じることがなく、逆にぐいっと力を込めて腕を持ち上げられ、僕の身体は乱暴に彼の傍へと引き寄せられた。それと同時にパシン、とバネのような音がして、首筋に、ひんやりと冷たい金属の感触を覚えた。
「よく切れるナイフなんだ。頸動脈あたりがすぱっといくと、血が噴き出すだろうなあ」
畑さんは僕の耳元で、笑みを含んだ声で言ったかと思うと、一転して、低く凄んだ。「変な気を起こすな。大人しく俺に従え」
なんだこれ、と思った。
全身が震えてへたりこみそうだったけれど、掴まれた腕はそれを許さない。いつの間にかナイフの感触は離れたけれど、もはや逃げようとする気力はかけらも残っていなかった。がくがくする脚に祈るように意識を集めて必死で歩くのが精一杯。そんな状態で逃げるなんてできるわけがない。途中犬の散歩の人とすれ違ったけれど、助けを求める勇気すら出なかった。というか、声自体、出せる気がしなかった。暗い夜道だし、普通の二人連れにしか見えなかったのだろう。相手の方も、僕たちにことさら注意を向けることはなかった。
畑さんが足を止めたのは、住宅地から少し離れてぽつんと建ったマンションの前だった。あまり人が住んでいないのか、電気のついている部屋がほとんどない。タイル敷きの入り口に立ったまま、彼は無言でしばらくそのマンションを見上げていた。その時だった。
「畑篤典さん」
背中から、声がした。不思議なことに、その瞬間、僕の脚の震えは止まった。紺のトレーナーにグレーのパンツを履いた背の高い少年が、植え込みに設置された常夜灯に照らし出されて立っている。磯崎だった。
「よくわからないのですが、僕の友人を離してはいただけないでしょうか?」
いつも通りの張りのある声で、いたって普通の調子で磯崎は訊ねた。
「磯崎めぐるくんだね。一昨日はありがとう」
畑さんはまるで優しい大人のようににっこり笑うと、すっと辺りに視線を巡らせた。人気がないことを確認すると、ポケットに入れていた右手を出し、パチンと音を立てて折りたたみナイフを開く。次の瞬間ぱっと逆手に持ち替えると同時に僕を自分に引き寄せて、僕の喉元を掻き切る真似をして見せた。
「君も付いてきなさい」
笑みを含んだ声で、畑さんは磯崎に言った。
磯崎は、畑さんは教師だろうと言っていた。
その口調は、確かに先生のようだった。
磯崎は大人しく畑さんに従った。あまりにも落ち着いた態度で、僕に向かって笑いかけさえした。畑さんは僕たち二人を連れてマンションの中に入ると、エレベーターに乗った。エレベーターは、途中どこも止まらずに最上階の十二階まで行き、僕たちはそこで降りた。そこから薄暗い非常用階段を一階分ほど上り、僕たちは屋上に出た。ぽっかりと暗い夜空が覗き、明かりがまたたく町の景色が見えた。まわりはぐるりと金属の柵に囲まれ、薄汚れた白い室外機が四角いコンクリートの中央部にいくつも並んでいる。その脇で、常夜灯がほんのり明かりをたたえていた。畑さんは再び右手を出してナイフを開くと、それを僕の首筋に当て、少し離れた場所に磯崎を立たせた。