Chapter-8 ①
昨日と同じ線路沿いのフェンスに寄りかかり、僕は箇条書きを記したノートを磯崎に見せた。まだ時間が早いので、辺りは充分明るかった。向こう側の線路を、電車が穏やかに走り抜けていく。
・畑さんは高槻先生の四歳年上のお兄さんの同級生(香々見学園中等部で同じクラス)
・高槻先生のお兄さんは中二の時に自殺している。
・畑さんは昨日、高槻先生を尾行していた。
・畑さんは精神的に不安定になっていて、「高槻」を罵っていた。
ここまでが、昨日書いた部分。
その下に、今日分かったことを追記してあった。
・高槻先生のお兄さんの自殺の原因は不明。遺書なし、ノートあり。
・いじめがあったかはわからない。当時の先生たちは忙しかった。やましさあり?
・一昨年秋、十五年前に学校にいた先生たちは全員辞めた。(吾妻先生以外)
・一昨年秋、高槻先生はこの学校にやって来た。
・「畑さんの人生は高槻先生のせいで滅茶苦茶(BY根津さん)」(先生もこれを肯定)
「……高槻先生と畑さん、もう会ってたんだね」
僕は言った。今日もやはり炭酸を買っていた。今日もくらくらしたかった。大人になったら、僕は酒飲みになるかもしれない。
「しかもすでに復讐済とはな」
磯崎が言った。磯崎も、昨日と同じコーラを買っていた。
「復讐済、とは限らないんじゃないかな。あの言い方だと。『滅茶苦茶』になるのは未来のことかもしれないし、現在進行形かもしれない」
「でも、高槻はすでに何かをやったってことだ。その効力が発揮されるのはもしかすると先かもしれないが。高槻は復讐の意思を持っていて、それを実行に移したということだ」
「……ショック?」
僕の問いに、磯崎はすぐには答えなかった。かわりにコーラを傾けた。
「よくわからない。畑篤典が高槻兄をいじめて自殺に追い込んでいたとして……弟が兄の敵討ちをして畑を破滅に追い込んだ。おそらくは賢い方法でやったのだろう。高槻が犯罪者として捕まる心配は、あの口ぶりだとなさそうだ。安易に勧善懲悪の構図に当てはめたくはないが、因果応報、自業自得。問題のない結末といえるだろう」
「問題ないなら、どうしてそんなにしょげてるの」
「わからない。ただ僕は……僕は、びっくりしているのかもしれない。たとえ兄の仇だとしても、他人の人生を破滅させて、それで高槻が平然としていることに、驚いて、それがショックなのかもしれない」
「大人なんだよ」僕は言った。「君って随分繊細だよね」
「そんなことはない」磯崎は、むくれたように言い返す。「ただびっくりしただけだ。多少の想像はしていたつもりだったが……高槻がああいう人間だと、思っていなかったから」
「それが繊細だっていうんだよ」僕は言う。「例えば僕は、君が突然刃物を持って僕に襲いかかってきても、そういうこともあると思える」
磯崎が、僕にじっと視線を向ける。僕はうつむいて、ノートの文字を目でなぞっていた。磯崎が、何か言いそうな気配を感じた。けれども結局、何も言わなかった。トプン、と水音がして、磯崎はコーラを傾ける。
磯崎は、僕のノートにほとんど目を向けようとしない。
もう今回の謎への興味は、すっかり失ってしまったらしい。
「一体どこが探偵なんだか」僕は言った。
「なんだって?」磯崎が顔をしかめる。
「一体これのどこが探偵なんだ、って言ったんだよ。誰に罵られようと誰を傷つけようとも真相解明に食らいつく世の探偵さんたちに土下座して来いって話だよ。こんなので探偵を自称するなんて、おこがましいにも程があるよ」
「何を言う。探偵だっていろいろだ。必要もないのに人を傷つけて真相を解明することが正しいなんて僕は思わない」
「はいはい、正しい探偵さんね」
「僕だって、誰かの依頼に応えるためなら食らいつく。本当に解明すべき問題ならば、自分を汚してでも追う覚悟は持っている。目的のために手段を選ばないことだって」
「あ、そう、それは大層ご立派なことで」
「……君はなんで怒ってるんだ?」
「別に」
僕はしゃがみこみ、足元に置いていた自分のペットボトルの口を捻った。僕はまだ、この件への興味を失ってはいなかった。高槻先生のお兄さんは、なぜ自殺したのか。実際に、当時いじめを受けていたのか。ノートには、何が書かれていたのか。一昨年の秋やめた先生たちは、何故やめたのか。そこに高槻先生はどのように関係していたのか、それともまったく無関係なのか。畑さんはなぜ一昨日、高槻先生を尾行していたのか。高槻先生は、畑さんに一体何をしたのか。
「……学園の盗撮の件だけどさ」
僕がそう切り出すと、磯崎ははっとしたような顔をした。もしかすると、もうこの件は忘れていたのかもしれない。
「こういうのはどう?誰もいない時に天井鏡の真下で飛び降り自殺をほのめかすとか。もしも高槻先生が映像をチェックするのなら、さすがに生徒の自殺は止めに来ると思う」
「それは酷くないか?高槻が兄の自殺という傷を持っているとわかって……」
「だからだよ。だから高槻先生は必ず止めに来るだろう。まあそれがなくても普通は止めに来るだろうけど」
「いやそれは」
戸惑う磯崎の顔を、僕は下から見上げる。
磯崎は、僕を軽蔑するだろうか。
「探偵が、目的のため……依頼を受けて仕事を遂行するために手段を選ばないっていうのは、そういうことだと思うけど」
「だが実際のところ、依頼はもう無効かもしれないし」
言い訳のように磯崎は言う。僕は少し笑った。
「そう。そうだね。根津さん、訳がわからないものね。でもじゃあ君は、依頼人にあれだけ翻弄されて、それをそのまま放っておくの?根津さんが何者なのか、知りたいとは思わないの?」
「それは……」
磯崎は、考え込んでいるようだった。
その程度なんだな、と僕は思った。
僕は城山に、歯を食いしばってでも絵を描いて、絶対一緒に漫画家になろうと言いつづけて欲しかった。
磯崎に、あくまでも探偵らしくい続けてほしかった。
でもそれらは、全部僕のわがままなのだろう。
他人なんてあてにしてはいけないのだ。
僕はしゃがみこんだまま、ごくごくと炭酸を飲んだ。喉が焼け、涙が出そうになる。くらくらして、思考がふわりと宙に浮く。
「磯崎くん。あの写真、まだ持ってるよね」
「写真……ああ」
磯崎は制服の内ポケットから、高槻先生のお兄さんが写ったクラス写真を取り出す。手を伸ばし、僕はそれを受け取る。
「君はもう、調査を続けるつもりはないんだろう?じゃあこれは、持ち主に返すべきだと思う」
僕の主張に、磯崎は戸惑うような表情をした。僕は続ける。
「君は顔が割れてるし、写真を盗んだことに畑さんが気づいているとしたら、どんな怒りをぶつけられるかわからない。でも僕なら顔を知られていないし、一度私服に着替えてから行けば、香々見の生徒だってことで反応されることもない。ポストにささっと入れて帰ってくれば済む。だからとりあえず、畑さんの家の場所を教えてくれない?」
「……人生を滅茶苦茶にされた男は、何をするかわからない。近寄るのは危険だ」
「大丈夫だよ。まったく無関係の他人なんだから。その説で行くと近所の人が心配だけど」
「でも、写真ぐらいいいじゃないか」
「君がそれを言うの?畑さんはこの写真を十五年間持っていたんだよ。もしかしたらこの写真には特別の思いがあるのかもしれない。なくなったと思って捜し回っているかもしれない。君は正しい探偵でいたいんだろう?必要もないのに他人の大事な物を奪って、放っておくのが君のやり方なの?」
改めて写真を見て、高槻先生のお兄さんがちょっと笑っていることに気がつく。畑さんも、ちょっと意地悪そうだけど、どこか気弱げなところもある親しみやすいいたずらっ子みたいにも見える。
「……そこまで考えてなかった。悪かった」
磯崎はさっきよりもしょげたように言った。
「別に謝ることじゃないよ。いいから、場所を教えてよ」
僕はノートの別のページを開き、ペンとともに差し出した。
磯崎は、簡単な地図のようなものを書き始めた。さらさらと、目印となるものも書き加えていく。一度行っただけの場所についてそんなにちゃんと覚えているのは相当すごいと僕には思える。
「……よく覚えてるね」
「そうか?」
「ちなみにこの駅の名前はなんだっけ」
「前に言わなかったか」
「聞いたかも。でもそんなの覚えてない」
「そうなのか」
磯崎は、駅の名前も書きこんでくれた。
僕はそれを受け取った。一度家に帰って、それから行くとなるとちょっと時間がかかる。でも、幸い今日は、まだ時間も早い。
僕は立ちあがり、カバンにノートとペンをしまった。残り少ないペットボトルを空にして、立ち上がる。自動販売機の横のダストボックスに、ペットボトルを放り込む。
「さあもう帰ろ」
僕は言った。
「人に見損なわれるのは、辛いものだ」
磯崎が、フェンスから身体を起こしながら言った。少し離れた踏切の、警報音が鳴り響く。振り返り、僕は磯崎の顔を見る。
「でも僕は、沙原くんに刃物を向けるようなことはしない」
手前の線路を、音を立てて電車が通り抜けて行った。