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Chapter-7 ②

「さぼれないかな、次」

 吾妻先生と別れ、廊下を走りながら声をひそめて僕は言った。

「さぼりの提案とは、沙原くんもワルよのお」

「だって」

 だって、今の話を磯崎と整理したかった。

 高槻先生のお兄さんの自殺の原因は、当時グレーのままだった。マスコミが騒いだり学校が糾弾されたりもたぶんほとんどなかった。でもノートが残っていたなら、弟である高槻先生は当然そのノートを読んだにちがいない。そこにいじめのこと……例えば畑さんのことが書いてあった可能性は充分にある。畑さんにいじめられていて、それが原因で自殺したという因果関係が読み取れるような書き方が、されていたかもしれない。

「あいにくだが、この学校では授業中に行方不明になることができない。所在が確認されるまで、空いてる先生たちに総出で探し回られる」

「そっか……」

 授業に出るしかないのか。

 僕の頭は勝手な回転を続けていた。

 気になるのは、当時いた先生たちが「一昨年の秋」、高槻先生の赴任と同時期にほとんどやめたということだ。吾妻先生の話からすると、昔の香々見学園は、今みたいに「生徒に対するきめ細かいケア」を売りにできるような体制ではなかったらしい。生徒数は多く、先生たちは忙殺されていた。吾妻先生の、妙に当時の先生たちをかばいたがるような口ぶりから言って、いじめは見て見ぬ振りをされていたのかもしれない。そうであるなら、ノートでそれを知った少年の高槻先生が彼らへの復讐を誓っても不思議じゃない。大人になった高槻先生は、香々見学園にやってきた。そうして当時を知る先生たちと接触し、彼らの罪を突きつけて、学園から追放していった。吾妻先生だけは、当時まったく事件に関わりがなかったということで、見逃した……

「だが、さぼる方法がないわけじゃない。要は行方不明にならなければいい」

 磯崎が言った。もうホーム教室の前だった。

 閉まっていた扉を、磯崎は勢いよく開けた。

「あれっ。もうチャイム鳴ったよ」

 教室の中では、高槻先生が一人教師用の机に向かっていた。僕たちを見て目を丸くしている。つい先ほど、僕の想像の中でダークな表情をして復讐を誓っていた高槻先生と今目の前でのほほんとしている先生のあまりのギャップに、僕はめまいがしそうになった。

「先生!」

 磯崎は先生の机の前に立ちはだかると、大声を上げた。

「お話があります」

 たぶん磯崎も、このまま授業を受けに行くなんて絶対できないと思ったのだろう。磯崎の言った「授業をさぼる方法」、それはつまり、先生公認でさぼる、ということだ。ぐずぐずしてたって埒が明かない。今目の前にいるのだから、本人に直接訊いてしまえばいいんだ。しらばっくれたり嘘をつかれる可能性は充分にあるけれど、それでもヒントは得られる。

「ええと、今?」

 面食らったように先生は問い返した。僕は入った扉を閉めた。

「はい。今です」

「授業がもったいないよ。放課後でいいんじゃない」

「無理です。今お願いします」

「どうして今じゃないとだめなの?」

「理由はいろいろありますが、とにかくだめなんです」

「そう言われても……」

 先生は、困ったように頭を掻いた。

「お願いします!」磯崎が、激しく頭を下げた。

 それに倣って僕も、隣に並んで「お願いします!」と頭を下げた。

「沙原くんまで。どうしたの」

 どうしても、今じゃないとだめだ。今、先生と話したい。

 僕の中でもその思いは、到底譲れないものになっていた。

 放課後は、根津さんと先生の話に同席することになっている。僕たちが行くことは、先生は知らない。それはともかく根津さんがいる場では、僕たちはどうにもペースを乱されてしまう気がする。彼女に気を遣って、いろいろやりにくい部分が出てくるに違いない。今、僕たち二人だけで、高槻先生と話をしておきたい。

 全部訊いてしまいたい。

「僕たちは、ここを動く気はありません」

 磯崎は言った。

「そうすると、国語の長尾先生が出欠情報を入力した時点で君たち二人の捜索願いが出るね」

「そうなります」

 頭を下げたまま磯崎は答える。

「長尾先生の授業面白いのに。何で?」

「面白いし大好きですが、それどころじゃないんです」

「どうしても?」

「どうしてもです。お願いします」

 磯崎がさらに頭を下げたので、僕もそれに合わせた。

 やがて、ふう、と先生が息をつくのが聞こえた。

「好きじゃないなこういうの」

「え?」

「生徒がそんな風に頭を下げて教師に頼みごとをするとか。それを教師がしぶしぶ聞いてやるとか。……もうわかったから」

 僕は生徒に舐められるタイプの教師かなあ。危険だなあ。

 そんなことを呟きながら先生は、僕たちのより一回り大きいサイズの端末を操作して、何やら打ち込んだ。

「……長尾先生には連絡しておいたから。話が済んだら授業に出るんだよ。言っておくけど、君たちは馬鹿じゃないと思ってるから、こうやって意見を尊重したんだからね。先生のこと、がっかりさせないでくれるよね」

 僕は先生を、まじまじと見た。

 この人が、実は根津さんを脅迫しているとか、年配の先生たちを学園から追い出したとか、畑さんに復讐しようとしているとか。

 そんなこと、本当にあるんだろうか。

 何だか急に、それらがひどく馬鹿馬鹿しい妄想のように思えてくる。

 ――でも。

 それがこの先生の手なのかもしれない。こんな風にいかにも無害な風を装って、実はいろんなことを隠している人なのかもしれない。

 正直、僕にはわからない。

「……先生の」

 磯崎が、口を開いた。

 隣に立っている僕は、彼がひどく緊張しているのに気がつく。

 それはそうだ。

 だってこれは、軽々しく口にしてはいけないことかもしれない。

 目の前で穏やかな顔をしている先生が、それを口にすることによって豹変するかもしれない。ひどく不機嫌になるかもしれないし、怒り出すかもしれない。激しく傷つけてしまうのかもしれない。触れてはいけないものに触れることになる。無理矢理他人のかさぶたをひっぺがすような、これはそういうことかもしれない。昨日話した時、先生は素知らぬふりでこのことを隠し通したのに。

「先生の、お兄さんのことです」

 磯崎がそう言った瞬間、先生の顔がすっと冷えたように見えた。

 いつもの温かみが消え去って、けれども次の瞬間には、そこに、不自然ではない笑みが即座に浮かんだ。先生は、大人なのだ。大人は表情を繕うのが上手い。

 でも、逆に言うとそんな大人なのに、先生の表情は確かに変わったのだ。「先生のお兄さん」の話題は、先生にとってきっとそれだけ大ごとなのだ。

「うーん……。長尾先生の授業をさぼってまで話したいのが、僕のこと?なんだろう、探偵磯崎くんの推理ごっこ?」

 困ったような笑みを浮かべて冗談めかしながらも、その表情はぎこちないように見えた。僕は何だか、ひどく申し訳ないような気持になった。僕たちは、興味本位で先生の傷を抉っているのだろうか?

 いや、そうじゃない。

 磯崎は言った。事件を防ぐ探偵になりたいのだ、と。

 真実を解明することで、止められることがあるはずだ。やめてしまった先生たちは、戻って来ることはないだろうけど。畑さんのことは、今起こりつつある事件なのかもしれないのだし。

「すみません。先生のお兄さんは、中学二年生の時に自殺されたと聞きました」

 慎重に、ことばを選ぶように磯崎は言った。

「うん。誰から聞いたのか知らないけど、それは事実だよ」

 先生は頷く。

「どうして自殺されたんですか?」

「さあねえ」

 先生は天井を仰ぎ、ふっと息を吐いて笑った。「昨日、復讐がどうのと言ってたね。このことと関係あるのかな?」

「はい。昨日は、先生ご自身が香々見学園に通っていて、そして、復讐を考えているのかと思っていました。でも違った。香々見学園に通っていたのは先生ではなくてお兄さんだった」

「兄が香々見学園に通っていたのも事実だけど。それはそれとして、どうして復讐が出てくるのかな」

 磯崎は、すぐには答えなかった。

 十五年前当時勤務していた先生たちがやめた件はともかく、実際今のところ先生は、復讐なんて考えていないのかもしれない。畑さんが一方的に高槻先生を見つけただけで、先生の方は畑さんの存在を知らないのかもしれない。もしもそうなら、畑さんが近くにいることを先生に教えることは、逆に先生を復讐に駆り立てることになってしまうかもしれない。それは危険なことだった。

「……自殺の原因はいじめかもしれないと思いました。僕はほら、そういう経験があるので、短絡的にそういうことを考えてしまうんです。そしてもしいじめが原因なら、お兄さんをいじめた奴らや助けなかった教師に、復讐心を抱くのは自然なことかなと」

「でも、昨日の時点では僕の兄が自殺したことは知らなかったんだろう?僕が昔いじめられていて復讐を考えていると思ってたんだよね。それはどうして?」

「……歩いていて、罵り声を聞いたんです」

「どんな?」

 いつの間にか、まるで先生が磯崎を尋問しているような形になっていた。先生は淡々としているけれど、容赦がなかった。このままだと、磯崎は畑さんのことを言ってしまいかねないと思えた。

「『高槻』という人を昔いじめてたみたいな内容で……」

「僕も先生に訊きたいことがあるんです!」

 流れも何もかも無視して、それまで黙っていた僕は強引に話に割り込んだ。先生は、びっくりした顔をして僕の方を見た。

「……なに?」

「根津くん……いや、根津さんのことです」

「根津、さん?」

「根津さんの、トップシークレットについて」

「根津さんの、トップシークレット?」

 先生は、とぼけるように僕の言うことをおうむ返しにした。

 勢いにまかせて、僕は続けた。

「根津さんに、相談されたんです。高槻先生に脅迫されている、と。それは本当ですか?」

「ええ?」

 先生は、ぽかんと口を開けている。

 僕はその表情を必死で観察した。

 脅迫しているのか、していないのか。

 何かやましい考えがあるのか。それともないのか。

「本当ですか?」

 もう一度、訊ねる。

 けれどもどれだけ先生の顔を見据えても、僕には結局判断がつかない。

「な、何のことだかさっぱり……」

 先生がそう言いかけた時だった。

「うそお!」

 切りつけるように、甲高い声が闖入した。

 磯崎も、高槻先生も、僕も、三人ともあっけにとられた。

「呼ばれてないけど美少女参上!」

 いつの間にか、閉めたはずの扉が開いていた。

 そうしてそこに、根津さんが立っていた。

「ええと……授業中ですよ根津くん」

 高槻先生は、明らかに動揺していた。無理矢理に冷静を装おうとしているのが、はっきりと見てとれた。

「お腹が痛かったので、先生に言って席をはずしたんです。今、トイレに行ってることになってます。きっと大だと思われてます。でも本当は、あれなんです。男子校にはあるまじき、女子だけの、いわゆるアレです。ブツを取りに来たんです。そしたらまさか、こんな話が繰り広げられているなんて」

 扉を閉めると根津さんは、わざとらしくもじもじしながら言った。「アレ」?「ブツ」?磯崎の顔にはハテナマークが浮かんでいた。僕はそれらの言葉の意味を、月一で不機嫌になる姉に叩きこまれて知っていた。だからといって、この場で磯崎に説明してやるなんてことは、いくらなんでも不可能だ。

「その、それなら早く戻った方がいいんじゃないかな。あ、お腹が痛いなら保健室に」

「何を仰いますやら。それで難を逃れようなんて、虫が良すぎる話ですよ高槻センセ。今日の放課後お話しましょうってお約束してましたよね。まさかのフライングに私もびっくりしてますけど、その放課後のお話に、この二人にも来てもらう予定だったんです。どういうことか説明してくださいな。昨日私にこう言いましたよね。『君の秘密を知っているよ。ばらされたくなかったら、私の言うことを何でも聞くように』って。その変態的な言い方に、私すっかり怯えてしまって、こうしてご学友に相談した次第なんですけど」

 根津さんは異様なテンションでそう言うと、にっこり笑って先生を見た。僕と磯崎も、ともかく真実が知りたくて、先生を見た。高槻先生は、何というか……絶句していた。

「先生?」

 どうして切り返さないのだろう。

 磯崎と話していた時のように、なぜ堂々と言い返さないのだろう。

 やましいところがないのなら、きっぱりと否定すればいいだけの話じゃないのだろうか。

「……どういうことか、さっぱり話が見えないんだけど」

 ようやく先生は、それだけ言った。

「しらばっくれるんですか?私が嘘をついてるって言いたいんですか?」

 がなるように根津さんは言った。

 どうも、根津さんが加害者で先生が被害者のようにしか見えなかった。いや、そんな風に決めつけてはいけないのだろうけど。何だかドラマで見た、痴漢被害をでっちあげておじさんから金をむしりとる女子高生を思い出した。

「先生、本当にそんなことを言ったんですか?」

 僕はなるべく中立なつもりで、言い方のトーンに注意しながら訊ねた。

 先生は、自分を落ち着かせるように息を吐くと、

「そんなことは言っていません。それは断言できます」と静かに言った。

「根津くんの事情は承知しています。でも、根津くんがなぜそういうことを言うのかは、先生にはわかりません。これはちょっと、じっくり話す必要があるかもしれないですね」

 穏やかに言った先生に対し、

「何だか棒読みくさい、嘘くさい」

 根津さんは、切って捨てるように言った。

 確かに今の先生の口調には、ちょっとそういう、無理をしているような感じがあったけれど。

 根津さんも、主張を真向否定されたのに、なんでそんなつっこみができるのか。

「結局どっちなんだ?」

 磯崎はこの場に……というかどちらかというと根津さんの勢いに圧倒されているようで、困惑した顔で僕に訊ねた。

「僕に訊かれても……」

 何だかよくわからないからとりあえず従った、と言っていた磯崎の気持が、僕は少しわかった気がした。根津さんは、強烈すぎる。

 でも、とりあえず、この件に関しては僕は先生を信じられる気がした。それをこの場で表明する勇気はなかったけれど。根津さんを脅したりなんて先生はしていない、ように思えた。

 復讐の件についても……結局のところ、僕たちが想像を広げ過ぎただけなのではないだろうか?

「私は納得いかないよ。畑さんの人生、高槻先生のせいで滅茶苦茶だっ」

 その時突然根津さんが、そんな風に言った。

 え?と思った。僕も磯崎も、思わず根津さんを見た。

「それは……そうかもしれないけど」

 高槻先生はそう答えた。僕たちは、今度は先生を凝視した。僕たちの視線に気がつき、先生は、「あ、いや」とごまかすようなそぶりを見せた。

「なんだよ、こういう時は『今はその話は関係ない!』って逆ギレしたらいいのにィ」

 根津さんは、もう愉しくてたまらないというような、満面の笑みを浮かべて言った。

「先生は、畑さんと会ったんですか?畑さんに何かしたんですか?」

 思わず僕は訊いた。

「畑さんを、知ってるの?」

 先生は驚いた顔をして僕に訊ね返した。

「僕が畑さんに会って……それはともかく、先生は何をしたんですか?」

 磯崎が言ったその時、チャイムが鳴った。

 他のクラスメイトがいつ戻って来るかわからない状況で、さすがにこの話を続けることはできない。

「先生、この話は今日の放課後……」

 言いかけた僕を遮ったのは、根津さんだった。

「この話は今日は終わり。高槻センセ、放課後二人っきりでゆっくりお話しましょう。磯崎くんと沙原くんは、ごくろうさま。予定変更、放課後のお話は君たちはご遠慮いただく方向で。ちなみに六時間目の授業は、真面目に受けなきゃだめだよ」

 にっこり笑いながらも、その強烈な目力は、どこか有無を言わせないものがある。でも。

「……どうして……そんなことを、君に指図されないといけないのかな」

 僕は言った。

 思わず彼女をにらみつけてしまっていた。

 けれどもそんな僕を、根津さんは面白いものでも見るように眺めると、「怒っちゃ、やだ」とぶりっこみたいなポーズを作って言った。

 廊下に人の気配がする。磯崎は立ち上がり、自然な動きで持ち物を取りに行った。僕も自分のロッカーに行った。先生は自分の机に戻った。杉野くんが僕たちを見て、さっきの時間どうしたの?と訊ねてきた。うんちょっとな、と磯崎は笑っていた。

 根津さんは、まるで僕たちとは無関係みたいに窓の側に立ち、外の景色を眺めていた。さっきまでの彼女がまるで悪い夢だったみたいに、一人で立つその小柄な後姿は寂しげに見えた。



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