Chapter-6 ③
僕の傷はまったくのかすり傷だった。右腕に走ったその傷は、数時間後にはかさぶたとなった。三週間ほどで、ほとんど痕も消えていた。それなのに学校に行けなくなった僕は、何度か城山から手紙をもらった。けれどもその手紙は先生たちに書かされたことが明白な内容で、しかも手書きなので仕方ないのだろうけどどれも相当に短く、城山の気持はまったく伝わってこなかった。しかし、何度目かの手紙の封筒に、普通のB5の紙の他に、ノートの切れ端みたいなものが入っていた。そこに書かれていたのはメールアドレスだった。城山の名前が一緒に書いてあった。
どうしよう、と僕は考えた。怪我はまったく大したことなかったのに、学校に行こうとすると吐き気がしたり息が苦しくなったりするので、僕はその時すでにひと月以上学校に行っていなかった。自分が情けないと思っていた。家ではほぼ普通に過ごすことができていて、勉強も遅れないようにやっていた。でも、学校に行くことを考えると、それだけで勝手に身体が震え出した。今なら城山に、あの日とは別のことが言えるだろうか。大した怪我じゃなくても、それでも痛みがあるとそこが気になって、当たり前のことが当たり前にできなかったり苛々したりしたよ。ちょっとした不自由にすごいストレスを感じたよ。おまえの気持が少しわかった。そんな風に伝えるべきだろうか。でも、それをやったのは城山だ。僕は被害者だ。なのになんでそんなこと、言ってやらなきゃならない。何で加害者を正当化してやらなきゃならない。城山が怪我したのは僕のせいじゃないし、城山の怪我の治りが遅いのも僕のせいじゃない。なのに僕は痛い思いをして、不自由な思いをして、そうしてなぜかわからないけど学校に行けなくなった。そう、なぜだかわからない。なぜだかわからないけど身体と心が言うことをきかない。こういうことがあるって、はじめて知った。もしかして城山もそうだったのだろうか。城山が僕に切りつけたのは城山がどうしようもなく追いつめられていて、身体も心も言うことを聞かなくなっていて、本人もどうしようもない状態になっていたからだろうか。じゃあ城山は悪くないのか?僕がこんなになっているのに、城山は悪くないのか?それはおかしい。どう考えたって、おかしいだろう。……堂々巡りの僕の思考は、いつも最終的には同じ問いに辿りついた。城山自身は今どう思っているのか。自分の行いは正しかった、思い知っただろう、ざまあみろ、と思っているのか。それとももらった手紙のとおり、反省してる、悪かった、と思っているのか。僕のことを、許せないのか。それとも僕に、許してほしいと思っているのか。
メールをすれば、問いの答えがもらえるだろう。ペンを握るより、キーボードを打つ方がまだ楽なはずだ。先生のチェックも入らない。城山の、本当の気持がわかる。それを知ることができれば、僕自身も、自分がどう思ったらいいのか、きっと決めることができる。
僕は城山にメールをした。居間の共有パソコンで、メールマガジン用にしかほぼ使っていなかったアドレスから、メールを打った。相手の出方がわからなかったから、とりあえず文章は最低限にした。
「件名 沙原だけど。
手紙の中にメアド入ってたから。」
これだけで送信ボタンを押した。
返信が来たのは、次の日の夜だった。
「件名 RE:沙原だけど。
俺は謝るべきだとは思っている。
手紙では何度も謝った。でもこのメールでは、嘘はつきたくない。
俺の気持を、沙原はもっとわかってくれると思っていた。
俺は沙原に裏切られたと思った。
沙原はまったく悪くなくて、俺だけが悪くて、俺だけが謝るべきなのかな。
沙原は謝る気がないのかな。
沙原のお母さんは優しいな。俺のうちなら、とっくに学校に行けと言われてる。だって怪我はもう治ってるんだろ。全然大したことなかったんだろ。いいね。俺の右手はまだ痛い。沙原のことで、俺はすごく怒られた。クソババアは手の痛い人間に皿を洗えとか言う。
学校で、俺に話しかける人間はいなくなった。
俺は悪者なんだろ。
世界中に謝ればいいんだろ。土下座したらいいんだろ。
俺は、沙原はわかってくれると思っていた。
誰もわかってくれない。」
読みながら、僕の手は震えていた。でも、腹が立っていたのか、悲しかったのか、ショックだったのか、自分でもわからない。
僕は返信できなかった。それでもおそるおそる次の日の夜メールソフトを開くと、また城山からメールが来ていた。
「件名 怒ってるのか?
返信しないのは、怒ってるからなのか?
俺が謝ってないから、怒ってるのか?
書き方が悪かった。悪いと思ってないわけじゃない。
すみませんでした。沙原くんに申し訳ないことをしました。
もう二度と、あんなことはいたしません。」
僕は、城山に返信すべきだと思った。返信ボタンを押して、何か打とうと思った。でも、何と書いたらいいんだろう。怒ってないよ、って?それは本当だろうか。それに、「怒ってないよ」なんて、そんな上から目線の回答をしていいのだろうか。
迷っていると、新たなメールが来た。また城山からだった。
「件名
俺は謝った。
おまえは何様?」
僕の手は止まった。
結局その日も返信できなかった。すると次の日、受信ボックスには三件のメールが来ていた。
「件名
もうしわけありません。」
「件名
悪かった。昨日、いつもより手が痛くて、それにおまえから返信ないからいらいらした。俺はおまえのこと親友だと思ってる。今日学校で、水橋と話した。俺があんまり暗いから話しかけづらかったんだと。怖がっている奴もいるらしいけど。人に彫刻刀ふるったから。本当に悪いと思ってる。早く学校来いよ」
「件名 夢
早く漫画描きたい。一緒に漫画家なるって、約束。忘れてないよな。」
城山の気分が少し上向きになったことはわかった。
けれども、それに対する自分の気持がわからない。
「よかったな」と書きかけて、それが皮肉のような感じがした。そうして実際に、メールを読んで、僕はムカついているのかもしれなかった。あれこれ考えて、やっぱり返信できなかった。
そうしてそれから毎日、城山からはメールがあった。一つだけの日もあったし、何件も入っていることもあった。短いものもあれば、長いものもあった。僕に謝っているメールもあれば、僕を罵るメールもあった。前向きな気持が感じられるものもあれば、絶望しているかのようなメールもあった。それはもはや、半分日記のようになっていた。学校のこと、親のこと。
僕はずっと返信できずにいた。結局一度も返せずにいた。
――その城山が、いた。
ところどころ街灯に照らされた夜道をぼんやりと歩いていた僕は、自分の家の前に立っている人影に気がついた。門灯にほんのりと照らされて立っているのは、懐かしい前の学校の制服を着た城山だった。僕は毎日メールを読んでいる。何も返してはいないけれど、でも、毎日城山のメールを読んでいる。
「城山……」
いつからいたのだろう。いつから待っていたのだろう。
学校には毎日行っているという城山。リハビリは今でも続けているという。でもその右手の痛みや動きの悪さは、精神的なものかもしれないといわれたという。絵を描こうとしたけれど、思うようにいかなくて吐いたと昨日のメールにあった。
「……大丈夫か?」
僕は訊ねた。思ったよりも優しい声が自分から出たことに、我ながら驚いた。
城山は、僕をまっすぐに見た。だらんと体の横に腕を垂らし、何か言いたげに僕を見ている。
「その、メールのことだけどさ……」
言いかけた僕に向かって、城山は突進してきた。
びっくりして、僕は思わず脇に退いた。
城山は一言も発さず、僕の横をすり抜けて、走って行った。夜の通りを遠ざかって行き、やがてその姿は見えなくなった。
激しくなった動悸を抑えるために、僕はしばらくその場にいた。
刺されるかと思った。
すごく、怖かった。




